北海道炭礦汽船:三井船舶への船舶出資と石炭一本への集中
磯村豊太郎の機械化から日本石炭への販売移管へ
1914年〜三井傘下の立て直しと磯村豊太郎
三井物産ロンドン支店長だった磯村豊太郎氏は、1913年2月に専務取締役として着任した。減資で作った900万円のうち700万円は炭鉱と製鉄所の固定資産の切り下げに充てられ、帳簿上の資産は2,578万円から1,870万円へ落ちた。同年4月には職制を全面的に改め、技監・幹事・主事といった身分の呼称を廃して職名に統一し、鉱夫係を新設して、飯場頭を通じていた募集と入山を会社の直営へ切り替えた。1920年7月には坑内作業から独立した保安監督部を置き、部員に各礦を巡検して改善を命じる権限を与えた。磯村氏はこののち社長、会長を務め、1939年10月に他界するまでの27年間、業務を統理した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第一章 社業の更新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [1]磯村豊太郎は三井物産ロンドン支店長の職を辞し、1913年2月に専務取締役に就任した。団琢磨取締役会長の推挙による。
- [2]減資金900万円のうち700万円で炭鉱・製鉄所その他の固定資産を切り下げ、残る200万円で貯蔵品・得意先勘定・社債募集差額などを整理した。固定資産の更改前二千五百七十八万二千六百九十一円は更改後1,870万8,274円となった。
- [3]1913年4月1日付で職制の全面的改正と人事の大異動を行い、技監・幹事・主事・技師などの身分的名称を廃して職名表示に改めた。同時に鉱夫係を新設し、飯場組織の一掃につとめて募集・入山・定着指導をすべて直営方針に改めた。
- [4]1920年7月に職制を改正して坑内作業に超越した保安監督部を新設し、強力な監督指揮権を付与して、部員が各礦を巡検しガス炭塵・通気系統・火薬・発火具の取締りと変災予防施設を調査することとした。わが国における鉱業保安監督機関の創始であった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第五章 業態の好転(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [5]磯村豊太郎は1928年12月に取締役社長、1934年12月に取締役会長となり、1939年10月26日に72歳で死去するまで27年にわたり業務を統理した。
第一次大戦の石炭需要に対し、会社は自社の増産より他社の鉱区を買うことで応じた。1917年3月に空知炭鉱歌神坑を、1919年2月に留萌の天塩炭鉱を買収し、同年7月には三井鉱山から登川炭鉱を100万円で譲り受けて、代価の一部に自社株8万株を充てている。1920年1月には隣接する石狩石炭の権利義務いっさいを継承し、資本金を1,125万円増やして7,000万円とした。この間に資本金は2,700万円から7,000万円へ、所有鉱区は1億8,000万坪へ膨らみ、出炭高は1916年の176万トンから1920年の256万トンへ伸びた。鉱夫数も1917年の1万2,276名から1920年の1万7,828名へ増えた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第一章 社業の更新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [6]世界大戦の長期化で石炭需要が激増し炭価も高騰したため、増産の遂行と将来の飛躍にそなえて空知炭鉱歌神坑、天塩炭鉱、三井登川炭鉱、石狩石炭新夕張炭鉱をそれぞれ買収した。
- [7]1917年3月に歌神鉱区12万三千坪と臼威鉱区15万三千七百坪を買収し、1919年2月に天塩炭鉱を買収して留萌礦と呼称した。同年7月に三井鉱山と登川炭鉱の売買契約を締結し、総株式63万5,000株のうち8万株を三井鉱山に提供して買収費総額100万円に充当した。
- [8]1920年1月に石狩石炭株式会社の権利義務いっさいを継承し、このため資本金1,125万円を増加して7,000万円とした。編入した鉱区は十五鉱区1,832万六千坪で、年間25万トンを産出した。
- [9]出炭高は1916年の176万5,381トンから1920年の256万9,382トンへ増加し、資本金は2,700万円から5,875万円、さらに7,000万円へ増加した。所有鉱区は1920年末に1億8,000万坪に達した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第二章 世界大戦の反動不況と関東大震災(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [10]当社の鉱夫数は1917年の1万2,276名から1920年の1万7,828名へ増加した。
1913年3月、会社は三井物産との間で石炭および副産物の委託販売契約を結び、道内を除く内地と海外の販売いっさいを同社へ預けた。社有船の手宮丸と空知丸も委託に含まれ、配船と運賃の業務まで三井物産が扱った。翌1914年12月には三井鉱山を加えた北海道石炭販売組合を組織し、三社の売上をプール計算する体制に移っている。この委託は1940年に日本石炭株式会社が販売を一元化するまで続き、1938年度には三井物産の石炭取扱高1,373万トンのうち300万トンが当社炭で、会社の総販売高398万トンの76パーセントを占めた。掘る側と売る側を分けたことで、会社は販路の維持費を負わずに増産へ資本を向けられた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第一章 社業の更新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [11]1913年3月、当社と三井物産の間に石炭ならびに副産物委託販売契約を締結し、道内販売をのぞく内地および海外市場への社炭販売に関するいっさいの業務を三井物産に委託した。
- [12]委託販売契約により社有船の手宮丸・空知丸も三井物産に託し、配船および運賃関係の業務を取り扱わせた。
- [13]1914年12月、当社・三井物産・三井鉱山の三社間で北海道石炭販売組合を組織し、三社プール計算を開始した。執行機関として三社売炭部を設置した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [14]1938年度の三井物産の石炭総取扱量1,323万6,000トンのうち当社委託量は268万3,000トンで、当社総販売高366万2,000トンに対する比率は七三・3パーセントであった。1938年度において三井物産の取扱高1,370万トンのうち当社炭は300万トンで総取扱量の22パーセント、当社全販売高398万トンのうち76パーセントを占めた。
参考文献[1]-[14]
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第一章 社業の更新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [1]磯村豊太郎は三井物産ロンドン支店長の職を辞し、1913年2月に専務取締役に就任した。団琢磨取締役会長の推挙による。
- [2]減資金900万円のうち700万円で炭鉱・製鉄所その他の固定資産を切り下げ、残る200万円で貯蔵品・得意先勘定・社債募集差額などを整理した。固定資産の更改前二千五百七十八万二千六百九十一円は更改後1,870万8,274円となった。
- [3]1913年4月1日付で職制の全面的改正と人事の大異動を行い、技監・幹事・主事・技師などの身分的名称を廃して職名表示に改めた。同時に鉱夫係を新設し、飯場組織の一掃につとめて募集・入山・定着指導をすべて直営方針に改めた。
- [4]1920年7月に職制を改正して坑内作業に超越した保安監督部を新設し、強力な監督指揮権を付与して、部員が各礦を巡検しガス炭塵・通気系統・火薬・発火具の取締りと変災予防施設を調査することとした。わが国における鉱業保安監督機関の創始であった。
- [6]世界大戦の長期化で石炭需要が激増し炭価も高騰したため、増産の遂行と将来の飛躍にそなえて空知炭鉱歌神坑、天塩炭鉱、三井登川炭鉱、石狩石炭新夕張炭鉱をそれぞれ買収した。
- [7]1917年3月に歌神鉱区12万三千坪と臼威鉱区15万三千七百坪を買収し、1919年2月に天塩炭鉱を買収して留萌礦と呼称した。同年7月に三井鉱山と登川炭鉱の売買契約を締結し、総株式63万5,000株のうち8万株を三井鉱山に提供して買収費総額100万円に充当した。
- [8]1920年1月に石狩石炭株式会社の権利義務いっさいを継承し、このため資本金1,125万円を増加して7,000万円とした。編入した鉱区は十五鉱区1,832万六千坪で、年間25万トンを産出した。
- [9]出炭高は1916年の176万5,381トンから1920年の256万9,382トンへ増加し、資本金は2,700万円から5,875万円、さらに7,000万円へ増加した。所有鉱区は1920年末に1億8,000万坪に達した。
- [11]1913年3月、当社と三井物産の間に石炭ならびに副産物委託販売契約を締結し、道内販売をのぞく内地および海外市場への社炭販売に関するいっさいの業務を三井物産に委託した。
- [12]委託販売契約により社有船の手宮丸・空知丸も三井物産に託し、配船および運賃関係の業務を取り扱わせた。
- [13]1914年12月、当社・三井物産・三井鉱山の三社間で北海道石炭販売組合を組織し、三社プール計算を開始した。執行機関として三社売炭部を設置した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第五章 業態の好転(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [5]磯村豊太郎は1928年12月に取締役社長、1934年12月に取締役会長となり、1939年10月26日に72歳で死去するまで27年にわたり業務を統理した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第二章 世界大戦の反動不況と関東大震災(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [10]当社の鉱夫数は1917年の1万2,276名から1920年の1万7,828名へ増加した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [14]1938年度の三井物産の石炭総取扱量1,323万6,000トンのうち当社委託量は268万3,000トンで、当社総販売高366万2,000トンに対する比率は七三・3パーセントであった。1938年度において三井物産の取扱高1,370万トンのうち当社炭は300万トンで総取扱量の22パーセント、当社全販売高398万トンのうち76パーセントを占めた。
1920年〜不況下の機械化と夕張の集団ベルト
1920年3月に起きた株式と商品市場の混乱は全国的な経済恐慌へ発展し、同年6月から7月を境に石炭需要は極度に減退した。翌1921年の貯炭は坑所と港頭と市場をあわせて400万トンに達し、夕張塊炭の小樽渡し価格は1919年の25円台から1921年に18円、1922年には14円台へ落ちた。全国で休廃山した炭鉱は200数十、失業者は4万名にのぼっている。1921年3月、会社は三井・三菱・古河の代表と協議して全国の出送炭を17パーセント制限することで合意し、自社の送炭高を前年度の243万8,000トンから212万6,000トンへ引き下げた。鉱夫数は1920年の1万7,828名から翌年には1万3,898名へ減り、同じ1921年には登川礦の賃金争議に始まる夕張騒擾事件が7月まで続いた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第二章 世界大戦の反動不況と関東大震災(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [15]1920年3月に発した株式および商品市場の混乱は全国的な経済恐慌へ発展し、諸産業が沈滞して倒産が続出した。その結果、同年6、7月を境として石炭需要は極度に減退した。
- [16]1921年の貯炭は坑所・港頭・市場をあわせて400万トンに達した。夕張塊炭の小樽渡し価格は1919年の25円台から1921年の18円、1922年の14円台へ下落した。
- [17]金融の杜絶と経営難によって休廃山した大小炭鉱は全国で200数十におよび、失業者は4万名にのぼった。
- [18]1921年3月、当社・三井・三菱・古河の代表が協議して全国出送炭の17パーセントを制限することを申し合わせた。当社は1920年度輸送高243万8,000トンに対し、212万6,000トンとすることで最終的に協定が成立した。
- [19]当社の鉱夫数は1920年の1万7,828名から1921年の1万3,898名へ減少した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第四章 労務の刷新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [20]1921年2月の登川礦における賃金争議を契機として、同年7月まで続いた夕張騒擾事件が発生した。
1930年の金輸出解禁と世界的不況により、わが国の産業界は操業の短縮と企業整理に追われた。夕張塊炭の小樽渡し価格は1930年1月の14円60銭から1931年に十円を割り、1932年7月には7円80銭と4年前の半値になった。会社は1930年7月に若菜辺礦の操業を休止し、能率の悪い切羽を縮小して人員を整理し、翌年1月からは重役以下の諸手当を整理して週一日の操業短縮に入った。並行して進めたのが機械化で、試験の域にあった長壁式採炭法は1931年から本格化し、圧縮空気や電気を動力とする採炭機と鑿岩機が増えた。坑内外の電化が進んだ結果、事業用の電力使用量は1932年の5,400万キロワット時から1936年には9,800万キロワット時へ倍増した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第三章 金輸出解禁と世界的不況(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [21]1930年における金輸出の解禁ならびに世界的不況の襲来により、わが国産業界は操業の短縮、企業整理におちいり、海運界の不振と相まって炭況は低迷をつづけた。
- [22]夕張塊炭の小樽渡し価格は、金解禁直前の1930年1月に14円60銭であったが、1931年に十円を割り、1932年7月には7円80銭と1929年の半値にまで下落した。
- [23]1930年7月に若菜辺礦の操業を休止し、各礦でも能率不良の切羽を休止または縮小して人員を整理し新採用を見合わせた。1931年1月から重役以下の諸手当を整理し、人員の淘汰と一週一日の操業短縮を強行した。
- [24]試験の域にあった長壁式採炭法は1931年からようやく本格化し、圧縮空気または電気を動力とする各種採炭機の使用数が増加した。掘進作業には鑿岩機を使用した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [25]坑内外作業の機械化と出炭の増加にともない、事業用電力量は1932年の5,400万キロワット時から1936年の9,800万キロワット時へ約二倍に増加した。
夕張第二礦の坑内外運搬は1933年ごろほとんど行き詰まりの状態にあった。切羽の能力が上がっても坑道の炭車運搬で事故と配函の滞りが起き、増産の隘路になっていた。会社は1935年3月に炭車を全廃して切羽から選炭機までをベルトで繋ぐ計画を決め、平常の出炭を維持したまま1934年12月から工事に入り、1937年5月に完成させた。ベルトの総延長は7,118メートル、揚程は239メートルで、幹線の運搬能力は毎時500トンに達した。設置の前後を比べると、日産は6割、能率は2割二分増え、トン当たりの動力は2割三分、負傷率は4割減り、経費は半減した。1932年上期に四・91パーセントだった利益率は1937年下期に14.64パーセントへ回復したが、これは市況の好転と機械採炭の進捗が重なった結果だった。
- 竹鶴可文「夕張ベルト・コンベヤーの思い出」(『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立所収, 1958年)
- [26]1933年ころの夕張第二礦の坑内外運搬はほとんど行詰りの状態にあり、これを打開するため各種の計画と調査研究がなされた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [27]夕張鉱業所では坑道運搬の系統が複雑で事故が続発し配函が円滑を欠いたため、切羽固有の能力を発揮できず、これが増産の大きな隘路をなしていた。
- [28]1935年3月、集団ベルト・コンベヤー設備によるトラックレス・マイニングの計画が樹立された。工事は1934年12月1日に始まり、1937年5月中旬に完成した。
- [29]ベルトの総延長は5,056メートル、揚程は239メートルで、既設の切羽およびゲート所在のベルトを加えると合計7,118メートルに達した。幹線ベルトの運搬能力は毎時500トン、支線ベルトは225トンであった。
- [30]集団ベルトの設置前後を比較すると、日産で60パーセント、能率で22パーセントの増加、動力面ではトン当たり23パーセントの減少、運搬能率は二・五倍、経費は半減、負傷率は40パーセントの減少を示した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第五章 業態の好転(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [31]利益率は1932年上期の四・91パーセントから1937年下期の14.64パーセントへ上昇した。利益率が著増したのは炭鉱収入と関係会社配当収入の激増によるもので、販売数量の増加と需給調節による販売価格の高騰に加え、機械採炭の進捗と経営の合理化による能率の増進が寄与した。
参考文献[15]-[31]
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第二章 世界大戦の反動不況と関東大震災(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [15]1920年3月に発した株式および商品市場の混乱は全国的な経済恐慌へ発展し、諸産業が沈滞して倒産が続出した。その結果、同年6、7月を境として石炭需要は極度に減退した。
- [16]1921年の貯炭は坑所・港頭・市場をあわせて400万トンに達した。夕張塊炭の小樽渡し価格は1919年の25円台から1921年の18円、1922年の14円台へ下落した。
- [17]金融の杜絶と経営難によって休廃山した大小炭鉱は全国で200数十におよび、失業者は4万名にのぼった。
- [18]1921年3月、当社・三井・三菱・古河の代表が協議して全国出送炭の17パーセントを制限することを申し合わせた。当社は1920年度輸送高243万8,000トンに対し、212万6,000トンとすることで最終的に協定が成立した。
- [19]当社の鉱夫数は1920年の1万7,828名から1921年の1万3,898名へ減少した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第四章 労務の刷新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [20]1921年2月の登川礦における賃金争議を契機として、同年7月まで続いた夕張騒擾事件が発生した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第三章 金輸出解禁と世界的不況(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [21]1930年における金輸出の解禁ならびに世界的不況の襲来により、わが国産業界は操業の短縮、企業整理におちいり、海運界の不振と相まって炭況は低迷をつづけた。
- [22]夕張塊炭の小樽渡し価格は、金解禁直前の1930年1月に14円60銭であったが、1931年に十円を割り、1932年7月には7円80銭と1929年の半値にまで下落した。
- [23]1930年7月に若菜辺礦の操業を休止し、各礦でも能率不良の切羽を休止または縮小して人員を整理し新採用を見合わせた。1931年1月から重役以下の諸手当を整理し、人員の淘汰と一週一日の操業短縮を強行した。
- [24]試験の域にあった長壁式採炭法は1931年からようやく本格化し、圧縮空気または電気を動力とする各種採炭機の使用数が増加した。掘進作業には鑿岩機を使用した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [25]坑内外作業の機械化と出炭の増加にともない、事業用電力量は1932年の5,400万キロワット時から1936年の9,800万キロワット時へ約二倍に増加した。
- [27]夕張鉱業所では坑道運搬の系統が複雑で事故が続発し配函が円滑を欠いたため、切羽固有の能力を発揮できず、これが増産の大きな隘路をなしていた。
- [28]1935年3月、集団ベルト・コンベヤー設備によるトラックレス・マイニングの計画が樹立された。工事は1934年12月1日に始まり、1937年5月中旬に完成した。
- [29]ベルトの総延長は5,056メートル、揚程は239メートルで、既設の切羽およびゲート所在のベルトを加えると合計7,118メートルに達した。幹線ベルトの運搬能力は毎時500トン、支線ベルトは225トンであった。
- [30]集団ベルトの設置前後を比較すると、日産で60パーセント、能率で22パーセントの増加、動力面ではトン当たり23パーセントの減少、運搬能率は二・五倍、経費は半減、負傷率は40パーセントの減少を示した。
- 竹鶴可文「夕張ベルト・コンベヤーの思い出」(『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立所収, 1958年)
- [26]1933年ころの夕張第二礦の坑内外運搬はほとんど行詰りの状態にあり、これを打開するため各種の計画と調査研究がなされた。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第五章 業態の好転(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [31]利益率は1932年上期の四・91パーセントから1937年下期の14.64パーセントへ上昇した。利益率が著増したのは炭鉱収入と関係会社配当収入の激増によるもので、販売数量の増加と需給調節による販売価格の高騰に加え、機械採炭の進捗と経営の合理化による能率の増進が寄与した。
1937年〜戦時増産と販売・船舶の喪失
1937年12月に提出した増産計画は、1941年度の出炭を1936年度実績の87パーセント増にあたる279万7,000トン積み増すというものだった。会社は平和礦と赤間礦を新たに開き、1941年12月には新幌内炭鉱を持つ昭和礦業を合併して従業員2,448名を引き継ぎ、資本金は1億4,500万円となった。発電設備は1938年度の2万1,400キロワットから1941年度の6万900キロワットへ増え、1941年末の在籍者は2万2,600名と1938年末の二・三倍に達した。労働力は内地の募集だけでは足りず、1939年度から1941年度に朝鮮人労務者1万3,018名を移入し、1944年度には移入者が総在籍の50パーセントを占めた。出炭は1944年度に528万トンと創業以来の最高を記録した。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [32]1937年12月に北海道石炭鉱業会を通じて石炭鉱業連合会へ提出した増産計画によれば、1936年度実績に対する1941年度の増産高は279万7,000トン、上昇率は87パーセントであった。
- [34]発電設備は1938年度の2万1,400キロワットから1941年度の6万900キロワットへ増加した。都市募集への転換と労務補導員制度により、1941年末の在籍数は1938年末の二・三倍にあたる2万2,600名に達した。
- [36]1941年度の出炭は455万トンにとどまったが、1944年度には併合した新幌内礦の出炭を含めて528万トンとなり、創業以来の新記録をつくった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第六章 経営規模の拡張(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [33]1941年12月1日に昭和礦業株式会社を合併し、社員282名・鉱員2,166名の合計2,448名を引き継いだ。合併により資本金は525万円増加し、公称資本金は1億4,500万円となった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第三章 決戦勤労体制の樹立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [35]当社の移入朝鮮人労務者数は1939年度2,442名、1940年度4,083名、1941年度6,493名の計1万3,018名に達した。1942年度は1万414名、1943年度は1万3,376名、1944年度は1万6,940名で、総在籍者の50パーセントを占めるに至った。
1940年10月に日本石炭株式会社が営業を開始すると、石炭の売買は一手買入と一手販売に切り替わり、商社の介在は排除された。30年近く続いた三井物産への委託販売は、1943年末の売戻制廃止とともに消滅した。船も同じ道をたどり、1942年4月に船舶運営会が設立されて社有船はすべて吸収され、会社の収入は傭船料だけになった。1943年12月には海務院の勧めにより、所有船舶21隻8万5,000トンの全部を三井船舶へ現物出資している。生産原価は1938年の7円19銭から1945年上期の49円61銭へ上がり、買取価格が追いつかず1944年下期には炭鉱部門が欠損に転じた。創立のときに握っていた鉄道と船は国と三井へ渡り、残ったのは掘る仕事だけだった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [37]1940年5月に日本石炭株式会社が設立され、10月1日から開業した。同社は一手買入・一手販売を行い、商社の介在はまったく排除されて三井物産の石炭販売業務も同時に終結した。
- [38]1913年3月に締結した三井物産との委託販売契約は、1943年末の日本石炭売戻廃止を機会に自然解消となった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第五章 業績の推移(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [39]1942年4月の船舶運営会の設立により社有船舶はあげて同会に吸収され、収入は傭船料のみとなったため回漕収益は激減した。
- [41]生産原価は1938年度の7円19銭から1945年度上期の49円61銭へ上昇した。日本石炭の買取価格の上昇にもかかわらず生産費を補うに至らず、1944年度下期に炭鉱部門は欠損を生じた。
- 『会社銀行八十年史』北海道炭礦汽船の項(東洋経済新報社, 1955年)
- [40]1943年12月、海務院の勧めにより所有船舶21隻8万5,000トンの全部を三井船舶に現物出資し、その後は石炭の採掘ならびに販売に専念した。
参考文献[32]-[41]
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [32]1937年12月に北海道石炭鉱業会を通じて石炭鉱業連合会へ提出した増産計画によれば、1936年度実績に対する1941年度の増産高は279万7,000トン、上昇率は87パーセントであった。
- [34]発電設備は1938年度の2万1,400キロワットから1941年度の6万900キロワットへ増加した。都市募集への転換と労務補導員制度により、1941年末の在籍数は1938年末の二・三倍にあたる2万2,600名に達した。
- [36]1941年度の出炭は455万トンにとどまったが、1944年度には併合した新幌内礦の出炭を含めて528万トンとなり、創業以来の新記録をつくった。
- [37]1940年5月に日本石炭株式会社が設立され、10月1日から開業した。同社は一手買入・一手販売を行い、商社の介在はまったく排除されて三井物産の石炭販売業務も同時に終結した。
- [38]1913年3月に締結した三井物産との委託販売契約は、1943年末の日本石炭売戻廃止を機会に自然解消となった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第六章 経営規模の拡張(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [33]1941年12月1日に昭和礦業株式会社を合併し、社員282名・鉱員2,166名の合計2,448名を引き継いだ。合併により資本金は525万円増加し、公称資本金は1億4,500万円となった。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第三章 決戦勤労体制の樹立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [35]当社の移入朝鮮人労務者数は1939年度2,442名、1940年度4,083名、1941年度6,493名の計1万3,018名に達した。1942年度は1万414名、1943年度は1万3,376名、1944年度は1万6,940名で、総在籍者の50パーセントを占めるに至った。
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第五章 業績の推移(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- [39]1942年4月の船舶運営会の設立により社有船舶はあげて同会に吸収され、収入は傭船料のみとなったため回漕収益は激減した。
- [41]生産原価は1938年度の7円19銭から1945年度上期の49円61銭へ上昇した。日本石炭の買取価格の上昇にもかかわらず生産費を補うに至らず、1944年度下期に炭鉱部門は欠損を生じた。
- 『会社銀行八十年史』北海道炭礦汽船の項(東洋経済新報社, 1955年)
- [40]1943年12月、海務院の勧めにより所有船舶21隻8万5,000トンの全部を三井船舶に現物出資し、その後は石炭の採掘ならびに販売に専念した。
筆者考察
鉄道を失った会社に残された道は、石炭へ資源を集中することだけだった。三井の資本を受け入れた北海道炭礦汽船で実務を握った磯村豊太郎氏は、職制を改めて労務と保安を独立した部門に切り出し、第一次大戦の需要には自社の増産ではなく歌神・天塩・登川・新夕張の買収で応じている。資本金は2,700万円から7,000万円へ、所有鉱区は1億8,000万坪へ膨らんだ。だが1920年の恐慌が来ると、買い集めた炭鉱はそのまま抱えきれない固定費へ変わり、会社は業界協定で生産を絞る側へ回る。規模を買うという手は、需要が消えた瞬間に逆へ働き、1年で4,000人近い鉱夫が山を離れた。増産の手段として買った炭鉱が、減産の重荷になった。
不況が長引くほど、人手を機械へ置き換える圧力は強くなる。夕張第二礦で炭車を全廃し、切羽から選炭機までを7,118メートルのベルトで結んだ1937年の工事は、日産を6割増やして経費を半減させた。この余力はそのまま戦時の増産要請に吸い上げられ、会社は平和礦と赤間礦を開き、朝鮮人労務者の移入で在籍の半分を埋めて、1944年度に528万トンという創業以来の最高出炭に届く。だが同じ時期に、販売は日本石炭へ、船21隻8万5,000トンは三井船舶へ移った。生産原価は7円19銭から49円61銭へ上がったが、買取価格を決めるのは日本石炭であり、1944年度下期には炭鉱部門が欠損に転じる。最高の出炭に届いたとき、会社が自分で決められる領域は創業以来もっとも狭くなっていた。
出典・参考
11件
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第一章 社業の更新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第五章 業態の好転(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第二章 世界大戦の反動不況と関東大震災(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第四章 労務の刷新(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第三編第三章 金輸出解禁と世界的不況(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 竹鶴可文「夕張ベルト・コンベヤーの思い出」(『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第一章 当社増産体制の確立所収, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第六章 経営規模の拡張(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第三章 決戦勤労体制の樹立(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『北海道炭礦汽船株式会社七十年史』第二部第四編第五章 業績の推移(北海道炭礦汽船株式会社, 1958年)
- 『会社銀行八十年史』北海道炭礦汽船の項(東洋経済新報社, 1955年)