北海道炭礦汽船:北海道炭礦鉄道の創立と鉄道国有化による北海道炭礦汽船への改称
鉄道国有の代金から日本製鋼所への傾斜投資
1889年〜官の保護を前提にした創立と堀基
幌内の官営炭山と、手宮・幌内間で石炭を運ぶ鉄道は北有社が借りて運営していたが、その経営は消極的で、冬には札幌以東の列車を止めていた。のちに北海道炭礦鉄道を起こす堀基氏は、道庁で理事官・第二部長の職にあり、初代長官岩村通俊の補佐役を務める官僚だったが、官職を離れてこの事業を引き継ぐと決め、両事業の営業権をまず道庁に戻させ、そのうえで政府に払下げを願い出るという段取りを固めた。1889年6月の上京では、総理大臣の黒田清隆、公爵三条実美、時事新報主幹の福沢諭吉を次々に訪ね、三条が300株、福沢が600株をその場で引き受けた。宮内省も総株数13万株のうち1万株を申し込み、皇室は創立時の筆頭株主となった。同年11月18日、資本金650万円の北海道炭礦鉄道会社として創立が許可された。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第一章 当社の創立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [1]北有社は経営が消極的で、冬期間は札幌以東の列車運転を休止していた。
- [2]堀基は薩摩出身で、北海道庁第二部長の理事官として在官三年のあいだ岩村通俊長官を補佐した。
- [3]北有社所有の鉄道と炭鉱の営業権をいったん道庁へ返還させ、堀らが払下を政府に出願し、払下物件のいっさいを新設会社に提供させる案をまとめた。
- [4]堀は1889年6月に上京し、総理大臣黒田清隆、公爵三条実美、時事新報主幹の福沢諭吉を歴訪した。三条は300株、福沢は600株の引受を承諾した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第三部第一編第二章 経理(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [5]株式総数13万株のうち3万2,500株は発起人が引き受け、宮内省の申込により1万株を割り当てた。創立時の筆頭大株主は皇室であった。
- 『会社銀行八十年史』北海道炭礦汽船の項(東洋経済新報社, 1955年)
- [6]1889年11月、堀基により資本金650万円をもって北海道炭礦鉄道が創立された。
創立規約は資本金650万円を鉄道部500万円と炭鉱部150万円に分け、両部の資本と収益の会計を混同してはならないと定めた。政府は鉄道部の払込資本に対し、工事が落成するまで年五分の利子を補給し、開業後八年間は純益が年五分に達しなければ不足額を補うと約束した。見返りとして正副社長と理事の任免は北海道庁長官が握り、官の保証した移住民とその日常必要品は無賃、道内の農産未製品は定額運賃の半額で運ぶ義務を負った。払い下げを受けた幌内炭山と鉄道の代金は35万2,318円で、うち6万4,519円を三か月以内に、残りを十か年賦で納めることとされた。営業開始から受け取った補給利子の総額は、のちの営業補助金を含めて138万4,411円に達した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第一章 当社の創立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [7]創立規約第三条は資本金総額650万円のうち500万円を鉄道部、150万円を炭鉱部の資本金と定め、命令書第九条は両部の資本金を混同してはならないと定めた。
- [8]利子補給命令第一条により、鉄道敷設工事の竣成までは株金払込額に対し政府が年五分の利子を補給し、運輸開業後八か年間は純益金が年五分に達しないとき資本額の五分までを限度として不足額を補給するとされた。
- [9]利子補給命令第二条により正副社長および理事は補給年限の間は北海道庁長官が任免し、第三条により官の保証ある北海道移民とその携帯する日常必要品は無賃、北海道農産未製品は定額賃金の半額で搭載する義務を負った。
- [10]手宮・幌内間および幌内太・幾春別間鉄道の払下価格は24万7,950円、幌内炭山所属物件は10万4,368円、合計35万2,318円で、うち6万4,519円を三か月以内、残額28万7,799円を十か年賦で上納すると定められた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第一章 社業の進展(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [11]営業開始以来、政府から受領した補給利子の総額は、営業補助金をあわせて138万4,411円であった。
1890年は幌内の外にも事業を拡大した年で、4月に歌志内へ空知採炭所、6月にシホロカベツへ夕張採炭所を置き、幌内から350名を移して新しい坑を開いた。その幌内炭鉱の採炭を担ったのは官営のころから使われてきた囚人たちで、空知監獄署から千名を借り受けて始め、1890年にはさらに200名を加えた。しかし作業の能率は低く、1894年2月には囚人400名の返上を命じられ、一般鉱夫と混ぜて使うことも禁じられた。以後、鉱夫は道外から募るほかなくなった。鉄道は1892年8月に室蘭・岩見沢間134キロ、同年11月に追分・夕張間42.5キロが開通し、社線の総延長は327.5キロに達した。この新設工事の起業費は当初予算120万円に対して408万3,000円へ膨らみ、出炭高は1889年の4,000トンから1893年の30万4,000トンへ伸びた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第三章 起業概要(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [12]1890年4月に歌志内へ空知採炭所を設けて幌内炭鉱から350名を転勤させ、同年6月にシホロカベツへ夕張採炭所を設置して坑口二か所を開いた。
- [15]1892年8月に第一区幹線の室蘭・岩見沢間134キロ、同年11月に追分・紅葉山・夕張間42.5キロが開通し、既設鉄道とあわせた総延長は327.5キロとなった。
- [16]鉄道新設の起業費は当初の予算総額120万円に対し第一区線312万7,000円、第二区線95万6,000円の計408万3,000円にのぼった。出炭高は1889年の4,037トンから1893年の30万4,062トンへ増加した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第二章 営業開始(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [13]幌内炭鉱では官業時代から使役していた空知監獄署の囚人1,000名を借り受け、1890年にはさらに200名を増員した。
- [14]1894年2月に囚人400名の返上を命ぜられ、囚人と一般鉱夫の混用も禁止された。
参考文献[1]-[16]
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第一章 当社の創立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [1]北有社は経営が消極的で、冬期間は札幌以東の列車運転を休止していた。
- [2]堀基は薩摩出身で、北海道庁第二部長の理事官として在官三年のあいだ岩村通俊長官を補佐した。
- [3]北有社所有の鉄道と炭鉱の営業権をいったん道庁へ返還させ、堀らが払下を政府に出願し、払下物件のいっさいを新設会社に提供させる案をまとめた。
- [4]堀は1889年6月に上京し、総理大臣黒田清隆、公爵三条実美、時事新報主幹の福沢諭吉を歴訪した。三条は300株、福沢は600株の引受を承諾した。
- [7]創立規約第三条は資本金総額650万円のうち500万円を鉄道部、150万円を炭鉱部の資本金と定め、命令書第九条は両部の資本金を混同してはならないと定めた。
- [8]利子補給命令第一条により、鉄道敷設工事の竣成までは株金払込額に対し政府が年五分の利子を補給し、運輸開業後八か年間は純益金が年五分に達しないとき資本額の五分までを限度として不足額を補給するとされた。
- [9]利子補給命令第二条により正副社長および理事は補給年限の間は北海道庁長官が任免し、第三条により官の保証ある北海道移民とその携帯する日常必要品は無賃、北海道農産未製品は定額賃金の半額で搭載する義務を負った。
- [10]手宮・幌内間および幌内太・幾春別間鉄道の払下価格は24万7,950円、幌内炭山所属物件は10万4,368円、合計35万2,318円で、うち6万4,519円を三か月以内、残額28万7,799円を十か年賦で上納すると定められた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第三部第一編第二章 経理(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [5]株式総数13万株のうち3万2,500株は発起人が引き受け、宮内省の申込により1万株を割り当てた。創立時の筆頭大株主は皇室であった。
- 『会社銀行八十年史』北海道炭礦汽船の項(東洋経済新報社, 1955年)
- [6]1889年11月、堀基により資本金650万円をもって北海道炭礦鉄道が創立された。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第一章 社業の進展(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [11]営業開始以来、政府から受領した補給利子の総額は、営業補助金をあわせて138万4,411円であった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第三章 起業概要(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [12]1890年4月に歌志内へ空知採炭所を設けて幌内炭鉱から350名を転勤させ、同年6月にシホロカベツへ夕張採炭所を設置して坑口二か所を開いた。
- [15]1892年8月に第一区幹線の室蘭・岩見沢間134キロ、同年11月に追分・紅葉山・夕張間42.5キロが開通し、既設鉄道とあわせた総延長は327.5キロとなった。
- [16]鉄道新設の起業費は当初の予算総額120万円に対し第一区線312万7,000円、第二区線95万6,000円の計408万3,000円にのぼった。出炭高は1889年の4,037トンから1893年の30万4,062トンへ増加した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第二章 営業開始(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [13]幌内炭鉱では官業時代から使役していた空知監獄署の囚人1,000名を借り受け、1890年にはさらに200名を増員した。
- [14]1894年2月に囚人400名の返上を命ぜられ、囚人と一般鉱夫の混用も禁止された。
1891年〜保護の返上と鉄道333キロの売却
1891年2月には九州の炭鉱業者が起こした救済陳情に巻き込まれ、政府の補給金をめぐる動議が国会に上程されている。1892年には、道庁の認可を取らずに夕張線と空知支線の起点を変更したことが政治問題となり、堀基氏は引責辞職に追い込まれた。後任には、社内の事情に通じた大株主という道庁長官の条件に合う横浜の商人、高島嘉右衛門が発令された。1897年2月、政府は利子補給の廃止を打診し、理事の井上角五郎が交渉にあたって、三年間で総額17万円の営業補助金へ切り替えることで折り合った。これにより正副社長の任免、資本金の区分、準備金の積立、会計監査といった規定から外れ、会社は資本の使い道と人事を自ら決められる立場になった。保護を返上することは、同時に世論の監視から離れることでもあった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第一章 社業の進展(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [17]1891年2月、九州炭業者から提起された「九州炭鉱患難救済」に関する対議会陳情運動に巻き込まれ、当社に対する政府補給金問題が国会に上程された。動議は撤回された。
- [20]1897年2月、政府は利子補給を廃止する意図で代表者の出頭を求め、井上理事が協議した結果、1897年から三か年間、営業補助金の名目で総額17万円の補給をうけることに協定がととのった。
- [21]旧利子補給命令にもとづく正副社長の任免、資本金区分、準備金の積立、収益金整理、出納計算、会計監査に関する規定から解放され、実質的に独立会社としての自主性を確保した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第三章 起業概要(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [18]夕張線の起点を馬追村から追分へ、空知炭鉱支線の起点を空知太から砂川へ無断で変更したことが政治問題化し、1892年3月24日に堀基社長が引責辞職した。
- [19]渡辺千秋長官は社長の資格として官吏外の人物、御用商人を避けること、社内の事情に精通した大株主、果断進取の気性の四条件を挙げ、1892年4月4日に高島嘉右衛門が社長に任命された。
1905年3月に担保付社債信託法と鉱業抵当法が公布されると、専務の井上角五郎は資金を外国に求めた。同年10月の臨時株主総会で英貨社債100万ポンドの募集を決議し、鉄道財団と鉱業財団を担保に組成して、翌1906年1月に興業銀行の受託で英国チャータード銀行が一括して募り入れた。発行価格は額面100に対し92.75で、募入額は906万2,595円、発行差損の93万7,404円は以後15か年に分けて営業費から埋めることとした。担保付社債信託法に準拠した最初の社債であり、民間企業の外資導入としても先例となった。ただし日露戦争の外債を仕切った井上馨の系列を通さず英国系商会と直に約定したことが、のちに三井銀行の融資が止まる伏線になったという。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第二章 英貨社債の募集(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [22]1905年3月に担保付社債信託法が発布され、同時に鉄道抵当法および鉱業抵当法が制定されて、企業体として外債募集を行う基礎条件が整備された。
- [23]1905年10月の臨時株主総会で英貨社債100万ポンドの発行を決議し、鉄道財団と鉱業財団を組成して抵当権を設定、1906年1月に受託銀行の興業銀行が英国チャータード銀行をして一括募入させた。
- [24]発行価格は額面100に対し92.75で、為替換算額は977万92円三十六銭、募入額は906万2,595円四十一銭、発行差損の93万7,404円五十九銭は向こう15か年で補填する方針とした。
- [25]この英貨社債は、民間における外資輸入に先例を開き、担保付社債信託法に準拠したわが国最初の社債であった。
- 奥山亮『新考北海道史』(『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第二章 英貨社債の募集所収, 1958年)
- [26]民間会社が外債を募集する場合はクーンロエブ商会の手を経るという黙約があったが、井上角五郎が条件の有利な英国系スパイヤー商会と約定したため井上馨が怒り、桂太郎を動かして三井銀行に当社への融資を拒絶させたと伝えられる。
1899年2月、札幌区の代表者二名が、室蘭と小樽の両港を押さえた会社が運輸を独占しているため沿線の有望鉱区を開発できないとして、鉄道の買収を貴族院へ請願している。1906年3月に鉄道国有法が公布されると、買収対象となった17社のうち、当社と甲武鉄道が第一着手として同年10月1日に買収された。引き継がれたのは線路333キロ、車輌1,940輌、社員3,673名で、買収価格は翌年12月に3,099万7,088円と決まった。会社は同じ1906年10月に社名を北海道炭礦汽船と改め、本社を岩見沢から室蘭へ移した。掘る手段と運ぶ手段を一体で握るという創立の設計は、ここで半分が国へ移った。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第三章 当社鉄道の国有(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [27]1899年2月、札幌区代表者二名が、北海道の咽喉である室蘭・小樽両港を当社鉄道が扼し運輸を独占しているため沿線の有望鉱区の開発を期しえないとして、当社鉄道の買収を貴族院へ請願した。
- [28]1906年3月に鉄道国有法が公布され、北海道炭礦鉄道ほか16社が買収対象とされた。同年7月の逓信省告示により、第一着手として当社鉄道と甲武鉄道を10月1日に買収する旨が公示された。
- [29]引継件数は線路総延長333キロ、車輌1,940輌、船舶一隻、高等職員27名以下社員3,673名であった。1907年12月6日の逓信省告示により買収価格は3,099万7,088円二十三銭一厘、公債交付額は3,099万7,100円と決定した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第四章 事業の整備拡張(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [30]1906年9月の臨時株主総会で定款から鉄道運輸の営業目的を削除し、社名を北海道炭礦汽船株式会社に改め、本社を岩見沢から室蘭へ移すことを決議して10月1日から実施した。
参考文献[17]-[30]
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第一章 社業の進展(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [17]1891年2月、九州炭業者から提起された「九州炭鉱患難救済」に関する対議会陳情運動に巻き込まれ、当社に対する政府補給金問題が国会に上程された。動議は撤回された。
- [20]1897年2月、政府は利子補給を廃止する意図で代表者の出頭を求め、井上理事が協議した結果、1897年から三か年間、営業補助金の名目で総額17万円の補給をうけることに協定がととのった。
- [21]旧利子補給命令にもとづく正副社長の任免、資本金区分、準備金の積立、収益金整理、出納計算、会計監査に関する規定から解放され、実質的に独立会社としての自主性を確保した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第三章 起業概要(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [18]夕張線の起点を馬追村から追分へ、空知炭鉱支線の起点を空知太から砂川へ無断で変更したことが政治問題化し、1892年3月24日に堀基社長が引責辞職した。
- [19]渡辺千秋長官は社長の資格として官吏外の人物、御用商人を避けること、社内の事情に精通した大株主、果断進取の気性の四条件を挙げ、1892年4月4日に高島嘉右衛門が社長に任命された。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第二章 英貨社債の募集(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [22]1905年3月に担保付社債信託法が発布され、同時に鉄道抵当法および鉱業抵当法が制定されて、企業体として外債募集を行う基礎条件が整備された。
- [23]1905年10月の臨時株主総会で英貨社債100万ポンドの発行を決議し、鉄道財団と鉱業財団を組成して抵当権を設定、1906年1月に受託銀行の興業銀行が英国チャータード銀行をして一括募入させた。
- [24]発行価格は額面100に対し92.75で、為替換算額は977万92円三十六銭、募入額は906万2,595円四十一銭、発行差損の93万7,404円五十九銭は向こう15か年で補填する方針とした。
- [25]この英貨社債は、民間における外資輸入に先例を開き、担保付社債信託法に準拠したわが国最初の社債であった。
- 奥山亮『新考北海道史』(『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第二章 英貨社債の募集所収, 1958年)
- [26]民間会社が外債を募集する場合はクーンロエブ商会の手を経るという黙約があったが、井上角五郎が条件の有利な英国系スパイヤー商会と約定したため井上馨が怒り、桂太郎を動かして三井銀行に当社への融資を拒絶させたと伝えられる。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第三章 当社鉄道の国有(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [27]1899年2月、札幌区代表者二名が、北海道の咽喉である室蘭・小樽両港を当社鉄道が扼し運輸を独占しているため沿線の有望鉱区の開発を期しえないとして、当社鉄道の買収を貴族院へ請願した。
- [28]1906年3月に鉄道国有法が公布され、北海道炭礦鉄道ほか16社が買収対象とされた。同年7月の逓信省告示により、第一着手として当社鉄道と甲武鉄道を10月1日に買収する旨が公示された。
- [29]引継件数は線路総延長333キロ、車輌1,940輌、船舶一隻、高等職員27名以下社員3,673名であった。1907年12月6日の逓信省告示により買収価格は3,099万7,088円二十三銭一厘、公債交付額は3,099万7,100円と決定した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第四章 事業の整備拡張(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [30]1906年9月の臨時株主総会で定款から鉄道運輸の営業目的を削除し、社名を北海道炭礦汽船株式会社に改め、本社を岩見沢から室蘭へ移すことを決議して10月1日から実施した。
1907年〜売却代金の傾斜投資と三井の掌握
会社は鉄道の買収代金を、まず鉄道部員だけでなく炭鉱部員も含む4,808名への慰労手当115万円に充て、一人あたり平均240円を配った。これは買収額の三・7パーセントにあたり、日本鉄道の3パーセント、山陽鉄道と甲武鉄道の二・5パーセントを上回っている。次に純益金1,070万5,640円から、旧株1株50円、新株1株12円50銭の記念配当を出した。残りを充てた先が製鉄と製鋼で、1907年11月に英国のアームストロング社およびビッカース社と折半出資し、資本金1,000万円の日本製鋼所を室蘭に設立した。専務の井上角五郎は、噴火湾沿岸の砂鉄鉱区を個人名義で押さえるほど早くから製鉄を構想していた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第三章 当社鉄道の国有(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [31]1907年2月の臨時株主総会で慰労手当115万円を買収金から支出することを決議し、支給をうけたものは4,808名、一人当たり平均は240円であった。政府に継承された鉄道部員だけでなく炭鉱部その他の従業員にも均霑させた。
- [32]慰労手当の買収額に対する比率は、山陽鉄道と甲武鉄道が各二・5パーセント、日本鉄道が3パーセントであったのに対し、当社は三・7パーセント強であった。
- [33]鉄道国有により当社に帰属した純益金は1,070万5,640円五銭三厘で、1908年12月末現在の株主に対し旧株1株50円、新株1株12円50銭を記念配当として分配することを決定した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第五章 日本製鋼所の設立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [34]1907年11月1日に創立総会を開き、資本金1,000万円、2万株を英アームストロング社およびビッカース社と当社が折半引受して株式会社日本製鋼所を設立し、本店および工場を室蘭に置いた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第四章 事業の整備拡張(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [35]井上角五郎は噴火湾に沿う八十キロ、193万坪の砂鉄鉱区および付近鉄山1,423万七百坪の鉱区権を個人名義で確保していた。輪西製鉄所は1909年7月に熔鉱炉の点火式を行ったが、同年9月に操業を休止した。
1909年上期末、日本製鋼所の払込株金562万5,000円と製鉄所の起業費63万円、合わせて625万5,000円が回収の見込みなく固定していた。同じ時期に石炭市況が崩れて貯炭は38万トンに膨らみ、会社は同年5月に社員508名を整理し、翌1910年6月には創業以来続いた配当が途切れた。1910年3月、三井銀行は満期を迎えた40万円の返済猶予と新規60万円の融通をいずれも断り、日本製鋼所からは未払込金187万5,000円の一時払込を通告された。資金の当てが尽きた井上専務は同年4月に辞任し、監査役を除く重役一同も連袂辞職している。1913年1月、会社は資本金2,700万円の3分の1を減資し、優先株900万円の引受と重役の選考を三井に委ねた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第六章 社業の整理刷新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [36]1909年上期末現在、鉄道公債として取得した資金のうち日本製鋼所の引受株式に払い込んだ金額は562万5,000円、製鉄起業資金として投下した金額は63万円で、合計625万5,000円が新事業に集中したまま回収を期待しえない状態にあった。
- [37]石炭の需要が減退して炭価が低落し、1909年上期末の貯炭は38万トンにのぼった。同年5月の職制改正で社員508名を整理した。
- [39]1910年3月、三井銀行から満期となった40万円の返済猶予と新規申込中の60万円の融通について拒絶をうけ、同じ時期に日本製鋼所から未払込金残額187万5,000円の一時払込の通告をうけた。
- [40]1910年4月7日に井上専務が辞任を申し出て10日に辞表を提出し、監査役をのぞく重役一同が連袂辞職の手続をとった。
- [41]1913年1月15日の臨時株主総会で、資本金2,700万円の3分の1を減資して1,800万円とし、優先株式900万円を募集すること、優先新株の応募がない場合は三井側で全株を引き受けること、重役の選考を三井に一任することを決議した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第三部第一編第二章 経理(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [38]1910年6月、創業以来の連続配当が途切れて無配に転落した。
参考文献[31]-[41]
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第三章 当社鉄道の国有(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [31]1907年2月の臨時株主総会で慰労手当115万円を買収金から支出することを決議し、支給をうけたものは4,808名、一人当たり平均は240円であった。政府に継承された鉄道部員だけでなく炭鉱部その他の従業員にも均霑させた。
- [32]慰労手当の買収額に対する比率は、山陽鉄道と甲武鉄道が各二・5パーセント、日本鉄道が3パーセントであったのに対し、当社は三・7パーセント強であった。
- [33]鉄道国有により当社に帰属した純益金は1,070万5,640円五銭三厘で、1908年12月末現在の株主に対し旧株1株50円、新株1株12円50銭を記念配当として分配することを決定した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第五章 日本製鋼所の設立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [34]1907年11月1日に創立総会を開き、資本金1,000万円、2万株を英アームストロング社およびビッカース社と当社が折半引受して株式会社日本製鋼所を設立し、本店および工場を室蘭に置いた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第四章 事業の整備拡張(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [35]井上角五郎は噴火湾に沿う八十キロ、193万坪の砂鉄鉱区および付近鉄山1,423万七百坪の鉱区権を個人名義で確保していた。輪西製鉄所は1909年7月に熔鉱炉の点火式を行ったが、同年9月に操業を休止した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第六章 社業の整理刷新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [36]1909年上期末現在、鉄道公債として取得した資金のうち日本製鋼所の引受株式に払い込んだ金額は562万5,000円、製鉄起業資金として投下した金額は63万円で、合計625万5,000円が新事業に集中したまま回収を期待しえない状態にあった。
- [37]石炭の需要が減退して炭価が低落し、1909年上期末の貯炭は38万トンにのぼった。同年5月の職制改正で社員508名を整理した。
- [39]1910年3月、三井銀行から満期となった40万円の返済猶予と新規申込中の60万円の融通について拒絶をうけ、同じ時期に日本製鋼所から未払込金残額187万5,000円の一時払込の通告をうけた。
- [40]1910年4月7日に井上専務が辞任を申し出て10日に辞表を提出し、監査役をのぞく重役一同が連袂辞職の手続をとった。
- [41]1913年1月15日の臨時株主総会で、資本金2,700万円の3分の1を減資して1,800万円とし、優先株式900万円を募集すること、優先新株の応募がない場合は三井側で全株を引き受けること、重役の選考を三井に一任することを決議した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第三部第一編第二章 経理(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [38]1910年6月、創業以来の連続配当が途切れて無配に転落した。
筆者考察
掘る手段と運ぶ手段を同時に握るという創立の設計を、この会社は20年足らずで半分手放した。北海道炭礦鉄道は、政府が持て余した幌内の炭山と運炭鉄道を35万2,318円で引き取り、資本の内訳から社長の人事までを国の条件に合わせて出発している。資本金650万円のうち500万円が鉄道部、150万円が炭鉱部という割り方は、鉄道が本体で炭鉱が付属物だったことを示す。ところが1906年の鉄道国有法により、その本体は3,099万7,088円の現金に換わった。保護を返上して独立を果たした会社が、独立の足場そのものを売ったことになる。手元に残ったのは、掘る仕事と、行き先の決まっていない巨額の資金だった。
専務の井上角五郎氏が選んだ行き先は、室蘭での製鉄と製鋼だった。日本製鋼所の払込株金562万5,000円と輪西製鉄所の起業費63万円、合わせて625万5,000円が、回収の見込みのないまま帳簿に残る。砂鉄を混ぜた製銑は2か月で炉を止め、そこへ石炭市況の下落が重なって、会社は自力で資金を作れなくなった。1910年に三井銀行が融資を断ると井上氏以下の重役は総退陣し、1913年には資本金2,700万円の3分の1を削る代わりに、優先株900万円の引受と重役の選考を三井に委ねている。国の保護から抜けるために鉄道を売った会社は、その代金を使い切って財閥の管理下へ入った。
出典・参考
12件
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第一章 当社の創立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第三部第一編第二章 経理(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第一章 社業の進展(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第三章 起業概要(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第一編第二章 営業開始(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第二章 英貨社債の募集(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 奥山亮『新考北海道史』(『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第二章 英貨社債の募集所収, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第三章 当社鉄道の国有(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第四章 事業の整備拡張(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第五章 日本製鋼所の設立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第二編第六章 社業の整理刷新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『会社銀行八十年史』北海道炭礦汽船の項(東洋経済新報社, 1955年)