第1章 年〜年

太平電業:太平電業の設立と火力発電所建設工事への進出

1947年〜満洲から引き揚げた電気技術者の会社と、資本金18万円での船出

1947年3月、資本金18万円・発行株式3,600株で太平電業の設立。設立に加わった人々の多くは、終戦時に社員約2万人を擁した満洲電業で電気事業に携わった技術者だった。満洲からの日本人の送還は1946年5月から1948年8月まで4期にわたり、創立者たちも100万人余の引揚者の中にいた。設立の主眼は引揚者の救済と更生にあり、満洲で磨いた電気の技術を国土の復興に役立てることも創立者の念願とされた。社名の太平に込めたのは、敗戦で建設の成果を失った経験から生まれた平和への願いである。創立時に会社を代表した取締役は青木貞助氏で、満電の先任理事だった岡雄一郎氏は設立の斡旋にとどまった。

  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 設立」
    • [1]1947年3月設立。資本金18万円・3,600株(1株50円)、本店は神田神保町2丁目4番地、目的は内外線動力請負工事、代表取締役は青木貞助。設立の主眼は引揚者の救済と更生、社名は平和への願い
    • [4]1947年3月設立。資本金18万円・3,600株(1株50円)、本店は神田神保町2丁目4番地、目的は内外線動力請負工事、代表取締役は青木貞助。設立の主眼は引揚者の救済と更生、社名は平和への願い
    • [5]1947年3月設立。資本金18万円・3,600株(1株50円)、本店は神田神保町2丁目4番地、目的は内外線動力請負工事、代表取締役は青木貞助。設立の主眼は引揚者の救済と更生、社名は平和への願い
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 創業」
    • [2]満洲電業は終戦時に資本金9億6千万円・社員約2万人。岡雄一郎は先任理事として技術部門を統括
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 満洲国の終末」
    • [3]在満日本人の送還は1946年5月〜1948年8月の4期・100万人余。岡雄一郎は当初設立の斡旋にとどまり役員に加わらず
    • [6]在満日本人の送還は1946年5月〜1948年8月の4期・100万人余。岡雄一郎は当初設立の斡旋にとどまり役員に加わらず

1947年10月、太平電業は定款の主目的を、設立時の内外線動力請負工事に代えて火力発変電所と送配電線路の設計・施行とした。設立時の株式払込金はほぼ全額を明楽工業に依存し、業務も明楽工業の事業に付随する電気工事にとどまった。取引先も、明楽工業のほかは日本建設工業・鹿島建設など2、3社である。同じ月に岡雄一郎氏が社長(代表取締役)に就任し、資本金は200万円に変更して1948年6月に全額の払込を終えた。最初の受注は日本発送電の尼ケ崎第一発電所4号罐と小倉発電所1・2号罐の工事で、満洲時代からの人脈が端緒になった。満洲で火力の運転と建設を経験した人材の厚みが、電力設備の復旧へ業務を移す判断を支えたとみられる。

  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 会社目的の変更」
    • [7]1947年10月、主たる営業目的を内外線動力請負工事から火力発変電所・送配電線路の設計並施行へ変更。払込金はほぼ全額を明楽工業に依存、取引先は日本建設工業・鹿島建設など2、3社
    • [8]1947年10月、主たる営業目的を内外線動力請負工事から火力発変電所・送配電線路の設計並施行へ変更。払込金はほぼ全額を明楽工業に依存、取引先は日本建設工業・鹿島建設など2、3社
    • [9]1947年10月、主たる営業目的を内外線動力請負工事から火力発変電所・送配電線路の設計並施行へ変更。払込金はほぼ全額を明楽工業に依存、取引先は日本建設工業・鹿島建設など2、3社
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 営業の基本方針」
    • [10]1947年10月に岡雄一郎が代表取締役社長に就任、資本金を200万円に変更し1948年6月全額払込。日発尼ケ崎第一4号罐・小倉1、2号罐工事が業務の嚆矢。1948年1月29日の支店長会議で直営・分権・独立採算を決定、社員70余名
    • [11]1947年10月に岡雄一郎が代表取締役社長に就任、資本金を200万円に変更し1948年6月全額払込。日発尼ケ崎第一4号罐・小倉1、2号罐工事が業務の嚆矢。1948年1月29日の支店長会議で直営・分権・独立採算を決定、社員70余名

草創期の業務は日本発送電(日発)の発注に依存し、日発の労使対立は太平電業の存立を左右した。大阪支店は日発の当局から尼ケ崎第一・第二発電所の非常時の運転維持を非公式に依頼され、電産からは太平電業に『勤労者は勤労者の側に立て』という要求が出た。太平電業は停電を手段とする争議には同調せず、電産との折衝を重ねて1948年2月に了解を得た。資金面では、明楽工業の業況を危ぶむ住友銀行東京支店から期待した融資を得られなかった。岡雄一郎氏は旧知の安川第五郎氏・高碕達之助氏に資金の斡旋を仰ぎ、1948年5月に高碕達之助氏の仲介で三井銀行日比谷支店との取引を開始。同年8月には復興金融公庫から100万円の融資を受け、経費の節減で1949年度からのドッジ・ラインによるデフレを乗り切った。

  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(三) 電産に関する問題」
    • [12]草創期の業務は日発の発注に依存。電産から勤労者の側に立つよう求められ、日発当局からは尼ケ崎第一・第二発電所の維持運転を非公式に依頼された。1948年2月に電産と円満な了解に達した
    • [13]草創期の業務は日発の発注に依存。電産から勤労者の側に立つよう求められ、日発当局からは尼ケ崎第一・第二発電所の維持運転を非公式に依頼された。1948年2月に電産と円満な了解に達した
    • [14]草創期の業務は日発の発注に依存。電産から勤労者の側に立つよう求められ、日発当局からは尼ケ崎第一・第二発電所の維持運転を非公式に依頼された。1948年2月に電産と円満な了解に達した
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(四) 金融の苦心」
    • [15]明楽工業の動揺で住友銀行東京支店の融資は消極的。安川第五郎・高碕達之助が資金を斡旋。1948年5月三井銀行日比谷支店と取引開始、同年8月復興金融公庫から100万円、経費節減でドッジ・ラインを乗り切る
    • [16]明楽工業の動揺で住友銀行東京支店の融資は消極的。安川第五郎・高碕達之助が資金を斡旋。1948年5月三井銀行日比谷支店と取引開始、同年8月復興金融公庫から100万円、経費節減でドッジ・ラインを乗り切る
    • [17]明楽工業の動揺で住友銀行東京支店の融資は消極的。安川第五郎・高碕達之助が資金を斡旋。1948年5月三井銀行日比谷支店と取引開始、同年8月復興金融公庫から100万円、経費節減でドッジ・ラインを乗り切る
参考文献[1]-[17]
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 設立」
    • [1]1947年3月設立。資本金18万円・3,600株(1株50円)、本店は神田神保町2丁目4番地、目的は内外線動力請負工事、代表取締役は青木貞助。設立の主眼は引揚者の救済と更生、社名は平和への願い
    • [4]1947年3月設立。資本金18万円・3,600株(1株50円)、本店は神田神保町2丁目4番地、目的は内外線動力請負工事、代表取締役は青木貞助。設立の主眼は引揚者の救済と更生、社名は平和への願い
    • [5]1947年3月設立。資本金18万円・3,600株(1株50円)、本店は神田神保町2丁目4番地、目的は内外線動力請負工事、代表取締役は青木貞助。設立の主眼は引揚者の救済と更生、社名は平和への願い
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 創業」
    • [2]満洲電業は終戦時に資本金9億6千万円・社員約2万人。岡雄一郎は先任理事として技術部門を統括
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 満洲国の終末」
    • [3]在満日本人の送還は1946年5月〜1948年8月の4期・100万人余。岡雄一郎は当初設立の斡旋にとどまり役員に加わらず
    • [6]在満日本人の送還は1946年5月〜1948年8月の4期・100万人余。岡雄一郎は当初設立の斡旋にとどまり役員に加わらず
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 会社目的の変更」
    • [7]1947年10月、主たる営業目的を内外線動力請負工事から火力発変電所・送配電線路の設計並施行へ変更。払込金はほぼ全額を明楽工業に依存、取引先は日本建設工業・鹿島建設など2、3社
    • [8]1947年10月、主たる営業目的を内外線動力請負工事から火力発変電所・送配電線路の設計並施行へ変更。払込金はほぼ全額を明楽工業に依存、取引先は日本建設工業・鹿島建設など2、3社
    • [9]1947年10月、主たる営業目的を内外線動力請負工事から火力発変電所・送配電線路の設計並施行へ変更。払込金はほぼ全額を明楽工業に依存、取引先は日本建設工業・鹿島建設など2、3社
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 営業の基本方針」
    • [10]1947年10月に岡雄一郎が代表取締役社長に就任、資本金を200万円に変更し1948年6月全額払込。日発尼ケ崎第一4号罐・小倉1、2号罐工事が業務の嚆矢。1948年1月29日の支店長会議で直営・分権・独立採算を決定、社員70余名
    • [11]1947年10月に岡雄一郎が代表取締役社長に就任、資本金を200万円に変更し1948年6月全額払込。日発尼ケ崎第一4号罐・小倉1、2号罐工事が業務の嚆矢。1948年1月29日の支店長会議で直営・分権・独立採算を決定、社員70余名
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(三) 電産に関する問題」
    • [12]草創期の業務は日発の発注に依存。電産から勤労者の側に立つよう求められ、日発当局からは尼ケ崎第一・第二発電所の維持運転を非公式に依頼された。1948年2月に電産と円満な了解に達した
    • [13]草創期の業務は日発の発注に依存。電産から勤労者の側に立つよう求められ、日発当局からは尼ケ崎第一・第二発電所の維持運転を非公式に依頼された。1948年2月に電産と円満な了解に達した
    • [14]草創期の業務は日発の発注に依存。電産から勤労者の側に立つよう求められ、日発当局からは尼ケ崎第一・第二発電所の維持運転を非公式に依頼された。1948年2月に電産と円満な了解に達した
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(四) 金融の苦心」
    • [15]明楽工業の動揺で住友銀行東京支店の融資は消極的。安川第五郎・高碕達之助が資金を斡旋。1948年5月三井銀行日比谷支店と取引開始、同年8月復興金融公庫から100万円、経費節減でドッジ・ラインを乗り切る
    • [16]明楽工業の動揺で住友銀行東京支店の融資は消極的。安川第五郎・高碕達之助が資金を斡旋。1948年5月三井銀行日比谷支店と取引開始、同年8月復興金融公庫から100万円、経費節減でドッジ・ラインを乗り切る
    • [17]明楽工業の動揺で住友銀行東京支店の融資は消極的。安川第五郎・高碕達之助が資金を斡旋。1948年5月三井銀行日比谷支店と取引開始、同年8月復興金融公庫から100万円、経費節減でドッジ・ラインを乗り切る

1948年〜明楽工業との訣別と、日発小倉発電所140トン汽罐増設工事の受注

明楽工業は進駐軍工事を軸に戦後に膨張した会社で、1948年4月頃から経営不振が伝わり、同年秋から冬にかけて破綻が決定的になった。年末には明楽工業の関係会社の株式が住友銀行の担保に入り、太平電業の株式も第三者へ処分されるおそれが生じた。岡雄一郎氏は社員の総意を受け、住友銀行と全株の引き取りを交渉した。1948年12月10日、太平電業は1株60円(50円払込済)で明楽工業所有の全株を取得し、役職員に配分。明楽工業にいた水力系の旧満電社員は、その解体に伴い翌1949年春に大豊建設を創立した。出資者の破綻を株式の取得で切り離したことが、経営の自立を早めたと推察される。

  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(五) 明楽工業との訣別」
    • [18]明楽工業は進駐軍工事を主軸に膨張、1948年4月頃から経営不振、秋から冬に崩壊が決定的。年末に関係会社株が住友銀行の担保に。岡雄一郎が住友銀行と全株引取を折衝
    • [19]明楽工業は進駐軍工事を主軸に膨張、1948年4月頃から経営不振、秋から冬に崩壊が決定的。年末に関係会社株が住友銀行の担保に。岡雄一郎が住友銀行と全株引取を折衝
    • [20]明楽工業は進駐軍工事を主軸に膨張、1948年4月頃から経営不振、秋から冬に崩壊が決定的。年末に関係会社株が住友銀行の担保に。岡雄一郎が住友銀行と全株引取を折衝
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 日発小倉発電所汽罐増設工事」
    • [21]1948年12月10日、1株60円(50円払込済)で明楽工業所有の全株を引き取り役職員に配分。明楽工業内の水力系旧満電社員は翌春に大豊建設を創立
    • [22]1948年12月10日、1株60円(50円払込済)で明楽工業所有の全株を引き取り役職員に配分。明楽工業内の水力系旧満電社員は翌春に大豊建設を創立

1949年、太平電業は戦後の火力で初かつ最大となる日発小倉発電所の140トン汽罐の増設工事を、多数の同業者との競合の末に受注した。受注には岡雄一郎氏と九州支店長の白石竹市氏が折衝にあたり、日発九州支店長の武内益祐氏の支援も得た。九州支店は満洲での火力建設の経験を投じて工期内に完成させ、日発九州支店長から感謝状を受けた。一方で工事の収支は欠損となり、見積りと予算統制の甘さを改める教訓になった。1949年から翌年にかけ、満洲電業で技術の管理職を務めた前川和氏・平井新蔵氏・井上錦一氏が加わり、経理の組織と人員の強化も急いだ。工事の完成で得た信用と赤字の反省の両方が、その後の受注拡大の土台になったと思われる。

  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 日発小倉発電所汽罐増設工事」
    • [23]1949年、日発小倉発電所140トン汽罐増設工事を受注。戦後火力界で最初かつ最大のボイラー増設で同業者が競合。岡社長・白石支店長が折衝し日発九州支店長武内益祐の好意を得る。工期内に落成し感謝状
    • [24]1949年、日発小倉発電所140トン汽罐増設工事を受注。戦後火力界で最初かつ最大のボイラー増設で同業者が競合。岡社長・白石支店長が折衝し日発九州支店長武内益祐の好意を得る。工期内に落成し感謝状
    • [25]1949年、日発小倉発電所140トン汽罐増設工事を受注。戦後火力界で最初かつ最大のボイラー増設で同業者が競合。岡社長・白石支店長が折衝し日発九州支店長武内益祐の好意を得る。工期内に落成し感謝状
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 会社陣容の強化」
    • [26]小倉・木津川の工事は欠損で、見積り・予算統制の欠如が教訓に。1949〜1950年に前川和・平井新蔵・井上錦一が入社、経理組織とスタッフを強化
    • [27]小倉・木津川の工事は欠損で、見積り・予算統制の欠如が教訓に。1949〜1950年に前川和・平井新蔵・井上錦一が入社、経理組織とスタッフを強化
参考文献[18]-[27]
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(五) 明楽工業との訣別」
    • [18]明楽工業は進駐軍工事を主軸に膨張、1948年4月頃から経営不振、秋から冬に崩壊が決定的。年末に関係会社株が住友銀行の担保に。岡雄一郎が住友銀行と全株引取を折衝
    • [19]明楽工業は進駐軍工事を主軸に膨張、1948年4月頃から経営不振、秋から冬に崩壊が決定的。年末に関係会社株が住友銀行の担保に。岡雄一郎が住友銀行と全株引取を折衝
    • [20]明楽工業は進駐軍工事を主軸に膨張、1948年4月頃から経営不振、秋から冬に崩壊が決定的。年末に関係会社株が住友銀行の担保に。岡雄一郎が住友銀行と全株引取を折衝
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 日発小倉発電所汽罐増設工事」
    • [21]1948年12月10日、1株60円(50円払込済)で明楽工業所有の全株を引き取り役職員に配分。明楽工業内の水力系旧満電社員は翌春に大豊建設を創立
    • [22]1948年12月10日、1株60円(50円払込済)で明楽工業所有の全株を引き取り役職員に配分。明楽工業内の水力系旧満電社員は翌春に大豊建設を創立
    • [23]1949年、日発小倉発電所140トン汽罐増設工事を受注。戦後火力界で最初かつ最大のボイラー増設で同業者が競合。岡社長・白石支店長が折衝し日発九州支店長武内益祐の好意を得る。工期内に落成し感謝状
    • [24]1949年、日発小倉発電所140トン汽罐増設工事を受注。戦後火力界で最初かつ最大のボイラー増設で同業者が競合。岡社長・白石支店長が折衝し日発九州支店長武内益祐の好意を得る。工期内に落成し感謝状
    • [25]1949年、日発小倉発電所140トン汽罐増設工事を受注。戦後火力界で最初かつ最大のボイラー増設で同業者が競合。岡社長・白石支店長が折衝し日発九州支店長武内益祐の好意を得る。工期内に落成し感謝状
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 会社陣容の強化」
    • [26]小倉・木津川の工事は欠損で、見積り・予算統制の欠如が教訓に。1949〜1950年に前川和・平井新蔵・井上錦一が入社、経理組織とスタッフを強化
    • [27]小倉・木津川の工事は欠損で、見積り・予算統制の欠如が教訓に。1949〜1950年に前川和・平井新蔵・井上錦一が入社、経理組織とスタッフを強化

1951年〜火力発電所建設工事への進出と、海外工事で広げた営業規模

完成工事高は1947年度の10,242千円から1951年度には142,068千円へ増加した。1950年6月には日発砂川発電所の汽罐据付工事が決まり、これを機に北海道の工事を直営とする方針を定めた。1951年1月には札幌市に支店を開設し、初代支店長は取締役の平井新蔵氏である。日発の解体後も、北海道電力に移った砂川・江別発電所のボイラーとタービンの増設を続けて受注した。火力発電所の委託運転も収入を支え、1952年に北海道電力の御崎発電所、1953年に中部電力の清水発電所と契約を結んだ。補修で積んだ汽罐の知見を据付へ転じたことが、電力再編後の火力新設の需要を取り込む下地になったのだろう。

  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 事業の展開」
    • [28]完成工事高は1947年度10,242千円→1951年度142,068千円。1950年6月砂川発電所汽罐据付工事が決定し北海道工事を直営に。1951年1月札幌支店設置(支店長平井新蔵)。北海道電力の砂川・江別でボイラー・タービン増設を受注
    • [29]完成工事高は1947年度10,242千円→1951年度142,068千円。1950年6月砂川発電所汽罐据付工事が決定し北海道工事を直営に。1951年1月札幌支店設置(支店長平井新蔵)。北海道電力の砂川・江別でボイラー・タービン増設を受注
    • [30]完成工事高は1947年度10,242千円→1951年度142,068千円。1950年6月砂川発電所汽罐据付工事が決定し北海道工事を直営に。1951年1月札幌支店設置(支店長平井新蔵)。北海道電力の砂川・江別でボイラー・タービン増設を受注
    • [31]完成工事高は1947年度10,242千円→1951年度142,068千円。1950年6月砂川発電所汽罐据付工事が決定し北海道工事を直営に。1951年1月札幌支店設置(支店長平井新蔵)。北海道電力の砂川・江別でボイラー・タービン増設を受注
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 営業規模の拡大」
    • [32]委託運転の契約を1952年北海道電力御崎発電所、1953年中部電力清水発電所と締結。得意先は中日本重工・東洋バブコック・八幡製鉄・新三菱重工などへ拡大

1954年度、太平電業は東京電力の鶴見第二火力発電所で汽罐とタービン(66,000kw)3台の据付工事を受注した。発注元は汽罐が新三菱重工業、タービン発電機が三菱造船所で、機械建設業界でも前例のない規模である。北海道支店長の平井新蔵氏を作業所長に起用した工事は予定どおり完成し、1955年2月に東京電力から感謝状を受けた。その後も新東京火力・八戸火力・三重火力・千葉火力などで据付と計装を受注し、増設のたびに定期検査や補修も継続して受注した。完成工事高のうち発電所工事が占めた比率は1955年度の89.48%が頂点である。損益は1949〜1950年に損金を計上した後は利益を確保し、3割の普通配当を維持した。

  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 営業規模の拡大」
    • [33]1954年度東京電力鶴見第二火力の汽罐・タービン(66,000kw)3台据付を受注(汽罐は新三菱重工業、タービン発電機は三菱造船所から)。作業所長は平井新蔵、1955年2月感謝状。以後新東京・八戸・三重・千葉火力などを受注し定検・補修を継続受注
    • [34]1954年度東京電力鶴見第二火力の汽罐・タービン(66,000kw)3台据付を受注(汽罐は新三菱重工業、タービン発電機は三菱造船所から)。作業所長は平井新蔵、1955年2月感謝状。以後新東京・八戸・三重・千葉火力などを受注し定検・補修を継続受注
    • [35]1954年度東京電力鶴見第二火力の汽罐・タービン(66,000kw)3台据付を受注(汽罐は新三菱重工業、タービン発電機は三菱造船所から)。作業所長は平井新蔵、1955年2月感謝状。以後新東京・八戸・三重・千葉火力などを受注し定検・補修を継続受注
    • [36]1954年度東京電力鶴見第二火力の汽罐・タービン(66,000kw)3台据付を受注(汽罐は新三菱重工業、タービン発電機は三菱造船所から)。作業所長は平井新蔵、1955年2月感謝状。以後新東京・八戸・三重・千葉火力などを受注し定検・補修を継続受注
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(三) 海外工事」
    • [37]完成工事高中の発電所工事比率は1955年度89.48%がピーク
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「年度別損益並びに配当率」
    • [38]1949〜1950年に損金を計上したほかは利益をあげ、3割の普通配当を維持

海外工事の第1号は1950年6月、日本機械貿易を通じて受注した沖縄火力発電所の汽罐4罐の据付工事だった。九州支店長の白石竹市氏が自ら派遣人員と作業計画を決め、工事を完遂した。本格的な海外工事は1956年度のインド・カルカッタの運炭設備で、設計と電気工事一式をメーカーの安川電機製作所から、商社の第一物産経由で請け負った。安川電機製作所は創業期に資金を斡旋した安川第五郎氏が率いる会社で、これが同社との初めての取引である。国内では1956年に明治工業(横浜市鶴見)を買収し、資本金300万円の太平機械製作所を設立して汽罐や鉄骨の製作に着手した。鶴見に製造の拠点を得たことが、次の工場新設への足場になったと考えられる。

  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(三) 海外工事」
    • [39]1950年6月日本機械貿易を介し沖縄火力発電所の汽罐4罐据付を受注、白石九州支店長が派遣人員・作業計画を決定。1956年度インド・カルカッタの運炭設備(設計・電気工事、メーカー安川電機製作所、商社第一物産)を受注
    • [40]1950年6月日本機械貿易を介し沖縄火力発電所の汽罐4罐据付を受注、白石九州支店長が派遣人員・作業計画を決定。1956年度インド・カルカッタの運炭設備(設計・電気工事、メーカー安川電機製作所、商社第一物産)を受注
    • [41]1950年6月日本機械貿易を介し沖縄火力発電所の汽罐4罐据付を受注、白石九州支店長が派遣人員・作業計画を決定。1956年度インド・カルカッタの運炭設備(設計・電気工事、メーカー安川電機製作所、商社第一物産)を受注
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(四) 施設の拡充」
    • [42]安川電機は安川第五郎の主宰で初取引。以後インドのモリブル炭鉱、アラブ連合のエドフ製糖所、パキスタンの肥料工場。1956年鶴見の明治工業を買収し資本金300万円の太平機械製作所を創立
    • [43]安川電機は安川第五郎の主宰で初取引。以後インドのモリブル炭鉱、アラブ連合のエドフ製糖所、パキスタンの肥料工場。1956年鶴見の明治工業を買収し資本金300万円の太平機械製作所を創立
参考文献[28]-[43]
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 事業の展開」
    • [28]完成工事高は1947年度10,242千円→1951年度142,068千円。1950年6月砂川発電所汽罐据付工事が決定し北海道工事を直営に。1951年1月札幌支店設置(支店長平井新蔵)。北海道電力の砂川・江別でボイラー・タービン増設を受注
    • [29]完成工事高は1947年度10,242千円→1951年度142,068千円。1950年6月砂川発電所汽罐据付工事が決定し北海道工事を直営に。1951年1月札幌支店設置(支店長平井新蔵)。北海道電力の砂川・江別でボイラー・タービン増設を受注
    • [30]完成工事高は1947年度10,242千円→1951年度142,068千円。1950年6月砂川発電所汽罐据付工事が決定し北海道工事を直営に。1951年1月札幌支店設置(支店長平井新蔵)。北海道電力の砂川・江別でボイラー・タービン増設を受注
    • [31]完成工事高は1947年度10,242千円→1951年度142,068千円。1950年6月砂川発電所汽罐据付工事が決定し北海道工事を直営に。1951年1月札幌支店設置(支店長平井新蔵)。北海道電力の砂川・江別でボイラー・タービン増設を受注
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 営業規模の拡大」
    • [32]委託運転の契約を1952年北海道電力御崎発電所、1953年中部電力清水発電所と締結。得意先は中日本重工・東洋バブコック・八幡製鉄・新三菱重工などへ拡大
    • [33]1954年度東京電力鶴見第二火力の汽罐・タービン(66,000kw)3台据付を受注(汽罐は新三菱重工業、タービン発電機は三菱造船所から)。作業所長は平井新蔵、1955年2月感謝状。以後新東京・八戸・三重・千葉火力などを受注し定検・補修を継続受注
    • [34]1954年度東京電力鶴見第二火力の汽罐・タービン(66,000kw)3台据付を受注(汽罐は新三菱重工業、タービン発電機は三菱造船所から)。作業所長は平井新蔵、1955年2月感謝状。以後新東京・八戸・三重・千葉火力などを受注し定検・補修を継続受注
    • [35]1954年度東京電力鶴見第二火力の汽罐・タービン(66,000kw)3台据付を受注(汽罐は新三菱重工業、タービン発電機は三菱造船所から)。作業所長は平井新蔵、1955年2月感謝状。以後新東京・八戸・三重・千葉火力などを受注し定検・補修を継続受注
    • [36]1954年度東京電力鶴見第二火力の汽罐・タービン(66,000kw)3台据付を受注(汽罐は新三菱重工業、タービン発電機は三菱造船所から)。作業所長は平井新蔵、1955年2月感謝状。以後新東京・八戸・三重・千葉火力などを受注し定検・補修を継続受注
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(三) 海外工事」
    • [37]完成工事高中の発電所工事比率は1955年度89.48%がピーク
    • [39]1950年6月日本機械貿易を介し沖縄火力発電所の汽罐4罐据付を受注、白石九州支店長が派遣人員・作業計画を決定。1956年度インド・カルカッタの運炭設備(設計・電気工事、メーカー安川電機製作所、商社第一物産)を受注
    • [40]1950年6月日本機械貿易を介し沖縄火力発電所の汽罐4罐据付を受注、白石九州支店長が派遣人員・作業計画を決定。1956年度インド・カルカッタの運炭設備(設計・電気工事、メーカー安川電機製作所、商社第一物産)を受注
    • [41]1950年6月日本機械貿易を介し沖縄火力発電所の汽罐4罐据付を受注、白石九州支店長が派遣人員・作業計画を決定。1956年度インド・カルカッタの運炭設備(設計・電気工事、メーカー安川電機製作所、商社第一物産)を受注
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「年度別損益並びに配当率」
    • [38]1949〜1950年に損金を計上したほかは利益をあげ、3割の普通配当を維持
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(四) 施設の拡充」
    • [42]安川電機は安川第五郎の主宰で初取引。以後インドのモリブル炭鉱、アラブ連合のエドフ製糖所、パキスタンの肥料工場。1956年鶴見の明治工業を買収し資本金300万円の太平機械製作所を創立
    • [43]安川電機は安川第五郎の主宰で初取引。以後インドのモリブル炭鉱、アラブ連合のエドフ製糖所、パキスタンの肥料工場。1956年鶴見の明治工業を買収し資本金300万円の太平機械製作所を創立

出典・参考

15件
出典・参考
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 設立」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 創業」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 満洲国の終末」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 会社目的の変更」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 営業の基本方針」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(三) 電産に関する問題」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(四) 金融の苦心」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(五) 明楽工業との訣別」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 日発小倉発電所汽罐増設工事」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 会社陣容の強化」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(一) 事業の展開」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(二) 営業規模の拡大」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(三) 海外工事」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「年度別損益並びに配当率」
  • 十五年の歩み(太平電業、1963)「(四) 施設の拡充」

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