石油資源開発:石油資源総合開発五ヵ年計画による発足と石油開発公団への吸収
1955年〜年34万klにとどまった国産原油と、試掘を肩代わりする政府出資の特殊会社
1953年9月、石油および可燃性天然ガス資源開発審議会による、国産原油が年約34万klにとどまり大部分を輸入に依存しているとの答申。答申は、石油を含む第三紀層の堆積層が国土の約3分の1に及ぶ一方で、既開発面積は約5%にすぎないと指摘した。そのうえで、停滞の原因を資源の乏しさではなく試掘の不足に求めた。戦後の国産原油は、1948年に年17万8千klまで減っている。1950年には輸入の再開を受けて、価格がkl当たり9,325円から6,700円へ引き下げられていた。1954年秋、政府は答申をもとに石油資源総合開発5カ年計画を定め、平原地帯と大陸棚の未開発地域の探鉱を促す方針を示した。欧州の産油国が戦後に平原下の深い層を掘って資源を増やした先例を、三村起一氏は後に挙げている。
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2章 石油資源総合開発5カ年計画と石油資源開発株式会社の設立
- [1]1953年9月の審議会答申:国産原油は年約34万kl、大部分を輸入し外貨を消費。堆積層は国土の約3分の1、既開発面積約5%。停滞原因は試掘の不足
- [2]1953年9月の審議会答申:国産原油は年約34万kl、大部分を輸入し外貨を消費。堆積層は国土の約3分の1、既開発面積約5%。停滞原因は試掘の不足
- [3]1953年9月の審議会答申:国産原油は年約34万kl、大部分を輸入し外貨を消費。堆積層は国土の約3分の1、既開発面積約5%。停滞原因は試掘の不足
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第1章第3節 第2次世界大戦後の10年
- [4]国産原油は1948年に17万8千klで戦後最低。1950年6月に価格をkl当たり9,325円から6,700円へ引き下げ
- [5]国産原油は1948年に17万8千klで戦後最低。1950年6月に価格をkl当たり9,325円から6,700円へ引き下げ
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2編第1章第1節 探鉱方針の変遷
- [6]1954年秋に政府が策定した5カ年計画は、平原地帯と大陸棚海底の未開発地域の探鉱促進を方針とした
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [7]フランス・ドイツなど欧州諸国は戦後、平原下の深い層を掘って石油資源を増やしていた(三村起一氏の回想)
5カ年計画の達成には膨大な探鉱資金が要り、国内の石油開発を担ってきた帝国石油は民間企業のままでは遂行できないとみなされた。通商産業省鉱山局は1954年11月頃から、政府が半額以上を出資する探鉱専門の特殊会社を検討し始めた。補助金12億円を新会社への出資金に組み替える要求に対し、大蔵省は1955年4月に補助金1億円を内示し、最終的に補助金3億円で予算が決まった。新会社は議員立法で設けることになり、石油資源開発株式会社法は1955年7月28日に成立した。政府は保有する帝国石油の株式690万株を現物出資し、設立時の政府出資比率は約56%。12月1日の設立にあたり、構想をまとめた鮎川義介氏が会長、日本冶金の再建を終えた三村起一氏が社長に就任した。
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2章 石油資源総合開発5カ年計画と石油資源開発株式会社の設立
- [8]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [9]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [10]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [11]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [12]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [14]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [13]1955年12月、特殊会社として旧会社設立。設立時の政府出資は約56%
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [15]構想の立役者は鮎川義介氏で会長。三村起一氏は1955年7月に依頼を受け、日本冶金の再建後に社長を引き受けた
石油資源開発は設立にあたり、帝国石油から出願中の権利を含む1,690鉱区を譲り受けた。一部の鉱区では帝国石油が試掘を代行し続け、新規の事業は掘削機械・技術研究所・人員を引き継いで自社で進めた。社長の三村起一氏によると、自社の手で現場を回せる体制が整ったのは1956年5月だった。探鉱の重点は、平原下・大陸棚・丘陵地帯・既開発油田の深部・北海道白亜紀層の5つである。拠点は札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎の探鉱事務所に置き、地震探鉱と検層の技術をドイツ・米国・フランスの3社から導入した。1956年7月に北海道の平取で自営第1号井が出油し、同年末には新潟県の田麦山でも油層を見つけた。
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第1節 前期(昭和30年度より昭和31年度まで)
- [16]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- [17]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- [19]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- [21]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- [22]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [18]当初は帝国石油の応援でつなぎ、自主的に現場を動かせるようになったのは1956年5月
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2編第1章第1節 探鉱方針の変遷
- [20]5カ年計画の方針に沿い、平原下・沿岸大陸棚・丘陵地域・既開発油田周辺と深部・北海道白亜紀層の5項目を基本方針とした
参考文献[1]-[22]
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2章 石油資源総合開発5カ年計画と石油資源開発株式会社の設立
- [1]1953年9月の審議会答申:国産原油は年約34万kl、大部分を輸入し外貨を消費。堆積層は国土の約3分の1、既開発面積約5%。停滞原因は試掘の不足
- [2]1953年9月の審議会答申:国産原油は年約34万kl、大部分を輸入し外貨を消費。堆積層は国土の約3分の1、既開発面積約5%。停滞原因は試掘の不足
- [3]1953年9月の審議会答申:国産原油は年約34万kl、大部分を輸入し外貨を消費。堆積層は国土の約3分の1、既開発面積約5%。停滞原因は試掘の不足
- [8]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [9]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [10]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [11]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [12]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- [14]帝国石油の民間企業の性格では計画遂行は不可能とされ、鉱山局が1954年11月頃から半額以上政府出資の探鉱専門会社を検討。補助金12億円の出資金組替要求に大蔵省は1955年4月1億円内示、補助金3億円で決着。1955年7月28日法成立、帝国石油株690万株を現物出資、12月1日創立総会で設立
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第1章第3節 第2次世界大戦後の10年
- [4]国産原油は1948年に17万8千klで戦後最低。1950年6月に価格をkl当たり9,325円から6,700円へ引き下げ
- [5]国産原油は1948年に17万8千klで戦後最低。1950年6月に価格をkl当たり9,325円から6,700円へ引き下げ
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2編第1章第1節 探鉱方針の変遷
- [6]1954年秋に政府が策定した5カ年計画は、平原地帯と大陸棚海底の未開発地域の探鉱促進を方針とした
- [20]5カ年計画の方針に沿い、平原下・沿岸大陸棚・丘陵地域・既開発油田周辺と深部・北海道白亜紀層の5項目を基本方針とした
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [7]フランス・ドイツなど欧州諸国は戦後、平原下の深い層を掘って石油資源を増やしていた(三村起一氏の回想)
- [15]構想の立役者は鮎川義介氏で会長。三村起一氏は1955年7月に依頼を受け、日本冶金の再建後に社長を引き受けた
- [18]当初は帝国石油の応援でつなぎ、自主的に現場を動かせるようになったのは1956年5月
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [13]1955年12月、特殊会社として旧会社設立。設立時の政府出資は約56%
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第1節 前期(昭和30年度より昭和31年度まで)
- [16]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- [17]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- [19]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- [21]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
- [22]帝国石油から出願中を含む1,690鉱区を譲受。一部は帝国石油が試掘代行、新規は自営。5つの探鉱重点、プラクラ社・GSI社・シュランベルジャー社の技術導入、札幌鉱業所と秋田・酒田・柏崎探鉱事務所。1956年7月平取油田、1956年末田麦山油田を発見
1957年〜見附油田の発見と、4つのガス田を生んだ構造性天然ガス
1958年3月、石油資源開発による新潟県の見附油田の発見。1956年の地震探鉱と翌年の社内の精査で見附背斜の形を絞り込み、1958年1月に掘り始めた坑井が見附凝灰岩層で油層に当たった。1959年8月には深層を狙った坑井が、緑色凝灰岩層の火山岩を貯留岩とする大きな油層を見つけた。1960年2月着手のSK11D号井は厚さ90mの火山岩層を仕上げ、日産100klの原油と2万m3の天然ガスを自噴した。社長の三村起一氏は、従来は不可能とされた火山岩中の油層を開発できたことを成果に挙げている。火山岩の割れ目を貯留岩とみる探査の見方は、その後の片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒になった。
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [23]1958年3月 見附油田(新潟県)発見
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第2節 中期(昭和32年度より昭和35年度まで)
- [24]見附:1956年プラクラ社地震探鉱、1957年社内精査。1958年1月開坑のSK4号井が見附凝灰岩層で油層発見。1959年8月の深層井で緑色凝灰岩層の火山岩油層を発見。1960年2月SK11D号井は厚さ90mの火山岩層で日産100kl・天然ガス2万m3の自噴。片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒
- [25]見附:1956年プラクラ社地震探鉱、1957年社内精査。1958年1月開坑のSK4号井が見附凝灰岩層で油層発見。1959年8月の深層井で緑色凝灰岩層の火山岩油層を発見。1960年2月SK11D号井は厚さ90mの火山岩層で日産100kl・天然ガス2万m3の自噴。片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒
- [26]見附:1956年プラクラ社地震探鉱、1957年社内精査。1958年1月開坑のSK4号井が見附凝灰岩層で油層発見。1959年8月の深層井で緑色凝灰岩層の火山岩油層を発見。1960年2月SK11D号井は厚さ90mの火山岩層で日産100kl・天然ガス2万m3の自噴。片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒
- [28]見附:1956年プラクラ社地震探鉱、1957年社内精査。1958年1月開坑のSK4号井が見附凝灰岩層で油層発見。1959年8月の深層井で緑色凝灰岩層の火山岩油層を発見。1960年2月SK11D号井は厚さ90mの火山岩層で日産100kl・天然ガス2万m3の自噴。片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [27]見附市で従来不可能視された火山岩中の厚さ90mの油層を開発した(三村起一氏の回想)
1959年2月、石油資源開発は日本瓦斯化学工業の鉱区に共同で加わり、東新潟SK1号井の試掘を始めた。坑井は深度1,450mで大規模な構造性ガス層に当たり、東新潟ガス田は1959年6月に発見となった。続く長岡市周辺の関原・片貝の両地区でも構造性天然ガスを見つけ、片貝ガス田の発見は1960年12月だった。構造性天然ガスの利点は、地下水に溶けた水溶性ガスと違って坑井水を処理する手間が要らないことにある。新潟の構造性天然ガスは化学工業の原料と工場燃料として需要を呼び、供給が足りない状態になった。原油を探す過程で見つかったガスに需要家が待っていたことが、開発の主力を天然ガスへ移させたと推察される。
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第2節 中期(昭和32年度より昭和35年度まで)
- [29]日本瓦斯化学工業所有鉱区に共同加入し1959年2月東新潟SK1号井を試掘、1,450m層で構造性ガス層に逢着。1960年に関原・片貝でも構造性天然ガス発見。坑井水処理を要しない点で水溶性ガスより有利
- [30]日本瓦斯化学工業所有鉱区に共同加入し1959年2月東新潟SK1号井を試掘、1,450m層で構造性ガス層に逢着。1960年に関原・片貝でも構造性天然ガス発見。坑井水処理を要しない点で水溶性ガスより有利
- [32]日本瓦斯化学工業所有鉱区に共同加入し1959年2月東新潟SK1号井を試掘、1,450m層で構造性ガス層に逢着。1960年に関原・片貝でも構造性天然ガス発見。坑井水処理を要しない点で水溶性ガスより有利
- [34]日本瓦斯化学工業所有鉱区に共同加入し1959年2月東新潟SK1号井を試掘、1,450m層で構造性ガス層に逢着。1960年に関原・片貝でも構造性天然ガス発見。坑井水処理を要しない点で水溶性ガスより有利
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [31]1959年6月 東新潟ガス田発見、1960年12月 片貝ガス田発見
- [33]1959年6月 東新潟ガス田発見、1960年12月 片貝ガス田発見
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第3節 後期(昭和36年度より昭和40年度まで)
- [35]新潟県で発見された構造性天然ガスは化学工業用原料・工場燃料として需要を喚起し、供給不足の状態となった
同じ時期に帝国石油も新潟県頸城で大量のガスを見つけ、両社の間で天然ガスの開発と販売の分野を調整する必要が生じた。1960年4月、通商産業省鉱山局長の斡旋で両社は話し合い、石油資源開発は日本瓦斯化学工業と東北電力への供給を担うことになった。調整に伴い、石油資源開発は関原ガス田と頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中の権利196件を帝国石油へ譲渡した。見附油田の随伴ガスは日産5万m3に達しながら送る設備がなく、しばらく空中で燃やしていた。1960年3月に帝国石油の西長岡集ガス所まで管を敷き、1961年9月には新潟市まで61kmの送ガス幹線を完成させた。需要家の決まった販売の枠組みが、自前のパイプライン網を敷く前提になったと思われる。
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第2節 中期(昭和32年度より昭和35年度まで)
- [36]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- [37]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- [38]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- [39]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- [40]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
参考文献[23]-[40]
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [23]1958年3月 見附油田(新潟県)発見
- [31]1959年6月 東新潟ガス田発見、1960年12月 片貝ガス田発見
- [33]1959年6月 東新潟ガス田発見、1960年12月 片貝ガス田発見
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第2節 中期(昭和32年度より昭和35年度まで)
- [24]見附:1956年プラクラ社地震探鉱、1957年社内精査。1958年1月開坑のSK4号井が見附凝灰岩層で油層発見。1959年8月の深層井で緑色凝灰岩層の火山岩油層を発見。1960年2月SK11D号井は厚さ90mの火山岩層で日産100kl・天然ガス2万m3の自噴。片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒
- [25]見附:1956年プラクラ社地震探鉱、1957年社内精査。1958年1月開坑のSK4号井が見附凝灰岩層で油層発見。1959年8月の深層井で緑色凝灰岩層の火山岩油層を発見。1960年2月SK11D号井は厚さ90mの火山岩層で日産100kl・天然ガス2万m3の自噴。片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒
- [26]見附:1956年プラクラ社地震探鉱、1957年社内精査。1958年1月開坑のSK4号井が見附凝灰岩層で油層発見。1959年8月の深層井で緑色凝灰岩層の火山岩油層を発見。1960年2月SK11D号井は厚さ90mの火山岩層で日産100kl・天然ガス2万m3の自噴。片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒
- [28]見附:1956年プラクラ社地震探鉱、1957年社内精査。1958年1月開坑のSK4号井が見附凝灰岩層で油層発見。1959年8月の深層井で緑色凝灰岩層の火山岩油層を発見。1960年2月SK11D号井は厚さ90mの火山岩層で日産100kl・天然ガス2万m3の自噴。片貝・雲出・関原のガス田発見の端緒
- [29]日本瓦斯化学工業所有鉱区に共同加入し1959年2月東新潟SK1号井を試掘、1,450m層で構造性ガス層に逢着。1960年に関原・片貝でも構造性天然ガス発見。坑井水処理を要しない点で水溶性ガスより有利
- [30]日本瓦斯化学工業所有鉱区に共同加入し1959年2月東新潟SK1号井を試掘、1,450m層で構造性ガス層に逢着。1960年に関原・片貝でも構造性天然ガス発見。坑井水処理を要しない点で水溶性ガスより有利
- [32]日本瓦斯化学工業所有鉱区に共同加入し1959年2月東新潟SK1号井を試掘、1,450m層で構造性ガス層に逢着。1960年に関原・片貝でも構造性天然ガス発見。坑井水処理を要しない点で水溶性ガスより有利
- [34]日本瓦斯化学工業所有鉱区に共同加入し1959年2月東新潟SK1号井を試掘、1,450m層で構造性ガス層に逢着。1960年に関原・片貝でも構造性天然ガス発見。坑井水処理を要しない点で水溶性ガスより有利
- [36]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- [37]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- [38]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- [39]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- [40]帝国石油も頸城で大量のガスを発見。1960年4月鉱山局長の斡旋で開発・販売分野を調整し、日本瓦斯化学工業・東北電力への供給態勢へ。関原ガス田・頸城沖海上鉱区を含む鉱業権286件と出願中196件を帝国石油へ譲渡。見附の随伴ガス日産5万m3を放散燃焼、1960年3月西長岡集ガス所まで管、1961年9月新潟市まで61kmの送ガス幹線完成
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [27]見附市で従来不可能視された火山岩中の厚さ90mの油層を開発した(三村起一氏の回想)
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第3節 後期(昭和36年度より昭和40年度まで)
- [35]新潟県で発見された構造性天然ガスは化学工業用原料・工場燃料として需要を喚起し、供給不足の状態となった
1961年〜北スマトラへ出た海外原油と、石油開発公団を経た民間会社での再発足
石油資源開発は、国産の原油と天然ガスが極度に不足し、需要の大部分を外国石油資本に依存する状態を問題視していた。1958年夏、社長の三村起一氏は北スマトラの油田開発への協力を求められ、通商産業大臣の賛意を得て1959年8月に現地へ渡った。日本側が188億4,500万円を出して油田を開発し原油で返済を受ける協定は、1960年4月に調印された。1960年設立の北スマトラ石油開発協力は、協力の報酬として年55万klの原油を受け取るようになった。1966年2月、石油資源開発は3億2千万円を出資して北スマトラ海洋石油資源開発を設立し、社長の岡田秀男氏が同社社長を兼ねた。海外での実績を国内探鉱の技術と資金に結びつける狙いがあったのだろう。
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2編 第2節 海外原油の開発
- [41]国産原油・天然ガスは極度に不十分で大部分を外国石油資本に依存、安定供給と供給源分散のため自国資本の海外開発が緊要。1966年2月21日、当社3億2千万円・北スマトラ石油開発協力3千万円の出資で北スマトラ海洋石油資源開発を設立、当社岡田社長が社長を兼務
- [45]国産原油・天然ガスは極度に不十分で大部分を外国石油資本に依存、安定供給と供給源分散のため自国資本の海外開発が緊要。1966年2月21日、当社3億2千万円・北スマトラ石油開発協力3千万円の出資で北スマトラ海洋石油資源開発を設立、当社岡田社長が社長を兼務
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [42]1958年夏に北スマトラ石油開発への協力を求められ、池田通産相の賛意を得て1959年8月に渡航。188億4,500万円を日本が出し油で返済を受ける協定を1960年4月に調印
- [43]1958年夏に北スマトラ石油開発への協力を求められ、池田通産相の賛意を得て1959年8月に渡航。188億4,500万円を日本が出し油で返済を受ける協定を1960年4月に調印
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第4章第1節 第3次5カ年計画と石油鉱業の展望
- [44]1960年設立の北スマトラ石油開発協力㈱は協力報酬として年55万klの原油を受け取っている
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [46]1966年2月 北スマトラ海洋石油資源開発㈱(現 ㈱INPEX)設立
政府は石油資源開発に海外探鉱資金として1964年度に2億円、1965年度に7億円を出資し、1966年度には20億円を予定した。石油資源開発は、海外進出には多額の資金が要り民間会社の力には限度があるとして、国の長期的な援助を欠かせないものとみた。政府の目標は、昭和50年代前半に海外開発原油で石油需要の30%、年産約9千万klの確保である。1967年10月の石油開発公団の設立に際し、石油資源開発は営業の全部を公団に出資して解散し、業務は公団の事業本部が承継した。公団の初代総裁は、社長を務めた三村起一氏である。海外の探鉱投融資の規模が、国内の探鉱会社1社の資本で賄える範囲を超えたと考えられる。
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2編 第2節 海外原油の開発
- [47]政府は当社に海外探鉱資金として1964年度2億円・1965年度7億円を出資、1966年度20億円を予定。海外進出は多額の資金を要し民間会社だけでは限度、国家の長期的援助が不可欠。昭和50年代前半に海外開発原油で需要の30%・年産約9千万klを目標
- [48]政府は当社に海外探鉱資金として1964年度2億円・1965年度7億円を出資、1966年度20億円を予定。海外進出は多額の資金を要し民間会社だけでは限度、国家の長期的援助が不可欠。昭和50年代前半に海外開発原油で需要の30%・年産約9千万klを目標
- [49]政府は当社に海外探鉱資金として1964年度2億円・1965年度7億円を出資、1966年度20億円を予定。海外進出は多額の資金を要し民間会社だけでは限度、国家の長期的援助が不可欠。昭和50年代前半に海外開発原油で需要の30%・年産約9千万klを目標
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [50]1967年10月、石油開発公団設立に際し旧会社は営業の全部を公団に出資して解散、業務は公団事業本部として承継
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [51]三村起一氏は1967年に石油開発公団初代総裁に就任(略歴注記)
公団の事業本部による国内事業の運営は、石油開発公団法の附則で3年以内の時限的な措置と定められていた。事業本部の期間中も国内の探鉱は続き、1968年4月には新潟県で吉井ガス田を発見した。第3次5カ年計画の答申による国内の探鉱資金の見積もりは約278億円で、このうち石油資源開発の分は約126億円にあたる。同じ答申は、1970年度の生産目標を原油31万5千kl、天然ガス6億m3と定めていた。1970年4月、事業本部は商法に基づく民間会社の石油資源開発として公団から分離し、旧会社株式の政府出資分は公団が承継した。海外への資金供給を公団に残し、国内の操業とガス販売を株式会社に戻す役割分担とうかがえる。
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [52]公団事業本部の体制は石油開発公団法附則により3年以内の時限的措置。1968年4月吉井ガス田発見。1970年4月、商法に基づく民間会社として公団から分離、旧会社株式の政府出資分は公団が承継
- [53]公団事業本部の体制は石油開発公団法附則により3年以内の時限的措置。1968年4月吉井ガス田発見。1970年4月、商法に基づく民間会社として公団から分離、旧会社株式の政府出資分は公団が承継
- [56]公団事業本部の体制は石油開発公団法附則により3年以内の時限的措置。1968年4月吉井ガス田発見。1970年4月、商法に基づく民間会社として公団から分離、旧会社株式の政府出資分は公団が承継
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第4章第1節 第3次5カ年計画と石油鉱業の展望
- [54]第3次5カ年計画の答申:国内探鉱資金約278億円、うち当社分約126億円。当社の昭和45年度生産目標は原油31万5千kl・天然ガス6億m3
- [55]第3次5カ年計画の答申:国内探鉱資金約278億円、うち当社分約126億円。当社の昭和45年度生産目標は原油31万5千kl・天然ガス6億m3
参考文献[41]-[56]
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2編 第2節 海外原油の開発
- [41]国産原油・天然ガスは極度に不十分で大部分を外国石油資本に依存、安定供給と供給源分散のため自国資本の海外開発が緊要。1966年2月21日、当社3億2千万円・北スマトラ石油開発協力3千万円の出資で北スマトラ海洋石油資源開発を設立、当社岡田社長が社長を兼務
- [45]国産原油・天然ガスは極度に不十分で大部分を外国石油資本に依存、安定供給と供給源分散のため自国資本の海外開発が緊要。1966年2月21日、当社3億2千万円・北スマトラ石油開発協力3千万円の出資で北スマトラ海洋石油資源開発を設立、当社岡田社長が社長を兼務
- [47]政府は当社に海外探鉱資金として1964年度2億円・1965年度7億円を出資、1966年度20億円を予定。海外進出は多額の資金を要し民間会社だけでは限度、国家の長期的援助が不可欠。昭和50年代前半に海外開発原油で需要の30%・年産約9千万klを目標
- [48]政府は当社に海外探鉱資金として1964年度2億円・1965年度7億円を出資、1966年度20億円を予定。海外進出は多額の資金を要し民間会社だけでは限度、国家の長期的援助が不可欠。昭和50年代前半に海外開発原油で需要の30%・年産約9千万klを目標
- [49]政府は当社に海外探鉱資金として1964年度2億円・1965年度7億円を出資、1966年度20億円を予定。海外進出は多額の資金を要し民間会社だけでは限度、国家の長期的援助が不可欠。昭和50年代前半に海外開発原油で需要の30%・年産約9千万klを目標
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)
- [42]1958年夏に北スマトラ石油開発への協力を求められ、池田通産相の賛意を得て1959年8月に渡航。188億4,500万円を日本が出し油で返済を受ける協定を1960年4月に調印
- [43]1958年夏に北スマトラ石油開発への協力を求められ、池田通産相の賛意を得て1959年8月に渡航。188億4,500万円を日本が出し油で返済を受ける協定を1960年4月に調印
- [51]三村起一氏は1967年に石油開発公団初代総裁に就任(略歴注記)
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第4章第1節 第3次5カ年計画と石油鉱業の展望
- [44]1960年設立の北スマトラ石油開発協力㈱は協力報酬として年55万klの原油を受け取っている
- [54]第3次5カ年計画の答申:国内探鉱資金約278億円、うち当社分約126億円。当社の昭和45年度生産目標は原油31万5千kl・天然ガス6億m3
- [55]第3次5カ年計画の答申:国内探鉱資金約278億円、うち当社分約126億円。当社の昭和45年度生産目標は原油31万5千kl・天然ガス6億m3
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [46]1966年2月 北スマトラ海洋石油資源開発㈱(現 ㈱INPEX)設立
- [50]1967年10月、石油開発公団設立に際し旧会社は営業の全部を公団に出資して解散、業務は公団事業本部として承継
- [52]公団事業本部の体制は石油開発公団法附則により3年以内の時限的措置。1968年4月吉井ガス田発見。1970年4月、商法に基づく民間会社として公団から分離、旧会社株式の政府出資分は公団が承継
- [53]公団事業本部の体制は石油開発公団法附則により3年以内の時限的措置。1968年4月吉井ガス田発見。1970年4月、商法に基づく民間会社として公団から分離、旧会社株式の政府出資分は公団が承継
- [56]公団事業本部の体制は石油開発公団法附則により3年以内の時限的措置。1968年4月吉井ガス田発見。1970年4月、商法に基づく民間会社として公団から分離、旧会社株式の政府出資分は公団が承継
出典・参考
10件
- 石油資源開発 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2章 石油資源総合開発5カ年計画と石油資源開発株式会社の設立
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第1章第3節 第2次世界大戦後の10年
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2編第1章第1節 探鉱方針の変遷
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第1節 前期(昭和30年度より昭和31年度まで)
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第2節 中期(昭和32年度より昭和35年度まで)
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第3章第3節 後期(昭和36年度より昭和40年度まで)
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第2編 第2節 海外原油の開発
- 石油資源開発株式会社十年史(1967)第4章第1節 第3次5カ年計画と石油鉱業の展望
- 私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長)