第1章 年〜年

イズミ:いづみの設立と郊外型ショッピングセンター祇園店の開店

1961年〜繊維問屋ヤマニシの山西義政氏が興したいづみと、広島駅前の第2号店

山西義政氏は1961年10月、資本金500万円で株式会社いづみを広島市堀川町に設立した。山西義政氏は1949年に広島で繊維の卸・小売業を始め、翌1950年に株式会社ヤマニシへ改組。1978年時点のヤマニシは資本金1億円・年商100億円余りで、繊維二次製品では中国地方で最大の問屋である。それでも創業から30年近くを経た規模にとどまり、山西義政氏は問屋業の成長に限界をみた。既存の業種では資本力の小さい地方企業に挑む余地がなく、新しい業種なら全社が同じ起点に立てると考えて、スーパーへの参入を決めた。問屋で築いた衣料品の仕入れ網を小売に転用できる点も、参入の判断を後押ししたのだろう。

  • 証券 40(1) 1988年
    • [1]1961年10月 山西義政が広島市堀川町に小売業を目的として株式会社いづみを設立
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
    • [2]1949年に広島で繊維卸・小売を開業、1950年資本金500万円で株式会社ヤマニシに。1978年時点で資本金1億円・年商100億円余り、繊維二次製品で中国地方第一の問屋
    • [3]1949年に広島で繊維卸・小売を開業、1950年資本金500万円で株式会社ヤマニシに。1978年時点で資本金1億円・年商100億円余り、繊維二次製品で中国地方第一の問屋
    • [4]1949年に広島で繊維卸・小売を開業、1950年資本金500万円で株式会社ヤマニシに。1978年時点で資本金1億円・年商100億円余り、繊維二次製品で中国地方第一の問屋
    • [5]30年近くでこの規模で成長に限界。既存業種への挑戦は地方企業に無理、新業種なら皆ゼロから始められるとして1961年11月3日にいづみを創業

いづみは1961年11月、八丁堀店を第1号店として開業し、衣料品と日用雑貨品の販売を始めた。売り方にはスーパー方式を採用。創業時の資本金は500万円、従業員は30人足らずだった。当時の国内では大量生産・大量消費が広がる一方、商品を速く大量に回す流通の機能が欠けていた。米国の大型スーパーマーケットやディスカウントストアの業態に関心が集まり、東京・青山の紀伊国屋や神戸・三宮のダイエーが注目を浴びた。いづみはその時期に新しい流通業へ参入した。翌1962年9月に食料品を加え、1967年3月には医療品の販売も始めた。問屋の地盤である衣料品から入り、食料品を後から加えた順序は、仕入れの得手を起点に品揃えを広げた結果とみられる。

  • イズミ 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1961年11月 八丁堀店を第1号店として衣料品・日用雑貨品の販売開始
  • 証券 40(1) 1988年
    • [7]スーパー方式で衣料品・日用雑貨品を販売。1962年9月食料品、1967年3月医療品の販売開始
    • [12]スーパー方式で衣料品・日用雑貨品を販売。1962年9月食料品、1967年3月医療品の販売開始
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
    • [8]創業時の資本金500万円・従業員30人足らず。昭和30年代初めは大量生産・大量消費が出てきたが高速回転で大量にさばく物流機能が欠けていた。米国の大型スーパー・ディスカウントストアへの関心、紀伊国屋のセルフサービスとダイエーの三ノ宮のディスカウントストアが注目された時期に参入
    • [9]創業時の資本金500万円・従業員30人足らず。昭和30年代初めは大量生産・大量消費が出てきたが高速回転で大量にさばく物流機能が欠けていた。米国の大型スーパー・ディスカウントストアへの関心、紀伊国屋のセルフサービスとダイエーの三ノ宮のディスカウントストアが注目された時期に参入
    • [10]創業時の資本金500万円・従業員30人足らず。昭和30年代初めは大量生産・大量消費が出てきたが高速回転で大量にさばく物流機能が欠けていた。米国の大型スーパー・ディスカウントストアへの関心、紀伊国屋のセルフサービスとダイエーの三ノ宮のディスカウントストアが注目された時期に参入
    • [11]創業時の資本金500万円・従業員30人足らず。昭和30年代初めは大量生産・大量消費が出てきたが高速回転で大量にさばく物流機能が欠けていた。米国の大型スーパー・ディスカウントストアへの関心、紀伊国屋のセルフサービスとダイエーの三ノ宮のディスカウントストアが注目された時期に参入

いづみは1967年3月、広島駅前に第2号店を出し、多店舗展開に入った。1960年代後半の出店は広島市が中心で、売場面積3,000m2以上の大型店に絞った。1969年9月には岡山店を開店し、初めて岡山県に進出した。これに先立つ1963年、山西義政氏は大阪に従業員40人ほどのスーパーを出したものの、約4カ月で撤退している。山西義政氏はこの失敗から、本拠地を離れた地域への出店は不利だと受けとめた。1978年時点でも山西義政氏は、大型店のほうが純益が大きいとして大型店中心の出店を続ける考えを示した。最初の県外出店に広島と隣り合う岡山を選んだのは、大阪での撤退が残した教訓によるものと推察される。

  • 証券 40(1) 1988年
    • [13]1967年3月 広島駅前に第2号店を出店し多店舗展開を開始。昭和40年代は広島市中心に売場面積3,000m2以上の大型店を出店
    • [14]1967年3月 広島駅前に第2号店を出店し多店舗展開を開始。昭和40年代は広島市中心に売場面積3,000m2以上の大型店を出店
  • イズミ 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1969年9月 岡山県に初進出し岡山店を開店
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
    • [16]1963年に大阪へ従業員40人ほどのスーパーを出したが4カ月ほどで撤退し、本拠地を離れた地域では不利と痛感。1978年時点で大型店のほうが純益が大きく基本は大型店中心と回答
    • [17]1963年に大阪へ従業員40人ほどのスーパーを出したが4カ月ほどで撤退し、本拠地を離れた地域では不利と痛感。1978年時点で大型店のほうが純益が大きく基本は大型店中心と回答
    • [18]1963年に大阪へ従業員40人ほどのスーパーを出したが4カ月ほどで撤退し、本拠地を離れた地域では不利と痛感。1978年時点で大型店のほうが純益が大きく基本は大型店中心と回答
参考文献[1]-[18]
  • 証券 40(1) 1988年
    • [1]1961年10月 山西義政が広島市堀川町に小売業を目的として株式会社いづみを設立
    • [7]スーパー方式で衣料品・日用雑貨品を販売。1962年9月食料品、1967年3月医療品の販売開始
    • [12]スーパー方式で衣料品・日用雑貨品を販売。1962年9月食料品、1967年3月医療品の販売開始
    • [13]1967年3月 広島駅前に第2号店を出店し多店舗展開を開始。昭和40年代は広島市中心に売場面積3,000m2以上の大型店を出店
    • [14]1967年3月 広島駅前に第2号店を出店し多店舗展開を開始。昭和40年代は広島市中心に売場面積3,000m2以上の大型店を出店
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
    • [2]1949年に広島で繊維卸・小売を開業、1950年資本金500万円で株式会社ヤマニシに。1978年時点で資本金1億円・年商100億円余り、繊維二次製品で中国地方第一の問屋
    • [3]1949年に広島で繊維卸・小売を開業、1950年資本金500万円で株式会社ヤマニシに。1978年時点で資本金1億円・年商100億円余り、繊維二次製品で中国地方第一の問屋
    • [4]1949年に広島で繊維卸・小売を開業、1950年資本金500万円で株式会社ヤマニシに。1978年時点で資本金1億円・年商100億円余り、繊維二次製品で中国地方第一の問屋
    • [5]30年近くでこの規模で成長に限界。既存業種への挑戦は地方企業に無理、新業種なら皆ゼロから始められるとして1961年11月3日にいづみを創業
    • [8]創業時の資本金500万円・従業員30人足らず。昭和30年代初めは大量生産・大量消費が出てきたが高速回転で大量にさばく物流機能が欠けていた。米国の大型スーパー・ディスカウントストアへの関心、紀伊国屋のセルフサービスとダイエーの三ノ宮のディスカウントストアが注目された時期に参入
    • [9]創業時の資本金500万円・従業員30人足らず。昭和30年代初めは大量生産・大量消費が出てきたが高速回転で大量にさばく物流機能が欠けていた。米国の大型スーパー・ディスカウントストアへの関心、紀伊国屋のセルフサービスとダイエーの三ノ宮のディスカウントストアが注目された時期に参入
    • [10]創業時の資本金500万円・従業員30人足らず。昭和30年代初めは大量生産・大量消費が出てきたが高速回転で大量にさばく物流機能が欠けていた。米国の大型スーパー・ディスカウントストアへの関心、紀伊国屋のセルフサービスとダイエーの三ノ宮のディスカウントストアが注目された時期に参入
    • [11]創業時の資本金500万円・従業員30人足らず。昭和30年代初めは大量生産・大量消費が出てきたが高速回転で大量にさばく物流機能が欠けていた。米国の大型スーパー・ディスカウントストアへの関心、紀伊国屋のセルフサービスとダイエーの三ノ宮のディスカウントストアが注目された時期に参入
    • [16]1963年に大阪へ従業員40人ほどのスーパーを出したが4カ月ほどで撤退し、本拠地を離れた地域では不利と痛感。1978年時点で大型店のほうが純益が大きく基本は大型店中心と回答
    • [17]1963年に大阪へ従業員40人ほどのスーパーを出したが4カ月ほどで撤退し、本拠地を離れた地域では不利と痛感。1978年時点で大型店のほうが純益が大きく基本は大型店中心と回答
    • [18]1963年に大阪へ従業員40人ほどのスーパーを出したが4カ月ほどで撤退し、本拠地を離れた地域では不利と痛感。1978年時点で大型店のほうが純益が大きく基本は大型店中心と回答
  • イズミ 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1961年11月 八丁堀店を第1号店として衣料品・日用雑貨品の販売開始
    • [15]1969年9月 岡山県に初進出し岡山店を開店

1970年〜郊外型ショッピングセンターの祇園店と、公募株価1,620円の大証二部上場

いづみは1973年3月、祇園店を広島市の郊外に開き、郊外型ショッピングセンターという新しい店舗形態に着手した。同じ月には家具の販売も始め、取り扱う品目を広げた。1970年代後半以降は大規模小売店舗法の改正で新規出店の規制が強まった。いづみは競合の比較的少ない広島県内に郊外型大型店を毎年2〜3店ずつ出し、1976年4月に店舗数を10店とした。1978年時点で土地・建物の約60%は自社物件で、郊外でも土地の取得費は坪30万円にのぼる。投下資本の回収が悪化したため、山西義政氏は自社物件を減らしてリースへ切り替える方針を示した。市街地で大型の用地を確保しにくくなる中で、売場の広さを保てる場所として郊外を選んだと思われる。

  • 証券 40(1) 1988年
    • [19]1973年3月 広島市郊外に祇園店を開店し郊外型ショッピングセンターの出店開始、同月家具販売開始。昭和50年代は大店法改正で規制強化の中、競合の少ない広島県内に郊外型大型店中心に毎年2〜3店出店、1976年4月に10店舗
    • [20]1973年3月 広島市郊外に祇園店を開店し郊外型ショッピングセンターの出店開始、同月家具販売開始。昭和50年代は大店法改正で規制強化の中、競合の少ない広島県内に郊外型大型店中心に毎年2〜3店出店、1976年4月に10店舗
    • [21]1973年3月 広島市郊外に祇園店を開店し郊外型ショッピングセンターの出店開始、同月家具販売開始。昭和50年代は大店法改正で規制強化の中、競合の少ない広島県内に郊外型大型店中心に毎年2〜3店出店、1976年4月に10店舗
    • [22]1973年3月 広島市郊外に祇園店を開店し郊外型ショッピングセンターの出店開始、同月家具販売開始。昭和50年代は大店法改正で規制強化の中、競合の少ない広島県内に郊外型大型店中心に毎年2〜3店出店、1976年4月に10店舗
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
    • [23]1978年時点 土地・建物の約60%が自社物件。土地は郊外でも坪30万円、リースは最高1,000円程度。投下資本の回収が悪化しリースへ切り替える方針
    • [24]1978年時点 土地・建物の約60%が自社物件。土地は郊外でも坪30万円、リースは最高1,000円程度。投下資本の回収が悪化しリースへ切り替える方針

いづみは1974年10月に岩国店を開店し、初めて山口県に進出した。1978年10月時点の店舗数は15で、広島と岡山を中心とする集中出店。山西義政氏は、九州を本拠とするユニードが広島に持つ1店と、広島中心に大型店6店を持ついづみの宣伝費がほぼ同じだと説明した。広島の中心部に配送センターを置き、狭い範囲に店を集めて輸送と管理の効率を高めた。年商1兆円のダイエーよりも地元のいづみを大きく感じてもらう心理を、全国チェーンへの対抗策として重んじた。一方で1970年11月に開いた松山店は1977年に譲渡した。四国は海を渡るため費用がかさむとして、1978年時点ではフランチャイズの愛媛いづみを支援するにとどめた。

  • イズミ 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1974年10月 山口県に初進出し岩国店を開店
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
    • [26]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [27]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [28]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [29]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [31]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
  • 証券 40(1) 1988年
    • [30]1970年11月 松山店開店、1977年譲渡

いづみは1978年10月、大阪証券取引所市場第二部と広島証券取引所に株式を上場した。公募株価は1,620円で、上場時の資本金は5億5,000万円、従業員は2,000人余りである。山西義政氏は大型店を年2〜3店、できれば4店ずつ出す計画を掲げ、そのために年30〜40億円の資金が要るとした。この増資で約48億円を得て、以後も公募と無償交付を重ね、金融機関から借りずに出店投資を賄う考えである。店舗のある地域の投資家が、そのまま顧客にもなるとも見込んだ。上場から1987年までに、いづみは無償交付を8回実施した。上場は、出店資金を借入ではなく株式市場から得る仕組みを整える手段だったと考えられる。

  • イズミ 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1978年10月 大阪証券取引所市場第二部及び広島証券取引所に上場
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
    • [33]公募株価1,620円。資本金5億5,000万円、従業員2,000人余。大型店を年2〜3店できれば4店、年30〜40億円の資金が必要。今回の増資で約48億円、公募と無償を繰り返し借入金なしで投資。地域の投資家が顧客に転化
    • [34]公募株価1,620円。資本金5億5,000万円、従業員2,000人余。大型店を年2〜3店できれば4店、年30〜40億円の資金が必要。今回の増資で約48億円、公募と無償を繰り返し借入金なしで投資。地域の投資家が顧客に転化
    • [35]公募株価1,620円。資本金5億5,000万円、従業員2,000人余。大型店を年2〜3店できれば4店、年30〜40億円の資金が必要。今回の増資で約48億円、公募と無償を繰り返し借入金なしで投資。地域の投資家が顧客に転化
    • [36]公募株価1,620円。資本金5億5,000万円、従業員2,000人余。大型店を年2〜3店できれば4店、年30〜40億円の資金が必要。今回の増資で約48億円、公募と無償を繰り返し借入金なしで投資。地域の投資家が顧客に転化
  • 証券アナリストジャーナル 26(1) 1988年 山西義政
    • [37]1978年10月の上場以来8回の無償交付(1987年12月時点)
参考文献[19]-[37]
  • 証券 40(1) 1988年
    • [19]1973年3月 広島市郊外に祇園店を開店し郊外型ショッピングセンターの出店開始、同月家具販売開始。昭和50年代は大店法改正で規制強化の中、競合の少ない広島県内に郊外型大型店中心に毎年2〜3店出店、1976年4月に10店舗
    • [20]1973年3月 広島市郊外に祇園店を開店し郊外型ショッピングセンターの出店開始、同月家具販売開始。昭和50年代は大店法改正で規制強化の中、競合の少ない広島県内に郊外型大型店中心に毎年2〜3店出店、1976年4月に10店舗
    • [21]1973年3月 広島市郊外に祇園店を開店し郊外型ショッピングセンターの出店開始、同月家具販売開始。昭和50年代は大店法改正で規制強化の中、競合の少ない広島県内に郊外型大型店中心に毎年2〜3店出店、1976年4月に10店舗
    • [22]1973年3月 広島市郊外に祇園店を開店し郊外型ショッピングセンターの出店開始、同月家具販売開始。昭和50年代は大店法改正で規制強化の中、競合の少ない広島県内に郊外型大型店中心に毎年2〜3店出店、1976年4月に10店舗
    • [30]1970年11月 松山店開店、1977年譲渡
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
    • [23]1978年時点 土地・建物の約60%が自社物件。土地は郊外でも坪30万円、リースは最高1,000円程度。投下資本の回収が悪化しリースへ切り替える方針
    • [24]1978年時点 土地・建物の約60%が自社物件。土地は郊外でも坪30万円、リースは最高1,000円程度。投下資本の回収が悪化しリースへ切り替える方針
    • [26]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [27]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [28]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [29]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [31]1978年時点15店舗。広島・岡山中心の集中出店でナショナル・チェーンに対抗。ユニードの広島1店と広島中心の大型店6店の宣伝費がほぼ同じ。配送センターを広島中心部に置き輸送・管理効率。年商1兆円のダイエーより大きく感じる心理を重視。四国は海を渡るためコスト高でフランチャイズの愛媛いづみを支援
    • [33]公募株価1,620円。資本金5億5,000万円、従業員2,000人余。大型店を年2〜3店できれば4店、年30〜40億円の資金が必要。今回の増資で約48億円、公募と無償を繰り返し借入金なしで投資。地域の投資家が顧客に転化
    • [34]公募株価1,620円。資本金5億5,000万円、従業員2,000人余。大型店を年2〜3店できれば4店、年30〜40億円の資金が必要。今回の増資で約48億円、公募と無償を繰り返し借入金なしで投資。地域の投資家が顧客に転化
    • [35]公募株価1,620円。資本金5億5,000万円、従業員2,000人余。大型店を年2〜3店できれば4店、年30〜40億円の資金が必要。今回の増資で約48億円、公募と無償を繰り返し借入金なしで投資。地域の投資家が顧客に転化
    • [36]公募株価1,620円。資本金5億5,000万円、従業員2,000人余。大型店を年2〜3店できれば4店、年30〜40億円の資金が必要。今回の増資で約48億円、公募と無償を繰り返し借入金なしで投資。地域の投資家が顧客に転化
  • イズミ 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1974年10月 山口県に初進出し岩国店を開店
    • [32]1978年10月 大阪証券取引所市場第二部及び広島証券取引所に上場
  • 証券アナリストジャーナル 26(1) 1988年 山西義政
    • [37]1978年10月の上場以来8回の無償交付(1987年12月時点)

出典・参考

4件
出典・参考
  • イズミ 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 16(12) 1978年12月 山西義政
  • 証券アナリストジャーナル 26(1) 1988年 山西義政
  • 証券 40(1) 1988年

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