松竹:阪井座での創業と松竹キネマによる映画製作への参入
1895年〜新京極の五座を掌握した双子の兄弟と松竹合資会社
白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は、1877年12月13日に京都三条柳馬場で双子として生まれた。父の大谷栄吉氏は花相撲の水場を営み、兄弟は物心のついた頃からその手伝いをした。一家が興行の世界へ入る足がかりは劇場に付属する売店の権利で、1885年に祇園下の花見小路へ祇園座が開場すると、母方の西村熊吉氏がその売店を引き受けた。祇園館という名は、1890年1月に同座を買い取った高木文平氏が改めてつけたものである。そこでは市川団十郎氏一派と中村鴈治郎氏を組ませた大芝居が興行された。新京極では1892年、東向座の売店の権利を大谷栄吉氏が取得し、その金主の一人ともなっている。同じ新京極の夷谷座では、白井松次郎氏が手伝いをしていた。そのうち売店主・白井亀吉氏の次女八重をめとり、養子として白井家に入る。大谷家のほうを継いだのは大谷竹次郎氏である。
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
- [1]白井松次郎・大谷竹次郎は1877年12月13日、京都三条柳馬場に双生児として生まれ、松次郎が兄、竹次郎が弟とされた
- [2]父の大谷栄吉は花相撲の水場(売店)を経営し、兄弟はもの心のついた頃から父母の仕事を手伝った
- [3]1885年、祇園下の花見小路に祇園座が開場し、西村熊吉がそこの売店を引きうけた
- [4]祇園座を譲り受けた高木文平は祇園館と改称し、1890年1月に東京の市川団十郎一派と大阪の中村鴈治郎を組み合わせた大芝居を興行した
- [5]1892年、大谷栄吉は新京極の東向座の売店の権利を取得し、やがてその金主(出資者)の一人になった
- [6]白井松次郎は新京極の夷谷座を手伝ううちに売店を経営する白井亀吉の次女八重と結婚して白井家の養子となり、大谷家は弟の竹次郎が跡目を継いだ
当時の劇場は、持主の座元が自ら興行する場合と、仕打と呼ばれる興行主が劇場を借りて狂言を組み役者を集める場合とに分かれ、仕打は興行のたびに金主から資金を仰いだ。当たれば利益を分け、外れれば仕打の借金になるため、銀行は芝居興行に融資しなかった。1895年、金主の一人に逃げられた阪井座が大谷栄吉氏に出資を求めると、売店の経営に専念していた大谷栄吉氏は大谷竹次郎氏を代理人として差し向けた。大谷竹次郎氏が阪井座の仕打となったのは1895年12月で、金主は5人おり、翌1896年1月に19歳で打った初興行では実川延二郎氏一座を立て、総利益の2割を取分とした。1899年に阪井座の持主が借金で座を手放すと、大谷竹次郎氏は新しい持主の大浦新太郎氏の後援で祇園館を買収し、老朽化した阪井座を壊した跡地へ移して歌舞伎座と改め、1900年12月28日に開場させた。
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
- [7]当時の劇場経営は、持主である座元が直接経営する場合と、太夫元または仕打と呼ばれる者が持主から劇場を借りて経営する場合とがあり、仕打は資金をその都度外部の金主から援助してもらうのが通例だった
- [8]興行が当たれば金主と利益を分け合い、損をすれば仕打の借金になるため、芝居興行は危険事業とされ、銀行その他の正規の金融機関は融資を喜ばなかった
- [9]1895年、新京極の阪井座が金主の一人に逃げられて大谷栄吉に出資を求め、栄吉は売店の経営に専心して興行には直接関係せず、竹次郎を代理人として差し出した
- [10]1896年1月、大谷竹次郎は19歳で阪井座の仕打として第一線に立ち、金主は5人いたため大谷の取分は総利益の2割で、出演俳優は座付の実川延二郎とその一座だった
- [11]1899年に阪井座の持主が借金で座を手放し、新しい持主の大浦新太郎の後援を得た大谷竹次郎は、売物に出ていた祇園館を買収して阪井座を取りこわした跡へ移転させ、歌舞伎座と改称して1900年12月28日に開場式をあげた
白井松次郎氏は京極座と夷谷座の仕打を務め、1900年1月から常盤座を引き受けた。引受けにあたり兄弟が木戸口を仕切る遊び人を退かせ、空き家同然にして渡すよう求めたのは、売店・番付・立見席の代金がそれぞれ外部の権利者に持ち去られ、太夫元の手元には僅かな木戸銭しか残らない慣行を断つためだった。1901年6月6日に常盤座が漏電で全焼すると、白井松次郎氏は火災保険金を分配して解散した株式組織から権利を譲り受け、平井権七氏から建築費を借りて劇場を新築し、明治座と改めて1902年1月1日に開場した。大阪朝日新聞京都版は1902年1月3日、明治座の落成を"松竹の新年"と題して記事に掲げた。兄弟はまもなく松竹合資会社を設立し、松と竹を組み合わせた社章を新京極近くの提灯屋に描かせた。新京極で二人が経営する劇場は、大小5座になった。
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
- [12]白井松次郎は京極座と夷谷座の仕打となり、常盤座の話が持ちこまれたので1900年1月からこれを経営することにした
- [13]白井松次郎・大谷竹次郎は常盤座の経営権を引き受ける条件として、劇場に付随する遊び人を一掃し、空き家同然にして渡すよう常盤座側に求めた
- [14]当時の京都の興行界では、木戸口を仕切る遊び人が桟敷前や立見席の木戸銭を取り、売店・番付・火鉢やふとんの取り分も別々の他人が持ち去り、太夫元のふところには僅かの木戸銭しか入らなかった
- [15]1901年6月6日に常盤座が楽屋からの漏電で全焼し、火災保険金を株主に分配して解散した株式組織から白井松次郎が権利を譲り受け、平井権七から建築費を借りて純日本式の劇場を新築、座名を明治座と改めて1902年1月1日に開場した
- [16]1902年1月3日の大阪朝日新聞京都版が「松竹の新年」の見出しで新京極明治座の新築落成と白井松次郎・大谷竹次郎の兄弟を報じた
- [17]新聞記事の後、白井松次郎・大谷竹次郎はまもなく松竹合資会社をおこし、松と竹を組み合わせた図案の社章を新京極近くの提灯屋に書かせた
- [18]1902年の明治座開場時点で、白井松次郎・大谷竹次郎は新京極に大小5つの劇場を経営していた
参考文献[1]-[18]
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
- [1]白井松次郎・大谷竹次郎は1877年12月13日、京都三条柳馬場に双生児として生まれ、松次郎が兄、竹次郎が弟とされた
- [2]父の大谷栄吉は花相撲の水場(売店)を経営し、兄弟はもの心のついた頃から父母の仕事を手伝った
- [3]1885年、祇園下の花見小路に祇園座が開場し、西村熊吉がそこの売店を引きうけた
- [4]祇園座を譲り受けた高木文平は祇園館と改称し、1890年1月に東京の市川団十郎一派と大阪の中村鴈治郎を組み合わせた大芝居を興行した
- [5]1892年、大谷栄吉は新京極の東向座の売店の権利を取得し、やがてその金主(出資者)の一人になった
- [6]白井松次郎は新京極の夷谷座を手伝ううちに売店を経営する白井亀吉の次女八重と結婚して白井家の養子となり、大谷家は弟の竹次郎が跡目を継いだ
- [7]当時の劇場経営は、持主である座元が直接経営する場合と、太夫元または仕打と呼ばれる者が持主から劇場を借りて経営する場合とがあり、仕打は資金をその都度外部の金主から援助してもらうのが通例だった
- [8]興行が当たれば金主と利益を分け合い、損をすれば仕打の借金になるため、芝居興行は危険事業とされ、銀行その他の正規の金融機関は融資を喜ばなかった
- [9]1895年、新京極の阪井座が金主の一人に逃げられて大谷栄吉に出資を求め、栄吉は売店の経営に専心して興行には直接関係せず、竹次郎を代理人として差し出した
- [10]1896年1月、大谷竹次郎は19歳で阪井座の仕打として第一線に立ち、金主は5人いたため大谷の取分は総利益の2割で、出演俳優は座付の実川延二郎とその一座だった
- [11]1899年に阪井座の持主が借金で座を手放し、新しい持主の大浦新太郎の後援を得た大谷竹次郎は、売物に出ていた祇園館を買収して阪井座を取りこわした跡へ移転させ、歌舞伎座と改称して1900年12月28日に開場式をあげた
- [12]白井松次郎は京極座と夷谷座の仕打となり、常盤座の話が持ちこまれたので1900年1月からこれを経営することにした
- [13]白井松次郎・大谷竹次郎は常盤座の経営権を引き受ける条件として、劇場に付随する遊び人を一掃し、空き家同然にして渡すよう常盤座側に求めた
- [14]当時の京都の興行界では、木戸口を仕切る遊び人が桟敷前や立見席の木戸銭を取り、売店・番付・火鉢やふとんの取り分も別々の他人が持ち去り、太夫元のふところには僅かの木戸銭しか入らなかった
- [15]1901年6月6日に常盤座が楽屋からの漏電で全焼し、火災保険金を株主に分配して解散した株式組織から白井松次郎が権利を譲り受け、平井権七から建築費を借りて純日本式の劇場を新築、座名を明治座と改めて1902年1月1日に開場した
- [16]1902年1月3日の大阪朝日新聞京都版が「松竹の新年」の見出しで新京極明治座の新築落成と白井松次郎・大谷竹次郎の兄弟を報じた
- [17]新聞記事の後、白井松次郎・大谷竹次郎はまもなく松竹合資会社をおこし、松と竹を組み合わせた図案の社章を新京極近くの提灯屋に書かせた
- [18]1902年の明治座開場時点で、白井松次郎・大谷竹次郎は新京極に大小5つの劇場を経営していた
1902年〜東京歌舞伎座の直営化と東西十三劇場の一斉開場
1902年に興した松竹合資会社を松竹合名社と改めた白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は、実川延若氏と中村鴈治郎氏を擁して新京極の外へ出た。白井松次郎氏と中村鴈治郎氏の付き合いは1902年11月に始まった。松竹合名社は、演劇形式の改良と劇場様式の変革、興行方法の改革を掲げた。1905年10月に東京歌舞伎座で初興行を打ち、1906年2月には大阪中座へ進出し、同年11月に日本最古の劇場である京都南座を買収して改築した。1910年には東京の新富座と本郷座を買収。直営の劇場が東西に跨ったため、白井松次郎氏が関西、大谷竹次郎氏が関東と担当する地域を分け、それぞれの経営に当たった。
- 松竹九十年史 1985年「松竹合資会社設立」
- [19]白井松次郎・大谷竹次郎は1902年に松竹合資会社を興し、後に松竹合名会社と改め、俳優には実川延若、中村鴈治郎を擁して大阪・東京への進出を図った
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
- [20]白井松次郎は1902年11月に中村鴈治郎と握手して以来、30年余りの親交を結んだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
- [21]松竹合名社は演劇形式の改良、劇場様式の変革、興行方法の改革等を目標に掲げた
- [22]1905年10月に東京歌舞伎座で初興行を行い、1906年2月に大阪中座に進出し、同年11月に京都南座を買収改築した
- [24]1910年、松竹は東京に進出して新富座、本郷座を買収した
- [25]直営劇場が東西に広く跨ったため、白井松次郎・大谷竹次郎は関西・関東に担当責任分野を分け、それぞれの地域の経営に専心した
- 松竹 統合報告書2025(2025年11月)「価値創造の歴史」
- [23]1906年、日本最古の劇場である南座を直営とした
東京歌舞伎座が木挽町に建ったのは1889年11月である。東京日日新聞社長の福地源一郎氏が欧米視察のあとに理想的な新劇場を唱え、金融業者の千葉勝五郎氏を説いて出資させたもので、洋風木造3階建、定員1,824人、工費3万5,000円は当時として空前の規模に達した。しかし福地源一郎・千葉勝五郎・守田勘弥・田村成義と経営に当たる者が定まらず、市川左団次氏の脱退と尾上菊五郎・市川団十郎の相次ぐ死、1911年の帝国劇場開場が重なって株主が離れた。1911年8月、大谷竹次郎氏は藤山雷太氏ら同志会の一派から歌舞伎座株3,000株を1株60円で引き取ることとし、手附金1万5,000円を送った。ところが田村成義氏が反対し、座付俳優から3万円を調達して倍返しで契約を解いた。大谷竹次郎氏は、俳優の手から出た金は受け取れないとして、倍返し分の1万5,000円を歌舞伎座へ返した。
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」四・歌舞伎座獲得の意義
- [26]歌舞伎座が東京の木挽町に建てられたのは1889年11月である
- [27]東京日日新聞社社長の福地源一郎が欧米視察の結果、理想的新劇場の建設を主張して金融業者千葉勝五郎に出資を承知させ、洋風木造三階建て、定員1,824人、工費3万5,000円という当時としては空前の大建築となった
- [28]歌舞伎座は福地源一郎・千葉勝五郎のほか守田勘弥・田村成義など経営者が一定せず内紛が絶えず、市川左団次の脱退、尾上菊五郎・市川団十郎の相次ぐ死に加え、帝国劇場の開場で株主が株式を乗りかえた
- [29]1911年8月、大谷竹次郎は三田系の藤山雷太ほか数名からなる同志会の一派が提出した歌舞伎座株3,000株を一株60円で引取ることにし、手附金1万5,000円を送った
- [30]田村成義が猛烈に反対し、座付俳優の中村芝翫その他の関係者に交渉して3万円を調達し、商法により手附金を倍返しにして契約解除の手続きをした
- [31]大谷竹次郎は、倍返しの1万5,000円が俳優の手から出た金であるため受け取れないとして、これを歌舞伎座側へ戻した
歌舞伎座の重役会は1913年8月8日、相談役の三輪善兵衛氏の仲介で経営を大谷竹次郎氏に委任すると決め、同年10月1日初日の興行から松竹合名社の請負経営に改めた。1914年11月の興行からは、大谷竹次郎氏が個人として歌舞伎座を借り受け、松竹合名社の名による直営へ移った。松竹合名社は1915年9月3日に横浜座を買収し、1916年1月には東西13か所の大小劇場を一斉に開場させた。同年、大阪毎日新聞社へ堂島座の敷地を譲った代金で道頓堀の弁天座を獲得し、道頓堀五座を揃えた。大谷竹次郎氏が興行主の務めとして挙げたのは、俳優を育てることと、新脚本を出しながら旧歌舞伎を捨てないことだった。1917年に大阪の角座と浪花座、京都座を買収して神戸中央劇場と東京吾妻座を新築し、1921年までに東西の演劇劇場のほとんどが松竹合名社の手に入った。
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」四・歌舞伎座獲得の意義
- [32]歌舞伎座の重役会は相談役三輪善兵衛の仲介により経営を大谷竹次郎に委任することを決定し、1913年8月8日に発表、同年10月1日初日で松竹合名社の請負経営による第一回興行がはじまった
- [33]歌舞伎座は1914年11月興行から松竹合名社の直営となり、株主の大谷竹次郎が個人として歌舞伎座を借りうけ、それを合名社の名で経営した
- [34]松竹合名社は1915年9月3日から横浜座を買収し、1916年1月には東京・横浜・大阪・京都の13か所にのぼる大小劇場を東西で一斉開場した
- [35]1916年、松竹は堂島座を取りこわして敷地を大阪毎日新聞社に譲り、その代金で道頓堀五座のうち最後まで残っていた弁天座を獲得、5月から開場した
- [36]大谷竹次郎は、興行主は一面において俳優を育てて行かなければならないとし、演劇の向上をはかり新脚本を上演するほか旧歌舞伎を捨てない方針をとると述べた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
- [37]1917年に大阪角座・浪花座、京都の京都座を買収し、神戸中央劇場および東京吾妻座を新築した
- [38]1921年までに東西の演劇劇場のほとんどを掌中に収めた
参考文献[19]-[38]
- 松竹九十年史 1985年「松竹合資会社設立」
- [19]白井松次郎・大谷竹次郎は1902年に松竹合資会社を興し、後に松竹合名会社と改め、俳優には実川延若、中村鴈治郎を擁して大阪・東京への進出を図った
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
- [20]白井松次郎は1902年11月に中村鴈治郎と握手して以来、30年余りの親交を結んだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
- [21]松竹合名社は演劇形式の改良、劇場様式の変革、興行方法の改革等を目標に掲げた
- [22]1905年10月に東京歌舞伎座で初興行を行い、1906年2月に大阪中座に進出し、同年11月に京都南座を買収改築した
- [24]1910年、松竹は東京に進出して新富座、本郷座を買収した
- [25]直営劇場が東西に広く跨ったため、白井松次郎・大谷竹次郎は関西・関東に担当責任分野を分け、それぞれの地域の経営に専心した
- [37]1917年に大阪角座・浪花座、京都の京都座を買収し、神戸中央劇場および東京吾妻座を新築した
- [38]1921年までに東西の演劇劇場のほとんどを掌中に収めた
- 松竹 統合報告書2025(2025年11月)「価値創造の歴史」
- [23]1906年、日本最古の劇場である南座を直営とした
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」四・歌舞伎座獲得の意義
- [26]歌舞伎座が東京の木挽町に建てられたのは1889年11月である
- [27]東京日日新聞社社長の福地源一郎が欧米視察の結果、理想的新劇場の建設を主張して金融業者千葉勝五郎に出資を承知させ、洋風木造三階建て、定員1,824人、工費3万5,000円という当時としては空前の大建築となった
- [28]歌舞伎座は福地源一郎・千葉勝五郎のほか守田勘弥・田村成義など経営者が一定せず内紛が絶えず、市川左団次の脱退、尾上菊五郎・市川団十郎の相次ぐ死に加え、帝国劇場の開場で株主が株式を乗りかえた
- [29]1911年8月、大谷竹次郎は三田系の藤山雷太ほか数名からなる同志会の一派が提出した歌舞伎座株3,000株を一株60円で引取ることにし、手附金1万5,000円を送った
- [30]田村成義が猛烈に反対し、座付俳優の中村芝翫その他の関係者に交渉して3万円を調達し、商法により手附金を倍返しにして契約解除の手続きをした
- [31]大谷竹次郎は、倍返しの1万5,000円が俳優の手から出た金であるため受け取れないとして、これを歌舞伎座側へ戻した
- [32]歌舞伎座の重役会は相談役三輪善兵衛の仲介により経営を大谷竹次郎に委任することを決定し、1913年8月8日に発表、同年10月1日初日で松竹合名社の請負経営による第一回興行がはじまった
- [33]歌舞伎座は1914年11月興行から松竹合名社の直営となり、株主の大谷竹次郎が個人として歌舞伎座を借りうけ、それを合名社の名で経営した
- [34]松竹合名社は1915年9月3日から横浜座を買収し、1916年1月には東京・横浜・大阪・京都の13か所にのぼる大小劇場を東西で一斉開場した
- [35]1916年、松竹は堂島座を取りこわして敷地を大阪毎日新聞社に譲り、その代金で道頓堀五座のうち最後まで残っていた弁天座を獲得、5月から開場した
- [36]大谷竹次郎は、興行主は一面において俳優を育てて行かなければならないとし、演劇の向上をはかり新脚本を上演するほか旧歌舞伎を捨てない方針をとると述べた
1919年〜キネマ部の創設と蒲田から大船への撮影所移転
松竹合名社は京都の歌舞伎座や道頓堀の朝日座を日活などの活動写真興行に貸しており、その歩合金は年々増えて、自社が経営する演劇場の収入を上回ることもあった。1919年3月、白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は舞台監督の松居松葉氏の欧米視察に白井信太郎氏を同行させ、当時最大の撮影所を持つユニヴァーサルを見せた。ユニヴァーサルの撮影所はそのまま一つの都市をなして広大な不動産会社を兼ね、製作フィルムの大半が海外へ輸出されていた。1920年2月11日、松竹合名社はキネマ部を設けて映画の製作と供給を発表し、白井松次郎氏・大谷竹次郎氏・白井信太郎氏の連名で創立趣意書を出した。大谷竹次郎氏は、株式会社にすれば株主への配当を考えて眼前の利益にあせり粗製濫造に傾くとして、当面を個人経営とする方針を採った。
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・発足は松竹キネマ合名社
- [39]松竹合名社が京都の歌舞伎座や道頓堀の朝日座を横田永之助や日活の活動写真興行に貸していたとき、家賃として入る歩合金が年々多くなり、時には松竹が経営する他の演劇場の収入よりも多いことがあった
- [40]1919年3月、松竹の舞台監督松居松葉の海外視察に際し、白井松次郎は大谷竹次郎と相談して23歳の白井信太郎を同行させ、アメリカで当時最大の撮影所を持っていたユニヴァーサルを視察させた
- [41]白井信太郎は、ユニヴァーサルのように撮影所がそのまま一つの都市になって広大な不動産会社を兼ねているものもあり、製作フィルムの大半は海外へ輸出されると報告した
- [42]松竹合名社が社内にキネマ部を設けて映画の製作・供給を内外に発表したのは1920年2月11日で、創立趣意書は白井松次郎・大谷竹次郎・白井信太郎の連名だった
- [43]大谷竹次郎は、株式会社にすると株主への利益配当を考慮するため眼前の利益にあせり粗製濫造となりがちであるとして、当面は個人経営とする考えを表明した
撮影所の敷地は、井の頭公園付近や国府津海岸付近などの申込みが値段で折り合わず、1920年5月末に東京府荏原郡蒲田村の中村化学研究所跡およそ9,000坪へ決まった。松竹キネマ合名社は応募者240人から男子30人と女子6人を選び、小山内薫氏を校長とするキネマ俳優学校で養成した。同社はまた、ハリウッドからカメラマンのヘンリー小谷氏と大道具技師のジョージ・チャプマン氏、撮影監督の田中欽之氏を招き、照明器具とベルハウエル・カメラを買い入れた。創立披露第一回作品は、ヘンリー小谷氏が房州富浦で撮った"島の女"で、1920年11月1日に東京歌舞伎座、11月13日から道頓堀角座で公開した。同年11月22日には帝国活動写真株式会社を資本金125万円で設立し、1921年4月にこれを松竹キネマ株式会社と改めて松竹キネマ合名社を吸収したことで、資本金は500万円になった。
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・発足は松竹キネマ合名社
- [44]撮影所の敷地には東京市外井の頭公園附近、東海道国府津海岸附近、埼玉県大宮公園附近、神奈川県鶴見花月園附近などの申込があったが売買値段が折り合わず、1920年5月末に東京府荏原郡蒲田村の中村化学研究所跡約9,000坪に決定した
- [45]松竹キネマ合名社は240人ばかりの俳優応募者から男子30人・女子6人を厳選し、1920年4月1日開講のキネマ俳優学校で養成した。校長には小山内薫が就任した
- [46]松竹はハリウッド映画界のカメラマン、ヘンリー小谷、大道具技師ジョージ・チャプマン、撮影監督田中欽之を技術指導者に迎え、多数の照明器具、ベルハウエル・カメラなどを購入した
- [47]松竹キネマ創立披露第一回作品はヘンリー小谷が房州富浦の海岸でロケーションして作った「島の女」で、1920年11月1日に歌舞伎座で公開し、大阪では11月13日から道頓堀角座で披露興行を行った
- 松竹 有価証券報告書【沿革】
- [48]1920年11月22日に帝国活動写真株式会社を創立し、これが松竹の設立日となる。1921年4月に社名を松竹キネマ株式会社に変更し、同時に松竹キネマ合名社を吸収した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
- [49]大正9年11月設立の帝国活動(資本金125万円)を翌10年4月に松竹合名社が買収し、資本金500万円の松竹キネマとして発足した
1923年9月の関東大震災で直営館22館と蒲田撮影所の施設が全壊すると、松竹キネマは京都の下加茂で撮影を始め、蒲田の現代劇と京都の時代劇という分担を作り上げた。1924年7月に蒲田撮影所長となった城戸四郎氏は、泣きたい客だけに向けた映画を退け、明るく健康な娯楽という方針を蒲田に敷いた。1931年8月1日に帝国劇場で封切った"マダムと女房"が、最初に成功した国産トーキーとなった。1934年、日比谷に東京宝塚劇場を開業した小林一三氏の興行界進出を受けて、松竹キネマは地元と組んで松竹映画都市株式会社を資本金60万円で設立し、神奈川県大船駅近くの9万坪を得た。9万坪のうち3万坪を撮影所用地とし、残りは田園都市住宅地として坪当り20円から40円で分譲した。建築費120万円、建坪4,500坪、49棟の大船撮影所は蒲田の5倍の敷地を持ち、1936年1月14日の蒲田撮影所閉鎖をもって移転を終えた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
- [50]関東大震災によって直営館22館をはじめ蒲田の撮影所施設が全壊し、これを契機として京都下加茂で撮影を開始、蒲田の現代劇、京都の時代劇という慣例をつくりあげた
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」2・明朗蒲田調の確立
- [51]1924年7月1日に蒲田撮影所長へ就任した城戸四郎は、すべての映画を泣きたい客のために作るのは面白くない、娯楽は明るい健康なものでなければならないと説いて新派的題材の揚棄を主張した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂 概説
- [52]国産トーキー映画で成功した最初のものは松竹の「マダムと女房」(1931年)である
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」4・日本トーキーに松竹の先制
- [53]松竹トーキー第一作「マダムと女房」は1931年8月1日、帝国劇場で封切られた
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
- [54]1934年1月に開場した東京日比谷の宝塚劇場を根城に、宝塚歌劇を経営していた小林一三が興行界に進出してきた
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」5・松竹第一主義と、大船移転
- [55]松竹は地元と提携して松竹映画都市株式会社(資本金60万円)を創立し、神奈川県大船駅近くの9万坪を得た
- [56]9万坪のうち松竹が撮影所用地として取得する分は3万坪とし、残余は田園都市住宅地として坪当り20円から40円で一般に分譲することにした
- [57]大船撮影所は蒲田撮影所の5倍にあたる3万坪の敷地を持ち、49棟・建坪4,500坪、建築費120万円を要した。1936年1月14日に蒲田撮影所閉鎖式を挙げ、同日午後1時から大船で開所式を行った
参考文献[39]-[57]
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・発足は松竹キネマ合名社
- [39]松竹合名社が京都の歌舞伎座や道頓堀の朝日座を横田永之助や日活の活動写真興行に貸していたとき、家賃として入る歩合金が年々多くなり、時には松竹が経営する他の演劇場の収入よりも多いことがあった
- [40]1919年3月、松竹の舞台監督松居松葉の海外視察に際し、白井松次郎は大谷竹次郎と相談して23歳の白井信太郎を同行させ、アメリカで当時最大の撮影所を持っていたユニヴァーサルを視察させた
- [41]白井信太郎は、ユニヴァーサルのように撮影所がそのまま一つの都市になって広大な不動産会社を兼ねているものもあり、製作フィルムの大半は海外へ輸出されると報告した
- [42]松竹合名社が社内にキネマ部を設けて映画の製作・供給を内外に発表したのは1920年2月11日で、創立趣意書は白井松次郎・大谷竹次郎・白井信太郎の連名だった
- [43]大谷竹次郎は、株式会社にすると株主への利益配当を考慮するため眼前の利益にあせり粗製濫造となりがちであるとして、当面は個人経営とする考えを表明した
- [44]撮影所の敷地には東京市外井の頭公園附近、東海道国府津海岸附近、埼玉県大宮公園附近、神奈川県鶴見花月園附近などの申込があったが売買値段が折り合わず、1920年5月末に東京府荏原郡蒲田村の中村化学研究所跡約9,000坪に決定した
- [45]松竹キネマ合名社は240人ばかりの俳優応募者から男子30人・女子6人を厳選し、1920年4月1日開講のキネマ俳優学校で養成した。校長には小山内薫が就任した
- [46]松竹はハリウッド映画界のカメラマン、ヘンリー小谷、大道具技師ジョージ・チャプマン、撮影監督田中欽之を技術指導者に迎え、多数の照明器具、ベルハウエル・カメラなどを購入した
- [47]松竹キネマ創立披露第一回作品はヘンリー小谷が房州富浦の海岸でロケーションして作った「島の女」で、1920年11月1日に歌舞伎座で公開し、大阪では11月13日から道頓堀角座で披露興行を行った
- 松竹 有価証券報告書【沿革】
- [48]1920年11月22日に帝国活動写真株式会社を創立し、これが松竹の設立日となる。1921年4月に社名を松竹キネマ株式会社に変更し、同時に松竹キネマ合名社を吸収した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
- [49]大正9年11月設立の帝国活動(資本金125万円)を翌10年4月に松竹合名社が買収し、資本金500万円の松竹キネマとして発足した
- [50]関東大震災によって直営館22館をはじめ蒲田の撮影所施設が全壊し、これを契機として京都下加茂で撮影を開始、蒲田の現代劇、京都の時代劇という慣例をつくりあげた
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」2・明朗蒲田調の確立
- [51]1924年7月1日に蒲田撮影所長へ就任した城戸四郎は、すべての映画を泣きたい客のために作るのは面白くない、娯楽は明るい健康なものでなければならないと説いて新派的題材の揚棄を主張した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂 概説
- [52]国産トーキー映画で成功した最初のものは松竹の「マダムと女房」(1931年)である
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」4・日本トーキーに松竹の先制
- [53]松竹トーキー第一作「マダムと女房」は1931年8月1日、帝国劇場で封切られた
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
- [54]1934年1月に開場した東京日比谷の宝塚劇場を根城に、宝塚歌劇を経営していた小林一三が興行界に進出してきた
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」5・松竹第一主義と、大船移転
- [55]松竹は地元と提携して松竹映画都市株式会社(資本金60万円)を創立し、神奈川県大船駅近くの9万坪を得た
- [56]9万坪のうち松竹が撮影所用地として取得する分は3万坪とし、残余は田園都市住宅地として坪当り20円から40円で一般に分譲することにした
- [57]大船撮影所は蒲田撮影所の5倍にあたる3万坪の敷地を持ち、49棟・建坪4,500坪、建築費120万円を要した。1936年1月14日に蒲田撮影所閉鎖式を挙げ、同日午後1時から大船で開所式を行った
出典・参考
12件
- 松竹 統合報告書2025(2025年11月)「価値創造の歴史」
- 松竹 有価証券報告書【沿革】
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」四・歌舞伎座獲得の意義
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・発足は松竹キネマ合名社
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」2・明朗蒲田調の確立
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」4・日本トーキーに松竹の先制
- 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」5・松竹第一主義と、大船移転
- 松竹九十年史 1985年「松竹合資会社設立」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂 概説