第1章 年〜年

損害保険ジャパン:東京火災保険会社の設立と安田善次郎の経営参画

1887年〜柳川清助氏ら5人が京橋三十間堀で創立した東京火災と、大火が続いた創業の6年

東京経済雑誌主筆の田口卯吉氏らは国営強制保険案に反対し、政府は1882年3月に家屋保険法案を否決した。東京府知事の松田道之氏は府下だけでも実施を試みたものの、1882年7月に死去する。旧鳥取藩の用達商人だった柳川清助氏は松田道之氏の構想を民営向けに改め、1886年に創立草案をまとめた。発起人は鵜殿長氏や柳川清助氏ら旧鳥取藩ゆかりの5人で、創立願書の東京府への提出は1887年6月10日。社名は有限責任東京火災保険会社とし、国内で初めての火災保険会社として同年7月に発足した。国営案の挫折は、民間の手で火災の損失を分け合う事業を起こす余地を残したと考えられる。

  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「創業前史 第3節 創立の前夜」「東京火災 第1章 第2節 創立の認可」
    • [1]田口卯吉らの反対の中で1882年に家屋保険の国営案が否決され、松田道之の計画をもとに柳川清助が民営草案を起草し、旧鳥取藩ゆかりの発起人5名が1887年6月10日に創立願書を出し7月23日に認可を得た
    • [2]田口卯吉らの反対の中で1882年に家屋保険の国営案が否決され、松田道之の計画をもとに柳川清助が民営草案を起草し、旧鳥取藩ゆかりの発起人5名が1887年6月10日に創立願書を出し7月23日に認可を得た
    • [3]田口卯吉らの反対の中で1882年に家屋保険の国営案が否決され、松田道之の計画をもとに柳川清助が民営草案を起草し、旧鳥取藩ゆかりの発起人5名が1887年6月10日に創立願書を出し7月23日に認可を得た
    • [4]田口卯吉らの反対の中で1882年に家屋保険の国営案が否決され、松田道之の計画をもとに柳川清助が民営草案を起草し、旧鳥取藩ゆかりの発起人5名が1887年6月10日に創立願書を出し7月23日に認可を得た
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [5]東京火災は1887年7月、柳川清助ら5人の発起人により日本最初の火災保険会社として創立された

1887年7月23日に認可を得たあとも出資する者が現れず、創業事務は同年12月29日に一時中止となった。1888年5月に唯武連氏ら旧鳥取藩出身の3人が発起人に加わり、柳川清助氏は同年9月に退社した。創立事務所を京橋区三拾間堀から銀座2丁目へ移し、1888年10月1日に開業し、初代頭取は唯武連氏である。当時は保険思想が未発達で、1888年末の払込資本金は3万3800円にとどまる。1889年5月に社長となった折田正介氏は保険規則を改め、1890年には取次所を19ヵ所増設した。外勤社員の制度を持たない会社にとって、取次所の網が営業担当者の代わりを担ったのだろう。

  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第1章 第4節 開業と当時の諸事情」「第5節 進む営業体制」
    • [6]1887年12月に創業事務を中断、1888年5月に唯武連らが発起人に加入し柳川清助は9月退社、事務所を三拾間堀から銀座2丁目に移して1888年10月1日開業、初代頭取唯武連、1888年末の払込資本金3万3800円、1889年5月折田正介が社長、1890年に取次所19ヵ所増設
    • [7]1887年12月に創業事務を中断、1888年5月に唯武連らが発起人に加入し柳川清助は9月退社、事務所を三拾間堀から銀座2丁目に移して1888年10月1日開業、初代頭取唯武連、1888年末の払込資本金3万3800円、1889年5月折田正介が社長、1890年に取次所19ヵ所増設
    • [8]1887年12月に創業事務を中断、1888年5月に唯武連らが発起人に加入し柳川清助は9月退社、事務所を三拾間堀から銀座2丁目に移して1888年10月1日開業、初代頭取唯武連、1888年末の払込資本金3万3800円、1889年5月折田正介が社長、1890年に取次所19ヵ所増設
    • [10]1887年12月に創業事務を中断、1888年5月に唯武連らが発起人に加入し柳川清助は9月退社、事務所を三拾間堀から銀座2丁目に移して1888年10月1日開業、初代頭取唯武連、1888年末の払込資本金3万3800円、1889年5月折田正介が社長、1890年に取次所19ヵ所増設
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [9]東京火災の創業期は保険思想が未発達の時代であった

1890年11月30日の横須賀の大火で、東京火災は契約物件55戸に1万5345円の保険金を支払った。当期の収入保険料2万4000円に対して支払保険金は2万8000円で、不足は1万697円余り。その責任を負い、折田正介氏は1890年12月に在任1年半で社長を退任した。1892年4月10日の神田の大火では支払保険金が2万円余りとなり、社長と前社長の林友幸氏が私財で支払った。同じ時期の東京火災の競合は、1891年開業の明治火災と1892年開業の日本火災である。保険思想の未発達に各地の大火の頻発が重なり、東京火災の経営は行き詰まった。

  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第1章 第6節 大火がもたらした苦境」
    • [11]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
    • [12]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
    • [13]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
    • [14]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
    • [15]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [16]保険思想の未発達と各地の大火頻発で東京火災は経営の困難をきたした
参考文献[1]-[16]
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「創業前史 第3節 創立の前夜」「東京火災 第1章 第2節 創立の認可」
    • [1]田口卯吉らの反対の中で1882年に家屋保険の国営案が否決され、松田道之の計画をもとに柳川清助が民営草案を起草し、旧鳥取藩ゆかりの発起人5名が1887年6月10日に創立願書を出し7月23日に認可を得た
    • [2]田口卯吉らの反対の中で1882年に家屋保険の国営案が否決され、松田道之の計画をもとに柳川清助が民営草案を起草し、旧鳥取藩ゆかりの発起人5名が1887年6月10日に創立願書を出し7月23日に認可を得た
    • [3]田口卯吉らの反対の中で1882年に家屋保険の国営案が否決され、松田道之の計画をもとに柳川清助が民営草案を起草し、旧鳥取藩ゆかりの発起人5名が1887年6月10日に創立願書を出し7月23日に認可を得た
    • [4]田口卯吉らの反対の中で1882年に家屋保険の国営案が否決され、松田道之の計画をもとに柳川清助が民営草案を起草し、旧鳥取藩ゆかりの発起人5名が1887年6月10日に創立願書を出し7月23日に認可を得た
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [5]東京火災は1887年7月、柳川清助ら5人の発起人により日本最初の火災保険会社として創立された
    • [9]東京火災の創業期は保険思想が未発達の時代であった
    • [16]保険思想の未発達と各地の大火頻発で東京火災は経営の困難をきたした
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第1章 第4節 開業と当時の諸事情」「第5節 進む営業体制」
    • [6]1887年12月に創業事務を中断、1888年5月に唯武連らが発起人に加入し柳川清助は9月退社、事務所を三拾間堀から銀座2丁目に移して1888年10月1日開業、初代頭取唯武連、1888年末の払込資本金3万3800円、1889年5月折田正介が社長、1890年に取次所19ヵ所増設
    • [7]1887年12月に創業事務を中断、1888年5月に唯武連らが発起人に加入し柳川清助は9月退社、事務所を三拾間堀から銀座2丁目に移して1888年10月1日開業、初代頭取唯武連、1888年末の払込資本金3万3800円、1889年5月折田正介が社長、1890年に取次所19ヵ所増設
    • [8]1887年12月に創業事務を中断、1888年5月に唯武連らが発起人に加入し柳川清助は9月退社、事務所を三拾間堀から銀座2丁目に移して1888年10月1日開業、初代頭取唯武連、1888年末の払込資本金3万3800円、1889年5月折田正介が社長、1890年に取次所19ヵ所増設
    • [10]1887年12月に創業事務を中断、1888年5月に唯武連らが発起人に加入し柳川清助は9月退社、事務所を三拾間堀から銀座2丁目に移して1888年10月1日開業、初代頭取唯武連、1888年末の払込資本金3万3800円、1889年5月折田正介が社長、1890年に取次所19ヵ所増設
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第1章 第6節 大火がもたらした苦境」
    • [11]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
    • [12]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
    • [13]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
    • [14]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業
    • [15]1890年11月の横須賀大火で55戸・保険金1万5345円を支払い当期1万697円余の不足、折田正介社長が同年12月退任、1892年4月の神田大火で支払保険金2万余円を社長と林友幸前社長の私財で支払う、明治火災1891年・日本火災1892年開業

1893年〜安田善次郎氏の参画で株式会社に改めた東京火災と、同じ年に興した帝国海上

株主の星亨氏は実業家への経営委託を唱え、相談を受けた佐々田懋氏が安田善次郎氏に再建への出馬を求めた。安田善次郎氏は東京火災の内容を調べ、1889年以降の業界の契約高の伸びから事業の前途を有望と判断した。1893年5月30日に開いた臨時総会で資本金を5倍の100万円とし、払込の完了は同年6月15日である。安田善次郎氏は同年6月に経営へ参画し、会社を株式組織に改めて建て直しを図った。経営の最高意思決定の場は、取締役・監査役・評議委員が月2回集まる新設の重役協議会である。1894年6月末の契約高と保険料は前年のほぼ倍となり、繰越欠損を消して年5分の配当を出した。

  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第2章 第3節 安田資本による東京火災再建」
    • [17]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
    • [18]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
    • [19]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
    • [21]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
    • [22]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [20]1893年6月、安田善次郎が経営に参画して株式組織に改組し建直しを図った

武井守正氏は1885年の欧州視察を踏まえ、金融・保険・運輸の協力が産業を育てると安田善次郎氏に説いた。1893年7月の創立趣意書は、国内の海上保険会社が東京海上と大阪の日本海陸の2社にとどまると指摘した。同じ趣意書は、横浜の外国商店の過半が海上保険を営む実情を挙げ、国内資本による会社の増設を訴えた。帝国海上保険は1893年9月に創立され、発起人4人の中心は安田善次郎氏である。資本金は300万円で、株式1万5000株のうち安田家の引受は4500株にのぼる。銀行を営む安田善次郎氏には、貿易の金融と保険を一体で手がける狙いがあったと推察される。

  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「帝国海上 第1章 第1節 創業前の海上保険事情」「第2節 帝国海上の創立」
    • [23]武井守正が1885年の欧州視察で金融・保険・運輸の協力を安田善次郎に語り、1893年7月の創立趣意書は国内の海上保険会社が東京海上と日本海陸の2社のみで横浜の外国商店の過半が海上保険を営むと記した、資本金300万円・1万5000株のうち安田家4500株
    • [24]武井守正が1885年の欧州視察で金融・保険・運輸の協力を安田善次郎に語り、1893年7月の創立趣意書は国内の海上保険会社が東京海上と日本海陸の2社のみで横浜の外国商店の過半が海上保険を営むと記した、資本金300万円・1万5000株のうち安田家4500株
    • [25]武井守正が1885年の欧州視察で金融・保険・運輸の協力を安田善次郎に語り、1893年7月の創立趣意書は国内の海上保険会社が東京海上と日本海陸の2社のみで横浜の外国商店の過半が海上保険を営むと記した、資本金300万円・1万5000株のうち安田家4500株
    • [27]武井守正が1885年の欧州視察で金融・保険・運輸の協力を安田善次郎に語り、1893年7月の創立趣意書は国内の海上保険会社が東京海上と日本海陸の2社のみで横浜の外国商店の過半が海上保険を営むと記した、資本金300万円・1万5000株のうち安田家4500株
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [26]帝国海上は1893年9月、安田善次郎を中心とする4人の発起人により創立された

帝国海上の収入保険料は初年度の6万8802円から1898年6月末に62万7441円へ増え、代理店は232店に達した。陸上だけを運ぶ貨物の保険も扱うため、1899年8月に運送保険の追加を申請し、10月10日に認可を得た。営業種目は1899年の運送保険に続いて、1902年に火災保険を加えた。1902年8月20日の兼業免許は、海上保険会社による火災保険の兼営の最初の例にあたる。火災は当面再保険だけを引き受け、同じ安田系の東京火災とは同年8月9日に再保険特約を結んだ。火災の元受を急がず再保険にとどめたのは、火災専業の東京火災と顧客を分け合うためとみられる。

  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「帝国海上 第1章 第5節 混乱期の帝国海上の経営」
    • [28]帝国海上は1893年11月5日開業、初年度収入保険料6万8802円、第2年度29万7919円、1898年6月末62万7441円・代理店232店、1899年8月運送保険を追加申請し10月10日認可、1902年8月20日火災兼業免許で海上保険会社の火災兼営の最初、同年8月9日東京火災と再保険特約
    • [29]帝国海上は1893年11月5日開業、初年度収入保険料6万8802円、第2年度29万7919円、1898年6月末62万7441円・代理店232店、1899年8月運送保険を追加申請し10月10日認可、1902年8月20日火災兼業免許で海上保険会社の火災兼営の最初、同年8月9日東京火災と再保険特約
    • [31]帝国海上は1893年11月5日開業、初年度収入保険料6万8802円、第2年度29万7919円、1898年6月末62万7441円・代理店232店、1899年8月運送保険を追加申請し10月10日認可、1902年8月20日火災兼業免許で海上保険会社の火災兼営の最初、同年8月9日東京火災と再保険特約
    • [32]帝国海上は1893年11月5日開業、初年度収入保険料6万8802円、第2年度29万7919円、1898年6月末62万7441円・代理店232店、1899年8月運送保険を追加申請し10月10日認可、1902年8月20日火災兼業免許で海上保険会社の火災兼営の最初、同年8月9日東京火災と再保険特約
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [30]帝国海上は1899年に運送保険、1902年に火災保険を営業種目に加えた
参考文献[17]-[32]
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第2章 第3節 安田資本による東京火災再建」
    • [17]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
    • [18]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
    • [19]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
    • [21]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
    • [22]星亨らの経営委託論を受け佐々田懋が安田善次郎に出馬を要請、安田は業界の契約高増加を見て前途有望と判断、1893年5月30日に資本金を100万円へ5倍増資し6月15日払込完了、重役協議会を設置、1894年6月末は契約高・保険料が倍近くとなり繰越欠損を消却して5分配当
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [20]1893年6月、安田善次郎が経営に参画して株式組織に改組し建直しを図った
    • [26]帝国海上は1893年9月、安田善次郎を中心とする4人の発起人により創立された
    • [30]帝国海上は1899年に運送保険、1902年に火災保険を営業種目に加えた
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「帝国海上 第1章 第1節 創業前の海上保険事情」「第2節 帝国海上の創立」
    • [23]武井守正が1885年の欧州視察で金融・保険・運輸の協力を安田善次郎に語り、1893年7月の創立趣意書は国内の海上保険会社が東京海上と日本海陸の2社のみで横浜の外国商店の過半が海上保険を営むと記した、資本金300万円・1万5000株のうち安田家4500株
    • [24]武井守正が1885年の欧州視察で金融・保険・運輸の協力を安田善次郎に語り、1893年7月の創立趣意書は国内の海上保険会社が東京海上と日本海陸の2社のみで横浜の外国商店の過半が海上保険を営むと記した、資本金300万円・1万5000株のうち安田家4500株
    • [25]武井守正が1885年の欧州視察で金融・保険・運輸の協力を安田善次郎に語り、1893年7月の創立趣意書は国内の海上保険会社が東京海上と日本海陸の2社のみで横浜の外国商店の過半が海上保険を営むと記した、資本金300万円・1万5000株のうち安田家4500株
    • [27]武井守正が1885年の欧州視察で金融・保険・運輸の協力を安田善次郎に語り、1893年7月の創立趣意書は国内の海上保険会社が東京海上と日本海陸の2社のみで横浜の外国商店の過半が海上保険を営むと記した、資本金300万円・1万5000株のうち安田家4500株
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「帝国海上 第1章 第5節 混乱期の帝国海上の経営」
    • [28]帝国海上は1893年11月5日開業、初年度収入保険料6万8802円、第2年度29万7919円、1898年6月末62万7441円・代理店232店、1899年8月運送保険を追加申請し10月10日認可、1902年8月20日火災兼業免許で海上保険会社の火災兼営の最初、同年8月9日東京火災と再保険特約
    • [29]帝国海上は1893年11月5日開業、初年度収入保険料6万8802円、第2年度29万7919円、1898年6月末62万7441円・代理店232店、1899年8月運送保険を追加申請し10月10日認可、1902年8月20日火災兼業免許で海上保険会社の火災兼営の最初、同年8月9日東京火災と再保険特約
    • [31]帝国海上は1893年11月5日開業、初年度収入保険料6万8802円、第2年度29万7919円、1898年6月末62万7441円・代理店232店、1899年8月運送保険を追加申請し10月10日認可、1902年8月20日火災兼業免許で海上保険会社の火災兼営の最初、同年8月9日東京火災と再保険特約
    • [32]帝国海上は1893年11月5日開業、初年度収入保険料6万8802円、第2年度29万7919円、1898年6月末62万7441円・代理店232店、1899年8月運送保険を追加申請し10月10日認可、1902年8月20日火災兼業免許で海上保険会社の火災兼営の最初、同年8月9日東京火災と再保険特約

1904年〜海上・運送へ展開した東京火災と、粟津清亮氏が資本金100万円で興した日本傷害保険

日露戦争の後は保険会社の新設が相次いで料率が下がり続けたものの、東京火災の契約高は1906年度末で3億3000万円にのぼる。1906年に東京火災は海上・運送の両保険を加え、火災保険だけの会社から兼営へ移った。東京火災は、東洋での日本の地位の向上で海上・運送保険が有望になり、火災保険との連係にも役立つと判断した。同年7月27日に兼営と資本金1000万円への倍額増資を決め、1907年1月4日に商号を東京火災海上運送保険へ改めた。系列に帝国海上を抱えるため海上・運送の元受は控え、収入保険料の大部分を再保険で得た。料率の低下で火災保険の利幅が縮むなか、種目を分けて収入の安定を図ったものと思われる。

  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第3章 第2節 当時の火災保険事情」「第3節 業界乱戦下の東京火災」
    • [33]日露戦争後に保険会社の設立が相次ぎ料率が低下、東京火災は1906年7月27日の臨時株主総会で海上・運送保険の兼営と資本金1000万円への倍額増資を決定、海上・運送保険の有望化と火災保険との連係が理由、帝国海上があるため元受は消極的で収入保険料の大部分は再保険、1906年度末契約高3億3000万円、1907年1月4日東京火災海上運送保険株式会社に改称
    • [35]日露戦争後に保険会社の設立が相次ぎ料率が低下、東京火災は1906年7月27日の臨時株主総会で海上・運送保険の兼営と資本金1000万円への倍額増資を決定、海上・運送保険の有望化と火災保険との連係が理由、帝国海上があるため元受は消極的で収入保険料の大部分は再保険、1906年度末契約高3億3000万円、1907年1月4日東京火災海上運送保険株式会社に改称
    • [36]日露戦争後に保険会社の設立が相次ぎ料率が低下、東京火災は1906年7月27日の臨時株主総会で海上・運送保険の兼営と資本金1000万円への倍額増資を決定、海上・運送保険の有望化と火災保険との連係が理由、帝国海上があるため元受は消極的で収入保険料の大部分は再保険、1906年度末契約高3億3000万円、1907年1月4日東京火災海上運送保険株式会社に改称
    • [37]日露戦争後に保険会社の設立が相次ぎ料率が低下、東京火災は1906年7月27日の臨時株主総会で海上・運送保険の兼営と資本金1000万円への倍額増資を決定、海上・運送保険の有望化と火災保険との連係が理由、帝国海上があるため元受は消極的で収入保険料の大部分は再保険、1906年度末契約高3億3000万円、1907年1月4日東京火災海上運送保険株式会社に改称
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [34]東京火災は1906年に海上・運送両保険を加えた

のちの日産火災海上保険の前身である日本傷害保険は、1911年5月15日に東京・京橋で設立された。発起人は法学博士の粟津清亮氏で、粟津清亮氏は設立と同時に社長へ就任した。日本にはそれまで傷害保険を営む会社が無く、日本傷害保険はその最初の会社にあたる。資本金は100万円、設立時の払込額は25万円。社名は1922年3月の中央火災傷害保険、1936年2月の中央火災海上傷害保険を経て、1937年6月に日産火災海上保険となった。火災と海上を安田系の2社が担うなか、傷害という新しい種目から別の系譜が始まったと言えよう。

  • 会社銀行八十年史(1955)「日産火災海上」
    • [38]日本傷害保険は1911年5月15日、法学博士粟津清亮の発起により日本最初の傷害保険会社として東京京橋に設立され、粟津清亮が社長に就任した
    • [39]日本傷害保険は1911年5月15日、法学博士粟津清亮の発起により日本最初の傷害保険会社として東京京橋に設立され、粟津清亮が社長に就任した
    • [40]日本傷害保険は1911年5月15日、法学博士粟津清亮の発起により日本最初の傷害保険会社として東京京橋に設立され、粟津清亮が社長に就任した
  • 株式会社年鑑 1963年版「日産火災海上保険」
    • [41]設立時の資本金100万円(払込25万円)、1922年3月中央火災傷害保険、1936年2月中央火災海上傷害保険、1937年6月日産火災海上保険へ改称
    • [42]設立時の資本金100万円(払込25万円)、1922年3月中央火災傷害保険、1936年2月中央火災海上傷害保険、1937年6月日産火災海上保険へ改称

傷害保険は日本で新しい種目であり、契約を広げるには相応の手間がかかった。1913年7月にはミュンヘンの南ドイツ再保険会社と、傷害保険について再保険の取引を始めた。1918年には火災と海上の保険も兼営し、傷害保険だけの会社から3種目を扱う会社へ広げた。1919年11月には社名を日本傷害火災海上保険へ改め、兼営する種目を商号に入れた。翌1920年5月には資本金を500万円へ増資した。同じ1919年には、1941年に東京火災へ合併されることになる太平火災が創立された。

  • 会社銀行八十年史(1955)「日産火災海上」
    • [43]傷害保険は新規の保険で普及に努力を要し、1913年7月に南ドイツ再保険会社と傷害保険の再保険取引、1918年に火災・海上保険の兼営、1919年11月日本傷害火災海上保険へ改称、1920年5月500万円に増資
    • [44]傷害保険は新規の保険で普及に努力を要し、1913年7月に南ドイツ再保険会社と傷害保険の再保険取引、1918年に火災・海上保険の兼営、1919年11月日本傷害火災海上保険へ改称、1920年5月500万円に増資
    • [45]傷害保険は新規の保険で普及に努力を要し、1913年7月に南ドイツ再保険会社と傷害保険の再保険取引、1918年に火災・海上保険の兼営、1919年11月日本傷害火災海上保険へ改称、1920年5月500万円に増資
    • [47]傷害保険は新規の保険で普及に努力を要し、1913年7月に南ドイツ再保険会社と傷害保険の再保険取引、1918年に火災・海上保険の兼営、1919年11月日本傷害火災海上保険へ改称、1920年5月500万円に増資
  • 株式会社年鑑 1963年版「日産火災海上保険」
    • [46]1919年11月に日本傷害火災海上保険へ改称
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「安田火災海上保険」
    • [48]太平火災は1919年に創立され、1941年に東京火災へ合併された
参考文献[33]-[48]
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第3章 第2節 当時の火災保険事情」「第3節 業界乱戦下の東京火災」
    • [33]日露戦争後に保険会社の設立が相次ぎ料率が低下、東京火災は1906年7月27日の臨時株主総会で海上・運送保険の兼営と資本金1000万円への倍額増資を決定、海上・運送保険の有望化と火災保険との連係が理由、帝国海上があるため元受は消極的で収入保険料の大部分は再保険、1906年度末契約高3億3000万円、1907年1月4日東京火災海上運送保険株式会社に改称
    • [35]日露戦争後に保険会社の設立が相次ぎ料率が低下、東京火災は1906年7月27日の臨時株主総会で海上・運送保険の兼営と資本金1000万円への倍額増資を決定、海上・運送保険の有望化と火災保険との連係が理由、帝国海上があるため元受は消極的で収入保険料の大部分は再保険、1906年度末契約高3億3000万円、1907年1月4日東京火災海上運送保険株式会社に改称
    • [36]日露戦争後に保険会社の設立が相次ぎ料率が低下、東京火災は1906年7月27日の臨時株主総会で海上・運送保険の兼営と資本金1000万円への倍額増資を決定、海上・運送保険の有望化と火災保険との連係が理由、帝国海上があるため元受は消極的で収入保険料の大部分は再保険、1906年度末契約高3億3000万円、1907年1月4日東京火災海上運送保険株式会社に改称
    • [37]日露戦争後に保険会社の設立が相次ぎ料率が低下、東京火災は1906年7月27日の臨時株主総会で海上・運送保険の兼営と資本金1000万円への倍額増資を決定、海上・運送保険の有望化と火災保険との連係が理由、帝国海上があるため元受は消極的で収入保険料の大部分は再保険、1906年度末契約高3億3000万円、1907年1月4日東京火災海上運送保険株式会社に改称
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
    • [34]東京火災は1906年に海上・運送両保険を加えた
  • 会社銀行八十年史(1955)「日産火災海上」
    • [38]日本傷害保険は1911年5月15日、法学博士粟津清亮の発起により日本最初の傷害保険会社として東京京橋に設立され、粟津清亮が社長に就任した
    • [39]日本傷害保険は1911年5月15日、法学博士粟津清亮の発起により日本最初の傷害保険会社として東京京橋に設立され、粟津清亮が社長に就任した
    • [40]日本傷害保険は1911年5月15日、法学博士粟津清亮の発起により日本最初の傷害保険会社として東京京橋に設立され、粟津清亮が社長に就任した
    • [43]傷害保険は新規の保険で普及に努力を要し、1913年7月に南ドイツ再保険会社と傷害保険の再保険取引、1918年に火災・海上保険の兼営、1919年11月日本傷害火災海上保険へ改称、1920年5月500万円に増資
    • [44]傷害保険は新規の保険で普及に努力を要し、1913年7月に南ドイツ再保険会社と傷害保険の再保険取引、1918年に火災・海上保険の兼営、1919年11月日本傷害火災海上保険へ改称、1920年5月500万円に増資
    • [45]傷害保険は新規の保険で普及に努力を要し、1913年7月に南ドイツ再保険会社と傷害保険の再保険取引、1918年に火災・海上保険の兼営、1919年11月日本傷害火災海上保険へ改称、1920年5月500万円に増資
    • [47]傷害保険は新規の保険で普及に努力を要し、1913年7月に南ドイツ再保険会社と傷害保険の再保険取引、1918年に火災・海上保険の兼営、1919年11月日本傷害火災海上保険へ改称、1920年5月500万円に増資
  • 株式会社年鑑 1963年版「日産火災海上保険」
    • [41]設立時の資本金100万円(払込25万円)、1922年3月中央火災傷害保険、1936年2月中央火災海上傷害保険、1937年6月日産火災海上保険へ改称
    • [42]設立時の資本金100万円(払込25万円)、1922年3月中央火災傷害保険、1936年2月中央火災海上傷害保険、1937年6月日産火災海上保険へ改称
    • [46]1919年11月に日本傷害火災海上保険へ改称
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「安田火災海上保険」
    • [48]太平火災は1919年に創立され、1941年に東京火災へ合併された

出典・参考

11件
出典・参考
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「創業前史 第3節 創立の前夜」「東京火災 第1章 第2節 創立の認可」
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第1章 第4節 開業と当時の諸事情」「第5節 進む営業体制」
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第1章 第6節 大火がもたらした苦境」
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第2章 第3節 安田資本による東京火災再建」
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「帝国海上 第1章 第1節 創業前の海上保険事情」「第2節 帝国海上の創立」
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「帝国海上 第1章 第5節 混乱期の帝国海上の経営」
  • 安田火災百年史 明治21年~昭和63年(1990)「東京火災 第3章 第2節 当時の火災保険事情」「第3節 業界乱戦下の東京火災」
  • 会社銀行八十年史(1955)「安田火災海上」
  • 会社銀行八十年史(1955)「日産火災海上」
  • 株式会社年鑑 1963年版「日産火災海上保険」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「安田火災海上保険」

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