第1章 年〜年

ワールド:ワールドの設立と子供服・小売・縫製への業容拡大

1959年〜光商会の上司と部下が興した資本金200万円のセーター卸と、返品を断つ買取制

1959年1月、神戸の光商会で専務だった木口衞氏と、部下の畑崎廣敏氏が2人で独立し、婦人用セーターの卸売を営むワールドを設立した。畑崎廣敏氏は1955年4月に新入社員として光商会へ入り、木口衞氏は自分と正反対の資質を持つこの青年を将来の相棒と見込んでいた。資本金200万円の出所は、2人の勤め人時代の蓄えと各所からの借入である。木口衞氏は後年、当時の商店員は独立を前提に働くのが通例で、勤め先の規模も一生の職場とするには小さかったと動機を振り返った。畑崎廣敏氏も入社3年で営業成績が首位になる一方で先輩社員との衝突が増え、21歳で独立を決めていた。堅実な上司と営業の強い部下という組み合わせが、資本の乏しい卸の出発点になったとみられる。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞
    • [1]木口衞は光商会の専務、畑崎廣敏は1955年4月入社の新入社員。1959年1月にセーター卸ワールドを設立。当時の商店勤めは独立が常識で、生涯を託せる規模の店はなかった
    • [2]木口衞は光商会の専務、畑崎廣敏は1955年4月入社の新入社員。1959年1月にセーター卸ワールドを設立。当時の商店勤めは独立が常識で、生涯を託せる規模の店はなかった
    • [4]木口衞は光商会の専務、畑崎廣敏は1955年4月入社の新入社員。1959年1月にセーター卸ワールドを設立。当時の商店勤めは独立が常識で、生涯を託せる規模の店はなかった
  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [3]資本金200万円を借金で捻出。畑崎は入社3年で営業成績首位、先輩と衝突し21歳で独立を決意
    • [5]資本金200万円を借金で捻出。畑崎は入社3年で営業成績首位、先輩と衝突し21歳で独立を決意

設立直後のワールドは、メーカー各社が2人の前の勤め先である問屋に配慮して出荷を控えたため、売る商品を確保できなかった。畑崎廣敏氏は社屋の天井裏にある倉庫に寝泊まりしてメーカーを1社ずつ訪ね、信用が無く借入も容易でない中で資金繰りにも奔走した。入荷の安定は、一部のメーカーが商品を回し始めた設立から1年半後。販売先も、光商会時代の顧客を持ち出すのは業界の仁義に反するとして避け、新規の小売店を開拓した。最初の営業の足は、三宮の高架下の闇市で5500円で購入した中古自転車1台だった。年商は初年度が3300万円、2年目が1億900万円、3年目が1億7300万円と推移した。

  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [6]メーカーが前の問屋に義理立てして品を流さず、畑崎は天井裏の倉庫に住み込みメーカーを回った。商品が入り始めたのは設立1年半後
    • [7]メーカーが前の問屋に義理立てして品を流さず、畑崎は天井裏の倉庫に住み込みメーカーを回った。商品が入り始めたのは設立1年半後
    • [8]メーカーが前の問屋に義理立てして品を流さず、畑崎は天井裏の倉庫に住み込みメーカーを回った。商品が入り始めたのは設立1年半後
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞
    • [9]前職の顧客を持ち出すのは仁義に反するため新規開拓。年商は1年目3300万円、2年目1億900万円、3年目1億7300万円。最初の営業車は三宮高架下のヤミ市で5500円で購入した中古自転車
    • [10]前職の顧客を持ち出すのは仁義に反するため新規開拓。年商は1年目3300万円、2年目1億900万円、3年目1億7300万円。最初の営業車は三宮高架下のヤミ市で5500円で購入した中古自転車
    • [11]前職の顧客を持ち出すのは仁義に反するため新規開拓。年商は1年目3300万円、2年目1億900万円、3年目1億7300万円。最初の営業車は三宮高架下のヤミ市で5500円で購入した中古自転車

1962年、ワールドは専門店への卸を委託販売から買取制に切り替え、返品を一切受け付けないことにした。アパレル業界の通例は委託販売で、売れ残った品は卸へ戻される。畑崎廣敏氏は、卸がリスクを負って用意した品を小売店が安易に返してくる慣行に納得できず、『お互いに伸びていくには、小売店も真剣勝負という気持ちがなきゃ、本当の商売と言えませんよ』と導入の理由を語った。導入直後は小売店の強い反発を受け、売上高は10%の減少。ワールドは他社に無い商品なら買取でも仕入れてもらえると考え、独自商品の開発に経営資源を集中させた。返品を認めない方針は1985年時点でも続き、ある大手百貨店の専務はワールドとは取引できないと突き放した。

  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [12]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
    • [13]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
    • [14]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
    • [15]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
    • [16]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [17]返品は絶対に認めず、取引する百貨店は少ない。大手百貨店の専務が取引できないとコメント
参考文献[1]-[17]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞
    • [1]木口衞は光商会の専務、畑崎廣敏は1955年4月入社の新入社員。1959年1月にセーター卸ワールドを設立。当時の商店勤めは独立が常識で、生涯を託せる規模の店はなかった
    • [2]木口衞は光商会の専務、畑崎廣敏は1955年4月入社の新入社員。1959年1月にセーター卸ワールドを設立。当時の商店勤めは独立が常識で、生涯を託せる規模の店はなかった
    • [4]木口衞は光商会の専務、畑崎廣敏は1955年4月入社の新入社員。1959年1月にセーター卸ワールドを設立。当時の商店勤めは独立が常識で、生涯を託せる規模の店はなかった
    • [9]前職の顧客を持ち出すのは仁義に反するため新規開拓。年商は1年目3300万円、2年目1億900万円、3年目1億7300万円。最初の営業車は三宮高架下のヤミ市で5500円で購入した中古自転車
    • [10]前職の顧客を持ち出すのは仁義に反するため新規開拓。年商は1年目3300万円、2年目1億900万円、3年目1億7300万円。最初の営業車は三宮高架下のヤミ市で5500円で購入した中古自転車
    • [11]前職の顧客を持ち出すのは仁義に反するため新規開拓。年商は1年目3300万円、2年目1億900万円、3年目1億7300万円。最初の営業車は三宮高架下のヤミ市で5500円で購入した中古自転車
  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [3]資本金200万円を借金で捻出。畑崎は入社3年で営業成績首位、先輩と衝突し21歳で独立を決意
    • [5]資本金200万円を借金で捻出。畑崎は入社3年で営業成績首位、先輩と衝突し21歳で独立を決意
    • [6]メーカーが前の問屋に義理立てして品を流さず、畑崎は天井裏の倉庫に住み込みメーカーを回った。商品が入り始めたのは設立1年半後
    • [7]メーカーが前の問屋に義理立てして品を流さず、畑崎は天井裏の倉庫に住み込みメーカーを回った。商品が入り始めたのは設立1年半後
    • [8]メーカーが前の問屋に義理立てして品を流さず、畑崎は天井裏の倉庫に住み込みメーカーを回った。商品が入り始めたのは設立1年半後
    • [17]返品は絶対に認めず、取引する百貨店は少ない。大手百貨店の専務が取引できないとコメント
  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [12]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
    • [13]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
    • [14]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
    • [15]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力
    • [16]1962年に買取制を導入し返品不可。委託販売が業界の通例。導入で小売店が反発し売上が10%減、オリジナル商品の開発に注力

1965年〜東京店と神戸本社ビルで年商84億円に届いた卸と、畑崎廣敏氏への社長交代

1964年の東京オリンピック前後に婦人服業界が初のブームを迎えた時期も、ワールドは売れる品を手当たり次第に仕入れて流す商売を取らなかった。1967年には全身を組み合わせて着こなせるコーディネートブランド「コルディア」を投入した。着想の元は、畑崎廣敏氏が同年の欧州視察でパリの街の装いを見て得た、服は単品より組み合わせで映えるという考えにある。ところが小売店はコルディアを他社の商品と混ぜて品目別に陳列し、組み合わせの提案が店頭で伝わらなかった。畑崎廣敏氏はナショナル製品だけを扱う松下電器の系列店に着目し、1970年から自社商品だけを置くオンリーショップの組織化に着手した。売り場を自社商品で占めることが、買取制で仕入れる専門店の売れ残りを減らす条件になったと考えられる。

  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [18]1964年ごろにかけて婦人服業界が初のブーム。売れるものは何でも仕入れて流す態度はとらなかった
  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [19]1967年の欧州視察を機にコーディネートブランド「コルディア」を展開。小売店が単品でばらばらに売ったため、松下の系列店をヒントに1970年からオンリーショップを組織
    • [20]1967年の欧州視察を機にコーディネートブランド「コルディア」を展開。小売店が単品でばらばらに売ったため、松下の系列店をヒントに1970年からオンリーショップを組織
    • [21]1967年の欧州視察を機にコーディネートブランド「コルディア」を展開。小売店が単品でばらばらに売ったため、松下の系列店をヒントに1970年からオンリーショップを組織
    • [22]1967年の欧州視察を機にコーディネートブランド「コルディア」を展開。小売店が単品でばらばらに売ったため、松下の系列店をヒントに1970年からオンリーショップを組織

創業から3年で社員は2桁に増え、事務所は中山手の借家から三宮の駅筋へ移った。創業8年目の1967年、ワールドは借入をせずに八幡通りに5階建ての自社ビルを神戸に完成させた。同年の年商は14億100万円、利益率は11.5%、従業員は54人で、年商は初年度の3300万円の40倍超にあたる。木口衞氏は昼間に2階より上の階を使わせず、来客が入口で社員の出迎えの声を受けるよう社員を1階に集めた。1970年8月には婦人ニットの製造卸を営むジェルベを55%出資で設立し、グループの中に製造卸を持った。東京では、1977年3月時点で麹町に東京支社を構えていた。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞
    • [23]創業8年目の1967年に借金なしで5階建て自社ビル完成。年商14億100万円、利益率11.5%、従業員54人。昼間は2階以上を使わせなかった。創業3年で社員は2ケタ、中山手から三宮駅筋へ移転。ビルは八幡通りの神戸店第三ビル
    • [24]創業8年目の1967年に借金なしで5階建て自社ビル完成。年商14億100万円、利益率11.5%、従業員54人。昼間は2階以上を使わせなかった。創業3年で社員は2ケタ、中山手から三宮駅筋へ移転。ビルは八幡通りの神戸店第三ビル
    • [25]創業8年目の1967年に借金なしで5階建て自社ビル完成。年商14億100万円、利益率11.5%、従業員54人。昼間は2階以上を使わせなかった。創業3年で社員は2ケタ、中山手から三宮駅筋へ移転。ビルは八幡通りの神戸店第三ビル
    • [26]創業8年目の1967年に借金なしで5階建て自社ビル完成。年商14億100万円、利益率11.5%、従業員54人。昼間は2階以上を使わせなかった。創業3年で社員は2ケタ、中山手から三宮駅筋へ移転。ビルは八幡通りの神戸店第三ビル
  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [27]ジェルベは1970年8月設立(55%出資)、婦人ニットの製造卸
  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [28]1977年3月15日、東京・麹町の東京支社で筆者が畑崎と初対面

1972年、年商が約84億円に達した年に、木口衞氏は社長の座を畑崎廣敏氏に譲り、会長に就任した。当時の木口衞氏は49歳、畑崎廣敏氏は36歳で、業界では若すぎるという声が上がった。木口衞氏がためらわなかったのは、自身が社長になったのも36歳だったからで、販売の感覚では畑崎廣敏氏が自分を上回ると評価していた。木口衞氏は会長就任とともに営業の第一線から引退。社長の畑崎廣敏氏はブランドごとに流通経路を分け、オンリーショップを持たない専門店へは単品ブランドを卸して競合を避けた。年齢を基準に早く社長を譲ったことで、営業を切り開いた世代が1970年代の拡大を率いる体制が整ったと思われる。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞
    • [29]1972年、年商約84億円の年に木口(49歳)が畑崎(36歳)に社長を譲り会長に。木口自身も36歳で社長就任。販売のセンスは畑崎が上と評価
    • [30]1972年、年商約84億円の年に木口(49歳)が畑崎(36歳)に社長を譲り会長に。木口自身も36歳で社長就任。販売のセンスは畑崎が上と評価
    • [31]1972年、年商約84億円の年に木口(49歳)が畑崎(36歳)に社長を譲り会長に。木口自身も36歳で社長就任。販売のセンスは畑崎が上と評価
    • [32]1972年、年商約84億円の年に木口(49歳)が畑崎(36歳)に社長を譲り会長に。木口自身も36歳で社長就任。販売のセンスは畑崎が上と評価
  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [33]畑崎廣敏は1972年から社長。ブランド別チャネル政策で単品ブランドをオンリーショップ以外の専門店に流し、ブランド間の競合を回避
参考文献[18]-[33]
  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [18]1964年ごろにかけて婦人服業界が初のブーム。売れるものは何でも仕入れて流す態度はとらなかった
    • [28]1977年3月15日、東京・麹町の東京支社で筆者が畑崎と初対面
  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [19]1967年の欧州視察を機にコーディネートブランド「コルディア」を展開。小売店が単品でばらばらに売ったため、松下の系列店をヒントに1970年からオンリーショップを組織
    • [20]1967年の欧州視察を機にコーディネートブランド「コルディア」を展開。小売店が単品でばらばらに売ったため、松下の系列店をヒントに1970年からオンリーショップを組織
    • [21]1967年の欧州視察を機にコーディネートブランド「コルディア」を展開。小売店が単品でばらばらに売ったため、松下の系列店をヒントに1970年からオンリーショップを組織
    • [22]1967年の欧州視察を機にコーディネートブランド「コルディア」を展開。小売店が単品でばらばらに売ったため、松下の系列店をヒントに1970年からオンリーショップを組織
    • [27]ジェルベは1970年8月設立(55%出資)、婦人ニットの製造卸
    • [33]畑崎廣敏は1972年から社長。ブランド別チャネル政策で単品ブランドをオンリーショップ以外の専門店に流し、ブランド間の競合を回避
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞
    • [23]創業8年目の1967年に借金なしで5階建て自社ビル完成。年商14億100万円、利益率11.5%、従業員54人。昼間は2階以上を使わせなかった。創業3年で社員は2ケタ、中山手から三宮駅筋へ移転。ビルは八幡通りの神戸店第三ビル
    • [24]創業8年目の1967年に借金なしで5階建て自社ビル完成。年商14億100万円、利益率11.5%、従業員54人。昼間は2階以上を使わせなかった。創業3年で社員は2ケタ、中山手から三宮駅筋へ移転。ビルは八幡通りの神戸店第三ビル
    • [25]創業8年目の1967年に借金なしで5階建て自社ビル完成。年商14億100万円、利益率11.5%、従業員54人。昼間は2階以上を使わせなかった。創業3年で社員は2ケタ、中山手から三宮駅筋へ移転。ビルは八幡通りの神戸店第三ビル
    • [26]創業8年目の1967年に借金なしで5階建て自社ビル完成。年商14億100万円、利益率11.5%、従業員54人。昼間は2階以上を使わせなかった。創業3年で社員は2ケタ、中山手から三宮駅筋へ移転。ビルは八幡通りの神戸店第三ビル
    • [29]1972年、年商約84億円の年に木口(49歳)が畑崎(36歳)に社長を譲り会長に。木口自身も36歳で社長就任。販売のセンスは畑崎が上と評価
    • [30]1972年、年商約84億円の年に木口(49歳)が畑崎(36歳)に社長を譲り会長に。木口自身も36歳で社長就任。販売のセンスは畑崎が上と評価
    • [31]1972年、年商約84億円の年に木口(49歳)が畑崎(36歳)に社長を譲り会長に。木口自身も36歳で社長就任。販売のセンスは畑崎が上と評価
    • [32]1972年、年商約84億円の年に木口(49歳)が畑崎(36歳)に社長を譲り会長に。木口自身も36歳で社長就任。販売のセンスは畑崎が上と評価

1973年〜50万枚・20億円の在庫と、工場を持たないメーカーへの組み替え

1973年秋、ワールドは石油ショックに続く消費の冷え込みに直面し、50万枚、金額で20億円の在庫を抱えた。1974年7月期は創業以来初めての減益となり、業界には倒産説まで流れた。Decide誌の記録では、利益は13億8000万円から10億4000万円へ25%減少し、翌期には21億4000万円へ回復した。直前の1973年の年商約154億円は、社長交代から1年で前年のほぼ2倍にあたる。畑崎廣敏氏は、それまで拡大を続けて在庫を出した経験が無く、商売に落とし穴があるとは考えていなかったと振り返った。急拡大の速さが、需要が止まった局面での在庫の重さに直結したのだろう。

  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [34]1973年秋の石油ショック後の消費不況の入口で50万枚・20億円の在庫。1974年7月期は創業以来初の減益、倒産説。利益は13億8000万円→10億4000万円(-25%)→21億4000万円
    • [35]1973年秋の石油ショック後の消費不況の入口で50万枚・20億円の在庫。1974年7月期は創業以来初の減益、倒産説。利益は13億8000万円→10億4000万円(-25%)→21億4000万円
    • [36]1973年秋の石油ショック後の消費不況の入口で50万枚・20億円の在庫。1974年7月期は創業以来初の減益、倒産説。利益は13億8000万円→10億4000万円(-25%)→21億4000万円
    • [38]1973年秋の石油ショック後の消費不況の入口で50万枚・20億円の在庫。1974年7月期は創業以来初の減益、倒産説。利益は13億8000万円→10億4000万円(-25%)→21億4000万円
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞
    • [37]社長交代1年後の1973年に前年の2倍近い年商約154億円

在庫の失敗の後、畑崎廣敏氏は損失を出さない会社づくりを経営の軸に据えた。もともと畑崎廣敏氏は、仕入れた品を取り次ぐだけの問屋では大きくなれず、工場を持たない以上はデザインの創造を担うべきだと判断していた。ワールドが担うのは企画・デザインから展示会、受注、生産数量の決定、生産の発注までで、縫製は協力メーカーに委ねる分業である。専門店からは展示会で約90%を受注してから生産量を決め、買取制と合わせて売れ残りのリスクを専門店に負わせた。1982年時点で、返品が無いにもかかわらず価格には返品のコストを織り込み、生産コストは小売価格の30%を下回った。主力取引行の太陽神戸銀行によれば、ワールドは1975年以降、実質的に借入の無い経営を続けた。

  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [39]在庫の教訓以降、絶対に損をしない会社を目指す。右から左へ流す問屋では伸びないとして、企画・デザインから生産発注までを担い生産はメーカーへ発注する工場を持たないメーカーへ
    • [40]在庫の教訓以降、絶対に損をしない会社を目指す。右から左へ流す問屋では伸びないとして、企画・デザインから生産発注までを担い生産はメーカーへ発注する工場を持たないメーカーへ
    • [41]在庫の教訓以降、絶対に損をしない会社を目指す。右から左へ流す問屋では伸びないとして、企画・デザインから生産発注までを担い生産はメーカーへ発注する工場を持たないメーカーへ
  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [42]展示会発注方式で約90%を受注、買取制と合わせリスクを専門店に負わせる。太陽神戸銀行によれば1975年以来実質無借金。返品がないのに返品コストを見込んだ価格設定、原価率は30%を切る
    • [43]展示会発注方式で約90%を受注、買取制と合わせリスクを専門店に負わせる。太陽神戸銀行によれば1975年以来実質無借金。返品がないのに返品コストを見込んだ価格設定、原価率は30%を切る
    • [44]展示会発注方式で約90%を受注、買取制と合わせリスクを専門店に負わせる。太陽神戸銀行によれば1975年以来実質無借金。返品がないのに返品コストを見込んだ価格設定、原価率は30%を切る

1975年2月、ワールドは直営のアンテナショップを運営するリザを設立した。リザの役割は、地域の消費動向と売れ筋の把握、そして新ブランドの試験販売や陳列の実験を通じた専門店経営の知見の蓄積である。1978年1月には衣料付属品の管理を担うワールドサービスと、縫製技術の研究と生産を担うエスプリを設けた。1979年11月に設立したワールドファッションエス・イーは、新神戸駅前の研修センターで専門店の販売員や店長の泊まり込み研修を担う。買取制と現金決済を課す以上、厳しさだけでは専門店を組織できないとして、ワールドは人材の派遣や在庫管理、売り場の演出まで専門店を指導した。一方で畑崎廣敏氏は、子会社が銀行から借り入れる際に親会社や自身の保証を求められても応じさせなかった。

  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [45]リザ1975年2月設立(アンテナショップ・パイロットショップを直営)。ワールドサービス・エスプリ1978年1月設立。ワールドファッションエス・イー1979年11月設立、新神戸駅前の研修センターで泊まり込み研修
    • [46]リザ1975年2月設立(アンテナショップ・パイロットショップを直営)。ワールドサービス・エスプリ1978年1月設立。ワールドファッションエス・イー1979年11月設立、新神戸駅前の研修センターで泊まり込み研修
    • [47]リザ1975年2月設立(アンテナショップ・パイロットショップを直営)。ワールドサービス・エスプリ1978年1月設立。ワールドファッションエス・イー1979年11月設立、新神戸駅前の研修センターで泊まり込み研修
    • [48]リザ1975年2月設立(アンテナショップ・パイロットショップを直営)。ワールドサービス・エスプリ1978年1月設立。ワールドファッションエス・イー1979年11月設立、新神戸駅前の研修センターで泊まり込み研修
    • [49]厳しさだけでは約3800店の組織化は成功しないとして、専門店に人材を投入し在庫管理・売り場演出まで指導
  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [50]子会社が銀行借入で親会社保証・畑崎の個人保証を求められても断らせた
参考文献[34]-[50]
  • Decide 3(7)(22) 1985年
    • [34]1973年秋の石油ショック後の消費不況の入口で50万枚・20億円の在庫。1974年7月期は創業以来初の減益、倒産説。利益は13億8000万円→10億4000万円(-25%)→21億4000万円
    • [35]1973年秋の石油ショック後の消費不況の入口で50万枚・20億円の在庫。1974年7月期は創業以来初の減益、倒産説。利益は13億8000万円→10億4000万円(-25%)→21億4000万円
    • [36]1973年秋の石油ショック後の消費不況の入口で50万枚・20億円の在庫。1974年7月期は創業以来初の減益、倒産説。利益は13億8000万円→10億4000万円(-25%)→21億4000万円
    • [38]1973年秋の石油ショック後の消費不況の入口で50万枚・20億円の在庫。1974年7月期は創業以来初の減益、倒産説。利益は13億8000万円→10億4000万円(-25%)→21億4000万円
    • [39]在庫の教訓以降、絶対に損をしない会社を目指す。右から左へ流す問屋では伸びないとして、企画・デザインから生産発注までを担い生産はメーカーへ発注する工場を持たないメーカーへ
    • [40]在庫の教訓以降、絶対に損をしない会社を目指す。右から左へ流す問屋では伸びないとして、企画・デザインから生産発注までを担い生産はメーカーへ発注する工場を持たないメーカーへ
    • [41]在庫の教訓以降、絶対に損をしない会社を目指す。右から左へ流す問屋では伸びないとして、企画・デザインから生産発注までを担い生産はメーカーへ発注する工場を持たないメーカーへ
    • [50]子会社が銀行借入で親会社保証・畑崎の個人保証を求められても断らせた
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞
    • [37]社長交代1年後の1973年に前年の2倍近い年商約154億円
  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
    • [42]展示会発注方式で約90%を受注、買取制と合わせリスクを専門店に負わせる。太陽神戸銀行によれば1975年以来実質無借金。返品がないのに返品コストを見込んだ価格設定、原価率は30%を切る
    • [43]展示会発注方式で約90%を受注、買取制と合わせリスクを専門店に負わせる。太陽神戸銀行によれば1975年以来実質無借金。返品がないのに返品コストを見込んだ価格設定、原価率は30%を切る
    • [44]展示会発注方式で約90%を受注、買取制と合わせリスクを専門店に負わせる。太陽神戸銀行によれば1975年以来実質無借金。返品がないのに返品コストを見込んだ価格設定、原価率は30%を切る
    • [45]リザ1975年2月設立(アンテナショップ・パイロットショップを直営)。ワールドサービス・エスプリ1978年1月設立。ワールドファッションエス・イー1979年11月設立、新神戸駅前の研修センターで泊まり込み研修
    • [46]リザ1975年2月設立(アンテナショップ・パイロットショップを直営)。ワールドサービス・エスプリ1978年1月設立。ワールドファッションエス・イー1979年11月設立、新神戸駅前の研修センターで泊まり込み研修
    • [47]リザ1975年2月設立(アンテナショップ・パイロットショップを直営)。ワールドサービス・エスプリ1978年1月設立。ワールドファッションエス・イー1979年11月設立、新神戸駅前の研修センターで泊まり込み研修
    • [48]リザ1975年2月設立(アンテナショップ・パイロットショップを直営)。ワールドサービス・エスプリ1978年1月設立。ワールドファッションエス・イー1979年11月設立、新神戸駅前の研修センターで泊まり込み研修
    • [49]厳しさだけでは約3800店の組織化は成功しないとして、専門店に人材を投入し在庫管理・売り場演出まで指導

1959年〜1979年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年07月期 単体 49 n/a n/a 5 11.2% n/a
1972年07月期 単体 84 +71.4% n/a 9 11.7% n/a
1973年07月期 単体 154 +83.3% n/a 23 15.3% n/a
1974年07月期 単体 229 +48.7% n/a 19 8.6% n/a
1975年07月期 単体 275 +20.1% n/a 39 14.4% n/a
1976年07月期 単体 422 +53.5% n/a 63 15.0% n/a
1977年07月期 単体 505 +19.7% n/a 81 16.2% n/a
1978年07月期 単体 550 +8.9% n/a 87 15.9% n/a
1979年07月期 単体 652 +18.5% 101 n/a n/a n/a

出所:ヤノニュース

出典・参考

3件
出典・参考
  • 日経ビジネス 1982年2月22日号
  • Decide 3(7)(22) 1985年
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)「現社長との出会いがすべてを決めた」木口衞

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