ライト工業:上條防水工業所の創業とモルタル吹付法面保護の初施工
1943年〜秋田県花輪町で始めた坑道防水と、青森へ移った東北防水工業所
上條唯雄氏は1943年7月、秋田県花輪町で上條防水工業所を創業した。上條唯雄氏は1888年、長野県塩尻町の神官の家の生まれである。上條唯雄氏は1943年4月、防水工事会社のタケイ防水を社員2人とともに退社していた。タケイ防水は戦前に中国・朝鮮・台湾にも支店を置き、社員は1,000人を超す規模だった。花輪町を創業地に選んだのは、同行した1人が同町の出身で、近くに三菱鉱業の尾去沢銅山があったためである。銅は軍需物資として採掘が続いたものの、坑道の防水工事は見込みを下回り、上條唯雄氏らは銅山の雑役も引き受けた。樺太で寒冷地の防水技術を身につけた上條唯雄氏は、その技術を使える現場として鉱山の坑道に目を付けたとみられる。
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [1]昭和18年7月、上條防水工業所が秋田県花輪町で創業
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 二人の創業者
- [2]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- [3]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- [4]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- [5]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- [6]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
1946年4月、タケイ防水の青島営業所長だった佐丸芳治氏が上條防水工業所に加わった。佐丸芳治氏は上條唯雄氏の妻の兄にあたり、1945年12月に青島から引き揚げ、翌年1月にタケイ防水へ復職していた。合流の時点で上條唯雄氏は58歳、佐丸芳治氏は36歳だった。上條唯雄氏は手紙で再三参加を求め、佐丸芳治氏は東京から花輪町へ移った。同じ1946年春、上條防水工業所は青森市浦町へ拠点を移し、社名を東北防水工業所に改めた。佐丸芳治氏は青森を選んだ理由について『青森なら秋田へも行けるし、北海道へも行けて仕事の幅がひろげられる地の利がある』と回想した。鉱山町の花輪では防水の需要が限られ、東北各地と北海道の双方に出られる青森へ拠点を移したと推察される。
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 青森への移転
- [7]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- [8]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- [9]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- [10]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- [12]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [11]昭和21年4月、上條防水工業所が青森市浦町に進出し東北防水工業所に社名変更
青森市浦町に移った1946年の秋、東北防水工業所は青森と秋田の国鉄保線区へ、防水の仕事を求めるはがきを送った。秋田保線区の係官2人が尾去沢まで訪ねてくるほど、国鉄の反応は大きかった。国鉄では明治期に築いたトンネルの傷みが戦中・戦後に進み、漏水を止める技術者を探していた。1947年春、東北防水工業所は初の国鉄工事として奥羽本線碇ケ関トンネルの漏水防止を請け負った。当時はセメントの確保が受注の最大の条件で、国内の生産量は1940年の630万トンから1947年に130万トン弱へ減っていた。国鉄の工事ならセメントを入手しやすく、国鉄のトンネル防水に受注を絞ることが小さな工業所の資材確保策になったと考えられる。
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [13]東北防水工業所の青森市浦町進出は昭和21年4月
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 国鉄のトンネル防水
- [14]1946年秋、国鉄の青森・秋田保線区へはがきで売り込み、秋田保線区の係官2人が尾去沢を訪問。国鉄は明治期トンネルの傷みで漏水防止技術者を探していた。1947年春に初の国鉄工事(奥羽本線碇ケ関トンネル漏水防止)。セメント生産は1940年630万トン→1947年130万トン弱、国鉄工事はセメント入手に便宜があった(佐丸回想)
- [15]1946年秋、国鉄の青森・秋田保線区へはがきで売り込み、秋田保線区の係官2人が尾去沢を訪問。国鉄は明治期トンネルの傷みで漏水防止技術者を探していた。1947年春に初の国鉄工事(奥羽本線碇ケ関トンネル漏水防止)。セメント生産は1940年630万トン→1947年130万トン弱、国鉄工事はセメント入手に便宜があった(佐丸回想)
- [16]1946年秋、国鉄の青森・秋田保線区へはがきで売り込み、秋田保線区の係官2人が尾去沢を訪問。国鉄は明治期トンネルの傷みで漏水防止技術者を探していた。1947年春に初の国鉄工事(奥羽本線碇ケ関トンネル漏水防止)。セメント生産は1940年630万トン→1947年130万トン弱、国鉄工事はセメント入手に便宜があった(佐丸回想)
- [17]1946年秋、国鉄の青森・秋田保線区へはがきで売り込み、秋田保線区の係官2人が尾去沢を訪問。国鉄は明治期トンネルの傷みで漏水防止技術者を探していた。1947年春に初の国鉄工事(奥羽本線碇ケ関トンネル漏水防止)。セメント生産は1940年630万トン→1947年130万トン弱、国鉄工事はセメント入手に便宜があった(佐丸回想)
参考文献[1]-[17]
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [1]昭和18年7月、上條防水工業所が秋田県花輪町で創業
- [11]昭和21年4月、上條防水工業所が青森市浦町に進出し東北防水工業所に社名変更
- [13]東北防水工業所の青森市浦町進出は昭和21年4月
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 二人の創業者
- [2]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- [3]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- [4]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- [5]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- [6]上條唯雄は1943年4月にタケイ防水を社員2人と退社し、同年7月に花輪町で上條防水工業所を開いた。タケイ防水は中国・朝鮮・台湾に支店、社員1,000人超。花輪町を選んだ理由は同行者の出身地で尾去沢銅山(三菱鉱業)の坑道防水を見込んだため。坑道防水は期待より少なく銅山の雑役もした。上條は樺太で寒冷地防水技術を習得。上條は1888年長野県塩尻町の神官の長男
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 青森への移転
- [7]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- [8]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- [9]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- [10]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- [12]佐丸芳治は1943年4月からタケイ防水青島営業所長、1945年12月に引き揚げ、1946年1月に同社へ復職。妹が上條唯雄と結婚。上條の手紙を受け1946年4月に花輪へ合流。1946年春に青森市浦町へ進出し東北防水工業所と改称。青森を選んだ理由を秋田・北海道へ出られる地の利と回想。合流時、上條58歳・佐丸36歳
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 国鉄のトンネル防水
- [14]1946年秋、国鉄の青森・秋田保線区へはがきで売り込み、秋田保線区の係官2人が尾去沢を訪問。国鉄は明治期トンネルの傷みで漏水防止技術者を探していた。1947年春に初の国鉄工事(奥羽本線碇ケ関トンネル漏水防止)。セメント生産は1940年630万トン→1947年130万トン弱、国鉄工事はセメント入手に便宜があった(佐丸回想)
- [15]1946年秋、国鉄の青森・秋田保線区へはがきで売り込み、秋田保線区の係官2人が尾去沢を訪問。国鉄は明治期トンネルの傷みで漏水防止技術者を探していた。1947年春に初の国鉄工事(奥羽本線碇ケ関トンネル漏水防止)。セメント生産は1940年630万トン→1947年130万トン弱、国鉄工事はセメント入手に便宜があった(佐丸回想)
- [16]1946年秋、国鉄の青森・秋田保線区へはがきで売り込み、秋田保線区の係官2人が尾去沢を訪問。国鉄は明治期トンネルの傷みで漏水防止技術者を探していた。1947年春に初の国鉄工事(奥羽本線碇ケ関トンネル漏水防止)。セメント生産は1940年630万トン→1947年130万トン弱、国鉄工事はセメント入手に便宜があった(佐丸回想)
- [17]1946年秋、国鉄の青森・秋田保線区へはがきで売り込み、秋田保線区の係官2人が尾去沢を訪問。国鉄は明治期トンネルの傷みで漏水防止技術者を探していた。1947年春に初の国鉄工事(奥羽本線碇ケ関トンネル漏水防止)。セメント生産は1940年630万トン→1947年130万トン弱、国鉄工事はセメント入手に便宜があった(佐丸回想)
1947年〜モルタル急結液のライト液と、仙台に設けた株式会社ライト防水工業所
1947年、青森にいた上條唯雄氏と佐丸芳治氏は、モルタルを短時間で硬化させる急結液を自前で配合した。水の湧くトンネルの壁に防水層を作るには、塗った直後に固まるモルタルが欠かせなかった。難所は硬化の速さの加減で、遅ければ湧水に洗い流され、速すぎれば塗る前にこて板の上で固まった。配合の試作は洗面器で繰り返し、家族も原料の手配と練り混ぜに加わった。原料の約90%を占める珪酸ソーダは入手が難しく、東北防水工業所は国鉄工事の証明を示して東京の卸店から仕入れた。性能試験を引き受けた東北大学の教授がこの液を「ライト(光)液」と名付け、社名のライトはこの命名に由来する。戦前に出回った急結液は、戦後の資材不足でほぼ途絶えていた。自前の配合を持ったことが、トンネル防水での差別化要因になったのだろう。
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [18]昭和22年、急結液を開発
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 急結剤の開発
- [19]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [20]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [21]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [22]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [23]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [24]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
1948年9月、東北防水工業所は本社を仙台市元寺小路へ移し、同月24日に株式会社ライト防水工業所へ組織を改めた。資本金は100万円で、社長に上條唯雄氏、専務に佐丸芳治氏が就任した。佐丸芳治氏は仙台を選んだ理由として、仙台鉄道管理局が東北の国鉄の親局で、東北地方の工事計画を予算化していた点を挙げた。改組の事務要員として、シベリア抑留から帰国した長友貴氏が入社した。完成工事高は第1期(1948年10月〜1949年1月)に200万円だった。第2期には1,200万円、第3期(1950年2月〜1951年1月)には3,200万円へ増えた。発注の予算を握る鉄道管理局の地元に本社を置いたことで、東北各線の工事を続けて受注しやすくなったと思われる。
- 有価証券報告書【沿革】
- [25]1948年9月、株式会社ライト防水工業所を宮城県仙台市で設立
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 仙台への進出
- [26]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- [27]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- [28]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- [29]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- [30]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
ライト防水工業所は1949年10月、建設業法に基づく建設大臣登録(イ)233号を受けた。同年5月に成立した建設業法により、土木建築請負業という従来の呼び名は建設業者へ改まった。建設業の所管官庁は従来、商工省化学局無機課だった。ライト防水工業所は1949年に新潟営業所を開設し、本社を仙台市東二番町の新築社屋へ移した。請負地域は東北本線・奥羽本線・羽越本線の沿線から、北海道と関西へ広がった。トンネル防水には同業者がおらず、他社が入札で初めて受注したのは1952年の長野鉄道管理局の工事だった。各地の鉄道管理局から工事を請け負うには、府県を越えて営業できる大臣登録が欠かせなかった可能性が高い。
- 有価証券報告書【沿革】
- [31]1949年10月、建設業法による建設大臣登録(イ)233号を登録
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 工事請負地域の拡大
- [32]1949年5月に建設業法が成立し、ライト防水工業所は同年10月に大臣登録(イ)233号。従来の建設業の所管は商工省化学局無機課。1949年に新潟営業所を新設、春に本社を東二番町の新築社屋へ移転。請負地域は東北各線から北海道・関西へ拡大
- [33]1949年5月に建設業法が成立し、ライト防水工業所は同年10月に大臣登録(イ)233号。従来の建設業の所管は商工省化学局無機課。1949年に新潟営業所を新設、春に本社を東二番町の新築社屋へ移転。請負地域は東北各線から北海道・関西へ拡大
- [34]1949年5月に建設業法が成立し、ライト防水工業所は同年10月に大臣登録(イ)233号。従来の建設業の所管は商工省化学局無機課。1949年に新潟営業所を新設、春に本社を東二番町の新築社屋へ移転。請負地域は東北各線から北海道・関西へ拡大
- [35]1949年5月に建設業法が成立し、ライト防水工業所は同年10月に大臣登録(イ)233号。従来の建設業の所管は商工省化学局無機課。1949年に新潟営業所を新設、春に本社を東二番町の新築社屋へ移転。請負地域は東北各線から北海道・関西へ拡大
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 国鉄のトンネル防水
- [36]トンネル防水は全国で同業者がなく随意契約、初めて入札で相手が受注したのは1952年の長野鉄道管理局(長友回想)
参考文献[18]-[36]
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [18]昭和22年、急結液を開発
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 急結剤の開発
- [19]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [20]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [21]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [22]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [23]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- [24]上條・佐丸が洗面器で配合を重ね急結液を開発(本文は昭和23年、年表は昭和22年)。急結力の調節が難所。主成分約90%の珪酸ソーダは入手難で、国鉄工事の証明を持ち東京の卸店で調達。東北大教授が『ライト(光)液』と命名し社名の由来に。戦前の急結液は戦後ほぼ途絶
- 有価証券報告書【沿革】
- [25]1948年9月、株式会社ライト防水工業所を宮城県仙台市で設立
- [31]1949年10月、建設業法による建設大臣登録(イ)233号を登録
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 仙台への進出
- [26]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- [27]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- [28]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- [29]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- [30]1948年9月に仙台市元寺小路へ移転し同月24日に株式会社化、資本金100万円、社長上條唯雄・専務佐丸芳治。仙台鉄道管理局が東北の親局で工事計画を予算化していたため(佐丸回想)。長友貴が改組の事務要員で入社。完工高は第1期200万円・第2期1,200万円・第3期3,200万円
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 工事請負地域の拡大
- [32]1949年5月に建設業法が成立し、ライト防水工業所は同年10月に大臣登録(イ)233号。従来の建設業の所管は商工省化学局無機課。1949年に新潟営業所を新設、春に本社を東二番町の新築社屋へ移転。請負地域は東北各線から北海道・関西へ拡大
- [33]1949年5月に建設業法が成立し、ライト防水工業所は同年10月に大臣登録(イ)233号。従来の建設業の所管は商工省化学局無機課。1949年に新潟営業所を新設、春に本社を東二番町の新築社屋へ移転。請負地域は東北各線から北海道・関西へ拡大
- [34]1949年5月に建設業法が成立し、ライト防水工業所は同年10月に大臣登録(イ)233号。従来の建設業の所管は商工省化学局無機課。1949年に新潟営業所を新設、春に本社を東二番町の新築社屋へ移転。請負地域は東北各線から北海道・関西へ拡大
- [35]1949年5月に建設業法が成立し、ライト防水工業所は同年10月に大臣登録(イ)233号。従来の建設業の所管は商工省化学局無機課。1949年に新潟営業所を新設、春に本社を東二番町の新築社屋へ移転。請負地域は東北各線から北海道・関西へ拡大
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 国鉄のトンネル防水
- [36]トンネル防水は全国で同業者がなく随意契約、初めて入札で相手が受注したのは1952年の長野鉄道管理局(長友回想)
1950年〜仙台の鉄道法面に吹き付けたモルタルと、東京へ移したライト工業の本店
1950年、ライト防水工業所は国鉄仙石線の松島付近で、鉄道の切取り斜面をモルタルで覆う初の法面被覆工事を施工した。使った吹付機は、1948年春に青森で開発を始め、同年秋に1号機を仕上げたモルタルガンだった。従来の乾式吹付は空練りのセメントと骨材を噴き出し、ノズルで水を加えたため、水とセメントの比率が不均一になった。トンネル内で乾式を使うと粉塵が立ちこめて作業にならず、ライト防水工業所は練ったモルタルを吹き付ける湿式の吹付機を自ら開発した。湿式モルタル吹付工法の国内での開発は、1950年ごろだった。トンネル防水のために作った吹付機を屋外の斜面に転用したことが、のちに事業の比重を法面保護へ移す起点になったと読み取れる。
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [37]昭和23年春にモルタルガン開発開始、秋に1号機完成。昭和25年(第3期)に初の法面被覆工事(仙石線松島付近の鉄道法面)
- [38]昭和23年春にモルタルガン開発開始、秋に1号機完成。昭和25年(第3期)に初の法面被覆工事(仙石線松島付近の鉄道法面)
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 法面への吹付
- [39]1948年春、東北防水工業所時代にモルタルガンの開発に着手。乾式吹付はセメントが風で飛び水セメント比が不均一、トンネル内では粉塵で作業不能。湿式モルタル吹付工法は1950年ころ国内で開発(『日本土木史』)。法面被覆は1950年ごろ国鉄仙石線松島付近の鉄道法面が第1号
- [40]1948年春、東北防水工業所時代にモルタルガンの開発に着手。乾式吹付はセメントが風で飛び水セメント比が不均一、トンネル内では粉塵で作業不能。湿式モルタル吹付工法は1950年ころ国内で開発(『日本土木史』)。法面被覆は1950年ごろ国鉄仙石線松島付近の鉄道法面が第1号
- [41]1948年春、東北防水工業所時代にモルタルガンの開発に着手。乾式吹付はセメントが風で飛び水セメント比が不均一、トンネル内では粉塵で作業不能。湿式モルタル吹付工法は1950年ころ国内で開発(『日本土木史』)。法面被覆は1950年ごろ国鉄仙石線松島付近の鉄道法面が第1号
1950年、ライト防水工業所は急結液「ライト液」の特許を取得した。出願は、性能試験を依頼した東北大学の教授の勧めによるものだった。特許を取得した第3期の完成工事高は、32,263千円に達した。社員は班長と下請の職人5、6人を率いてライト液を携え、各地の国鉄トンネルへ出向いた。社員約40人の陣容で、第4期(1951年2月〜1952年1月)の完成工事高は4,360万円と前期比36%増えた。続く第5期(1952年2月〜1953年1月)には9,270万円と、前期の2倍を超えた。トンネル防水に競争業者が現れる前に配合を特許で押さえたことが、後発の参入を抑える効果を持ったとうかがえる。
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [42]昭和25年(第3期)、急結液(ライト液)特許獲得。第3期完成工事高32,263千円
- [44]昭和25年(第3期)、急結液(ライト液)特許獲得。第3期完成工事高32,263千円
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) ライト液の特許
- [43]東北大教授の勧めで1950年に急結液の特許を取得。社員は班長と下請職人5、6人を率いライト液を持って全国の現場へ。社員約40人で第4期完工高4,360万円(前期比36%増)、第5期9,270万円(前期比2倍超)。競争業者はまだ現れず
- [45]東北大教授の勧めで1950年に急結液の特許を取得。社員は班長と下請職人5、6人を率いライト液を持って全国の現場へ。社員約40人で第4期完工高4,360万円(前期比36%増)、第5期9,270万円(前期比2倍超)。競争業者はまだ現れず
- [46]東北大教授の勧めで1950年に急結液の特許を取得。社員は班長と下請職人5、6人を率いライト液を持って全国の現場へ。社員約40人で第4期完工高4,360万円(前期比36%増)、第5期9,270万円(前期比2倍超)。競争業者はまだ現れず
- [47]東北大教授の勧めで1950年に急結液の特許を取得。社員は班長と下請職人5、6人を率いライト液を持って全国の現場へ。社員約40人で第4期完工高4,360万円(前期比36%増)、第5期9,270万円(前期比2倍超)。競争業者はまだ現れず
ライト防水工業所は1951年、商号をライト工業に改め、本店を仙台から東京都千代田区へ移した。資本金は150万円から500万円へ増資し、新しい本社を九段四丁目6番地に置いた。東京にはすでに1950年1月に新宿区市谷田町の東京支店を設けていた。同年7月に名古屋営業所を、1951年2月に大阪支店を開設し、関西の山陰線にも工事が及んでいた。1952年4月には秋田営業所の開設。社長の上條唯雄氏と専務の佐丸芳治氏は、商号から防水の語を外し、国鉄本社のある東京へ本拠を移した。防水の語を外した商号は、仙石線で始めた法面の吹付を含め、トンネル防水以外の工事も請け負う会社として名乗るためだったと解される。
- 有価証券報告書【沿革】
- [48]1951年1月、ライト工業株式会社に商号変更し本店を東京都千代田区に移転
- [53]1951年1月、ライト工業株式会社に商号変更し本店を東京都千代田区に移転
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 東京への進出
- [49]本文は1951年3月に本社を仙台から東京へ移し社名をライト工業に改め、資本金を150万円から500万円に増資、新本社は九段四丁目6番地。1950年7月に名古屋営業所、翌年2月に大阪支店を開設、関西第1号は山陰線城崎の現場。1952年4月に秋田営業所開設
- [51]本文は1951年3月に本社を仙台から東京へ移し社名をライト工業に改め、資本金を150万円から500万円に増資、新本社は九段四丁目6番地。1950年7月に名古屋営業所、翌年2月に大阪支店を開設、関西第1号は山陰線城崎の現場。1952年4月に秋田営業所開設
- [52]本文は1951年3月に本社を仙台から東京へ移し社名をライト工業に改め、資本金を150万円から500万円に増資、新本社は九段四丁目6番地。1950年7月に名古屋営業所、翌年2月に大阪支店を開設、関西第1号は山陰線城崎の現場。1952年4月に秋田営業所開設
- [54]本文は1951年3月に本社を仙台から東京へ移し社名をライト工業に改め、資本金を150万円から500万円に増資、新本社は九段四丁目6番地。1950年7月に名古屋営業所、翌年2月に大阪支店を開設、関西第1号は山陰線城崎の現場。1952年4月に秋田営業所開設
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [50]昭和25年1月、東京支店開設(新宿区市ケ谷田町)
参考文献[37]-[54]
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- [37]昭和23年春にモルタルガン開発開始、秋に1号機完成。昭和25年(第3期)に初の法面被覆工事(仙石線松島付近の鉄道法面)
- [38]昭和23年春にモルタルガン開発開始、秋に1号機完成。昭和25年(第3期)に初の法面被覆工事(仙石線松島付近の鉄道法面)
- [42]昭和25年(第3期)、急結液(ライト液)特許獲得。第3期完成工事高32,263千円
- [44]昭和25年(第3期)、急結液(ライト液)特許獲得。第3期完成工事高32,263千円
- [50]昭和25年1月、東京支店開設(新宿区市ケ谷田町)
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 法面への吹付
- [39]1948年春、東北防水工業所時代にモルタルガンの開発に着手。乾式吹付はセメントが風で飛び水セメント比が不均一、トンネル内では粉塵で作業不能。湿式モルタル吹付工法は1950年ころ国内で開発(『日本土木史』)。法面被覆は1950年ごろ国鉄仙石線松島付近の鉄道法面が第1号
- [40]1948年春、東北防水工業所時代にモルタルガンの開発に着手。乾式吹付はセメントが風で飛び水セメント比が不均一、トンネル内では粉塵で作業不能。湿式モルタル吹付工法は1950年ころ国内で開発(『日本土木史』)。法面被覆は1950年ごろ国鉄仙石線松島付近の鉄道法面が第1号
- [41]1948年春、東北防水工業所時代にモルタルガンの開発に着手。乾式吹付はセメントが風で飛び水セメント比が不均一、トンネル内では粉塵で作業不能。湿式モルタル吹付工法は1950年ころ国内で開発(『日本土木史』)。法面被覆は1950年ごろ国鉄仙石線松島付近の鉄道法面が第1号
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) ライト液の特許
- [43]東北大教授の勧めで1950年に急結液の特許を取得。社員は班長と下請職人5、6人を率いライト液を持って全国の現場へ。社員約40人で第4期完工高4,360万円(前期比36%増)、第5期9,270万円(前期比2倍超)。競争業者はまだ現れず
- [45]東北大教授の勧めで1950年に急結液の特許を取得。社員は班長と下請職人5、6人を率いライト液を持って全国の現場へ。社員約40人で第4期完工高4,360万円(前期比36%増)、第5期9,270万円(前期比2倍超)。競争業者はまだ現れず
- [46]東北大教授の勧めで1950年に急結液の特許を取得。社員は班長と下請職人5、6人を率いライト液を持って全国の現場へ。社員約40人で第4期完工高4,360万円(前期比36%増)、第5期9,270万円(前期比2倍超)。競争業者はまだ現れず
- [47]東北大教授の勧めで1950年に急結液の特許を取得。社員は班長と下請職人5、6人を率いライト液を持って全国の現場へ。社員約40人で第4期完工高4,360万円(前期比36%増)、第5期9,270万円(前期比2倍超)。競争業者はまだ現れず
- 有価証券報告書【沿革】
- [48]1951年1月、ライト工業株式会社に商号変更し本店を東京都千代田区に移転
- [53]1951年1月、ライト工業株式会社に商号変更し本店を東京都千代田区に移転
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 東京への進出
- [49]本文は1951年3月に本社を仙台から東京へ移し社名をライト工業に改め、資本金を150万円から500万円に増資、新本社は九段四丁目6番地。1950年7月に名古屋営業所、翌年2月に大阪支店を開設、関西第1号は山陰線城崎の現場。1952年4月に秋田営業所開設
- [51]本文は1951年3月に本社を仙台から東京へ移し社名をライト工業に改め、資本金を150万円から500万円に増資、新本社は九段四丁目6番地。1950年7月に名古屋営業所、翌年2月に大阪支店を開設、関西第1号は山陰線城崎の現場。1952年4月に秋田営業所開設
- [52]本文は1951年3月に本社を仙台から東京へ移し社名をライト工業に改め、資本金を150万円から500万円に増資、新本社は九段四丁目6番地。1950年7月に名古屋営業所、翌年2月に大阪支店を開設、関西第1号は山陰線城崎の現場。1952年4月に秋田営業所開設
- [54]本文は1951年3月に本社を仙台から東京へ移し社名をライト工業に改め、資本金を150万円から500万円に増資、新本社は九段四丁目6番地。1950年7月に名古屋営業所、翌年2月に大阪支店を開設、関西第1号は山陰線城崎の現場。1952年4月に秋田営業所開設
出典・参考
11件
- 有価証券報告書【沿革】
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 年表
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 二人の創業者
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 青森への移転
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 国鉄のトンネル防水
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 急結剤の開発
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 仙台への進出
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 工事請負地域の拡大
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 法面への吹付
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) ライト液の特許
- 調和を求めて ライト工業の三十五年(1978) 東京への進出