高砂熱学工業:高砂煖房工事の設立と高砂熱学工業への商号変更
1923年〜高砂工業の煖房工事部から出た払込25万円の会社と、柳町政之助氏の3か月の渡米
1923年11月、高砂工業の煖房工事部が高砂煖房工事株式会社として独立した。高砂工業は、出資者の原邦造氏が1916年に設立し、ゴム・乾電池・鉄工の各社を合併して3部門を抱えた会社である。第1次世界大戦が終わっても業績は改善せず、各部門が他部門をあてにして責任を押し付け合う状態に陥った。原邦造氏は高砂工業を解散し、部門ごとに資本金50万円・払込12万5,000円の会社を別々に設立。煖房工事部から出た新会社の専務取締役には、原邦造氏と京都帝国大学の同期だった原繁造氏が就任した。煖房工事部は前身の時代から、紡織工場の温湿度調整装置を特命で数多く受注していた。多角経営の弱点を部門の切り離しで解消し、受注実績のある工事部門に専業の責任を持たせたとみられる。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章 創業期〔A〕
- [1]1923年11月に高砂工業を解散し煖房工事部を高砂煖房工事株式会社として独立、各社とも原邦造出資で資本金50万円・払込12万5,000円、専務取締役は原繁造
- [2]高砂工業は1916年6月原邦造が設立、護謨・電池・鉄工の3部門を持ち、大戦後も業績が好転せず各部門が他部門に依存し責任をなすり合った
- [3]高砂工業は1916年6月原邦造が設立、護謨・電池・鉄工の3部門を持ち、大戦後も業績が好転せず各部門が他部門に依存し責任をなすり合った
- [4]1923年11月に高砂工業を解散し煖房工事部を高砂煖房工事株式会社として独立、各社とも原邦造出資で資本金50万円・払込12万5,000円、専務取締役は原繁造
- [5]1923年11月に高砂工業を解散し煖房工事部を高砂煖房工事株式会社として独立、各社とも原邦造出資で資本金50万円・払込12万5,000円、専務取締役は原繁造
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔A〕繊維産業の発展とともに
- [6]前身高砂工業時代から繊維産業向け温湿度調整装置に注力し、多数の工事をほとんど特命で受注した
創業時の社員は23名、うち14名が技術者。技術者の中心は柳町政之助氏と小林壬氏で、2人は茂木合名在籍中の1918年から紡織工場の温湿度調整装置を手がけていた。1925年12月の株主総会で柳町政之助氏と小林壬氏が取締役に選任され、社員から取締役に昇進した最初の例となった。専務取締役の原繁造氏は高砂鉄工の最高責任者を兼ねており、会社運営の実務を次第に2人へ任せた。1928年1月には第2回払込を経て、払込資本金を25万円とした。幹部社員は欧米の専門書や雑誌から新技術を取り入れ、同業他社が追随できない専門技術を持つことを「技術優先」と呼んで社内の「和」とともに指針に据えた。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章 創業期〔C〕特記事項
- [7]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- [9]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- [10]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- [11]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- [12]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔A〕繊維産業の発展とともに
- [8]柳町政之助と小林壬は茂木合名在職中の1918年に東洋モスリン・東京キャリコ織布工場の温湿度調整装置を完成
1929年5月、取締役の柳町政之助氏が3か月の日程で米国の技術調査に出た。会社として初めての海外出張である。不況のなかでもエロフィンヒータとユニットヒータの評判で業績が安定しており、次の成長に備えて先進国の実地を確かめる目的があった。柳町政之助氏は滞在中にW.H.キャリア博士と面談し、ターボ冷凍機を暖房に使うヒートポンプの見込みを尋ねて有望との回答を得た。国内では1927年に三越演芸場の温湿度調整装置を完成させ、アンモニア冷凍機と冷水噴霧で約650名収容の客席を冷やしていた。三越演芸場の後、1930年に浅草の大勝館、1931年に東京劇場と、劇場の冷房工事の受注が続いた。暖房から冷房へ進む下地は、渡米の前から国内の工事で積み上がっていたと推察される。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章〔C〕6 柳町取締役渡米
- [13]柳町政之助取締役が1929年5月から3カ月米国の技術調査、同社初の海外出張。エロフィンヒータ・ユニットヒータの好評で業績安定、将来への飛躍に備える目的
- [14]柳町政之助取締役が1929年5月から3カ月米国の技術調査、同社初の海外出張。エロフィンヒータ・ユニットヒータの好評で業績安定、将来への飛躍に備える目的
- [15]柳町政之助取締役が1929年5月から3カ月米国の技術調査、同社初の海外出張。エロフィンヒータ・ユニットヒータの好評で業績安定、将来への飛躍に備える目的
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔F〕他社に先駆けてヒートポンプ方式を実現
- [16]柳町政之助は1929年5〜8月の渡米中にW.H.キャリア博士とヒートポンプのターボ冷凍機による可能性を議論し有望との回答を得た
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔B〕三越演芸場の温湿度調整装置
- [17]1927年竣工の三越演芸場(約650名)温湿度調整装置はアンモニア冷凍機と冷水噴霧、成功後1930年大勝館・1931年東京劇場などの劇場を受注
- [18]1927年竣工の三越演芸場(約650名)温湿度調整装置はアンモニア冷凍機と冷水噴霧、成功後1930年大勝館・1931年東京劇場などの劇場を受注
参考文献[1]-[18]
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章 創業期〔A〕
- [1]1923年11月に高砂工業を解散し煖房工事部を高砂煖房工事株式会社として独立、各社とも原邦造出資で資本金50万円・払込12万5,000円、専務取締役は原繁造
- [2]高砂工業は1916年6月原邦造が設立、護謨・電池・鉄工の3部門を持ち、大戦後も業績が好転せず各部門が他部門に依存し責任をなすり合った
- [3]高砂工業は1916年6月原邦造が設立、護謨・電池・鉄工の3部門を持ち、大戦後も業績が好転せず各部門が他部門に依存し責任をなすり合った
- [4]1923年11月に高砂工業を解散し煖房工事部を高砂煖房工事株式会社として独立、各社とも原邦造出資で資本金50万円・払込12万5,000円、専務取締役は原繁造
- [5]1923年11月に高砂工業を解散し煖房工事部を高砂煖房工事株式会社として独立、各社とも原邦造出資で資本金50万円・払込12万5,000円、専務取締役は原繁造
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔A〕繊維産業の発展とともに
- [6]前身高砂工業時代から繊維産業向け温湿度調整装置に注力し、多数の工事をほとんど特命で受注した
- [8]柳町政之助と小林壬は茂木合名在職中の1918年に東洋モスリン・東京キャリコ織布工場の温湿度調整装置を完成
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章 創業期〔C〕特記事項
- [7]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- [9]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- [10]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- [11]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- [12]社員23名(技術14名)で発足、1925年12月に柳町政之助・小林壬を取締役に選任(社員からの昇進の初例)、原繁造は実務を両名に一任、1928年1月払込資本金25万円、指針は「技術優先」と「和」
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章〔C〕6 柳町取締役渡米
- [13]柳町政之助取締役が1929年5月から3カ月米国の技術調査、同社初の海外出張。エロフィンヒータ・ユニットヒータの好評で業績安定、将来への飛躍に備える目的
- [14]柳町政之助取締役が1929年5月から3カ月米国の技術調査、同社初の海外出張。エロフィンヒータ・ユニットヒータの好評で業績安定、将来への飛躍に備える目的
- [15]柳町政之助取締役が1929年5月から3カ月米国の技術調査、同社初の海外出張。エロフィンヒータ・ユニットヒータの好評で業績安定、将来への飛躍に備える目的
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔F〕他社に先駆けてヒートポンプ方式を実現
- [16]柳町政之助は1929年5〜8月の渡米中にW.H.キャリア博士とヒートポンプのターボ冷凍機による可能性を議論し有望との回答を得た
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔B〕三越演芸場の温湿度調整装置
- [17]1927年竣工の三越演芸場(約650名)温湿度調整装置はアンモニア冷凍機と冷水噴霧、成功後1930年大勝館・1931年東京劇場などの劇場を受注
- [18]1927年竣工の三越演芸場(約650名)温湿度調整装置はアンモニア冷凍機と冷水噴霧、成功後1930年大勝館・1931年東京劇場などの劇場を受注
1931年〜東京海上ビルへ移転した本社と、京都電燈本社で完成させたヒートポンプ方式
1930年3月、本社を五郎兵衛町から丸の内の東京海上ビルディング新館8階へ移した。暖房設備を備えた一級ビルへ移り、会社の品格を高めて営業にも生かす狙いがあった。昭和恐慌の影響で、1931年5月期から1932年5月期までは受注の低迷期にあたる。受注を支えたのは人絹工場で、新設と増設が相次いだ1932年11月期には過去にない契約高を記録した。紡織の工場では湿度が糸切れや製品の水分量を左右するため、温湿度の管理が生産に欠かせない。高砂煖房工事は前身の時代からこの分野に技術を注ぎ、工事の多くを特命で受注していた。建物向けの冷暖房より先に産業向けの空調で得意先を固めたことが、不況期の受注を下支えしたと思われる。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章 前進期〔A〕〔B〕
- [19]1930年3月本社を東京海上ビル新館8階へ移転(品格向上と営業上の期待)、1931年5月期〜1932年5月期は不況で低迷、1932年11月期に人絹工場の新増設で画期的な契約高
- [20]1930年3月本社を東京海上ビル新館8階へ移転(品格向上と営業上の期待)、1931年5月期〜1932年5月期は不況で低迷、1932年11月期に人絹工場の新増設で画期的な契約高
- [21]1930年3月本社を東京海上ビル新館8階へ移転(品格向上と営業上の期待)、1931年5月期〜1932年5月期は不況で低迷、1932年11月期に人絹工場の新増設で画期的な契約高
- [22]1930年3月本社を東京海上ビル新館8階へ移転(品格向上と営業上の期待)、1931年5月期〜1932年5月期は不況で低迷、1932年11月期に人絹工場の新増設で画期的な契約高
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔A〕繊維産業の発展とともに
- [23]紡織工場では湿度が繊維の水分率・糸切れを左右し産業空調として発達、同社は繊維産業向け温湿度調整をほとんど特命で受注
- [24]紡織工場では湿度が繊維の水分率・糸切れを左右し産業空調として発達、同社は繊維産業向け温湿度調整をほとんど特命で受注
1937年7月、京都電燈本社新館に地下水を熱源とするヒートポンプ式の全館冷暖房を完成させた。ボイラや電熱を一切使わず、130馬力のターボ冷凍機2台を夏は冷房、冬は暖房に切り替えて使う設備である。起点は1926年6月に京都帝国大学教授の大塚要氏が発表した、冷凍機を暖房に流用する論文だった。柳町政之助氏はこの論文に着目して実用化を研究し、1932年末には村山長擧氏の住宅で国内初のヒートポンプ式暖房を実現していた。機器の面での布石は、荏原製作所と共同で国産化し、1930年夏に試作した高砂荏原式ターボ冷凍機である。1931年からは倉敷絹織や大阪の朝日ビルへ同じ冷凍機を納め、舶来品に代わる国産機として冷房の普及を促した。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔D〕〔F〕
- [25]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- [26]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- [27]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- [28]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- [29]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章〔B〕2 技術優先実りはじめる
- [30]1931年に高砂荏原式ターボ冷凍機を倉敷絹織・帝国人造絹糸岩国工場・大阪朝日ビルへ納入、1937年7月京都電燈本社新館でヒートポンプ方式の全館冷暖房を完成
1931年12月、大阪に初めての出張所を置いた。同年10月に完成した大阪朝日ビルの全館冷暖房を設計・施工し、国産ターボ冷凍機を初めて使った工事がきっかけである。関西でもビルの空調工事が増える兆しがあり、現場監督ら5名を大阪に常駐させた。社員は1930年の30名から1937年の54名に増えた。1936年9月には満洲国の新京に出張所を設け、官庁街の建設工事の受注を狙った。現地では満洲の業者と内地の業者が入札で激しく争い、内地の受注も多忙になったため、1938年9月に出張所を閉鎖。専務の柳町政之助氏と常務の小林壬氏が率いた会社は「堅実なる仕事」を標語とし、得意先への丁寧な施工を優先した。見込みの薄い市場から早めに退き、国内の得意先に人手を充当したのだろう。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章〔C〕特記事項
- [31]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [33]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [34]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [35]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [36]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [37]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章〔B〕2 技術優先実りはじめる
- [32]1931年10月完成の大阪朝日ビルに国産の高砂荏原式ターボ冷凍機を納入し全館冷暖房を施工
参考文献[19]-[37]
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章 前進期〔A〕〔B〕
- [19]1930年3月本社を東京海上ビル新館8階へ移転(品格向上と営業上の期待)、1931年5月期〜1932年5月期は不況で低迷、1932年11月期に人絹工場の新増設で画期的な契約高
- [20]1930年3月本社を東京海上ビル新館8階へ移転(品格向上と営業上の期待)、1931年5月期〜1932年5月期は不況で低迷、1932年11月期に人絹工場の新増設で画期的な契約高
- [21]1930年3月本社を東京海上ビル新館8階へ移転(品格向上と営業上の期待)、1931年5月期〜1932年5月期は不況で低迷、1932年11月期に人絹工場の新増設で画期的な契約高
- [22]1930年3月本社を東京海上ビル新館8階へ移転(品格向上と営業上の期待)、1931年5月期〜1932年5月期は不況で低迷、1932年11月期に人絹工場の新増設で画期的な契約高
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔A〕繊維産業の発展とともに
- [23]紡織工場では湿度が繊維の水分率・糸切れを左右し産業空調として発達、同社は繊維産業向け温湿度調整をほとんど特命で受注
- [24]紡織工場では湿度が繊維の水分率・糸切れを左右し産業空調として発達、同社は繊維産業向け温湿度調整をほとんど特命で受注
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔D〕〔F〕
- [25]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- [26]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- [27]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- [28]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- [29]1937年京都電燈本社ビル(延10,725m2)に地下水熱源のヒートポンプ式冷暖房、ターボ冷凍機130HP×2台、ボイラ・電熱不使用。1926年6月大塚要教授の論文が端緒、1932年末村山長擧邸で国内初のヒートポンプ暖房、1930年夏に荏原と高砂荏原式ターボ冷凍機を試作
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章〔B〕2 技術優先実りはじめる
- [30]1931年に高砂荏原式ターボ冷凍機を倉敷絹織・帝国人造絹糸岩国工場・大阪朝日ビルへ納入、1937年7月京都電燈本社新館でヒートポンプ方式の全館冷暖房を完成
- [32]1931年10月完成の大阪朝日ビルに国産の高砂荏原式ターボ冷凍機を納入し全館冷暖房を施工
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章〔C〕特記事項
- [31]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [33]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [34]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [35]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [36]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
- [37]1931年12月1日大阪出張所を設置(東京以外で初、嘉幡政四郎ほか4名)、社員は1930年30名→1937年54名、新京出張所を1936年9月設置し入札競争と内地繁忙で1938年9月閉鎖、「堅実なる仕事」がモットー
1938年〜高砂熱学工業への改称と工業用冷却塔、進駐軍工事から資本金3000万円まで
1938年10月、定款の営業目的を改め、煖房・冷凍・温湿度調節の工事に油汚物の洗浄請負を加えた。同じ1938年、大倉商事を通じて日本水素工業小名浜工場からガス放散塔の相談を受け、冷却塔の設計に着手した。日景一郎氏が米国製品のカタログ1部を手がかりに寸法と構造を割り出し、1939年に国産初の強制通風冷却塔を完成させた。冷却塔は他社が手がけていない分野で、終戦までの施工実績は32件・700万円である。3交替で操業する中島飛行機の工場群には、広い敷地の集中暖房を特命で施工した。1943年7月には商号を高砂熱学工業に改めた。陸軍当局から「煖房」の語に注意を受け、冷やす技術も含む名として「熱学」を選んだ。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第3章 戦中期〔A〕〔B〕
- [38]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- [41]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- [42]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- [43]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- [44]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔F〕冷却塔の歩み
- [39]1938年大倉商事経由で日本水素工業小名浜工場のガス放散塔を受け、日景一郎がカタログ1部から設計、1939年に国産強制通風冷却塔第1号を完成
- [40]1938年大倉商事経由で日本水素工業小名浜工場のガス放散塔を受け、日景一郎がカタログ1部から設計、1939年に国産強制通風冷却塔第1号を完成
終戦で戦前からの継続工事は打ち切られ、新規受注の見通しも立たなかった。1945年10月、伊勢丹の建物を米軍将校宿舎に改造する暖房復旧工事を、進駐軍工事の第1号として受注した。戦時中に確保していた資材を使い、既設建物の機器を転用して冬季の工期に間に合わせた。以後1954年まで進駐軍工事が続き、1950年の相模原公社住宅地区では74万m²にわたる高温水の地域暖房を施工した。予算は2億7800万円で、失敗すれば経営を揺るがす規模だったため、協力会社10社を動員して6か月で完成させた。この間の1947年12月には、企業再建整備法に基づく減資で資本金が50万円から25万円になった。1948年8月には社長制を敷き、柳町政之助氏が初代社長に就任した。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第4章 戦後期〔A〕〔B〕〔C〕
- [45]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- [48]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- [49]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- [50]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- [51]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔G〕進駐軍工事
- [46]1945年10月半ば伊勢丹の将校宿舎化の暖房復旧工事を進駐軍工事第1号として受注、戦時中確保の資材と既設建物の機器転用で対応
- [47]1945年10月半ば伊勢丹の将校宿舎化の暖房復旧工事を進駐軍工事第1号として受注、戦時中確保の資材と既設建物の機器転用で対応
1949年10月、建設業法の施行に伴って建設大臣の登録を受けた。同じ1949年に大阪支店を開設し、関西では阪急・近鉄・高島屋の百貨店や大和銀行の支店の受注が相次いだ。北海道では1951年の千歳米軍基地の暖房工事を機に一般ビルの受注が増え、1952年3月に札幌出張所を開設した。中京でも名古屋朝日ビルディングと日本銀行金沢支店を受注し、1952年8月に名古屋出張所を置いた。1953年2月には本店を神田駿河台へ移し、創立から29年を経て初めて自社の土地と建物を持った。資本金は1948年6月の300万円から増資を重ね、1955年3月に3000万円となった。増資の一部は、資産再評価で生じた積立金の資本組み入れによるものである。
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第4章〔D〕・第5章 躍進期〔A〕
- [52]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [53]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [54]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [55]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [56]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [57]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [58]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
参考文献[38]-[58]
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第3章 戦中期〔A〕〔B〕
- [38]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- [41]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- [42]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- [43]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- [44]1938年10月営業目的を変更(油汚物清浄請負を追加)、強制通風高砂式冷却塔は終戦までに32件・700万円、中島飛行機の工場暖房を特命で受注、1943年7月1日高砂熱学工業に改称(陸軍当局の注意で「煖房」を避け「熱学」を採用)
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔F〕冷却塔の歩み
- [39]1938年大倉商事経由で日本水素工業小名浜工場のガス放散塔を受け、日景一郎がカタログ1部から設計、1939年に国産強制通風冷却塔第1号を完成
- [40]1938年大倉商事経由で日本水素工業小名浜工場のガス放散塔を受け、日景一郎がカタログ1部から設計、1939年に国産強制通風冷却塔第1号を完成
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第4章 戦後期〔A〕〔B〕〔C〕
- [45]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- [48]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- [49]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- [50]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- [51]終戦で継続工事が打切り。進駐軍工事は1954年まで続き、1950年相模原公社住宅地区74万m2の高温水地域暖房(予算2億7800万円・社運を賭けた工事・協力10社で6カ月)。1947年12月企業再建整備法で資本金50万→25万円に減資、1948年8月柳町政之助が社長(社長制の初)
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔G〕進駐軍工事
- [46]1945年10月半ば伊勢丹の将校宿舎化の暖房復旧工事を進駐軍工事第1号として受注、戦時中確保の資材と既設建物の機器転用で対応
- [47]1945年10月半ば伊勢丹の将校宿舎化の暖房復旧工事を進駐軍工事第1号として受注、戦時中確保の資材と既設建物の機器転用で対応
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第4章〔D〕・第5章 躍進期〔A〕
- [52]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [53]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [54]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [55]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [56]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [57]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
- [58]1949年10月20日建設業法の登録、1949年大阪支店開設後に阪急・近鉄・高島屋・大和銀行等を受注、1952年3月札幌・8月名古屋に出張所、1953年2月本店を駿河台へ移転、資本金は1948年6月300万円→1955年3月3000万円(再評価積立金の組入れを含む)
出典・参考
15件
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章 創業期〔A〕
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔A〕繊維産業の発展とともに
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章 創業期〔C〕特記事項
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第1章〔C〕6 柳町取締役渡米
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔F〕他社に先駆けてヒートポンプ方式を実現
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔B〕三越演芸場の温湿度調整装置
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章 前進期〔A〕〔B〕
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔D〕〔F〕
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章〔B〕2 技術優先実りはじめる
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第2章〔C〕特記事項
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第3章 戦中期〔A〕〔B〕
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第2章〔F〕冷却塔の歩み
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第4章 戦後期〔A〕〔B〕〔C〕
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 技術編 第1章〔G〕進駐軍工事
- 高砂熱学工業『高砂熱学50年の歩み』1973年 経営編 第4章〔D〕・第5章 躍進期〔A〕