決断
大阪での撤退を教訓に、本拠の広島から離れすぎない集中出店を選んだ。1963年、山西義政氏は大阪に従業員40人ほどのスーパーを出したが約4カ月で撤退し、本拠地を離れた地域への出店は不利だと受けとめた。1970年11月に開店した松山店も1977年に譲渡し、四国は海を渡るため費用がかさむとして、フランチャイズの愛媛いづみを支援するにとどめた。一方で広島と岡山を中心に大型店を固めて出し、広島の中心部に置いた配送センターから狭い範囲の店へ運んで輸送と管理の効率を高めた。山西義政氏は1978年、広島中心に大型店6店を持ついづみの宣伝費が、ユニードの広島1店とほぼ同じだと説明している。年商1兆円のダイエーよりも地元のいづみを大きく感じてもらうことを、全国チェーンへの対抗策とした。