T&Dホールディングス:名古屋生命・大同生命の創立と太陽生命保険への改称
1893年〜中京有力者が資本金10万円で興した名古屋生命と、本願寺門徒の広岡家が支えた真宗生命
名古屋生命保険は1893年5月、中京の有力者の発起により名古屋市西区伝馬町に創立された。資本金は10万円で、初代社長には鈴木惣兵衛氏が就任した。発起人も本店も名古屋に置いた、地元発の生保である。のちの太陽生命保険は、この名古屋生命保険を前身とする。太陽生命保険は1993年5月に創業100周年を迎え、会社の起点を1893年の名古屋での創立に置いた。東京の生保に地元の保険料が流れる前に、中京の資金と人脈で契約を集める狙いがあったとみられる。
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」太陽生命保険
- [1]1893年5月、資本金10万円で名古屋生命保険を中京有力者の発起により名古屋市西区伝馬町に創立。初代社長は鈴木惣兵衛
- [2]1893年5月、資本金10万円で名古屋生命保険を中京有力者の発起により名古屋市西区伝馬町に創立。初代社長は鈴木惣兵衛
- [3]1893年5月、資本金10万円で名古屋生命保険を中京有力者の発起により名古屋市西区伝馬町に創立。初代社長は鈴木惣兵衛
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)太陽生命保険
- [4]太陽生命の前身は1893年5月に名古屋市で創立した名古屋生命保険。1993年5月に創業100周年
- [5]太陽生命の前身は1893年5月に名古屋市で創立した名古屋生命保険。1993年5月に創業100周年
真宗生命保険は1895年に、護国生命保険は1896年に設立された。真宗生命保険はのちに朝日生命保険へ改称し、北海生命保険とともに大同生命保険の母体になった。真宗生命保険の大株主は、本願寺の門徒の代表格にあたる広岡家。広岡家は加島銀行を中核に事業を営む家だった。大同生命保険はのちに、大阪の素封家である広岡家の事業として経営された。広岡家は真宗生命保険の時代から株式を持ち続け、3社の合併後も最大の株主として残った。宗派の名を社名に掲げた真宗生命保険は、門徒の結びつきを契約募集の地盤にしたと推察される。
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険
- [6]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- [7]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- [8]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- [9]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- [11]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- [10]大同生命は大阪の素封家廣岡氏の事業として発展。朝日・護國・北海の3社が母体
参考文献[1]-[11]
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」太陽生命保険
- [1]1893年5月、資本金10万円で名古屋生命保険を中京有力者の発起により名古屋市西区伝馬町に創立。初代社長は鈴木惣兵衛
- [2]1893年5月、資本金10万円で名古屋生命保険を中京有力者の発起により名古屋市西区伝馬町に創立。初代社長は鈴木惣兵衛
- [3]1893年5月、資本金10万円で名古屋生命保険を中京有力者の発起により名古屋市西区伝馬町に創立。初代社長は鈴木惣兵衛
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)太陽生命保険
- [4]太陽生命の前身は1893年5月に名古屋市で創立した名古屋生命保険。1993年5月に創業100周年
- [5]太陽生命の前身は1893年5月に名古屋市で創立した名古屋生命保険。1993年5月に創業100周年
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険
- [6]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- [7]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- [8]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- [9]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- [11]真宗生命は1895年設立(のち朝日生命に改称)、護国生命は1896年設立。広岡家は本願寺の門徒代表格で真宗生命時代から大株主
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- [10]大同生命は大阪の素封家廣岡氏の事業として発展。朝日・護國・北海の3社が母体
1902年〜朝日・護国・北海の3社合併で生まれた大同生命と、東京へ移って改称した太陽生命
大同生命保険は1902年7月、朝日生命保険・護国生命保険・北海生命保険の3社合併で株式会社として設立された。当時の生命保険業界は会社が乱立し、過当な競争に陥っていた。農商務省商工局の初代保険課長だった矢野恒太氏は、業界の粛正と整理を進めた。3社の合併は、この監督行政の方針を背景に決断された。社名の大同は、春秋左氏伝にある『小異を捨てて大同につく』という句に由来する。初代社長は朝日生命保険の社長だった広岡久右衛門氏。最大株主の広岡家の会社から社長を出した人事から、合併の主導権は広岡家が握っていたと考えられる。
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- [12]明治35年7月、朝日・護國・北海の三生命保険会社の合併で大同生命保険(株)を設立
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険
- [13]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [14]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [15]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [16]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [17]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
名古屋生命保険は1908年7月、社名を太陽生命保険に改めた。改称と同時に、営業所を東京の京橋三十間堀へ移転した。本社を東京へ移した時期と社名を変えた時期は、同じ1908年7月である。創立から15年で、名古屋の地元資本が興した生保は東京を本拠とする会社に変わった。本拠の移転と改称を同時に実施した経緯から、東京の市場を狙う判断があったと思われる。
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」太陽生命保険
- [18]明治41年7月に太陽生命保険(株)へ社名を変更し、営業所を東京京橋三十間堀へ移転
- [19]明治41年7月に太陽生命保険(株)へ社名を変更し、営業所を東京京橋三十間堀へ移転
- [21]明治41年7月に太陽生命保険(株)へ社名を変更し、営業所を東京京橋三十間堀へ移転
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)太陽生命保険
- [20]1908年7月、本社を東京に移転すると同時に太陽生命保険(株)へ改称
大同生命保険は設立後、大阪の素封家である広岡家の事業として経営された。広岡家は株式会社時代の前半、全株式の約75%強を保有した。資本金は300万円で、株主への配当を年8分に限った。株式会社の組織のまま、利益のほぼ全部を保険契約者への配当に充当した。加入者の健康増進と一般の福祉のために全科の病院を建て、無料診療所と健康相談所を全国に設けた。広岡家が経営を握りながら株主の取り分を抑えたのは、契約者の信用を株主配当より優先したためだろう。
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- [22]廣岡氏の事業として資本金300万円・株主配当年8分限定の株式会社で発展。利益の殆ど全部を契約者配当に振り向け、全科病院・無料診療所・健康相談所を設置
- [24]廣岡氏の事業として資本金300万円・株主配当年8分限定の株式会社で発展。利益の殆ど全部を契約者配当に振り向け、全科病院・無料診療所・健康相談所を設置
- [25]廣岡氏の事業として資本金300万円・株主配当年8分限定の株式会社で発展。利益の殆ど全部を契約者配当に振り向け、全科病院・無料診療所・健康相談所を設置
- [26]廣岡氏の事業として資本金300万円・株主配当年8分限定の株式会社で発展。利益の殆ど全部を契約者配当に振り向け、全科病院・無料診療所・健康相談所を設置
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険
- [23]株式会社時代の前半は加島銀行を中心とする広岡家の影響が強く、広岡家の持ち株は全株式の約75%強
参考文献[12]-[26]
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- [12]明治35年7月、朝日・護國・北海の三生命保険会社の合併で大同生命保険(株)を設立
- [22]廣岡氏の事業として資本金300万円・株主配当年8分限定の株式会社で発展。利益の殆ど全部を契約者配当に振り向け、全科病院・無料診療所・健康相談所を設置
- [24]廣岡氏の事業として資本金300万円・株主配当年8分限定の株式会社で発展。利益の殆ど全部を契約者配当に振り向け、全科病院・無料診療所・健康相談所を設置
- [25]廣岡氏の事業として資本金300万円・株主配当年8分限定の株式会社で発展。利益の殆ど全部を契約者配当に振り向け、全科病院・無料診療所・健康相談所を設置
- [26]廣岡氏の事業として資本金300万円・株主配当年8分限定の株式会社で発展。利益の殆ど全部を契約者配当に振り向け、全科病院・無料診療所・健康相談所を設置
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険
- [13]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [14]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [15]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [16]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [17]1902年7月、朝日・護国・北海の3社合併で株式会社として設立。乱立・過当競争の下、農商務省初代保険課長の矢野恒太が業界の粛正・整理を進めた。社名は春秋左氏伝に由来
- [23]株式会社時代の前半は加島銀行を中心とする広岡家の影響が強く、広岡家の持ち株は全株式の約75%強
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」太陽生命保険
- [18]明治41年7月に太陽生命保険(株)へ社名を変更し、営業所を東京京橋三十間堀へ移転
- [19]明治41年7月に太陽生命保険(株)へ社名を変更し、営業所を東京京橋三十間堀へ移転
- [21]明治41年7月に太陽生命保険(株)へ社名を変更し、営業所を東京京橋三十間堀へ移転
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)太陽生命保険
- [20]1908年7月、本社を東京に移転すると同時に太陽生命保険(株)へ改称
1911年〜資本金100万円へ増やした西脇済三郎氏の太陽生命と、加島銀行の整理で苦難に入った大同生命
太陽生命保険では1911年11月、西脇済三郎氏が大株主となって社長に就任した。本社を東京へ移した1908年7月から3年後の交代。西脇済三郎氏は保険学者の清水文之輔氏を専務に迎えた。1922年2月には資本金を100万円とし、創立時の10万円から10倍にした。1923年の関東大震災では営業所が全焼し、京橋南伝馬町へ移った。1930年4月には日本橋江戸橋に営業所を新築して移転した。大株主が社長を務め、保険の実務を専門家に委ねた体制が、震災後の再建を支えたと推測される。
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」太陽生命保険
- [27]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- [29]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- [30]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- [31]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- [32]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)太陽生命保険
- [28]1908年7月、本社を東京に移転し太陽生命保険(株)へ改称
大同生命保険は創業25周年の1926年、4分5厘の累加配当と満期割増金を付けた特別養老保険を発売した。発売後、この累加配当を約束どおりに支払った。前年の1925年6月には本社社屋を新築した。株式会社時代の前半、大同生命保険の経営は広岡家の強い影響の下にあった。株式組織のまま相互会社と競うには、契約者への配当の約束を果たすことが信用の裏付けになったと解される。
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- [33]創業25周年の大正15年に4分5厘累加配当付満期割増金付特別養老保険を発売し、配当を確実に履行して相互組織に劣らない実績を示した。大正14年6月に本社社屋を新築
- [34]創業25周年の大正15年に4分5厘累加配当付満期割増金付特別養老保険を発売し、配当を確実に履行して相互組織に劣らない実績を示した。大正14年6月に本社社屋を新築
- [35]創業25周年の大正15年に4分5厘累加配当付満期割増金付特別養老保険を発売し、配当を確実に履行して相互組織に劣らない実績を示した。大正14年6月に本社社屋を新築
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険
- [36]株式会社時代の前半は広岡家の影響を強く受け、持ち株は全株式の約75%強
株式会社時代の前半、大同生命保険の経営には、大阪に本店を置く加島銀行と広岡家が大きく関わった。昭和初期の金融恐慌で、その加島銀行は整理に至った。大同生命保険は加島銀行の整理を経て、苦難の時期に入った。大同生命保険は大阪の素封家である広岡家の事業として、設立以来経営された。苦難の時期は第2次世界大戦の敗戦まで続いた。広岡家の資金の中核だった銀行を失ったことで、同族の信用に支えられた経営の前提が崩れたと読み取れる。
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険
- [37]株式会社時代の前半は加島銀行(本店・大阪)を中心とする広岡家の影響が強く、後半は昭和初期の金融恐慌による加島銀行の整理などの苦難を経て敗戦を迎えた
- [38]株式会社時代の前半は加島銀行(本店・大阪)を中心とする広岡家の影響が強く、後半は昭和初期の金融恐慌による加島銀行の整理などの苦難を経て敗戦を迎えた
- [39]株式会社時代の前半は加島銀行(本店・大阪)を中心とする広岡家の影響が強く、後半は昭和初期の金融恐慌による加島銀行の整理などの苦難を経て敗戦を迎えた
- [41]株式会社時代の前半は加島銀行(本店・大阪)を中心とする広岡家の影響が強く、後半は昭和初期の金融恐慌による加島銀行の整理などの苦難を経て敗戦を迎えた
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- [40]大同生命は大阪の素封家廣岡氏の事業として発展した株式会社
参考文献[27]-[41]
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」太陽生命保険
- [27]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- [29]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- [30]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- [31]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- [32]明治44年11月に西脇済三郎が大株主となり社長に就任し、保険学者清水文之輔を専務に迎えた。大正11年2月資本金100万円。関東大震災で営業所全焼、京橋南傳馬町へ移転。昭和5年4月に営業所を新築移転
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)太陽生命保険
- [28]1908年7月、本社を東京に移転し太陽生命保険(株)へ改称
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- [33]創業25周年の大正15年に4分5厘累加配当付満期割増金付特別養老保険を発売し、配当を確実に履行して相互組織に劣らない実績を示した。大正14年6月に本社社屋を新築
- [34]創業25周年の大正15年に4分5厘累加配当付満期割増金付特別養老保険を発売し、配当を確実に履行して相互組織に劣らない実績を示した。大正14年6月に本社社屋を新築
- [35]創業25周年の大正15年に4分5厘累加配当付満期割増金付特別養老保険を発売し、配当を確実に履行して相互組織に劣らない実績を示した。大正14年6月に本社社屋を新築
- [40]大同生命は大阪の素封家廣岡氏の事業として発展した株式会社
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険
- [36]株式会社時代の前半は広岡家の影響を強く受け、持ち株は全株式の約75%強
- [37]株式会社時代の前半は加島銀行(本店・大阪)を中心とする広岡家の影響が強く、後半は昭和初期の金融恐慌による加島銀行の整理などの苦難を経て敗戦を迎えた
- [38]株式会社時代の前半は加島銀行(本店・大阪)を中心とする広岡家の影響が強く、後半は昭和初期の金融恐慌による加島銀行の整理などの苦難を経て敗戦を迎えた
- [39]株式会社時代の前半は加島銀行(本店・大阪)を中心とする広岡家の影響が強く、後半は昭和初期の金融恐慌による加島銀行の整理などの苦難を経て敗戦を迎えた
- [41]株式会社時代の前半は加島銀行(本店・大阪)を中心とする広岡家の影響が強く、後半は昭和初期の金融恐慌による加島銀行の整理などの苦難を経て敗戦を迎えた
出典・参考
4件
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」太陽生命保険
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「生命保険」大同生命保険(平和生命保険の項のファイルに同居)
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)太陽生命保険
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995)大同生命保険