第2章 年〜年

安藤・間:黒部ダムの竣工と建築への主力移行

1956年〜所得倍増の波に合わせた一挙増資と東証二部への上場

佐久間に続いて、間組は電源開発の大型現場を次々に引き受けた。1956年6月着手の黒部川第四発電所は世界第2位のアーチダムとなり、アトキンソン社の技術を再び導入した御母衣ロックフィルダムは44か月で完成している。1957年10月には日本初の中空重力式として井川発電所が完成した。土木にとどまらず、1959年8月には名古屋城の復元工事が竣工し、神部社長は会津鶴ヶ城の復元でも自ら指導にあたっている。だが1960年に池田勇人内閣が国民所得倍増計画を掲げると、建設需要の中心は太平洋ベルト地帯の臨海コンビナートと大都市の改造へ移り、水力から火力・石油・原子力へのエネルギー転換政策もそこへ重なった。

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1956年6月着手の黒部川第四発電所は世界第2位のアーチダム
    • [2]御母衣ロックフィルダムはアトキンソン社の技術を導入し44か月で完成
    • [3]井川発電所は日本初の中空重力式で1957年10月に完成
  • 経済時代(経済時代社, 1972)
    • [4]1959年8月 名古屋城復元工事が竣工、会津鶴ヶ城の復元でも自ら指導
  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [5]池田内閣の所得倍増政策のもと、太平洋ベルト地帯の臨海コンビナート型工業地帯の形成と都市改造が急速に進んだ
    • [6]水力発電から火力へ、石炭から石油へ、さらに原子力へのエネルギー転換政策が本格化した

1960年12月8日の取締役会で、間組は180万株だった株式発行総数を500万株へ引き上げることを決めた。増資の理由を説明した社内資料は、銀行からの借入金が全額固定資産へ投入され現場の工事資金には回っていないと分析し、建築工事の比重が高まるほど未収金は積み上がり、金融の緩衝帯を欠いた状態にあった。是正の手段として選ばれたのが、一部株式公開による増資であった。1961年2月の定時株主総会で承認されると、わずか3か月後の6月には額面を100円から50円へ改めたうえで発行総数を4000万株まで広げることを決議する。払込は1962年11月の公募6000千株を1株400円で行い、資本金は15億円となった。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [7]1960年12月8日の取締役会で株式発行総数を180万株から500万株へ増やすことを決定
    • [8]増資理由書は借入金が全額固定資産に投入され工事資金に回っていないと分析
    • [9]建築工事の比重増大で未収金の増大は避けられず、金融の緩衝帯がないと指摘
    • [10]是正策として一部株式公開による増資で財務比率を是正する方針を採った
    • [11]1961年2月19日の第30回定時株主総会で増資計画を承認、3月15日付で実施
    • [12]1961年6月9日の取締役会で額面を100円から50円へ改め発行総数を4000万株とすることを決定
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
    • [13]1962年11月 公募6,000千株を1株400円で発行し資本金は15億円

1962年12月1日、間組は東京証券取引所市場第二部へ上場した。上場時点では土木工事で業界第3位、建設工事全体では第10位に位置している。1962年9月期の完成工事高は土木が62.4%、建築が37.6%で、土木の内訳は水力ダムが48.3%、港湾埋立が12.7%、道路が11.3%を占めた。受注先は電力会社が60.3%、官庁が25.6%と、公共・準公共の発注に支えられている。手持工事高は約630億円で前期より20%増えていた。株式では、子会社の昭和実栄が1961年10月時点で発行1000万株のうち283万5480株、28.3%を持つ筆頭株主となり、神部社長自身も162万株を保有していた。受注の6割を電力会社という1業種に預けた構造は、エネルギー転換が進めばそのまま受注の細りに変わる。

  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
    • [14]1962年12月1日 東京証券取引所市場第二部へ上場
    • [15]上場時点で土木工事は業界第3位、建設工事全体で第10位(建設省調べ)
    • [16]1962年9月期の完成工事高は土木62.4%・建築37.6%
    • [17]土木の内訳は水力ダム48.3%・港湾埋立12.7%・道路11.3%
    • [18]土木の受注先は電力会社60.3%・官庁25.6%
    • [19]1962年9月期の手持工事高は約630億円、前期比20%増
    • [21]1962年9月末の大株主は昭和実栄203万株・神部満之助162万株
  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [20]昭和実栄は1961年10月19日現在で283万5480株(1000万株中28.3%)をもつ筆頭株主
参考文献[1]-[21]
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1956年6月着手の黒部川第四発電所は世界第2位のアーチダム
    • [2]御母衣ロックフィルダムはアトキンソン社の技術を導入し44か月で完成
    • [3]井川発電所は日本初の中空重力式で1957年10月に完成
  • 経済時代(経済時代社, 1972)
    • [4]1959年8月 名古屋城復元工事が竣工、会津鶴ヶ城の復元でも自ら指導
  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [5]池田内閣の所得倍増政策のもと、太平洋ベルト地帯の臨海コンビナート型工業地帯の形成と都市改造が急速に進んだ
    • [6]水力発電から火力へ、石炭から石油へ、さらに原子力へのエネルギー転換政策が本格化した
    • [7]1960年12月8日の取締役会で株式発行総数を180万株から500万株へ増やすことを決定
    • [8]増資理由書は借入金が全額固定資産に投入され工事資金に回っていないと分析
    • [9]建築工事の比重増大で未収金の増大は避けられず、金融の緩衝帯がないと指摘
    • [10]是正策として一部株式公開による増資で財務比率を是正する方針を採った
    • [11]1961年2月19日の第30回定時株主総会で増資計画を承認、3月15日付で実施
    • [12]1961年6月9日の取締役会で額面を100円から50円へ改め発行総数を4000万株とすることを決定
    • [20]昭和実栄は1961年10月19日現在で283万5480株(1000万株中28.3%)をもつ筆頭株主
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
    • [13]1962年11月 公募6,000千株を1株400円で発行し資本金は15億円
    • [14]1962年12月1日 東京証券取引所市場第二部へ上場
    • [15]上場時点で土木工事は業界第3位、建設工事全体で第10位(建設省調べ)
    • [16]1962年9月期の完成工事高は土木62.4%・建築37.6%
    • [17]土木の内訳は水力ダム48.3%・港湾埋立12.7%・道路11.3%
    • [18]土木の受注先は電力会社60.3%・官庁25.6%
    • [19]1962年9月期の手持工事高は約630億円、前期比20%増
    • [21]1962年9月末の大株主は昭和実栄203万株・神部満之助162万株

1963年〜薫風工事から新宿副都心への受注分野の入れ替え

1963年4月22日、間組は皇居正門鉄橋の架替下部工事を6008万円で落札した。奇しくもこの日は創業者間猛馬氏の37回忌にあたっている。神部社長はこの工事を機に「薫風」の2字を重要工事の出張所や作業所へ冠し始め、名づけは1966年まで及んだ。社員名簿から拾える12か所の内訳は、建築4、水力発電ダム1、多目的ダム1、火力発電所1、原子力発電所1、岸壁1、ドック1、高速道路1、新幹線1である。そこには日立造船ビルでの大規模なイコス基礎工法、東名高速道路都夫良野の長大トンネル、間組初の原子力発電所工事となった福島原子力発電所が含まれた。1966年9月期には完工高に占める建築の比率が53%となり、初めて土木を上回っている。名づけが並べた12か所は、そのまま受注分野の入れ替えを写していた。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [22]1963年4月22日 皇居正門鉄橋架替下部工事を6008万円で入札受注
    • [23]二重橋工事の受注日は創業者間猛馬の37回忌にあたった
    • [24]神部社長は重要工事の出張所・工事部・作業所に「薫風」の2字を冠し、1966年まで続いた
    • [25]薫風工事12か所の内訳は建築4・水力発電ダム1・多目的ダム1・火力発電所1・原子力発電所1・岸壁1・ドック1・高速道路1・新幹線1
    • [26]日立造船ビルで初めてイコス基礎工法をビル工事へ大規模適用、東名高速都夫良野は初の高速道路長大トンネル、福島原子力発電所は間組初の原発工事
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [27]1966年9月期 完工高の建築比率53%で初めて土木を上回る

新宿民衆駅を軸に、間組は淀橋地下給水場、西口地下広場、中央公園、三越新宿支店、紀伊國屋ビルを一括して手がけた。東京都・営団地下鉄・国鉄・民間資本が一体となって進めた街づくりの一環である。高度成長期の同社にとって、これら新宿副都心の建設と新宿駅まわりの工事が大きな節目となった。東京オリンピックに向けては、地下鉄日比谷駅、首都高速道路の本町駐車場と竹橋工区、NHK放送センター、羽田-浜松町間のモノレールの工事に加わり、東海道新幹線や名神・東名高速道路の工事にも参加した。海外ではベトナムの発電所、タイの鉄道、ラオスのナムグム・ダムを受注した。年間完工高は約531億円に達している。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [28]新宿民衆駅を中心に淀橋地下給水場・西口地下広場・中央公園・三越新宿支店・紀伊國屋ビルなどを総合的に施工
    • [29]新宿副都心建設と新宿駅周辺工事は間組にとって画期的な事業展開となった
    • [30]地下鉄日比谷駅・首都高速道路本町駐車場と竹橋工区・NHK放送センター・羽田-浜松町間モノレールに参入
    • [31]東海道新幹線工事や名神高速道路・東名高速道路にも参加
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [32]海外はベトナムの発電所・タイの鉄道・ラオスのナムグム・ダムを受注
    • [33]年間完工高は約531億円

神部社長の後を継いだ飯田房太郎社長は、1971年度から5年間の「中期展望」を立て、「躍進する間組」を掲げた。計画発表の翌年から2年間の伸びは著しく、受注高は2000億円を突破し、完工高も1974年度に2000億円へ達する。利益金の伸びはさらに大きく、1971年度から3年続けて40%以上伸びて、1973年度には1970年度の3倍にあたる42億円となった。この間の1974年には、東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部へ上場している。飯田社長は計画の結論部分で民間デベロッパーへの進出をうたい、建設にともなう総合企画と開発の総合コンサルタント業務を担える「総合デベロッパー」への転身を社の課題に据えた。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [34]飯田房太郎社長は「わが社の中期展望 昭和46~昭和50年」を策定し「躍進する間組」を掲げた
    • [35]計画発表の翌1972年度から2年間の躍進が著しく、受注高は2000億円を突破、完工高も1974年度に2000億円を達成
    • [36]利益金は1971年度から年々40%以上の伸びを3年間持続し1973年度に42億円(1970年度の3倍)
    • [38]中期展望の結論部分で民間デベロッパーへの進出をうたい、総合企画と開発の総合コンサルタント業務を担う「総合デベロッパー」への転身を課題とした
  • 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
    • [37]1974年 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部へ上場

1974年には受注が伸びなくなり、利益金は前年割れに転じた。引き金は1973年10月の石油ショックで、計画はその直撃を受けた。最終年度の1975年度には、受注高65%、完工高90%、利益金68%という達成率に終わった。1974年10月の第2次中期展望では年平均成長率の目標を20%台から10%台に引き下げて出直した。それでも目標年次の1980年度の達成率は、受注高48%、施工高56%、完工高65%であった。さらに1974年12月にはマレーシアのテメンゴールダムの現場がゲリラに襲撃され、翌1975年2月には東京の本店ビルの海外工事局と電算部が爆破されて被害総額は10億円以上に達する。1975年5月8日、病床にあった飯田社長は入院先で急逝した。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [39]1973年10月の石油ショックで1974年に受注率の伸びが止まり、利益金の伸びはマイナスに転じた
    • [40]中期展望最終年度1975年度の計画達成率は受注高65%・完工高90%・利益金68%
    • [41]1974年10月発表の第2次中期展望は年平均成長率を20%台から10%台へ大幅に下方修正
    • [42]第2次中期展望の1980年度達成率は受注高48.3%・施工高55.5%・完工高65.0%
    • [43]1974年12月9日 マレーシアのテメンゴールダム現場がマラヤ共産党傘下のゲリラに襲撃された
    • [44]1975年2月28日 本店ビルの海外工事局と電算部、大宮工場が爆破され被害総額は10億円以上
    • [45]1975年5月8日 飯田社長が入院先で癌性胸膜炎により急逝
参考文献[22]-[45]
  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [22]1963年4月22日 皇居正門鉄橋架替下部工事を6008万円で入札受注
    • [23]二重橋工事の受注日は創業者間猛馬の37回忌にあたった
    • [24]神部社長は重要工事の出張所・工事部・作業所に「薫風」の2字を冠し、1966年まで続いた
    • [25]薫風工事12か所の内訳は建築4・水力発電ダム1・多目的ダム1・火力発電所1・原子力発電所1・岸壁1・ドック1・高速道路1・新幹線1
    • [26]日立造船ビルで初めてイコス基礎工法をビル工事へ大規模適用、東名高速都夫良野は初の高速道路長大トンネル、福島原子力発電所は間組初の原発工事
    • [28]新宿民衆駅を中心に淀橋地下給水場・西口地下広場・中央公園・三越新宿支店・紀伊國屋ビルなどを総合的に施工
    • [29]新宿副都心建設と新宿駅周辺工事は間組にとって画期的な事業展開となった
    • [30]地下鉄日比谷駅・首都高速道路本町駐車場と竹橋工区・NHK放送センター・羽田-浜松町間モノレールに参入
    • [31]東海道新幹線工事や名神高速道路・東名高速道路にも参加
    • [34]飯田房太郎社長は「わが社の中期展望 昭和46~昭和50年」を策定し「躍進する間組」を掲げた
    • [35]計画発表の翌1972年度から2年間の躍進が著しく、受注高は2000億円を突破、完工高も1974年度に2000億円を達成
    • [36]利益金は1971年度から年々40%以上の伸びを3年間持続し1973年度に42億円(1970年度の3倍)
    • [38]中期展望の結論部分で民間デベロッパーへの進出をうたい、総合企画と開発の総合コンサルタント業務を担う「総合デベロッパー」への転身を課題とした
    • [39]1973年10月の石油ショックで1974年に受注率の伸びが止まり、利益金の伸びはマイナスに転じた
    • [40]中期展望最終年度1975年度の計画達成率は受注高65%・完工高90%・利益金68%
    • [41]1974年10月発表の第2次中期展望は年平均成長率を20%台から10%台へ大幅に下方修正
    • [42]第2次中期展望の1980年度達成率は受注高48.3%・施工高55.5%・完工高65.0%
    • [43]1974年12月9日 マレーシアのテメンゴールダム現場がマラヤ共産党傘下のゲリラに襲撃された
    • [44]1975年2月28日 本店ビルの海外工事局と電算部、大宮工場が爆破され被害総額は10億円以上
    • [45]1975年5月8日 飯田社長が入院先で癌性胸膜炎により急逝
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [27]1966年9月期 完工高の建築比率53%で初めて土木を上回る
    • [32]海外はベトナムの発電所・タイの鉄道・ラオスのナムグム・ダムを受注
    • [33]年間完工高は約531億円
  • 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
    • [37]1974年 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部へ上場

1977年〜間組再建3カ年計画による減量経営と創業100年

東京証券取引所へ上場して15年目の1977年9月期、間組は当期損失57億7100万円を計上した。受注高は2678億4000万円と目標の2800億円を4.3%下回り、完工高は2212億円と目標を5.5%割り込んでいる。上場の時点で手持工事高630億円を積み、受注の6割を電力会社に支えられていた会社が、15年後には不動産と株式の処理で損失を出した。1977年12月23日の定時株主総会では、人心一新のため会長以下12名の役員が退任し、第一勧業銀行から入社した平形譲一氏が専務取締役に就いた。竹内季雄社長はこの日を「間組再出発の日」と宣言している。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [46]第47期(1977年9月期)に当期損失57億7100万円を計上
    • [47]第47期の受注高2678億4000万円(目標2800億円を4.3%下回る)、完工高2212億円(目標2340億円を5.5%下回る)
    • [49]損失は大井川興産問題とC社株処理など不動産・株式に起因した
    • [50]1977年12月23日の第47回定時株主総会で人心一新のため会長以下12役員が退任
    • [51]第一勧業銀行取締役から1977年8月に顧問として入社した平形譲一が専務取締役に就任
    • [52]竹内季雄社長は1977年12月23日を「間組再出発の日」と宣言
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
    • [48]1962年9月期の手持工事高は約630億円、土木の受注先は電力会社60.3%

1978年3月、間組は「間組再建3カ年計画 昭和53年~55年」を発表した。竹内社長は冒頭で、販売用不動産870億円、投資有価証券500億円、それらに起因する多額の借入金1600億円を挙げ、会社は『まことに危急存亡の瀬戸際にある』と記している。計画は主要資産を1351億円から3年で492億円へ、借入金を1588億円から1083億円へ減らす数値を、受注や利益の目標とは別立てで置いた。人員でも1978年度に一挙に180名を減らし、1975年度と比べると269名、7.1%の減員となっている。従業員1人あたりの施工高は、この6期で6093万円から9345万円へ53.4%伸びた。1981年には技術研究所を新設している。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [53]1978年3月「間組再建3カ年計画 昭和53年~55年」を発表
    • [54]再建3カ年計画は販売用不動産870億円・投資有価証券500億円・それらに起因する借入金1600億円を会社体質悪化の数字として示した
    • [55]再建計画は主要資産を1351億円から492億円(36.4%)へ、借入金を1588億円から1083億円(68.2%)へ減らす計画を独立に計上
    • [56]1978年度に180名の減員を断行、1975年度比で269名(7.1%)の減員
    • [57]1975年度から1980年度にかけて従業員1人あたり施工高は6093万円から9345万円へ53.4%増加
  • 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
    • [58]1981年 技術研究所を新設

保有していた不動産の処分は、素地のまま売らず上物を建てて一括売却する方式で進められた。旧本店跡地には三菱地所と組んで新青山ビルを建て、続いて伊藤忠商事東京本社ビルを竣工金額約318億円で施工し、1983年7月にはホンダビルの着工へつながっている。施工高では1978年度から3期、完工高では1979年度から4期にわたって建築が土木を上回り、土木の側も鉄道と道路が3割以上を占める都市型へ変わった。1985年には日本初の本格的インテリジェントビルであるホンダ青山ビルが竣工し、同じ年に青函トンネル吉岡工区の本坑が貫通している。建築で稼ぐ会社へ組み替え終えたところに、創業100年が来た。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [59]保有していた不動産は素地の上に建物を建てて一括売却する方式で処分する方針とした
    • [60]旧本店跡地に三菱地所と提携して新青山ビル(青山ツインビル)を建設、竣工金額約158億円
    • [61]伊藤忠商事東京本社ビルは1978年3月着工・1980年10月竣工、竣工金額約318億円
    • [62]1983年7月にホンダビルを着工
    • [63]施工高では1978~80年度、完工高では1979~82年度にかけて建築が土木を上回った
    • [64]土木ではダム・水力発電が主力でなくなり、鉄道と道路が3割以上を占める都市型土木へ変わった
  • 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
    • [65]1985年 ホンダ青山ビル(日本初の本格的インテリジェントビル)竣工、青函トンネル吉岡工区の本坑が貫通

本田社長時代の財務改善は、資本市場での評価に表れた。1983年8月に業界で初めてスイスフラン建て新株引受権付社債5000万フラン、約57億円の発行に成功し、1984年2月には日本公社債研究所の格付けがBBからBBBへ上がっている。自己資本は495億円から775億円へ1.6倍に増え、自己資本比率は13.8%から15.8%へ2ポイント上向いた。ただし完工高が3470億円から4410億円へ27%伸びる一方で、完工総利益率は10.5%から8.1%へ下がった。粗利益率の低い建築が完工高で土木を上回り始めたことと、海外工事が円高で採算割れしたことが理由である。1988年度の受注高は5206億円と初めて5000億円を超え、翌1989年に創業100年を迎えた。

  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [66]1983年8月 業界初のスイスフラン建て新株引受権付社債5000万フラン(約57億円)の発行に成功
    • [67]1984年2月 日本公社債研究所の社債格付けがBBからBBBへ昇格
    • [68]自己資本は495億円から775億円へ1.6倍、自己資本比率は13.8%から15.8%へ向上
    • [69]完工高は3470億円から4410億円へ27%増、完工総利益率は10.5%から8.1%へ低下
    • [70]完工利益率低迷の原因は建築部門の粗利益率が土木より低いことと海外工事の円高による採算割れ
    • [71]第58期(1988年度)の受注高は5206億円で初めて5000億円の大台を超えた
    • [72]1989年に創業100年を迎えた
参考文献[46]-[72]
  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
    • [46]第47期(1977年9月期)に当期損失57億7100万円を計上
    • [47]第47期の受注高2678億4000万円(目標2800億円を4.3%下回る)、完工高2212億円(目標2340億円を5.5%下回る)
    • [49]損失は大井川興産問題とC社株処理など不動産・株式に起因した
    • [50]1977年12月23日の第47回定時株主総会で人心一新のため会長以下12役員が退任
    • [51]第一勧業銀行取締役から1977年8月に顧問として入社した平形譲一が専務取締役に就任
    • [52]竹内季雄社長は1977年12月23日を「間組再出発の日」と宣言
    • [53]1978年3月「間組再建3カ年計画 昭和53年~55年」を発表
    • [54]再建3カ年計画は販売用不動産870億円・投資有価証券500億円・それらに起因する借入金1600億円を会社体質悪化の数字として示した
    • [55]再建計画は主要資産を1351億円から492億円(36.4%)へ、借入金を1588億円から1083億円(68.2%)へ減らす計画を独立に計上
    • [56]1978年度に180名の減員を断行、1975年度比で269名(7.1%)の減員
    • [57]1975年度から1980年度にかけて従業員1人あたり施工高は6093万円から9345万円へ53.4%増加
    • [59]保有していた不動産は素地の上に建物を建てて一括売却する方式で処分する方針とした
    • [60]旧本店跡地に三菱地所と提携して新青山ビル(青山ツインビル)を建設、竣工金額約158億円
    • [61]伊藤忠商事東京本社ビルは1978年3月着工・1980年10月竣工、竣工金額約318億円
    • [62]1983年7月にホンダビルを着工
    • [63]施工高では1978~80年度、完工高では1979~82年度にかけて建築が土木を上回った
    • [64]土木ではダム・水力発電が主力でなくなり、鉄道と道路が3割以上を占める都市型土木へ変わった
    • [66]1983年8月 業界初のスイスフラン建て新株引受権付社債5000万フラン(約57億円)の発行に成功
    • [67]1984年2月 日本公社債研究所の社債格付けがBBからBBBへ昇格
    • [68]自己資本は495億円から775億円へ1.6倍、自己資本比率は13.8%から15.8%へ向上
    • [69]完工高は3470億円から4410億円へ27%増、完工総利益率は10.5%から8.1%へ低下
    • [70]完工利益率低迷の原因は建築部門の粗利益率が土木より低いことと海外工事の円高による採算割れ
    • [71]第58期(1988年度)の受注高は5206億円で初めて5000億円の大台を超えた
    • [72]1989年に創業100年を迎えた
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
    • [48]1962年9月期の手持工事高は約630億円、土木の受注先は電力会社60.3%
  • 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
    • [58]1981年 技術研究所を新設
    • [65]1985年 ホンダ青山ビル(日本初の本格的インテリジェントビル)竣工、青函トンネル吉岡工区の本坑が貫通

筆者考察

高度成長期の間組が入れ替えたのは、工事の種類ではなく代金を払う相手であった。1962年に東京証券取引所へ上場した時点で、土木の受注先は電力会社が60.3%、官庁が25.6%を占め、発注の6割を1業種に預けていた。水力から火力・原子力へエネルギー政策が移り、需要の中心が臨海コンビナートと都市改造へ動けば、この構造はそのまま受注の細りに変わる。新宿副都心の街づくりや地下鉄、高速道路へ営業の軸を移した結果、1966年9月期には完工高の建築比率が53%となり、初めて土木を上回った。

相手を替える過程は平坦ではなかった。飯田房太郎社長の総合デベロッパー志向は、販売用不動産870億円と借入金1600億円という形で残り、1977年9月期に57億7100万円の損失となって表面化する。続く竹内季雄社長は、主要資産を1351億円から492億円へ、借入金を1588億円から1083億円へ減らす数値を受注目標とは別立てで置き、1978年度には180名を減らした。抱えた土地には上物を建てて売り、建築で稼ぐ会社へ組み替え終えたところに、創業100年が来た。

間組の売上高 1965年〜1989年(各9月期)(億円)

469 1965 815 1970 2,274 1975 3,257 1980 3,790 1985 5,275 1989
  • 単体・日本基準。各期は9月決算。
  • 出所は間組百年史(間組、1990年)に拠る長期業績データ。

1956年〜1990年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率 億円
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年12月期 単体 187 n/a 9 4 2.1% 4 n/a
1961年12月期 単体 336 +79.7% 13 9 2.7% 9 n/a
1962年09月期 単体 234 ▲30.4% 15 10 4.3% 10 n/a
1963年09月期 単体 403 +72.2% 25 19 4.7% 18 n/a
1964年09月期 単体 560 +39.0% 23 19 3.4% 11 n/a
1965年09月期 単体 469 ▲16.3% 15 10 2.1% 7 n/a
1966年09月期 単体 589 +25.6% 21 14 2.4% 7 n/a
1967年09月期 単体 531 ▲9.8% 10 8 1.5% 6 n/a
1968年09月期 単体 658 +23.9% 22 8 1.2% 6 n/a
1969年09月期 単体 747 +13.5% 24 16 2.1% 9 n/a
1970年09月期 単体 815 +9.1% 37 26 3.2% 14 n/a
1971年09月期 単体 1,039 +27.5% 46 36 3.5% 21 n/a
1972年09月期 単体 1,225 +17.9% 63 55 4.5% 29 n/a
1973年09月期 単体 1,664 +35.8% 108 76 4.6% 42 n/a
1974年09月期 単体 2,268 +36.3% 149 81 3.6% 32 n/a
1975年09月期 単体 2,274 +0.3% 118 59 2.6% 51 n/a
1976年09月期 単体 2,261 ▲0.6% 95 46 2.0% 41 n/a
1977年09月期 単体 2,212 ▲2.2% 108 18 0.8% ▲58 n/a
1978年09月期 単体 2,546 +15.1% 79 6 0.2% 23 n/a
1979年09月期 単体 2,845 +11.7% 86 32 1.1% 17 n/a
1980年09月期 単体 3,257 +14.5% 139 81 2.5% 18 n/a
1981年09月期 単体 3,346 +2.7% 144 104 3.1% 28 n/a
1982年09月期 単体 3,431 +2.5% 173 107 3.1% 30 n/a
1983年09月期 単体 3,500 +2.0% 169 112 3.2% 34 n/a
1984年09月期 単体 3,624 +3.5% 170 116 3.2% 37 n/a
1985年09月期 単体 3,790 +4.6% 121 59 1.6% 27 n/a
1986年09月期 単体 3,509 ▲7.4% 68 43 1.2% 24 n/a
1987年09月期 単体 3,676 +4.8% 115 105 2.9% 34 n/a
1988年09月期 単体 4,453 +21.1% 136 122 2.7% 39 n/a
1989年09月期 単体 5,275 +18.5% 175 149 2.8% 50 n/a
1990年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:間組百年史

出典・参考

5件
出典・参考
  • 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
  • 経済時代(経済時代社, 1972)
  • 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)

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