第1章 年〜年

三菱UFJニコス:日本信用販売の設立とクーポン制度による割賦販売

1951年〜名古屋の日本百貨サービスの資金繰りの悪化と、4百貨店の加盟で得た資本金1000万円

山田光成氏は1948年7月、名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス株式会社を設立し、月賦販売の取次を始めた。客は加盟店で品物を受け取り、代金は会社が加盟店へ立て替え、客から月々回収する間接月賦の方式である。業績が拡大するほど加盟店への立替払いが膨らみ、手元の資金では運転が追いつかなくなった。1949年、山田光成氏は政府が10億円で月賦金融公庫を計画中という新聞記事を見て上京した。計画の実体は通産省産業資金課長の試案にすぎず、公的資金による立替資金の調達は実現しなかった。山田光成氏は前商工大臣の星島二郎氏と文部大臣の高瀬荘太郎氏から協力の約束を取り付け、1949年5月に築地へ創立事務所を置いた。公的資金の代わりに政界の名士の信用を後ろ盾とし、立替資金を調達できる会社組織を東京で整えようとしたのだろう。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [1]1948年7月名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス設立。売上拡大で加盟店への立替払いが増え資金繰りに苦労。1949年に月賦金融公庫計画の記事を見て上京、星島二郎・高瀬荘太郎の協力を得て1949年5月築地に創立事務所
    • [3]1948年7月名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス設立。売上拡大で加盟店への立替払いが増え資金繰りに苦労。1949年に月賦金融公庫計画の記事を見て上京、星島二郎・高瀬荘太郎の協力を得て1949年5月築地に創立事務所
    • [4]1948年7月名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス設立。売上拡大で加盟店への立替払いが増え資金繰りに苦労。1949年に月賦金融公庫計画の記事を見て上京、星島二郎・高瀬荘太郎の協力を得て1949年5月築地に創立事務所
    • [6]1948年7月名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス設立。売上拡大で加盟店への立替払いが増え資金繰りに苦労。1949年に月賦金融公庫計画の記事を見て上京、星島二郎・高瀬荘太郎の協力を得て1949年5月築地に創立事務所
  • 政経人 31(1) 1984年「個性派経営者列伝(36)日本信販会長 山田光成」
    • [2]山田光成は1948年名古屋に百貨サービス会社を創立し間接月賦を実施。政府の月賦金融検討は一課長の私案にすぎなかった
    • [5]山田光成は1948年名古屋に百貨サービス会社を創立し間接月賦を実施。政府の月賦金融検討は一課長の私案にすぎなかった

山田光成氏らは1951年6月7日、東京都文京区本郷に資本金1,000万円で日本信用販売株式会社を設立した。同時に始めたのが、クーポン券を用いる間接割賦販売業務である。クーポン券は加盟店で品物と引き換える券であり、売り手に資金力と信用が無ければ会員にとって価値を持たない。山田光成氏は設立前の2年間、百貨店の加盟を求めて回ったものの、趣旨に賛同しても加盟に応じる店は無かった。高島屋の東京支店が即座に加盟を決め、続いて白木屋・松屋・京浜百貨店が加わった。経営陣には会長に星島二郎氏、社長に高瀬荘太郎氏を迎え、私財を設立準備に使い果たした山田光成氏は取締役企画部長に就任した。4百貨店の看板と政界の名士の肩書きが、無名の新会社に欠けていた信用を補ったとみられる。

  • 株式会社年鑑 1959年版「日本信用販賣」
    • [7]設立1951年6月7日、本社東京都文京区本郷、資本金1千万円で設立
  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [8]1951年6月 本郷に資本金1,000万円で日本信用販売設立、間接割賦販売業務(クーポン制度)を開始
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [9]百貨店加盟を2年間求め、高島屋の加盟を機に白木屋・松屋・京浜百貨店が加盟。4百貨店加盟で設立。会長星島二郎・社長高瀬荘太郎・山田は取締役企画部長。クーポン券は加盟店に資金力と信用が必要
    • [10]百貨店加盟を2年間求め、高島屋の加盟を機に白木屋・松屋・京浜百貨店が加盟。4百貨店加盟で設立。会長星島二郎・社長高瀬荘太郎・山田は取締役企画部長。クーポン券は加盟店に資金力と信用が必要
    • [11]百貨店加盟を2年間求め、高島屋の加盟を機に白木屋・松屋・京浜百貨店が加盟。4百貨店加盟で設立。会長星島二郎・社長高瀬荘太郎・山田は取締役企画部長。クーポン券は加盟店に資金力と信用が必要
    • [12]百貨店加盟を2年間求め、高島屋の加盟を機に白木屋・松屋・京浜百貨店が加盟。4百貨店加盟で設立。会長星島二郎・社長高瀬荘太郎・山田は取締役企画部長。クーポン券は加盟店に資金力と信用が必要

日本信用販売は設立と同時に官庁と大企業を職域会員として勧誘し、クーポン券による割賦販売を始めた。勧誘では全社員に5,000円の信用を供与すると申し出て、社員への福利厚生になると説いた。最初に衆議院事務局が応じ、通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが続いた。会員数は初月の89人から1951年9月末に11,720人、12月末に2万人超。当時の百貨店の掛け売りは一握りの富裕層に限られ、勤労者は現金で買うほかなかった。信用を供与する目安として山田光成氏が掲げたのが、『勤続三年、妻子有り』という標語である。一方で1951年7月の売上高は47万6,000円にとどまり、赤字は3年続いた。給与を受け取る職域の勤労者に会員を絞り、担保を取らない信用供与でも回収の確実さを保とうとしたと考えられる。

  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [13]1951年6月 間接割賦販売業務(クーポン制度)を開始
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [14]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [15]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [16]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [17]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [18]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [19]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
参考文献[1]-[19]
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [1]1948年7月名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス設立。売上拡大で加盟店への立替払いが増え資金繰りに苦労。1949年に月賦金融公庫計画の記事を見て上京、星島二郎・高瀬荘太郎の協力を得て1949年5月築地に創立事務所
    • [3]1948年7月名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス設立。売上拡大で加盟店への立替払いが増え資金繰りに苦労。1949年に月賦金融公庫計画の記事を見て上京、星島二郎・高瀬荘太郎の協力を得て1949年5月築地に創立事務所
    • [4]1948年7月名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス設立。売上拡大で加盟店への立替払いが増え資金繰りに苦労。1949年に月賦金融公庫計画の記事を見て上京、星島二郎・高瀬荘太郎の協力を得て1949年5月築地に創立事務所
    • [6]1948年7月名古屋に資本金40万円で日本百貨サービス設立。売上拡大で加盟店への立替払いが増え資金繰りに苦労。1949年に月賦金融公庫計画の記事を見て上京、星島二郎・高瀬荘太郎の協力を得て1949年5月築地に創立事務所
    • [9]百貨店加盟を2年間求め、高島屋の加盟を機に白木屋・松屋・京浜百貨店が加盟。4百貨店加盟で設立。会長星島二郎・社長高瀬荘太郎・山田は取締役企画部長。クーポン券は加盟店に資金力と信用が必要
    • [10]百貨店加盟を2年間求め、高島屋の加盟を機に白木屋・松屋・京浜百貨店が加盟。4百貨店加盟で設立。会長星島二郎・社長高瀬荘太郎・山田は取締役企画部長。クーポン券は加盟店に資金力と信用が必要
    • [11]百貨店加盟を2年間求め、高島屋の加盟を機に白木屋・松屋・京浜百貨店が加盟。4百貨店加盟で設立。会長星島二郎・社長高瀬荘太郎・山田は取締役企画部長。クーポン券は加盟店に資金力と信用が必要
    • [12]百貨店加盟を2年間求め、高島屋の加盟を機に白木屋・松屋・京浜百貨店が加盟。4百貨店加盟で設立。会長星島二郎・社長高瀬荘太郎・山田は取締役企画部長。クーポン券は加盟店に資金力と信用が必要
    • [14]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [15]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [16]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [17]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [18]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
    • [19]設立と同時に職域を回り、衆議院事務局・通産省・大蔵省・東京瓦斯・NHKが職域会員に。会員は初月89人→9月末11,720人→12月末2万人超。全社員に5千円の信用供与。1951年7月売上47万6千円、赤字3年
  • 政経人 31(1) 1984年「個性派経営者列伝(36)日本信販会長 山田光成」
    • [2]山田光成は1948年名古屋に百貨サービス会社を創立し間接月賦を実施。政府の月賦金融検討は一課長の私案にすぎなかった
    • [5]山田光成は1948年名古屋に百貨サービス会社を創立し間接月賦を実施。政府の月賦金融検討は一課長の私案にすぎなかった
  • 株式会社年鑑 1959年版「日本信用販賣」
    • [7]設立1951年6月7日、本社東京都文京区本郷、資本金1千万円で設立
  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [8]1951年6月 本郷に資本金1,000万円で日本信用販売設立、間接割賦販売業務(クーポン制度)を開始
    • [13]1951年6月 間接割賦販売業務(クーポン制度)を開始

1952年〜クーポン券の加盟店網と、東京店頭市場への株式公開

日本信用販売は1950年代半ば、売上高の拡大に合わせて加盟店と支店を増やした。売上高は1951年度の1億5,000万円から1953年度に10億円を超え、1956年度に25億円となった。1956年12月には大阪支店を開設し、地元の小売商による反対運動に直面した。1957年には日専連神戸信販協同組合と提携関係を結んだ。1958年9月の時点で加盟店には約3,000の専門店が入り、会員は30万世帯で毎月5,000人ずつ増加した。1959年初めの事業所は本社と大阪・名古屋・横浜の各支店、静岡営業所で、従業員は230人である。百貨店に加えて専門店を加盟店に取り込み、小売商との摩擦を和らげながらクーポン券の使い道を増やそうとしたと推察される。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [20]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [21]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [22]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [23]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [24]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
  • 株式会社年鑑 1959年版「日本信用販賣」
    • [25]事業所 本社・大阪支店・名古屋支店・横浜支店・静岡営業所、従業員230人(1959年版)

1958年8月、日本信用販売の株式を東京店頭市場に公開。売買は8月14日に始まり、1958年中の出来高は21,350株だった。資本金は公開前の1953年9月に2,500万円、1957年7月に7,000万円へ増え、公開後の1958年10月に1億500万円となった。売上高が数千万円の段階で百貨店への支払いが100万〜200万円不足したことがあり、山田光成氏は増資などで乗り切った。このとき資金を出したキヤノンカメラの販売店との縁で、キヤノンカメラは大株主になった。1958年9月末の大株主には星島二郎氏、キヤノンカメラ、キヤノン商事、高島屋、松坂屋が並んだ。同じ1958年、山田光成氏は高瀬荘太郎氏・星島二郎氏に続く3代目の社長に就任した。

  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [26]1958年8月 東京店頭市場に株式を公開
  • 株式会社年鑑 1959年版「日本信用販賣」
    • [27]東京店頭 1958年8月14日売買開始、1958年中出来高21,350株。増資 1953年9月2,500万円・1957年7月7,000万円・1958年10月1億500万円。大株主に星島二郎・キヤノンカメラ・キヤノン商事・高島屋・松坂屋
    • [28]東京店頭 1958年8月14日売買開始、1958年中出来高21,350株。増資 1953年9月2,500万円・1957年7月7,000万円・1958年10月1億500万円。大株主に星島二郎・キヤノンカメラ・キヤノン商事・高島屋・松坂屋
    • [31]東京店頭 1958年8月14日売買開始、1958年中出来高21,350株。増資 1953年9月2,500万円・1957年7月7,000万円・1958年10月1億500万円。大株主に星島二郎・キヤノンカメラ・キヤノン商事・高島屋・松坂屋
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [29]売上数千万円の頃に百貨店への支払いが100万・200万円不足、増資などで切り抜けた。キヤノンカメラの販売店の協力が縁でキヤノンカメラが大株主に
    • [30]売上数千万円の頃に百貨店への支払いが100万・200万円不足、増資などで切り抜けた。キヤノンカメラの販売店の協力が縁でキヤノンカメラが大株主に
  • 政経人 31(1) 1984年「個性派経営者列伝(36)日本信販会長 山田光成」
    • [32]初代高瀬、二代星島社長のあとを受けて山田光成が1958年に社長

日本信用販売は1950年代後半、割賦販売の外へ事業を広げ、1960年半ばまでに旅行斡旋業と消費者信用による金銭貸付業を事業目的に加えた。先立って1955年11月に不動産部を新設し、1956年1月に分譲高層アパートの四谷コーポラスを販売した。小売商の反発を受け、通産省が百貨店へ割賦販売の自粛を要望したのは1958年9月6日である。1959年10月24日の通達で、クーポン券による割賦販売は地域・商品・金額の3面で制限された。規制は1960年1月1日に始まり、日本信用販売は同年5月に大阪・名古屋の支店を引き揚げた。売上高は1960年度に初めて減少した。規制の網が掛かったクーポン券の外に収益源を持つ必要が、多角化を急がせたと思われる。

  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信用販賣」
    • [33]主なる事業内容に月賦販売・土地建物売買・建設工事請負・保険代理・旅行斡旋業・消費者信用による金銭貸付業(1960年版、役員1960年5月31日現在)
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [34]1955年11月不動産部新設、1956年1月四谷コーポラス販売。1958年9月6日通産大臣名で百貨店に割賦販売自粛要望。1960年1月1日規制実施、1960年5月大阪・名古屋支店引き揚げ。売上高は1960年度に初めて減少
    • [35]1955年11月不動産部新設、1956年1月四谷コーポラス販売。1958年9月6日通産大臣名で百貨店に割賦販売自粛要望。1960年1月1日規制実施、1960年5月大阪・名古屋支店引き揚げ。売上高は1960年度に初めて減少
    • [37]1955年11月不動産部新設、1956年1月四谷コーポラス販売。1958年9月6日通産大臣名で百貨店に割賦販売自粛要望。1960年1月1日規制実施、1960年5月大阪・名古屋支店引き揚げ。売上高は1960年度に初めて減少
    • [38]1955年11月不動産部新設、1956年1月四谷コーポラス販売。1958年9月6日通産大臣名で百貨店に割賦販売自粛要望。1960年1月1日規制実施、1960年5月大阪・名古屋支店引き揚げ。売上高は1960年度に初めて減少
  • 証券アナリストジャーナル 8(6) 1970年
    • [36]1959年10月24日の通産省通達で割賦販売に地域・商品・金額の規制。規制を機に多角経営へ
参考文献[20]-[38]
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [20]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [21]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [22]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [23]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [24]売上高1951年度1億5千万円→1953年度10億円超→1956年度25億円。1956年12月大阪支店開設で反対運動。1957年日専連神戸信販協同組合と提携。1958年9月時点で加盟店に約3千の専門店、会員30万世帯・毎月5千人増
    • [29]売上数千万円の頃に百貨店への支払いが100万・200万円不足、増資などで切り抜けた。キヤノンカメラの販売店の協力が縁でキヤノンカメラが大株主に
    • [30]売上数千万円の頃に百貨店への支払いが100万・200万円不足、増資などで切り抜けた。キヤノンカメラの販売店の協力が縁でキヤノンカメラが大株主に
    • [34]1955年11月不動産部新設、1956年1月四谷コーポラス販売。1958年9月6日通産大臣名で百貨店に割賦販売自粛要望。1960年1月1日規制実施、1960年5月大阪・名古屋支店引き揚げ。売上高は1960年度に初めて減少
    • [35]1955年11月不動産部新設、1956年1月四谷コーポラス販売。1958年9月6日通産大臣名で百貨店に割賦販売自粛要望。1960年1月1日規制実施、1960年5月大阪・名古屋支店引き揚げ。売上高は1960年度に初めて減少
    • [37]1955年11月不動産部新設、1956年1月四谷コーポラス販売。1958年9月6日通産大臣名で百貨店に割賦販売自粛要望。1960年1月1日規制実施、1960年5月大阪・名古屋支店引き揚げ。売上高は1960年度に初めて減少
    • [38]1955年11月不動産部新設、1956年1月四谷コーポラス販売。1958年9月6日通産大臣名で百貨店に割賦販売自粛要望。1960年1月1日規制実施、1960年5月大阪・名古屋支店引き揚げ。売上高は1960年度に初めて減少
  • 株式会社年鑑 1959年版「日本信用販賣」
    • [25]事業所 本社・大阪支店・名古屋支店・横浜支店・静岡営業所、従業員230人(1959年版)
    • [27]東京店頭 1958年8月14日売買開始、1958年中出来高21,350株。増資 1953年9月2,500万円・1957年7月7,000万円・1958年10月1億500万円。大株主に星島二郎・キヤノンカメラ・キヤノン商事・高島屋・松坂屋
    • [28]東京店頭 1958年8月14日売買開始、1958年中出来高21,350株。増資 1953年9月2,500万円・1957年7月7,000万円・1958年10月1億500万円。大株主に星島二郎・キヤノンカメラ・キヤノン商事・高島屋・松坂屋
    • [31]東京店頭 1958年8月14日売買開始、1958年中出来高21,350株。増資 1953年9月2,500万円・1957年7月7,000万円・1958年10月1億500万円。大株主に星島二郎・キヤノンカメラ・キヤノン商事・高島屋・松坂屋
  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [26]1958年8月 東京店頭市場に株式を公開
  • 政経人 31(1) 1984年「個性派経営者列伝(36)日本信販会長 山田光成」
    • [32]初代高瀬、二代星島社長のあとを受けて山田光成が1958年に社長
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信用販賣」
    • [33]主なる事業内容に月賦販売・土地建物売買・建設工事請負・保険代理・旅行斡旋業・消費者信用による金銭貸付業(1960年版、役員1960年5月31日現在)
  • 証券アナリストジャーナル 8(6) 1970年
    • [36]1959年10月24日の通産省通達で割賦販売に地域・商品・金額の規制。規制を機に多角経営へ

1959年〜東京都信用金庫協会との提携と、東京証券取引所市場第二部への上場

日本信用販売は1961年4月、東京都信用金庫協会と提携し、消費者金融業務を本格的に始めた。専務取締役の星島東一氏は1970年、割賦規制を機に多角経営へ転じ、1960年に住宅ローン、1961年に消費者金融を始めたと説明した。1960年5月に大阪・名古屋の支店を引き揚げたあと、1962年3月時点の事業所は本社・横浜支店・静岡営業所に限られた。同じ時点の事業目的には、消費者信用による金銭貸付に加えて保証が入った。1962年3月末の従業員は206人だった。信用金庫の店舗と資金に貸付の窓口を委ね、日本信用販売は審査と保証を受け持つ分担で、規制の及ばない貸付を広げようとしたのではないか。

  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [39]1961年4月 東京都信用金庫協会と提携し、本格的に消費者金融業務を開始
  • 証券アナリストジャーナル 8(6) 1970年
    • [40]専務星島東一による沿革:規制を機に多角経営、1960年住宅ローン、1961年消費者金融を開始
  • 株式会社年鑑 1963年版「日本信用販賣」
    • [41]1962年3月31日時点 事業所は本社・横浜支店・静岡営業所、従業員206人。事業内容に消費者信用による金銭貸付並びに保証
    • [42]1962年3月31日時点 事業所は本社・横浜支店・静岡営業所、従業員206人。事業内容に消費者信用による金銭貸付並びに保証
    • [43]1962年3月31日時点 事業所は本社・横浜支店・静岡営業所、従業員206人。事業内容に消費者信用による金銭貸付並びに保証

日本信用販売は1961年10月、東京証券取引所市場第二部に上場した。1960年半ばの上場市場は東京店頭で、1962年3月時点では東京市場第二部である。1962年3月末の資産合計は2,089,789千円で、1961年3月末の1,361,547千円から728,242千円増えた。立替払いの残高を示す売掛金は、同じ期間に928,530千円から1,478,536千円へ増加。半期の営業収入は1960年10月〜1961年3月の121,431千円に対し、1961年10月〜1962年3月に190,811千円となった。借入先には三和銀行・三菱銀行・第一信託銀行・日本勧業銀行が並んだ。取引所への上場で会社の信用を高め、増え続ける立替資金を借入と増資で調達する余地を広げる狙いがあったと推測される。

  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [44]1961年10月 東京証券取引所市場第二部に上場
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信用販賣」
    • [45]上場市場 東京店頭(1960年版)
  • 株式会社年鑑 1963年版「日本信用販賣」
    • [46]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
    • [47]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
    • [48]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
    • [49]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
    • [50]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業

1962年の時点で、クーポン券による割賦販売は1959年の通達による地域・商品・金額の規制を受けたままである。日本信用販売は1961年1月、三和銀行と折半出資で日本クレジットビューロー(JCB)を設立した。加盟店からは、同種のカード会社をつくることへの苦情が相次いだ。山田光成氏は一回払いのカードを外食などの遊興費、月払いを耐久消費財と役割を分けて説明し、半年以上かけて加盟店を回った。山田光成氏は後年、支店を失った規制の経験を『クーポン券だけに依存し安住することの危険を悟り』と振り返った。1963年10月には個品あっせん業務を始めた。同じ1963年、規制の対象外となる割賦債権の買い取りにも着手した。クーポン券の制約を前に、券を介さない取引の形を探ったことが、次の個品あっせんとクレジットカードの事業へつながったと読める。

  • 証券アナリストジャーナル 8(6) 1970年
    • [51]1959年通達の割賦規制(地域・商品・金額)の金額規制は1970年時点も存続
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [52]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
    • [53]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
    • [54]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
    • [55]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
    • [57]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [56]1963年10月 ショッピングクレジット業務(個品あっせん)を開始
参考文献[39]-[57]
  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
    • [39]1961年4月 東京都信用金庫協会と提携し、本格的に消費者金融業務を開始
    • [44]1961年10月 東京証券取引所市場第二部に上場
    • [56]1963年10月 ショッピングクレジット業務(個品あっせん)を開始
  • 証券アナリストジャーナル 8(6) 1970年
    • [40]専務星島東一による沿革:規制を機に多角経営、1960年住宅ローン、1961年消費者金融を開始
    • [51]1959年通達の割賦規制(地域・商品・金額)の金額規制は1970年時点も存続
  • 株式会社年鑑 1963年版「日本信用販賣」
    • [41]1962年3月31日時点 事業所は本社・横浜支店・静岡営業所、従業員206人。事業内容に消費者信用による金銭貸付並びに保証
    • [42]1962年3月31日時点 事業所は本社・横浜支店・静岡営業所、従業員206人。事業内容に消費者信用による金銭貸付並びに保証
    • [43]1962年3月31日時点 事業所は本社・横浜支店・静岡営業所、従業員206人。事業内容に消費者信用による金銭貸付並びに保証
    • [46]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
    • [47]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
    • [48]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
    • [49]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
    • [50]上場市場 東京第二部。資産合計1961年3月1,361,547千円→1962年3月2,089,789千円、売掛金928,530→1,478,536千円。半期営業収入 1960.10-61.3 121,431千円、1961.10-62.3 190,811千円。借入先 三和・三菱・第一信託・日本勧業
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信用販賣」
    • [45]上場市場 東京店頭(1960年版)
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
    • [52]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
    • [53]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
    • [54]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
    • [55]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始
    • [57]1961年1月 三和銀行と折半出資でJCB設立。加盟店から苦情、一回払いは遊興費・月払いは耐久消費財と説明し半年以上回った。25周年で規制と支店閉鎖を回顧しクーポン券依存の危険を悟り多角化と述べた。1963年に規制対象外の割賦債権買い取りを開始

出典・参考

7件
出典・参考
  • 三菱UFJニコス 有価証券報告書(2016年3月期)【沿革】
  • 株式会社年鑑 1959年版「日本信用販賣」
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本信用販賣」
  • 株式会社年鑑 1963年版「日本信用販賣」
  • 証券アナリストジャーナル 8(6) 1970年
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人24』山田光成(1987)
  • 政経人 31(1) 1984年「個性派経営者列伝(36)日本信販会長 山田光成」

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