安藤・間:間組の門司での創業と佐久間ダムの着工
1889年〜門司の個人企業から株式会社間組への組織改編
現在の安藤・間は、1889年創業の間組を母体として法人格と上場を受け継いでいる。創業者の間猛馬氏は、日本鉄道を辞して独立した技術者であった。官庁工事を一般競争入札に付す会計法が公布された1889年4月、猛馬氏は福岡県門司で個人企業として間組を興す。門司を選んだのは、九州で鉄道の敷設が緒についた時期にあたり、鉄道建設の請負を足がかりにできたからである。以後は本店を門司から下関を経て東京へ移し、鉄道から土木建築一般へ受注の範囲を広げた。1911年には日本初の潜函工事として鴨緑江橋を竣工させ、翌1912年には電力土木事業へ参入している。
- 安藤・間 有価証券報告書【沿革】
- [1]安藤・間の母体は1889年創業の間組
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)
- [2]間猛馬は日本鉄道を辞して独立した技術者
- [3]創業は官庁工事を一般競争入札に付す会計法が公布された1889年4月
- [5]創業の足がかりは鉄道建設の請負
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)「第1章 間一族の命運」
- [4]創業地は福岡県門司、個人企業として発足
- 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
- [6]本店を門司から下関を経て東京へ移転
- [7]1911年 日本初の潜函工事・鴨緑江橋が竣工
- [8]1912年 電力土木事業へ参入
独立前の猛馬氏は、のちに九州鉄道社長や鉄道院総裁を務める仙石貢氏のもとで、日本鉄道の中田-宇都宮間の建設に加わっていた。見渡すかぎりの平野に築堤が続く現場で、施工中に襲った暴風雨のさいには、請負業者から集めた人夫と資材を投じて堤防の決壊を防いでいる。『日本鉄道請負業史 明治篇』は、当時の猛馬氏を『当時鉄道局傭であったが、職務に忠実にして其精励振りは他人の追随を許さず実に目覚しきものであった』と記録した。創業後の間組が受注の裾野を広げられたのは、仙石氏ら帝国大学出の技術者と、郷里高知の士族子弟の支援を受けられたからである。社章の「小」の字は、創業当時に援助と協力を受けた小川勝五郎氏が用いていた印を、その恩顧を忘れないために採ったものだという。
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)「第1章 間一族の命運」
- [9]仙石貢はのちに筑豊鉄道・九州鉄道の社長、鉄道院総裁、鉄道大臣、満鉄総裁を歴任
- [10]間猛馬は仙石貢のもとで日本鉄道の中田-宇都宮間工事に従事
- [11]中田-宇都宮間工事の施工中、暴風雨で決壊の危機に瀕した堤防を請負業者の人夫と資材で守った
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)
- [12]創業期の支援者は仙石貢ら帝国大学出の技術者と郷里高知の士族子弟
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [13]社章の「小」は創業時に援助と協力を受けた小川勝五郎が使用していた図案で、その恩顧を忘れないために採用された
個人企業として始まった間組は、工事規模の拡大に合わせて会社の形態を作り替えていった。1917年12月に合資会社へ改組し、1930年12月には資本金50万円で株式会社間組を設立、翌1931年4月に合資会社間組を吸収合併して株式会社へ一本化した。同じ1931年には地下鉄工事へ参入し、鉄道と発電所に偏っていた受注へ都市土木を加えている。資本金は設立時の50万円から1939年7月に300万円、1944年2月に600万円へ積み増した。会社形態の作り替えは、請負高の拡大に自己資本が追いつかない状態を、そのつど後から埋める形で進んだのだろう。
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)
- [14]1917年12月 間組を合資会社へ改組
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [15]1930年12月 資本金50万円で株式会社間組を設立
- 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
- [16]1931年4月 合資会社間組を吸収合併し株式会社へ一本化
- [18]資本金は1939年7月に300万円、1944年2月に600万円
- 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
- [17]1931年 地下鉄工事へ参入
参考文献[1]-[18]
- 安藤・間 有価証券報告書【沿革】
- [1]安藤・間の母体は1889年創業の間組
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)
- [2]間猛馬は日本鉄道を辞して独立した技術者
- [3]創業は官庁工事を一般競争入札に付す会計法が公布された1889年4月
- [5]創業の足がかりは鉄道建設の請負
- [12]創業期の支援者は仙石貢ら帝国大学出の技術者と郷里高知の士族子弟
- [14]1917年12月 間組を合資会社へ改組
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)「第1章 間一族の命運」
- [4]創業地は福岡県門司、個人企業として発足
- [9]仙石貢はのちに筑豊鉄道・九州鉄道の社長、鉄道院総裁、鉄道大臣、満鉄総裁を歴任
- [10]間猛馬は仙石貢のもとで日本鉄道の中田-宇都宮間工事に従事
- [11]中田-宇都宮間工事の施工中、暴風雨で決壊の危機に瀕した堤防を請負業者の人夫と資材で守った
- 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
- [6]本店を門司から下関を経て東京へ移転
- [7]1911年 日本初の潜函工事・鴨緑江橋が竣工
- [8]1912年 電力土木事業へ参入
- [17]1931年 地下鉄工事へ参入
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [13]社章の「小」は創業時に援助と協力を受けた小川勝五郎が使用していた図案で、その恩顧を忘れないために採用された
- [15]1930年12月 資本金50万円で株式会社間組を設立
- 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
- [16]1931年4月 合資会社間組を吸収合併し株式会社へ一本化
- [18]資本金は1939年7月に300万円、1944年2月に600万円
1912年〜女子畑発電所から水豊・関門トンネルへ広がった電力土木
間組が鉄道に次ぐ柱として選んだのは、電力土木であった。1912年には九州水力電気の女子畑発電所工事を手がけており、これが間組にとって初の発電所工事となる。以後は九州の電気事業者との関係を深め、1935年からは日本初の80メートル級ダムである塚原発電所を施工した。塚原の建設所長を務めた内本浩亮氏はのちに九州送電社長となり、戦後は間組の顧問として佐久間や黒部第四の発電所工事にも関与している。電力会社は一度関係ができれば工事を繰り返し発注する相手であり、入札ごとに関係が切れる官庁工事とは受注の性格が異なる。ダム工事に定評があるという後年の評価は、この時期に積んだ発電所工事の連続から生まれたものである。
- 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
- [19]1912年 電力土木事業へ参入
- 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
- [20]1912年の九州水力電気・女子畑発電所工事が間組初の発電所工事
- [21]1935年から日本初の80m級ダムである塚原発電所を間組が施工
- [22]塚原発電所の建設所長・内本浩亮はのちに九州送電社長、戦後は間組本店顧問として佐久間・黒部第四に関与
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [23]土木ではトップクラスの建設会社で、ダム工事に定評がある
戦時期の間組は、内地の枠を超えた大型工事へ人と機械を集中させた。代表するのが、アジア最大の出力70万キロワットを誇った朝鮮・水豊発電所である。国内では1943年に、日本初の海底トンネルである関門トンネルの下関工区を竣工させた。1943年9月には資本金15万円で子会社の昭和実栄を設立し、土木建築の設計監督や土木建築用器具の賃貸を担わせている。しかし外地では軍の要請による工事に、内地では本土決戦のための工事に全力を挙げる体制であったため、終戦はこれらの現場をいっせいに宙へ浮かせることになった。
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [24]朝鮮・水豊発電所はアジア最大の出力70万kW
- 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
- [25]1943年 日本初の海底トンネル・関門トンネル下関工区が竣工
- 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
- [26]1943年9月 資本金15万円で子会社・昭和実栄を設立、土木建築の設計監督と器具賃貸を担う
- [27]外地では軍要請工事、内地では決戦のための工事に全力を挙げていた
参考文献[19]-[27]
- 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)
- [19]1912年 電力土木事業へ参入
- [25]1943年 日本初の海底トンネル・関門トンネル下関工区が竣工
- 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
- [20]1912年の九州水力電気・女子畑発電所工事が間組初の発電所工事
- [21]1935年から日本初の80m級ダムである塚原発電所を間組が施工
- [22]塚原発電所の建設所長・内本浩亮はのちに九州送電社長、戦後は間組本店顧問として佐久間・黒部第四に関与
- [26]1943年9月 資本金15万円で子会社・昭和実栄を設立、土木建築の設計監督と器具賃貸を担う
- [27]外地では軍要請工事、内地では決戦のための工事に全力を挙げていた
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [23]土木ではトップクラスの建設会社で、ダム工事に定評がある
- [24]朝鮮・水豊発電所はアジア最大の出力70万kW
1945年〜臨時処置法と進駐軍工事から佐久間ダムへの再出発
1945年8月15日の終戦で、土木建築の請負業者はいっさいの仕事を即日打ち切られ、現場の解散を迫られた。壊滅的な打撃を受けた間組の再建を率いたのは、のちに中興の祖と呼ばれた神部満之助社長である。現場労働者の大部分は朝鮮や中国などの他民族労働者だったため、波風を立てずに解散・帰国させ、外地に散った従業員を集めて帰国させる必要もあった。9月13日から3日間にわたった重役会及び支店長連合会は激論となり、遠藤兵作相談役は重役と職員の3分の1削減を主張している。決議は〈臨時処置法〉として全25項目にまとめられ、満55歳の定年制実施と傭人の原則解雇を定めた。同じ決議には、土木建築用の新式機械を購入し、機械の知識をもつ専門学校出以上の人材を雇い入れる項目も並んでいる。1948年2月には過度経済力集中排除法の仮指定を受けたが、経済力集中の規定に該当しないとの判断で同年5月に解かれている。
- 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
- [28]終戦とともに土木建築請負業者は即日いっさいの仕事を打ち切られ現場解散を迫られた
- [30]現場労働者の大部分は朝鮮・中国など他民族労働者で、解散・帰国と外地従業員の帰国が課題となった
- [31]1945年9月13日からの重役会及び支店長連合会で遠藤兵作相談役が重役・職員の3分の1削減を主張
- [32]決議〈臨時処置法〉は全25項目で、満55歳の定年制実施と傭人の原則解雇を定めた
- [33]〈臨時処置法〉には土木建築用新式機械の購入と機械知識をもつ専門学校出以上の人材雇用も含まれた
- [34]1948年2月に過度経済力集中排除法の仮指定を受けたが、経済力集中の規定に該当しないとして同年5月に解除された
- 経済時代(経済時代社, 1972)
- [29]神部満之助社長は間組の中興の祖
戦後の第1号工事は、終戦直前に受注していた明治神宮仮御本殿戦災復興御造営工事で、1945年9月11日の地鎮祭をもって着工した。続いて9月に広島県庁本館と付属建物の営繕工事を、10月に運輸省広島鉄道局から用品庫事務所と電修場の復旧工事を、それぞれ特命で受注している。会社の向きを変えたのは進駐軍工事であった。入間川飛行場工事で信用を得たのち大規模な工事を次々に受注し、これらは余剰人員を吸収するプールとなると同時に、日本の土木業界では未経験だったアメリカ式大型機械施工を習得する場ともなった。神部社長は原子爆弾に着想を得た「微粒結集」を掲げ、戦時補償の打ち切りと在外資産の喪失で膨らんだ特別損失を抱えた社内を、ひとつの方向へまとめようとした。食糧難に応じるため1945年11月には本店へ農事部を置き、川崎の長沢農場と常陸農場を経営している。1947年末の時点では大崎と京都の製材工場、広島のタイル工場と家具工場を稼働させており、請負以外の収入源を臨時処置法の決議どおりに立ち上げていた。
- 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
- [35]戦後第1号工事は明治神宮仮御本殿戦災復興御造営工事、1945年9月11日に地鎮祭・着工
- [36]1945年9月に広島県庁本館、10月に運輸省広島鉄道局の用品庫事務所・電修場復旧工事を特命で受注
- [38]進駐軍工事は余剰人員を吸収するプールとなり、未経験のアメリカ式大型機械施工を習得する場となった
- [39]神部社長は原子爆弾に着想した「微粒結集(微結)」を掲げ、戦時補償打ち切りと在外資産喪失で巨額の特別損失を抱えた
- [40]1945年11月7日 本店に農事部を設置し、長沢農場(川崎市)と常陸農場を経営
- [41]1947年末に大崎製材工場・京都製材工場・広島タイル工場・広島家具工場の4工場を経営・稼働
- 経済時代(経済時代社, 1972)
- [37]戦後再建の第一歩は明治神宮仮御殿御造営工事の拝命、続いて入間川飛行場など進駐軍工事
1951年、間組は戦後初のダム工事として木曽川の丸山ダムへ着手した。続く1953年着工の天竜川・佐久間ダムでは、熊谷組と米ガイ・F・アトキンソン社を加えた共同企業体で国際入札に臨み、発電所と堰堤あわせて約85億円で落札している。ワゴンドリル、バッチャープラント、ケーブルクレーン、ダンプトラックなど米国から持ち込んだ機械群を主軸に現場を編成し、在来工法なら10年以上を要するといわれた難工事を3年で仕上げて、当時日本最大の重力式ダムを完成させた。神部社長は松永安左衛門氏から「日本ダム王」と呼ばれ、間組創立から83年の歴史のうち24年にわたって社長を務めることになる。進駐軍の現場で覚えた機械施工が、ここで自社の受注形態そのものへ変わった。
- 経済時代(経済時代社, 1954)
- [42]1951年 戦後初のダム工事として木曽川・丸山ダムへ着手
- 有沢広巳監修『日本産業史 2』(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994)「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- [43]佐久間ダムは間組・熊谷組・アトキンソン社の共同企業体が発電所と堰堤あわせて約85億円で落札
- [44]導入機械はワゴンドリル・バッチャープラント・ケーブルクレーン・ダンプトラックなど
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [45]在来工法なら10年以上といわれた佐久間ダムを3年で完成、当時日本最大の重力式ダム
- 経済時代(経済時代社, 1972)
- [46]松永安左衛門による「日本ダム王」の称号
- [47]神部社長の在任は間組創立83年のうち24年
参考文献[28]-[47]
- 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
- [28]終戦とともに土木建築請負業者は即日いっさいの仕事を打ち切られ現場解散を迫られた
- [30]現場労働者の大部分は朝鮮・中国など他民族労働者で、解散・帰国と外地従業員の帰国が課題となった
- [31]1945年9月13日からの重役会及び支店長連合会で遠藤兵作相談役が重役・職員の3分の1削減を主張
- [32]決議〈臨時処置法〉は全25項目で、満55歳の定年制実施と傭人の原則解雇を定めた
- [33]〈臨時処置法〉には土木建築用新式機械の購入と機械知識をもつ専門学校出以上の人材雇用も含まれた
- [34]1948年2月に過度経済力集中排除法の仮指定を受けたが、経済力集中の規定に該当しないとして同年5月に解除された
- [35]戦後第1号工事は明治神宮仮御本殿戦災復興御造営工事、1945年9月11日に地鎮祭・着工
- [36]1945年9月に広島県庁本館、10月に運輸省広島鉄道局の用品庫事務所・電修場復旧工事を特命で受注
- [38]進駐軍工事は余剰人員を吸収するプールとなり、未経験のアメリカ式大型機械施工を習得する場となった
- [39]神部社長は原子爆弾に着想した「微粒結集(微結)」を掲げ、戦時補償打ち切りと在外資産喪失で巨額の特別損失を抱えた
- [40]1945年11月7日 本店に農事部を設置し、長沢農場(川崎市)と常陸農場を経営
- [41]1947年末に大崎製材工場・京都製材工場・広島タイル工場・広島家具工場の4工場を経営・稼働
- 経済時代(経済時代社, 1972)
- [29]神部満之助社長は間組の中興の祖
- [37]戦後再建の第一歩は明治神宮仮御殿御造営工事の拝命、続いて入間川飛行場など進駐軍工事
- [46]松永安左衛門による「日本ダム王」の称号
- [47]神部社長の在任は間組創立83年のうち24年
- 経済時代(経済時代社, 1954)
- [42]1951年 戦後初のダム工事として木曽川・丸山ダムへ着手
- 有沢広巳監修『日本産業史 2』(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994)「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- [43]佐久間ダムは間組・熊谷組・アトキンソン社の共同企業体が発電所と堰堤あわせて約85億円で落札
- [44]導入機械はワゴンドリル・バッチャープラント・ケーブルクレーン・ダンプトラックなど
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [45]在来工法なら10年以上といわれた佐久間ダムを3年で完成、当時日本最大の重力式ダム
出典・参考
10件
- 安藤・間 有価証券報告書【沿革】
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)
- 間組百年史 1889-1945(間組, 1989)「第1章 間一族の命運」
- 間組百年史 1945-1989(間組, 1990)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 有沢広巳監修『日本産業史 2』(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994)「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介 )
- 経済時代(経済時代社, 1954)
- 経済時代(経済時代社, 1972)
- 安藤ハザマ ウェブサイト 沿革ページ(2026年9月閲覧)