日本テレビホールディングス:我が国第1号のテレビ放送免許の獲得と日本テレビ放送網の開局
1951年〜追放を解かれた正力松太郎氏の全国テレビ網構想と、6社の中でただ1社に下りた予備免許
正力松太郎氏は1951年8月6日に公職追放を解かれ、翌月4日に東京・丸の内の日本工業倶楽部で民間テレビ局の構想を発表した。構想は資本金10億円に借入金10億円を加える規模で、発起人には毎日新聞社の社長の本田親男氏も加わった。追放中に米国のド・フォーレ博士を通じて探ったテレビ事業は、マッカーサー元帥が外貨の支出を認めず実現しなかった。転機は1951年4月で、米上院のカール・ムント議員が共産主義への対抗策として日本とドイツでのテレビ網の建設を唱えた。テレビ放送の事業化に向けた発起人会も、同じ1951年8月に発足した。新聞でなくテレビを選んだのは、米国の対日戦略に構想を重ねれば資金と機材の目途が立つと正力松太郎氏がみたためと推察される。
- Decide 16(6)(176) 1998年 大森幸男
- [1]1951年8月6日に正力松太郎の追放解除、9月4日に日本工業倶楽部で日本テレヴィ放送(仮称)構想を発表
- [2]構想は資本金10億円・借入金10億円、発起人に毎日新聞社長の本田親男
- [3]追放中、ド・フォーレ博士のテレビ事業の打診をマッカーサー元帥がドル支出不可として拒否
- [4]1951年4月、米上院のカール・ムント議員が反共のため日本とドイツにテレビ網建設を唱えた(ビジョン・オブ・アメリカ構想)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- [5]1951年8月、テレビジョン放送事業開始のため設立発起人会を結成
発起人は放送の開始に備えて米国から専門家を招き、1951年10月に電波監理委員会へ電波法にもとづく免許の申請書を提出した。1951年9月の構想の発表会見には、米国のVOAの推進者ヘンリー・ホルシューセン氏も立ち会った。1952年7月、電波監理委員会は日本テレビ放送網に予備免許を下付した。テレビ放送の免許を求めていた申請者はNHKを含めて6社あり、この時点で免許を受けたのは日本テレビ放送網の1社だけである。テレビの本放送はNHKが1953年2月に先行し、民間2局目のラジオ東京の開始は1955年4月まで遅れた。米国の技術者を先に抱えて建設の段取りを具体的に示せたことが、審査で他の申請者との差になったとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- [6]テレビ放送開始に備えて米国より専門家を招聘し、1951年10月に電波監理委員会へ電波法による免許申請書を提出
- [8]1952年7月に予備免許が下付された
- Decide 16(6)(176) 1998年 大森幸男
- [7]1951年9月4日の構想発表会に米VOA推進者ヘンリー・ホルシューセンが立ち会った
- 証券 (10)(125) 1959年
- [9]NHKを含む6社の申請者のうち、1952年7月に免許を受けたのは日本テレビ放送網1社のみ
- [10]NHKの放送開始は1953年2月、ラジオ東京は1955年4月
日本テレビ放送網は1952年10月28日に資本金2億5000万円で発足し、社長は正力松太郎氏である。本社を東京都千代田区二番町14に置き、設立の直後から本格的な建設工事に着手した。放送開始前の1953年4月には、設備の充実と運転資金の一部に充てる目的で、資本金を倍の5億円へ増資。1953年8月にはフィードラインの取り付けを終え、建物と設備の工事をすべて完了した。本社の鉄塔は1959年時点で高さ132メートルあり、送信出力は映像が10キロワット、音声が5キロワットである。収入の無い建設期の資金を借入でなく株式で賄ったことは、開局直後の利払いの負担を軽くする選択だったと解される。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- [11]1952年10月、資本金2億5000万円で設立し正力松太郎が社長に就任
- [12]本社は東京都千代田区二番町14、設立後直ちに本格的建設工事に着手
- [13]1953年4月、設備充実の資金と一部運転資金に充当するため5億円に増資
- [14]1953年8月にフィードラインの取付を終え、一切の建築・設備の取付を完了
- 証券 (10)(125) 1959年
- [15]1959年時点で本社に高さ132メートルの鉄塔、出力は映像10キロワット・音声5キロワット
参考文献[1]-[15]
- Decide 16(6)(176) 1998年 大森幸男
- [1]1951年8月6日に正力松太郎の追放解除、9月4日に日本工業倶楽部で日本テレヴィ放送(仮称)構想を発表
- [2]構想は資本金10億円・借入金10億円、発起人に毎日新聞社長の本田親男
- [3]追放中、ド・フォーレ博士のテレビ事業の打診をマッカーサー元帥がドル支出不可として拒否
- [4]1951年4月、米上院のカール・ムント議員が反共のため日本とドイツにテレビ網建設を唱えた(ビジョン・オブ・アメリカ構想)
- [7]1951年9月4日の構想発表会に米VOA推進者ヘンリー・ホルシューセンが立ち会った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- [5]1951年8月、テレビジョン放送事業開始のため設立発起人会を結成
- [6]テレビ放送開始に備えて米国より専門家を招聘し、1951年10月に電波監理委員会へ電波法による免許申請書を提出
- [8]1952年7月に予備免許が下付された
- [11]1952年10月、資本金2億5000万円で設立し正力松太郎が社長に就任
- [12]本社は東京都千代田区二番町14、設立後直ちに本格的建設工事に着手
- [13]1953年4月、設備充実の資金と一部運転資金に充当するため5億円に増資
- [14]1953年8月にフィードラインの取付を終え、一切の建築・設備の取付を完了
- 証券 (10)(125) 1959年
- [9]NHKを含む6社の申請者のうち、1952年7月に免許を受けたのは日本テレビ放送網1社のみ
- [10]NHKの放送開始は1953年2月、ラジオ東京は1955年4月
- [15]1959年時点で本社に高さ132メートルの鉄塔、出力は映像10キロワット・音声5キロワット
1953年〜街頭テレビで100万人を超えた視聴者と、7億5000万円への増資
日本テレビ放送網は1953年8月に本放送を始め、同時に東京の都心と近県の都市の盛り場へ大型の受像機を据え付けた。当時の広告料は家庭にある受信機の台数を物差しにしており、受像機が高価なテレビでは開局早々の広告収入を見込みにくかった。相撲やレスリング、拳闘の中継では、1台の受像機の前に数百から数千の人垣ができた。街頭の人気を受けて飲食店や喫茶店も受像機を置き始め、全国の受像機は1955年6月時点で110,836台を数える。1959年3月末の貸借対照表にも、公衆受像機設備として35,006千円が計上されていた。街頭の受像機は、家庭への普及を待たずに広告主へ視聴者の数を示す装置として働いたと思われる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- [16]1953年8月に本放送を開始し、同時に東京都内と近県都市の繁華な場所に大型受像機を設置
- [17]広告価値は家庭の受信機数で決めるのが通例で、受像機が高価なため開局早々の広告収入は困難とされた
- [18]相撲・レスリング・拳闘の番組では1台の受像機に数百〜数千の群衆
- [19]飲食店・喫茶店・商店にも設置が続き、1955年6月の受像機は全国110,836台(正式登録67,590台)
- 証券 (10)(125) 1959年
- [20]1959年3月末の貸借対照表に公衆受像機設備35,006千円
開局から数年は赤字が続くという業界の通念に反し、日本テレビ放送網は放送の開始から7か月目に償却前で若干の黒字を計上した。黒字化の理由として、番組企画に加えて自社が考案した街頭受像機の設置が挙げられた。1955年6月時点で、街頭テレビを含む日本テレビ放送網の視聴者は100万人を超えた。事業収入は1953年4月〜1954年3月期の205,450千円から、翌期に401,789千円へ増えた。1955年4月〜1956年3月期の事業収入は591,853千円。登録台数が67,590台にとどまる時期に広告主を得られたのは、人の集まりで視聴者の厚みを示せたためと考えられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- [21]放送開始後数年は赤字が業界の常識のなか、放送開始から7か月目に償却前で若干の黒字
- [22]好成績の理由は番組企画の優秀さと、自社創案の街頭受像機の設置
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「49 放送」
- [23]1955年6月時点、街頭テレビを含む聴視者は100万人以上、広告収入が大幅に増加
- 株式会社年鑑 1958年版「日本テレビ放送網」
- [24]事業収入:1953/4-1954/3期205,450千円、1954/4-1955/3期401,789千円
- [25]事業収入:1955/4-1956/3期591,853千円
日本テレビ放送網は広告収入の増加を受けて、1955年4月に資本金を7億5000万円へ増資した。同年11月には社長の正力松太郎氏の入閣に伴い、後任の社長は清水与七郎氏である。正力松太郎氏は名誉社長として経営にとどまった。1957年11月時点の役員は社長の清水与七郎氏、専務の福井近夫氏のほか、相談役に藤原銀次郎氏を置いていた。当期純利益は1956年9月期の78,849千円から1957年9月期に301,305千円へ増え、配当率も10%から15%へ上がった。創業者の入閣後も経営陣を入れ替えず、清水与七郎氏の下で東京の放送局としての収益を固める体制を採ったのだろう。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「49 放送」
- [26]1955年4月、資本金を7億5000万円に増加
- [27]正力社長の入閣に伴い1955年11月に清水与七郎が後任社長
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- [28]1955年時点で名誉社長正力松太郎、社長清水与七郎
- 株式会社年鑑 1958年版「日本テレビ放送網」
- [29]1957年11月30日現在の役員:社長清水與七郎、専務福井近夫、相談役藤原銀次郎
- [30]当期純利益:1956年9月期78,849千円→1957年9月期301,305千円、配当率10.0%→15.0%
参考文献[16]-[30]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- [16]1953年8月に本放送を開始し、同時に東京都内と近県都市の繁華な場所に大型受像機を設置
- [17]広告価値は家庭の受信機数で決めるのが通例で、受像機が高価なため開局早々の広告収入は困難とされた
- [18]相撲・レスリング・拳闘の番組では1台の受像機に数百〜数千の群衆
- [19]飲食店・喫茶店・商店にも設置が続き、1955年6月の受像機は全国110,836台(正式登録67,590台)
- [21]放送開始後数年は赤字が業界の常識のなか、放送開始から7か月目に償却前で若干の黒字
- [22]好成績の理由は番組企画の優秀さと、自社創案の街頭受像機の設置
- [28]1955年時点で名誉社長正力松太郎、社長清水与七郎
- 証券 (10)(125) 1959年
- [20]1959年3月末の貸借対照表に公衆受像機設備35,006千円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「49 放送」
- [23]1955年6月時点、街頭テレビを含む聴視者は100万人以上、広告収入が大幅に増加
- [26]1955年4月、資本金を7億5000万円に増加
- [27]正力社長の入閣に伴い1955年11月に清水与七郎が後任社長
- 株式会社年鑑 1958年版「日本テレビ放送網」
- [24]事業収入:1953/4-1954/3期205,450千円、1954/4-1955/3期401,789千円
- [25]事業収入:1955/4-1956/3期591,853千円
- [29]1957年11月30日現在の役員:社長清水與七郎、専務福井近夫、相談役藤原銀次郎
- [30]当期純利益:1956年9月期78,849千円→1957年9月期301,305千円、配当率10.0%→15.0%
1956年〜平均6割強の電波料値上げと、資本金12億円での東証上場
日本テレビ放送網は1957年4月、電波料を平均6割強引き上げた。事業収入は1956年10月〜1957年3月期の770,680千円から、1957年4月〜9月期に1,173,886千円へ増えた。値上げの前提には受像機の家庭への普及があり、NHKの受信契約は1956年末の30万から1957年末に74万を数える。国内の広告費に占めるテレビの比率も、1956年の2.7%から1957年に6.4%へ上がった。視聴者の増加で媒体としての価値が上がり、テレビに出稿するスポンサーが増えていた。街頭の人数に代わって受信契約の数で料金の根拠を示せるようになり、値上げを通しやすくしたと読める。
- 証券 (10)(125) 1959年
- [31]1957年4月から電波料を平均6割強値上げし、1957年9月期の売上が急増
- [33]NHK加入者数は1956年末30万、1957年末74万
- [34]広告費中のテレビの比率は1956年2.7%、1957年6.4%
- [35]聴視者の増加で広告媒体の価値が高まり、テレビを利用するスポンサーが増加
- 株式会社年鑑 1958年版「日本テレビ放送網」
- [32]事業収入:1956/10-1957/3期770,680千円、1957/4-1957/9期1,173,886千円
1959年の日本テレビ放送網は、マイクロウエーブ網の拡充で増えた地方局へ番組を送り出すキーステーションとなっていた。連携の強い地方局は、大阪の読売テレビを含む10社に及んだ。地方局へは広告付きの番組ネットと広告を先方で入れる番組販売で番組を供給し、1959年3月期の収入比率は3.1%と2.7%である。1957年11月時点で大阪市東区大川町に大阪支社を置いていた。地方局との連携はスポンサーの獲得を容易にし、1958年のテレビ電波料の約30%を日本テレビ放送網が占めた。社名に掲げた放送網は、1社で全国を覆う設備でなく、地方局と番組を分け合う連携として実を持ったとうかがえる。
- 証券 (10)(125) 1959年
- [36]マイクロウエーブの拡充で地方局が増え、ネットを組むキーステーションの体制を整備。大阪の読売テレビなど10社とは連繋が強い
- [37]マイクロウエーブの拡充で地方局が増え、ネットを組むキーステーションの体制を整備。大阪の読売テレビなど10社とは連繋が強い
- [38]番組ネットは広告付き、番組販売は広告を先方で入れる。1959年3月期の収入内訳は番組ネット3.1%、番組販売2.7%
- [40]ネットの体制でスポンサー獲得が容易となり、1958年のテレビ電波料の約30%を占め業界首位
- 株式会社年鑑 1958年版「日本テレビ放送網」
- [39]1957年時点の大阪支社は大阪市東区大川町67
日本テレビ放送網は1959年9月15日、資本金12億円で東京証券取引所に上場した。資本金は1958年4月に10億円へ増資し、同年10月の株式会社レクリエーシヨンセンターとの吸収合併で12億円となった。合併した会社は東京の東大久保で15,000坪の土地を保有していた。上場時は正力松太郎氏が会長、清水与七郎氏が社長を務め、1959年3月期の負債比率は53.4%とラジオ東京の127.1%を下回った。1958年から1959年の間にカラー放送の設備へ約5億円を投じ、総額40億円を見込む屋内野球場も計画していた。上場は、カラー放送の本免許と大型の設備投資を控えて、株式市場から資金を得る経路を用意したものといえる。
- 証券 (10)(125) 1959年
- [41]1959年9月15日上場、資本金12億円
- [43]レクリエーシヨンセンターは東大久保に15,000坪の土地を所有
- [44]会長正力松太郎・社長清水与七郎、1959年3月期の負債比率53.4%(ラジオ東京127.1%)
- [45]1958〜1959年に約5億円でカラー放送設備、資金40億円の屋内野球場を計画
- 株式会社年鑑 1959年版「日本テレビ放送網」
- [42]1958年4月資本金10億円に増資、同年10月レクリエーシヨン・センターを吸収合併し資本金12億円
参考文献[31]-[45]
- 証券 (10)(125) 1959年
- [31]1957年4月から電波料を平均6割強値上げし、1957年9月期の売上が急増
- [33]NHK加入者数は1956年末30万、1957年末74万
- [34]広告費中のテレビの比率は1956年2.7%、1957年6.4%
- [35]聴視者の増加で広告媒体の価値が高まり、テレビを利用するスポンサーが増加
- [36]マイクロウエーブの拡充で地方局が増え、ネットを組むキーステーションの体制を整備。大阪の読売テレビなど10社とは連繋が強い
- [37]マイクロウエーブの拡充で地方局が増え、ネットを組むキーステーションの体制を整備。大阪の読売テレビなど10社とは連繋が強い
- [38]番組ネットは広告付き、番組販売は広告を先方で入れる。1959年3月期の収入内訳は番組ネット3.1%、番組販売2.7%
- [40]ネットの体制でスポンサー獲得が容易となり、1958年のテレビ電波料の約30%を占め業界首位
- [41]1959年9月15日上場、資本金12億円
- [43]レクリエーシヨンセンターは東大久保に15,000坪の土地を所有
- [44]会長正力松太郎・社長清水与七郎、1959年3月期の負債比率53.4%(ラジオ東京127.1%)
- [45]1958〜1959年に約5億円でカラー放送設備、資金40億円の屋内野球場を計画
- 株式会社年鑑 1958年版「日本テレビ放送網」
- [32]事業収入:1956/10-1957/3期770,680千円、1957/4-1957/9期1,173,886千円
- [39]1957年時点の大阪支社は大阪市東区大川町67
- 株式会社年鑑 1959年版「日本テレビ放送網」
- [42]1958年4月資本金10億円に増資、同年10月レクリエーシヨン・センターを吸収合併し資本金12億円
1951年〜1959年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 12 | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 24 | +90.4% | 6 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 29 | +20.7% | 6 | n/a | n/a | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
出典・参考
6件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日本テレビ放送網」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「49 放送」
- 株式会社年鑑 1958年版「日本テレビ放送網」
- 株式会社年鑑 1959年版「日本テレビ放送網」
- 証券 (10)(125) 1959年
- Decide 16(6)(176) 1998年 大森幸男