宝ホールディングス:木崎・京都麦酒工場の新設とビール事業からの撤退
タカラビールの販売不振から中央研究所への投資転換
1957年〜百万石を掲げた木崎・京都二工場への集中投資
寳酒造が麦酒事業へ参入したのは1957年である。焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割を供給して酒造界第一位に立っていた会社が、先行三社の占める市場へ後から入る判断だった。事業を主導したのは、1916年に宇和島から迎えられて新式焼酎の製造を立ち上げた会長の大宮庫吉氏で、麦酒は会社の資源を集中して立ち上げる事業と受け止められていた。1955年9月の免許取得を受けて群馬県の木崎工場を拡張整備し、1957年4月にこれを木崎麦酒工場として分離して、関東の市場からタカラビールの販売を始めた。原料の麦も発酵の設備も手元にあり、酒類の販売先も全国に持っていたことが、参入を支える前提だった。増資で集めた資金も麦酒へ振り向けられている。木崎工場はもともと1926年に群馬県へ設けた蒸溜の拠点で、麦酒はその設備の隣に置かれた。
- 宝グループレポート2025(統合報告書)
- [1]1957年 ビール事業へ参入(1967年ビール事業撤退)
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「宝酒造」(1955年)
- [2]焼酎は全国の3割、味淋・本直しは7割、専売アルコールは2割を生産供給
- [4]1955年9月 麦酒製造の免許を取得し木崎工場を拡張整備してタカラビールを生産
- 日経ビジネス 1986年3月31日号(横田伸一)
- [3]ビール事業は前会長の大宮庫吉が社運を賭けて始めた事業
- [7]宝酒造はビール事業に資本金を増資して注力した
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [5]1957年4月 木崎麦酒工場を新設(1968年4月サッポロビールに譲渡)
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [6]宝酒造がビールを発売したのは昭和32年(1957年)で、関東の市場から販売を開始した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
- [8]大正15年(1926年)に群馬県へ木崎工場を新設
1962年3月、寳酒造は京都に二つ目の麦酒工場を新設した。設計は清水建設、応接室だけは大宮庫吉氏が懇意にしていた建築家に委ねられ、敷地には庭園が設けられて、大宮氏自身がこれを庭園工場と呼んだ。用地の取得にあたっては、農地を手放す家から必ず一人を採用する条件が付けられている。麦酒の製造で出る粕は飼料として明治と森永の乳業各社と近隣の農家へ渡され、一日に一斗の乳を出す牛が二斗を出すと説明された。大宮氏は『事業と道徳、事業と宗教、事業と芸術はカナエの足のようなもので、これは絶対に切り離すことができない、必要なものだと考えているのでございます』と述べ、畜産と製麦と麦酒を一体のものとして構想していた。1962年に工場を訪れたロンドンと米国の醸造業の経営者は、一様にこの施設を羨んだという。工場は建てる前から、麦酒以外の使い道まで織り込んで設計されていた。大宮氏はこのとき喜寿を迎えた77歳で、社業のためになお百歳を志すと詠んでいる。
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [9]1962年3月 京都麦酒工場を新設(1967年7月麒麟麦酒に譲渡)
- 野田経済 1962年7月30日号
- [10]京都の麦酒工場は清水建設が設計し、事務所のみ建築家の三沢博章に依頼。工場の施設内に庭園を造り、大宮庫吉はこれを庭園工場と呼んだ
- [11]用地取得では農地を失う家族から必ず一人ずつ採用することを条件とし、土地代は安く済んだ
- [12]ビールの粕は飼料として明治牛乳・森永牛乳と付近の農家へ供給され、一日に一斗の乳を出す牛が二斗を出すと説明された
- [13]大宮庫吉は畜産・製麦・ビールの三位一体を構想として語った
- [14]ロンドンと米国から訪れた醸造業の経営者が京都の庭園工場を見て羨んだと大宮庫吉が語った
- [15]大宮庫吉は1962年4月1日に喜寿(77歳)を迎え「喜寿の実のなお百歳を志し社業のためにいたしみ尽さん」と詠んだ
京都工場の新設は、麦酒の生産を百万石まで積み上げる計画の第一段だった。1962年7月に大宮庫吉氏が示した計画では、京都工場で15万石、木崎工場をさらに増設して50万石とし、最終の目標は百万石だった。資金は40億円の公募増資で賄われた。当時の資本金は100億円、配当率は1割で、増資は財界の状況を見ながら3割ずつ小刻みに行い、当面は長期信用銀行と農林中央金庫からの借入で凌ぐ方針が採られていた。松戸の土地は前年の夏に取得したもので、景気が下り坂へ向かう境目にあたっていた。1960年ごろには寿屋の鳥井信治郎社長から麦酒参入の了解を求める申し出があり、大宮氏は需要が増えるとみて賛意を示していた。百万石という目標は、既存三社と同じ量を作って初めて同じ売り方ができるという読みの上に置かれていた。
- 野田経済 1962年7月30日号
- [16]1962年7月時点の計画は京都工場15万石・木崎工場の増設で50万石とし、狙いはビール100万石
- [18]1962年時点の資本金は100億円・配当1割。増資は3割の小刻みで行う方針とし、当面は長期信用銀行や農林中央金庫からの借入で対応する考えを示した
- [19]次の用地として千葉県松戸の土地を1961年夏に取得。景気が悪化に転じる境目にあたった
- [20]寿屋の鳥井信治郎社長から麦酒参入の了解を求める申し出があり、大宮庫吉は需要が増えるとして賛意を示した
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [17]40億円の公募増資で京都に新工場を建設
参考文献[1]-[20]
- 宝グループレポート2025(統合報告書)
- [1]1957年 ビール事業へ参入(1967年ビール事業撤退)
- [2]焼酎は全国の3割、味淋・本直しは7割、専売アルコールは2割を生産供給
- [4]1955年9月 麦酒製造の免許を取得し木崎工場を拡張整備してタカラビールを生産
- 日経ビジネス 1986年3月31日号(横田伸一)
- [3]ビール事業は前会長の大宮庫吉が社運を賭けて始めた事業
- [7]宝酒造はビール事業に資本金を増資して注力した
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [5]1957年4月 木崎麦酒工場を新設(1968年4月サッポロビールに譲渡)
- [9]1962年3月 京都麦酒工場を新設(1967年7月麒麟麦酒に譲渡)
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [6]宝酒造がビールを発売したのは昭和32年(1957年)で、関東の市場から販売を開始した
- [17]40億円の公募増資で京都に新工場を建設
- [8]大正15年(1926年)に群馬県へ木崎工場を新設
- [10]京都の麦酒工場は清水建設が設計し、事務所のみ建築家の三沢博章に依頼。工場の施設内に庭園を造り、大宮庫吉はこれを庭園工場と呼んだ
- [11]用地取得では農地を失う家族から必ず一人ずつ採用することを条件とし、土地代は安く済んだ
- [12]ビールの粕は飼料として明治牛乳・森永牛乳と付近の農家へ供給され、一日に一斗の乳を出す牛が二斗を出すと説明された
- [13]大宮庫吉は畜産・製麦・ビールの三位一体を構想として語った
- [14]ロンドンと米国から訪れた醸造業の経営者が京都の庭園工場を見て羨んだと大宮庫吉が語った
- [15]大宮庫吉は1962年4月1日に喜寿(77歳)を迎え「喜寿の実のなお百歳を志し社業のためにいたしみ尽さん」と詠んだ
- [16]1962年7月時点の計画は京都工場15万石・木崎工場の増設で50万石とし、狙いはビール100万石
- [18]1962年時点の資本金は100億円・配当1割。増資は3割の小刻みで行う方針とし、当面は長期信用銀行や農林中央金庫からの借入で対応する考えを示した
- [19]次の用地として千葉県松戸の土地を1961年夏に取得。景気が悪化に転じる境目にあたった
- [20]寿屋の鳥井信治郎社長から麦酒参入の了解を求める申し出があり、大宮庫吉は需要が増えるとして賛意を示した
1962年〜既存三社の特約店網に阻まれた販売と、5期連続の無配
タカラビールは売れなかった。当時の麦酒の流通は、問屋が特定の銘柄だけを扱う専売的な慣行に覆われており、後発の寳酒造は販売ルートを確保できなかった。寳酒造が依存したのは、松竹梅と味淋で既に取引のある酒類の得意先だった。のちに大宮隆社長は敗因を『相手は松竹梅やみりんの得意先だから、頼めば何とか売ってくれると、甘く考えていたのが敗因。結局、古い業界組織に乗っかって売ろうとした宝酒造自身の古さの限界でした』と言い切っている。酒類は酒税の対象として製造から小売まで免許行政の下に置かれ、新規の参入を制限して既存の業者を守る仕組みが働いていた。政府は工場の増加に合わせて卸と小売の免許を緩和する方針へ動いていたが、既存三社はこれを一年延ばす対策を講じていた。寳酒造は発売以来、全社をあげて拡販に努めたものの、所期の目標には届かなかった。関西市場への進出は、この壁に正面からぶつかった。
- 日経ビジネス 1992年3月2日号(大宮隆)
- [21]当時のビール流通は問屋が特定銘柄だけを扱う専売的慣行が根を張っていた
- [22]先行する大手の壁が厚く後発の宝酒造は販売ルートを確保できなかった
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [23]大宮隆は敗因を、松竹梅やみりんの得意先に頼めば売ってくれると甘く考え、古い業界組織に乗って売ろうとした点にあると述べた
- [24]大宮隆は敗因を、松竹梅やみりんの得意先に頼めば売ってくれると甘く考え、古い業界組織に乗って売ろうとした点にあると述べた
- [25]酒類業界は酒税の対象としてメーカーから小売りまで免許行政下にあり、新規参入を制限して既存業者を保護していた
- [28]ビールは1957年発売、5年後の関西進出も失敗
- 野田経済 1962年7月30日号
- [26]政府は工場増加に伴い卸・小売の免許を緩和する方針へ踏み切ったが、既存の麦酒三社はこれを一年延ばすよう対策を講じていた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
- [27]麦酒部門は発売以来、全社をあげて拡販に努力したが所期の目標に達しなかった
1962年度から、寳酒造は5期にわたって無配となった。麦酒事業は、在来の酒類で稼いだ利益を食いつぶす重荷に変わっていた。1966年3月期の売上高は221億800万円、経常利益は6300万円で、売上に対する経常利益の比率は0.3%を下回る。同期の当期純利益は7100万円で、在来の酒類が積み上げた利益は麦酒の損失にほぼ吸い取られていた。翌1967年3月期の売上高は230億7700万円へ伸びたが、経常利益は5億500万円にとどまっている。拡大を狙って京都に第二工場を建てたことが、かえって失敗を決定的にしたと、のちに大宮隆氏は振り返っている。麦酒は発酵と蒸溜の技術では在来の酒類と隣り合っていても、売り方の設計がまったく違う市場だった。
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [29]昭和37年度(1962年度)から5期連続無配
- 日経ビジネス 1992年3月2日号(大宮隆)
- [30]ビール事業は在来の酒類で稼いだ利益を食いつぶす重荷となった
- [34]京都への第二工場建設で拡大を狙ったことがかえって失敗を決定的にした
- 会社年鑑 1976年版「寳酒造」
- [31]1966年3月期の売上高221億800万円・経常利益6300万円(単体)
- [32]1966年3月期の当期純利益7100万円(単体)
- [33]1967年3月期の売上高230億7700万円・経常利益5億500万円(単体)
麦酒の苦戦と並行して、寳酒造は在来部門の生産機構を組み替えた。1964年5月、市川と王子の両工場を統合して松戸工場を新設し、同年10月には摂津酒造と本辰酒造を吸収合併して大阪・長野の二工場を継承した。合併に伴う増資で資本金は105億5800万円となり、一方で鞆と鹿児島の工場を廃止して主力工場の能力を引き上げている。王子工場は1929年に大正製酒を合併して引き継いだ拠点で、35年を経て松戸へ統合された。1959年10月には札幌工場を建てて北海道にも生産の足場を置いた。従業員は1964年の時点で2500人近くを数えた。設備も人員も膨らんだが、収益を生んでいたのは味淋・焼酎・合成清酒・アルコールという在来の四部門であり、麦酒はその外に置かれたままだった。
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [35]1964年5月 市川・王子の両工場を統合し松戸工場を新設
- [36]1964年10月 摂津酒造と本辰酒造を吸収合併し大阪・長野の2工場を継承
- [39]1929年6月 大正製酒を吸収合併し取得した王子工場は1964年5月に松戸工場へ統合
- [40]1959年10月 札幌工場(2003年3月廃止)を建設
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
- [37]1964年10月の摂津酒造・本辰酒造の合併により資本金は105億5800万円となった
- [38]生産機構の合理化に着手し、市川・王子両工場の松戸工場への統合、鞆・鹿児島工場の廃止、主力工場の能力アップを実施
- [42]在来の主製品は味淋・焼酎・合成酒・アルコール
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [41]昭和39年(1964年)当時の従業員は約2500人
参考文献[21]-[42]
- 日経ビジネス 1992年3月2日号(大宮隆)
- [21]当時のビール流通は問屋が特定銘柄だけを扱う専売的慣行が根を張っていた
- [22]先行する大手の壁が厚く後発の宝酒造は販売ルートを確保できなかった
- [30]ビール事業は在来の酒類で稼いだ利益を食いつぶす重荷となった
- [34]京都への第二工場建設で拡大を狙ったことがかえって失敗を決定的にした
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [23]大宮隆は敗因を、松竹梅やみりんの得意先に頼めば売ってくれると甘く考え、古い業界組織に乗って売ろうとした点にあると述べた
- [24]大宮隆は敗因を、松竹梅やみりんの得意先に頼めば売ってくれると甘く考え、古い業界組織に乗って売ろうとした点にあると述べた
- [25]酒類業界は酒税の対象としてメーカーから小売りまで免許行政下にあり、新規参入を制限して既存業者を保護していた
- [28]ビールは1957年発売、5年後の関西進出も失敗
- [29]昭和37年度(1962年度)から5期連続無配
- [41]昭和39年(1964年)当時の従業員は約2500人
- [26]政府は工場増加に伴い卸・小売の免許を緩和する方針へ踏み切ったが、既存の麦酒三社はこれを一年延ばすよう対策を講じていた
- [27]麦酒部門は発売以来、全社をあげて拡販に努力したが所期の目標に達しなかった
- [37]1964年10月の摂津酒造・本辰酒造の合併により資本金は105億5800万円となった
- [38]生産機構の合理化に着手し、市川・王子両工場の松戸工場への統合、鞆・鹿児島工場の廃止、主力工場の能力アップを実施
- [42]在来の主製品は味淋・焼酎・合成酒・アルコール
- 会社年鑑 1976年版「寳酒造」
- [31]1966年3月期の売上高221億800万円・経常利益6300万円(単体)
- [32]1966年3月期の当期純利益7100万円(単体)
- [33]1967年3月期の売上高230億7700万円・経常利益5億500万円(単体)
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [35]1964年5月 市川・王子の両工場を統合し松戸工場を新設
- [36]1964年10月 摂津酒造と本辰酒造を吸収合併し大阪・長野の2工場を継承
- [39]1929年6月 大正製酒を吸収合併し取得した王子工場は1964年5月に松戸工場へ統合
- [40]1959年10月 札幌工場(2003年3月廃止)を建設
1966年〜大宮隆の社長就任と、二工場の売却から中央研究所への投資転換
1966年3月、大宮隆氏が社長に就任した。1913年に滋賀県で生まれ、1937年に同志社大学を卒業して日本酒精に入り、1947年の合併で寳酒造の取締役となった人物で、歩いてきたのは経理と人事の畑だった。前社長の大宮庫吉氏は養父にあたる。庫吉氏は1951年4月から会長を務め、1964年11月には社長を兼ねていたが、この交代と入れ替わりに社長を辞任して会長となった。会社は麦酒部門について、『所期の目標に達せず、そのまま操業を続けて万一経営の基盤に重大な支障を生ずることがあってはならない』と判断した。1967年7月に京都麦酒工場を麒麟麦酒へ、1968年4月に木崎麦酒工場をサッポロビールへ譲渡し、参入から10年で麦酒事業から退出している。譲渡にあたっては得意先を回って事情を説き、取引銀行を間に立てて工場を売却した。
- 日本企業要覧 1968年版「宝酒造」
- [43]大宮隆は1966年3月に取締役社長へ就任
- [44]大宮隆は1913年滋賀県生まれ、1937年同志社大学卒、1945年日本酒精入社、1947年10月の合併により宝酒造取締役
- [47]大宮庫吉は1951年4月に取締役会長、1964年11月に取締役社長を兼任し、1966年3月に社長を辞任して取締役会長となった
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [45]大宮隆が歩いた畑は経理と人事がほとんどだった
- [46]大宮隆は前々社長・大宮庫吉の養子となったのが縁で入社した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
- [48]麦酒部門は発売以来の拡販にもかかわらず所期の目標に達せず、操業継続が経営基盤に支障を生じさせないよう判断して譲渡した
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [49]1967年7月 京都麦酒工場を麒麟麦酒へ譲渡
- [50]1968年4月 木崎麦酒工場をサッポロビールへ譲渡
- 宝グループレポート2025(統合報告書)
- [51]1957年の参入から10年でビール事業を撤退
- 日経ビジネス 1992年3月2日号(大宮隆)
- [52]撤退にあたり得意先を回って事情を説き、取引銀行を間に立てて工場を売却した
1968年3月期、寳酒造はビール事業撤収損として8億6638万5千円を計上した。同期の売上高は192億7800万円で、前期の230億7700万円から38億円近く縮み、麦酒を手放した分だけ会社の規模が小さくなった。一方で経常利益は前期の5億500万円から6億300万円へ増えている。人員の削減は撤退の前後をまたいで続き、1964年に2500人近くいた従業員は、その後の13年間で合計1044人減らされた。二つの麦酒工場の売却とあわせて社員を大幅に減らしたのがこの時期である。撤収損を吸収するため、固定資産の売却益8866万円、圧縮損繰入予定額の振戻1億8500万円、価格変動準備金の戻入2340万円などを立て、税引前の当期利益は2101万円にとどまった。麦酒部門の分離によって不採算部門は解消され、在来の主製品を中心とする安定成長の目途がついた。
- 日本企業要覧 1968年版「宝酒造」
- [53]1968年3月期の特別損失にビール事業撤収損866,385千円を計上
- [58]1968年3月期は固定資産売却益88,666千円・圧縮損繰入予定額振戻185,000千円・退職給与積立金取崩17,100千円・価格変動準備金戻入23,400千円を計上し、税引前当期利益は21,015千円
- 会社年鑑 1976年版「寳酒造」
- [54]売上高は1967年3月期230億7700万円から1968年3月期192億7800万円へ減少(単体)
- [55]経常利益は1967年3月期5億500万円から1968年3月期6億300万円へ増加(単体)
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [56]昭和39年(1964年)当時約2500人の従業員を13年間で計1044人削減
- 日経ビジネス 1992年3月2日号(大宮隆)
- [57]京都・木崎の二つの麦酒工場を売却し、あわせて社員を大幅に削減した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
- [59]麦酒部門の分離で不採算部門が解消され、在来の主製品を中心とした安定成長の目途がついたと総括
撤退の後始末と並んで大宮隆社長が手を付けたのが、それまで有名無実だった研究部門の建て直しだった。新しい組織の所長には、工業技術院の発酵研究所で部長だった田辺脩博士を招き、5人で走り出した。中央研究所は1970年9月に滋賀県大津市に開設され、運営費に年約1億円を充て、売上高の1%を毎年研究開発に回すと決めた。本社では人員を大きく削っていたが、研究所だけは人を増やし続けた。経営が苦しいのに当座の利益を生まないものへ金を出すのかと、社内では反対の声が次々に上がった。中央研究所を軸とする開発部門は『減資する代わりに、何か将来のためになる投資を』という考えに立って生まれ、しばらくは稼がない部門として扱われた。麦酒事業で失った10年を取り戻すために用意されたのが、酒精づくりで蓄えた発酵技術を次の事業へ橋渡しする場だった。
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [60]それまで有名無実だった研究所に将来の新規事業のための発酵技術研究という課題を与え内容を強化した
- [61]工業技術院の発酵研究所の部長だった田辺脩博士を所長に迎え、研究所は5人でスタートした
- [64]毎年売上高の1%を研究開発費として確保
- [65]本社従業員の大削減を実施しているさ中にも研究所のスタッフだけは増やし続けた
- [67]大宮隆は、中央研究所を中心とする開発部門は減資する代わりに将来のためになる投資をという考えで始めたもので、当分は収益を期待できないと述べた
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [62]1970年9月 滋賀県大津市に中央研究所を新設
- 日経ビジネス 1992年3月2日号(大宮隆)
- [63]中央研究所の年間運営費は約1億円
- [66]社内から「大変な時期に目先の利益につながらないものを」という反対の声が相次いだ
参考文献[43]-[67]
- [43]大宮隆は1966年3月に取締役社長へ就任
- [44]大宮隆は1913年滋賀県生まれ、1937年同志社大学卒、1945年日本酒精入社、1947年10月の合併により宝酒造取締役
- [47]大宮庫吉は1951年4月に取締役会長、1964年11月に取締役社長を兼任し、1966年3月に社長を辞任して取締役会長となった
- [53]1968年3月期の特別損失にビール事業撤収損866,385千円を計上
- [58]1968年3月期は固定資産売却益88,666千円・圧縮損繰入予定額振戻185,000千円・退職給与積立金取崩17,100千円・価格変動準備金戻入23,400千円を計上し、税引前当期利益は21,015千円
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- [45]大宮隆が歩いた畑は経理と人事がほとんどだった
- [46]大宮隆は前々社長・大宮庫吉の養子となったのが縁で入社した
- [56]昭和39年(1964年)当時約2500人の従業員を13年間で計1044人削減
- [60]それまで有名無実だった研究所に将来の新規事業のための発酵技術研究という課題を与え内容を強化した
- [61]工業技術院の発酵研究所の部長だった田辺脩博士を所長に迎え、研究所は5人でスタートした
- [64]毎年売上高の1%を研究開発費として確保
- [65]本社従業員の大削減を実施しているさ中にも研究所のスタッフだけは増やし続けた
- [67]大宮隆は、中央研究所を中心とする開発部門は減資する代わりに将来のためになる投資をという考えで始めたもので、当分は収益を期待できないと述べた
- [48]麦酒部門は発売以来の拡販にもかかわらず所期の目標に達せず、操業継続が経営基盤に支障を生じさせないよう判断して譲渡した
- [59]麦酒部門の分離で不採算部門が解消され、在来の主製品を中心とした安定成長の目途がついたと総括
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [49]1967年7月 京都麦酒工場を麒麟麦酒へ譲渡
- [50]1968年4月 木崎麦酒工場をサッポロビールへ譲渡
- [62]1970年9月 滋賀県大津市に中央研究所を新設
- 宝グループレポート2025(統合報告書)
- [51]1957年の参入から10年でビール事業を撤退
- 日経ビジネス 1992年3月2日号(大宮隆)
- [52]撤退にあたり得意先を回って事情を説き、取引銀行を間に立てて工場を売却した
- [57]京都・木崎の二つの麦酒工場を売却し、あわせて社員を大幅に削減した
- [63]中央研究所の年間運営費は約1億円
- [66]社内から「大変な時期に目先の利益につながらないものを」という反対の声が相次いだ
- 会社年鑑 1976年版「寳酒造」
- [54]売上高は1967年3月期230億7700万円から1968年3月期192億7800万円へ減少(単体)
- [55]経常利益は1967年3月期5億500万円から1968年3月期6億300万円へ増加(単体)
筆者考察
寳酒造の麦酒事業は、作る技術ではなく売る仕組みで競争劣位に立った。焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割を握っていた会社にとって、麦酒は発酵も蒸溜も原料の手当ても手元にある隣の市場に見えた。1955年に下りた建設認可の枠も、既存三社の各10万石に対して12万石と大きい。ところが麦酒の問屋は特定の銘柄だけを扱う慣行に覆われており、松竹梅や味淋を置いてくれる酒販店が、そのまま麦酒を運んでくれるわけではなかった。会長の大宮庫吉が掲げた百万石の目標に向けて京都に第二工場を建て、40億円を増資で調達したことが、かえって損失の幅を広げる。1962年度から5期の無配と、1966年3月期の経常利益6300万円が、その帰結である。
1957年〜1976年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 221 | n/a | 0 | 0.3% | 0 | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 230 | +4.4% | 5 | 2.2% | 2 | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 192 | ▲16.5% | 6 | 3.1% | 0 | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 205 | +6.8% | 10 | 4.9% | 4 | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 220 | +7.0% | 10 | 4.7% | 6 | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 258 | +17.1% | 12 | 5.0% | 7 | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 271 | +5.4% | 9 | 3.5% | 6 | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 304 | +12.0% | 7 | 2.3% | 7 | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 366 | +20.2% | 7 | 2.0% | 8 | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 400 | +9.3% | 14 | 3.6% | 8 | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 441 | +10.2% | 18 | 4.1% | 9 | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
10件
- 宝グループレポート2025(統合報告書)
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「宝酒造」(1955年)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
- 会社年鑑 1976年版「寳酒造」
- 日経ビジネス 1981年11月2日号(吉野源太郎)
- 日経ビジネス 1986年3月31日号(横田伸一)
- 日経ビジネス 1992年3月2日号(大宮隆)
- 野田経済 1962年7月30日号
- 日本企業要覧 1968年版「宝酒造」