PB衣料8割と毎週の売価変更による「完全売り切り」体制の確立
1995年実施上場で3年分の出店資金を得たファーストリテイリングは、なぜ返品できないPB商品のリスクを「毎週の値付け」で御する道を選んだのか
- 概要
- 1995年、ファーストリテイリングは売上高の約8割を自社企画のPB(プライベートブランド)衣料が占める体制のもと、POSデータを基に毎週の「売価変更会議」で全商品の値付けを見直し、シーズンを越える在庫を持たない「完全売り切り」の運営実務を確立した。前年7月の広島証券取引所への上場で3年分の出店資金を得て、出店ペースを年30店から年50店へ引き上げた時期にあたる。
- 背景
- 返品のきかないPB商品を大量に完全買い取りする調達構造は、売れ残りリスクをすべてファーストリテイリングが負う。アイテム数を色・サイズを除いて約400点に絞り込み一流工場の生産ラインを買い取る一方、売れ残りを値下げで処分し切る仕組みがなければ、低価格と高い粗利益率は両立できなかった。
- 内容
- 毎週月曜の朝から火曜の夕方まで、柳井正社長と畠中慶一・商品本部長を中心にバイヤー・店舗運営・商品コントローラーが順に会議へ呼ばれ、POSデータを見ながら各商品を販売期間中に売り切るための値下げ幅を決めた。定価での粗利益率50%以上、処分を含めてもトータル40%を確保する値付けの技術に加え、土地・建物はリースで持たず初年度黒字が見込めない立地には出店しない「持たざる経営」が併走した。
- 含意
- この運営実務が、のちのフリースブームと大量出店を支える土台となった。一方で「本部が全店一律に値付け・品揃え・陳列を決める」集中管理は、店舗数の急増と表裏であり、3年後の1998年に個々の店舗の実情と乖離して既存店の失速を招く原型でもあった。
「売り切る力」を仕組みにした企業
この意思決定の核心は、派手な商品や大量出店そのものではなく、返品できないPB商品を大量に完全買い取りするというリスクを、毎週の値付けという地味な業務で御し切った点にある。SPA(製造小売業)を看板に掲げる企業は多いが、その内実は、売れ残りを誰がいつ処分するかという泥臭い作業に帰着する。ファーストリテイリングは、その作業を社長と商品本部長が丸2日を費やす会議体にまで引き上げ、定価粗利50%以上・トータル40%という数字で守り抜いた。低価格と高粗利の両立は、この運営実務の徹底の結果だった。
もっとも、同じ徹底が次の課題も生んだ。POSと本部の判断で全店を一律に律する強さは、店舗数が数百に膨らむと、地域や店ごとの需要の差を取りこぼす弱さへ転じる。1995年に確立した「本部が値付けと品揃えを握る」仕組みは、3年後に個々の店舗の実情と乖離し、既存店の失速を招いた。1995年の完全売り切り体制と1998年の個店対応は、対立する打ち手ではなく、同じ強みが規模の拡大とともに裏返っていく一続きの過程として読める。
ファーストリテイリングが後年フリースブームや世界展開へ進めたのは、商品の当たり外れを店頭の値付けで吸収し、在庫を残さず現金を回すこの基礎体力があったからにほかならない。企業が確立すべきは奇策ではなく、当たり前を高い精度で回し続ける運営実務である──1995年のこの選択は、その一例として示唆に富む。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
上場で得た「3年分の出店資金」と年50店への加速
1984年に35歳で家業の紳士服店を継いで広島にユニクロ1号店を開いた柳井正氏は、1994年7月に広島証券取引所へ上場し約130億円を調達した。「これで3年分の出店費用が確保できた」として、1992年以来の年30店超の出店ペースを、1995年8月期から年50店へ引き上げた。新規店は平均床面積150坪・1店の年商約3億円、敷金や建設協力金などの初期投資は1店あたり6000万円で、土地・建物はすべてリース契約とし償却負担を抱えなかった。柳井氏は「初年度から黒字にならなければ、そこに出店する意味はない」という基準で立地を選んだ[1][2]。
資産を持たない経営は徹底しており、紳士服店以来の創業の地だった宇部市中央町の大和店をはじめ、全体の1割近い15店をすでに閉めていた。「土地や建物を持てば、そこに執着してしまい、より良い立地に移るのが遅れる」と柳井氏は語り、常に最良の立地へ動ける身軽さを優先した。1995年3月末で約175店に達し、1997年末までに300店・売上高1000億円という目標を掲げた[3]。
売上の8割を占めるPB衣料と、返品できないという構造リスク
ファーストリテイリングの急成長を支えたのは、売上高の約8割を占めるPB(プライベートブランド)衣料だった。「ユニクロ」ブランドのセーター・シャツ・パンツなどは、日本のスタッフが企画・設計し、香港の購買事務所を通じて中国やベトナムの縫製工場へ直接発注した。「ポロ・ラルフローレン」など一流ブランドを生産する工場と一定期間の生産ラインを買い取り、生産管理者を日本から派遣して品質を管理した。アパレルや商社を間に挟まないため、同じ価格でもワンランク上の商品を作れた[4]。
一流工場は世界のアパレルや小売の間で奪い合いになり、契約は難しい。そこでアイテム数を色・サイズを除いて約400点に絞り込み(同規模のカジュアル店の3分の1以下)、1アイテムを数万〜数十万点で大量発注し完全買い取りとした。「一流工場を確保できるかどうかが、品質を決める」と商品本部長の畠中慶一氏は語る。ただし完全買い取りは、売れ残っても返品できないというリスクと表裏だった[5]。
決断
毎週月曜から火曜まで続く「売価変更会議」
ファーストリテイリングは、返品できないPB商品のリスクを独自の「完全売り切り体制」で御した。毎週月曜の朝から、柳井正社長と畠中慶一・商品本部長を中心に「売価変更会議」を開き、POS(販売時点情報管理)データを資料に、10人のバイヤー、店舗運営の担当者、販売量や在庫の推移を見る商品コントローラーが順に呼ばれた。買い取った商品が販売期間中に売り切れるよう、価格をいくら下げるかを一品ずつ話し合い、会議は丸2日間、火曜の夕方まで続いてすべての価格が決まった[6]。
「モノによっては何段階も価格を下げて、完全に処分する」という畠中氏の方針のもと、広告チラシには毎回「限定品目玉」「処分」の文字が並んだ。店舗でも売価変更が日常作業のなかで最も時間を取り、シーズンを越える在庫はほとんど持たなかった。海外メーカー品(NB)である残り2割も、売価変更できるよう代理店を通さず直接並行輸入し、PB・NBの別なく最終的に売価変更で売り切った[7]。
定価粗利50%以上・トータル40%を守る値付けの技術
1アイテムのうち何割を定価で売り、残りをいつ・いくらで処分するかを見極めることが、同社独自のノウハウだった。処分品の利益率が下がることから逆算すると、定価での粗利益率は50%以上。自社企画のPBゆえに安い定価でも大きな粗利を稼げ、処分品を含めてもトータルで40%の粗利益率を確保した。販売管理費は売上高の30%で、粗利40%との差の10%が営業利益という構造をとり、初期投資は通常2年、長くても3年で回収した[8]。
客層は10代後半から20代前半の男女が中心で、小さな子供連れの主婦や熟年の女性まで幅広かった。1995年1月の阪神・淡路大震災では兵庫県内の6店が最長2週間閉店したが、被災地に近い店はむしろ震災前より売上を伸ばした。「水や食料品のように、商品が日常生活に密着している証拠」と柳井氏は語り、定番品を中心に販売実績から次期を予測しやすい、リスクの小さい領域へ的を絞った運営が奏功した[9]。
結果
独り勝ちの1990年代半ばと、集中管理が抱えた次の課題
1995年8月期のファーストリテイリングは売上高486億円・当期純利益21.0億円(単体)を計上した。同年4月時点では前期比35%増の450億円・経常利益64%増の45億円を見込んでおり、同時期に初の減益に沈んだ同業コックスと対照的に増収を続けた。あるカジュアル衣料チェーンの幹部は「ユニクロは店の方向性がはっきり出ている。それでいて、商品で冒険はしていない」と話した。あわせて1994年6月にニューヨークにデザイン事務所を設け、世界共通のトレンドを商品へ反映する体制も整え始めた[10]。
ただし、POSと本部主導の値付け・品揃えで全店を一律に律するこの運営は、店舗数の急増と表裏だった。色・サイズ別ではなく商品種類別に全店共通で商品を配分する集中管理は、地域や店ごとの売れ行きの違いを吸収できない。ファーストリテイリングは3年後の1998年、この本部集中管理が個々の店舗の実情と乖離して既存店売上が失速する事態に直面し、店舗へ権限を戻す「個店対応」への転換に踏み切る[11]。
- 日経ビジネス 1995年4月17日号「ファーストリテイリング PB衣料8割で急成長 毎週売価変更、売り切る」(日経BP)
- 日経ビジネス 1998年12月21日号「ファーストリテイリング 集中管理やめ個店対応へ 失速『ユニクロ』挽回なるか」(日経BP)
- ファーストリテイリング 有価証券報告書(1995年8月期)