第2章 年〜年

そごう:株式会社化と子供百貨部・神戸三宮店の開設

同族合名会社から株式会社十合呉服店への改組

1897年〜十合合名会社の設立と京都・神戸への支店登記

1893年にわが国で初めて商法が施行され、会社の性格が法によって定まった。日清戦争後の大阪では事業熱が高まり、会社数は1889年の84社から、合名会社を設立した翌年にあたる1898年には458社へ増えた。もっとも会社組織化の中心は貿易商や大問屋で、小売商の会社設立はまだ稀だった。長年の個人企業から会社としての再出発を選んだのは、同業のなかでは早い時期である。1897年5月26日、資本額20万円、呉服木綿唐物類の販売を目的とする十合合名会社が設立された。本店は大阪市南区心斎橋筋一丁目49番邸に置かれた。法と市場の双方が整ったところで、株式会社ではなく個人企業色の強い合名会社を選んだのは、堅実を旨とする当時の大阪商人の傾向に沿うものだろう。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
    • [1]1893年(明治26年)にわが国で初めて商法が施行され、会社法によって会社の性格が確立された
    • [2]大阪の会社数は1889年(明治22年)84社、1898年(明治31年)458社と日清戦争後に急増した
    • [3]日清戦争後の大阪の会社組織化の中心は貿易商や大問屋で、小売商に限ればまだ稀だった
    • [5]1897年(明治30年)5月26日、商号を十合合名会社、資本額20万円、目的を呉服木綿唐物類販売として合名会社を設立した
    • [6]本店の営業所は大阪市南区心斎橋筋一丁目49番邸である
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
    • [4]1897年(明治30年)5月、長年の個人企業から合名会社として再出発した

社員は3名で、十合伊兵衛、十合重助、十合孝蔵がそれぞれ6万6,666円66銭6厘を出資した。三代伊兵衛が大阪本店長、重助が京都支店長を務め、孝蔵は大阪本店の仕入れ責任者として関東呉服の仕入れと京都支店との業務調整を担った。店員は本支店を合わせて80名に達していた。設立の登記では心斎橋の本店だけを届け、京都の仕入れ店は登記しなかった。新店舗の開設計画との関係で、必要な手続きだけにとどめたのである。1899年に神戸の新店舗が開かれ、同年7月3日、京都仕入れ店は神戸店とともに支店として登記された。会社の目的も、呉服木綿洋反物金巾類の販売へ改められた。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
    • [7]社員は十合伊兵衛・十合重助・十合孝蔵の3名で、各社員の出資額は6万6,666円66銭6厘だった
    • [8]三代伊兵衛が大阪本店長、重助が京都支店長、孝蔵が大阪本店の仕入れ責任者として関東呉服の仕入れと京都支店との業務調整を担当した
    • [9]合名会社設立時、店員は本支店を合わせて80名に達していた
    • [10]設立時は心斎橋店だけを本店として登記し、京都仕入れ店は登記しなかった
    • [11]京都仕入れ店を登記しなかったのは、後の新店舗開設計画との関係でとりあえず必要な手続きのみにとどめたためである
    • [13]1899年(明治32年)の変更登記で会社の目的を呉服木綿洋反物金巾類の販売に改めた
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
    • [12]1899年(明治32年)に神戸支店を設置し、同年7月3日に京都仕入れ店を神戸の新店舗とともに支店として登記した

呉服店にとって外売の売上げは、店での販売に劣らず大切だった。1900年代の大阪本店で外売を受け持ったのは主に年長の番頭である。番頭は丁稚に軽便車を引かせ、品物を載せて得意先をこまめに回った。得意先の中心は市中の名家、一流料亭、花街、演劇界で、郊外の裕福な家々にも出入りし、奈良、和歌山、神戸から姫路、岡山の方面にまで広がっていた。軽便車は黒漆の車体に朱で店名と商標を記した見栄えのするもので、店には十数台がそろえてあった。市中を走り回るその姿は、それ自体が広告の役目を担った。取扱商品のほうは神戸支店を設けた頃から呉服一本をやめ、雑貨や美術品の一部も扱って百貨店の形へ近づいていった。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
    • [14]呉服店では外売の売上げも店売りと同様に重要だった
    • [15]外売は主に年長の番頭の仕事で、商品を積んだ軽便車を丁稚に引かせて得意先を回った
    • [16]明治30年代の大阪本店の外売の得意先は市中の名家・一流料亭・花街・演劇界を中心に、周辺郊外の富裕な家から奈良・和歌山・神戸・姫路・岡山方面にまでおよんだ
    • [17]軽便車は黒い漆塗りに朱色で店名と商標を書いたもので、十数台が常備され宣伝の役目も果たした
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
    • [18]神戸支店設置の頃から取扱商品は従来の呉服専門から脱し、雑貨および美術品の一部をも加えて百貨店としての形態を整えるに至った
参考文献[1]-[18]
  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
    • [1]1893年(明治26年)にわが国で初めて商法が施行され、会社法によって会社の性格が確立された
    • [2]大阪の会社数は1889年(明治22年)84社、1898年(明治31年)458社と日清戦争後に急増した
    • [3]日清戦争後の大阪の会社組織化の中心は貿易商や大問屋で、小売商に限ればまだ稀だった
    • [5]1897年(明治30年)5月26日、商号を十合合名会社、資本額20万円、目的を呉服木綿唐物類販売として合名会社を設立した
    • [6]本店の営業所は大阪市南区心斎橋筋一丁目49番邸である
    • [7]社員は十合伊兵衛・十合重助・十合孝蔵の3名で、各社員の出資額は6万6,666円66銭6厘だった
    • [8]三代伊兵衛が大阪本店長、重助が京都支店長、孝蔵が大阪本店の仕入れ責任者として関東呉服の仕入れと京都支店との業務調整を担当した
    • [9]合名会社設立時、店員は本支店を合わせて80名に達していた
    • [10]設立時は心斎橋店だけを本店として登記し、京都仕入れ店は登記しなかった
    • [11]京都仕入れ店を登記しなかったのは、後の新店舗開設計画との関係でとりあえず必要な手続きのみにとどめたためである
    • [13]1899年(明治32年)の変更登記で会社の目的を呉服木綿洋反物金巾類の販売に改めた
    • [14]呉服店では外売の売上げも店売りと同様に重要だった
    • [15]外売は主に年長の番頭の仕事で、商品を積んだ軽便車を丁稚に引かせて得意先を回った
    • [16]明治30年代の大阪本店の外売の得意先は市中の名家・一流料亭・花街・演劇界を中心に、周辺郊外の富裕な家から奈良・和歌山・神戸・姫路・岡山方面にまでおよんだ
    • [17]軽便車は黒い漆塗りに朱色で店名と商標を書いたもので、十数台が常備され宣伝の役目も果たした
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
    • [4]1897年(明治30年)5月、長年の個人企業から合名会社として再出発した
    • [12]1899年(明治32年)に神戸支店を設置し、同年7月3日に京都仕入れ店を神戸の新店舗とともに支店として登記した
    • [18]神戸支店設置の頃から取扱商品は従来の呉服専門から脱し、雑貨および美術品の一部をも加えて百貨店としての形態を整えるに至った

1900年〜陳列とカタログによる販売手法の刷新

1900年、大阪本店は簡略なものながらショーウインドーを設けた。心斎橋筋でショーウインドーを構えていたのは、当時は高島屋とそごうのみだったと伝わる。1903年に売場を改造した際にこれを広げ、後年に元禄の流行が来ると、衣裳をまとわせた元禄人形を飾って道行く人を立ち止まらせた。1903年の内国勧業博覧会では、大阪本店が参考館へ豪華な衣裳を一揃い出品し、それを人形師の津の国屋萬兵衛が作った人と同じ背丈の人形にまとわせ、六角形のガラス張りケースに入れて見せた。大阪店の増築と改築を繰り返し、攻めの発展策を続けていた頃の話であり、蔵の品を客の目にさらす売り方は、番頭が好みを聞いて奥から品を運ばせる座売りの習わしを崩す第一歩となった。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
    • [19]1900年(明治33年)、大阪本店は簡略ながらショーウインドーを設けた
    • [20]当時の店員の回想として、心斎橋筋でショーウインドーのある店は高島屋とそごうだけだったと伝えられる
    • [21]1903年(明治36年)の売場改造でショーウインドーを改造拡張し、元禄流行の頃には衣裳を着付けた元禄人形を飾った
    • [22]1903年(明治36年)、大阪本店は内国勧業博覧会の参考館に豪華な衣裳一式を出展した
    • [23]出展は人形師の津の国屋萬兵衛が製作した等身大の人形に衣裳を着付け、六角ガラス張りのケースに収めたものだった
  • 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
    • [24]神戸店の開設や大阪店の増改築を行ない、積極的な発展策をとった

電話は1897年に引いてあったが、日露戦争のころには業務連絡だけでなく、売出しの知らせや注文取りにも使われていた。1905年に大阪本店が出した「衣裳界」は、大半が商品カタログでありながら、流行の動きや呉服の知識を伝える記事も載せ、服飾雑誌に近い作りになっていた。春と秋に毎年出して得意先に届け、外売の売り込みに役立てた。評判はよく、遠くの得意先ほど喜び、誌面の商品への注文ははっきり増えた。これに手応えを得て婚礼特集の豪華な別冊をつくり、年頃の子女のいる得意先へ送ったのも、高額の注文を手際よく取るための工夫である。取扱い品目を増やしながら、百貨店経営を指向していく時期である。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
    • [25]1897年(明治30年)に架設した電話を、日露戦争の頃から業務用のほか売出し案内や注文取りにも使った
    • [26]1905年(明治38年)、大阪本店は「衣裳界」を発行した
    • [27]「衣裳界」は主に商品カタログで占められ、呉服の知識や流行に関する記事も併載した服飾雑誌のような体裁だった
    • [28]大阪本店は「衣裳界」を毎年春秋に発行して得意先へ送り届け、外売の販売促進に活用した
    • [29]「衣裳界」は遠方の得意先にとくに喜ばれ、掲載商品の注文が目に見えて増大した
    • [30]大阪本店は「衣裳界」の別冊として豪華な婚礼特集号を発行し、適齢期の子女をもつ得意先へ送り届けた
    • [31]婚礼特集号は高額の注文を能率的に獲得しようとする試みだった
  • 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
    • [32]取扱い品目をふやし、百貨店経営を指向していった

坪井真三郎以下7名の店員が、長崎・福岡・下関・広島・岡山・姫路・和歌山・奈良・高松・松山などを回り、土地の一流旅館や料亭の広間、公会堂を借りて、持って行った商品を売りさばいた。大阪本店が近畿以西へ出張販売に出たのは1904年9月と翌1905年9月の二回で、店売りの暇な時期を生かしつつ、整ってきた交通網に乗ってそごうの名を各地へ知らせる狙いがあった。のちに出張販売は実益を優先する方針へ切り替わり、行き先も絞られた。とはいえ遠方への出張は、岡山・姫路・和歌山の三カ所に外売係を常駐させ、得意先を掘り起こす足場として生きた。一方、京都店は引き続き現地で仕入れる拠点の役を担った。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
    • [33]坪井真三郎以下7名の店員が奈良・和歌山・姫路・岡山・広島・下関・福岡・長崎・松山・高松などを巡回し、一流旅館・料亭の広間・公会堂を借り切って商品を販売した
    • [34]1904年(明治37年)9月と1905年(明治38年)9月の二回、大阪本店は近畿以西各地への出張販売を行った
    • [35]出張販売は店売りの閑散期を活用し、発達した交通機関を利用してそごうの名を各地にひろめようとする試みだった
    • [36]出張販売はその後、実益第一の方針に改められて出張先が縮小された
    • [37]遠距離出張販売の成果を足がかりに、岡山・姫路・和歌山の三カ所へ外売係員を駐在させて得意先を開拓した
  • 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
    • [38]京都店は現地仕入の拠点として開設された
参考文献[19]-[38]
  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
    • [19]1900年(明治33年)、大阪本店は簡略ながらショーウインドーを設けた
    • [20]当時の店員の回想として、心斎橋筋でショーウインドーのある店は高島屋とそごうだけだったと伝えられる
    • [21]1903年(明治36年)の売場改造でショーウインドーを改造拡張し、元禄流行の頃には衣裳を着付けた元禄人形を飾った
    • [22]1903年(明治36年)、大阪本店は内国勧業博覧会の参考館に豪華な衣裳一式を出展した
    • [23]出展は人形師の津の国屋萬兵衛が製作した等身大の人形に衣裳を着付け、六角ガラス張りのケースに収めたものだった
    • [25]1897年(明治30年)に架設した電話を、日露戦争の頃から業務用のほか売出し案内や注文取りにも使った
    • [26]1905年(明治38年)、大阪本店は「衣裳界」を発行した
    • [27]「衣裳界」は主に商品カタログで占められ、呉服の知識や流行に関する記事も併載した服飾雑誌のような体裁だった
    • [28]大阪本店は「衣裳界」を毎年春秋に発行して得意先へ送り届け、外売の販売促進に活用した
    • [29]「衣裳界」は遠方の得意先にとくに喜ばれ、掲載商品の注文が目に見えて増大した
    • [30]大阪本店は「衣裳界」の別冊として豪華な婚礼特集号を発行し、適齢期の子女をもつ得意先へ送り届けた
    • [31]婚礼特集号は高額の注文を能率的に獲得しようとする試みだった
    • [33]坪井真三郎以下7名の店員が奈良・和歌山・姫路・岡山・広島・下関・福岡・長崎・松山・高松などを巡回し、一流旅館・料亭の広間・公会堂を借り切って商品を販売した
    • [34]1904年(明治37年)9月と1905年(明治38年)9月の二回、大阪本店は近畿以西各地への出張販売を行った
    • [35]出張販売は店売りの閑散期を活用し、発達した交通機関を利用してそごうの名を各地にひろめようとする試みだった
    • [36]出張販売はその後、実益第一の方針に改められて出張先が縮小された
    • [37]遠距離出張販売の成果を足がかりに、岡山・姫路・和歌山の三カ所へ外売係員を駐在させて得意先を開拓した
  • 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
    • [24]神戸店の開設や大阪店の増改築を行ない、積極的な発展策をとった
    • [32]取扱い品目をふやし、百貨店経営を指向していった
    • [38]京都店は現地仕入の拠点として開設された

1919年〜株式会社への改組と百貨店業態の確立

1919年4月、大阪本店に鉄筋コンクリート4階建の新店舗が竣工した。同じ年の12月20日に株式会社十合呉服店が設立され、翌1920年3月18日、合名会社を吸収合併して衣替えが完了した。定款は資本の総額を300万円とし、6万株に分けて1株の金額を50円の全額払込と定めた。株主は十合家と同族に限り、株式の譲渡には取締役会の承諾を要するとした。決算期は毎年2月末である。会社の形は株式会社でも、所有を一族の外へ出さない構えだった。この時点で店舗は京阪神の三都市に及び、従業員500人を擁する百貨店へ脱皮していた。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)第二編一章 株式会社設立
    • [39]1919年(大正8年)4月、大阪本店に鉄筋コンクリート4階建の新店舗が竣工した
    • [41]定款は資本総額を300万円とし、6万株に分けて1株の金額を50円の全額払込と定めた
    • [42]定款は株主を十合家および同族に限り、取締役会の承諾なく株式を譲渡し、または質権の目的とすることを認めなかった
    • [43]定款は営業年度を1年とし、毎年2月末日を決算期と定めた
    • [44]株式会社設立時、社名はなお呉服店を名乗ったが、実態は京阪神の三大都市に店舗を配し従業員500人を擁する百貨店に脱皮していた
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
    • [40]1919年(大正8年)12月20日に株式会社十合呉服店を設立し、1920年(大正9年)3月18日に合名会社を吸収合併して株式会社への衣替えを完了した

株式と商品の相場がともに暴落した1920年度の恐慌下でも、そごうは21万6,252円49銭の当期純利益を出し、従業員500名へ総額3万円の賞与を配った。1920年の不況は株式会社になったばかりのそごうを試す難局だったが、営業の間口を大衆へ広げ、百貨店業態を短期間で築き上げて乗り切った。翌1921年には大阪本店に子供百貨部を新たに設けている。1923年10月1日には十合秀太郎が営む高級洋服店の十合洋服店を吸収し、本店3階に洋服部を設けた。縫製工場は南区大宝寺中之町に借りた建物へ置いた。洋品・雑貨・家庭用品へ取扱いを広げる動きが、ここで形になった。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)第二編二章 呉服店から百貨店へ
    • [45]恐慌の年にあたる1920年度に21万6,252円49銭の当期純利益を計上し、従業員500名へ総額3万円の賞与を分配した
    • [46]1920年(大正9年)に始まった不況は、株式会社設立直後のそごうにとって大きな試練だった
    • [47]そごうは時代の流れに対応して営業を大衆化し、百貨店業態を急速に築き上げることで不況を克服した
    • [49]1923年(大正12年)10月1日、十合秀太郎が経営する高級洋服店の十合洋服店を吸収し、大阪本店3階に洋服部を新設した
    • [50]洋服部の縫製工場は南区大宝寺中之町の建物を借りて開設された
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
    • [48]1921年(大正10年)、大阪本店に子供百貨部を新設した
  • そごう 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1919年に株式会社十合呉服店を設立し、洋品・雑貨・家庭用品の取り扱いを始めた

紳士服売場には仮仕立の型が十数種並び、客が選んだ型に合わせて採寸すれば、仮縫いを抜きに短期間で安く仕立てられた。発足直後から洋服部が進めた営業の大衆化の一つで、季節の変わり目には手持ちの舶来・国産の服地を値下げする「お誂え均一会」も催した。洋服ではそれまでにない試みで、客層を広げるのに大いに役立った。婦人服売場のほうは1924年に広げられて紳士服と肩を並べる規模になり、高級品を中心に、肌着・帽子・靴・パラソルまでそろえる総合的なファッション売場に変わった。仕立ては神戸の洋装店に任せ、帽子や靴も神戸の一流店から仕入れた。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)第二編二章 呉服店から百貨店へ
    • [52]紳士服売場は仮仕立の型十数種をあらかじめ陳列し、希望の型の指定を受けて採寸し、仮縫いなしで短時日のうちに安い価格で仕立てる方式を採用した
    • [53]洋服部は発足後ただちに営業の大衆化を進めた
    • [54]紳士服売場は季節の変り目に手持ちの舶来・国産服地を値下げする「お誂え均一会」を開催した
    • [55]これらは当時の洋服の分野では全く新しい企画で、客層の拡張に大きな効果を発揮した
    • [56]1924年(大正13年)に婦人服売場が拡張されて紳士服に匹敵する規模となり、高級品に主力を置いて洋服のほか肌着・帽子・靴・パラソルも扱う総合的なファッション売場となった
    • [57]婦人服の仕立ては神戸の洋装店に委託し、帽子は神戸の帽子店、靴は神戸・トアロードの大仏堂から仕入れた

大正末期の神戸支店は693平方メートルの店に40名を抱え、市中でも有力な呉服店の一つだった。これより前の1920年3月25日、神戸支店は大戦景気で得た利益の一部を充てて五度目の拡張と改築を行い、裏の土地118.6平方メートルを建物ごと買い取って店につなげ、土間を広げて陳列ケースを置き、陳列販売へ改めた。そのころの元町には大丸、三越、小橋屋などが店を構え、六店が毎月一回集まって情報をやりとりしていた。そして1933年10月、そごうは新たに完成した阪神電車三宮駅の地上8階地下2階、延3,000坪の店舗を賃借し、神戸支店をここへ移した。移転先の三宮は、当時の新興市街地である。老舗が軒を連ねる元町を離れ、育ちつつある街で売場を構え直す判断だった。

  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)第二編二章 呉服店から百貨店へ
    • [58]大正末期の神戸支店は693平方メートル(210坪)の店舗と40名の従業員を擁し、市中の有力呉服店としての地歩を築いていた
    • [59]1920年(大正9年)3月25日、好況中にあげた収益の一部を投じて神戸支店の五度目の拡張と改築を行った
    • [60]支店裏手の土地118.6平方メートル(35.9坪)と建物を買収して店舗に併合し、売場の土間を広げて陳列ケースを置き陳列販売に改めた
    • [61]大正末期の神戸の有力店は元町の大丸・そごう・三越・小橋屋、有馬道の吉田屋、湊川新開地の白木屋で、六店は月一回の定例会合を開いて情報交換していた
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
    • [62]1933年(昭和8年)10月、新たに完成した阪神電車三宮駅の地上8階地下2階・延3,000坪の店舗を賃借し、神戸支店を移転した
  • 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
    • [63]1933年(昭和8年)、神戸店は新興市街地である三宮の現在地へ進出した
参考文献[39]-[63]
  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)第二編一章 株式会社設立
    • [39]1919年(大正8年)4月、大阪本店に鉄筋コンクリート4階建の新店舗が竣工した
    • [41]定款は資本総額を300万円とし、6万株に分けて1株の金額を50円の全額払込と定めた
    • [42]定款は株主を十合家および同族に限り、取締役会の承諾なく株式を譲渡し、または質権の目的とすることを認めなかった
    • [43]定款は営業年度を1年とし、毎年2月末日を決算期と定めた
    • [44]株式会社設立時、社名はなお呉服店を名乗ったが、実態は京阪神の三大都市に店舗を配し従業員500人を擁する百貨店に脱皮していた
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
    • [40]1919年(大正8年)12月20日に株式会社十合呉服店を設立し、1920年(大正9年)3月18日に合名会社を吸収合併して株式会社への衣替えを完了した
    • [48]1921年(大正10年)、大阪本店に子供百貨部を新設した
    • [62]1933年(昭和8年)10月、新たに完成した阪神電車三宮駅の地上8階地下2階・延3,000坪の店舗を賃借し、神戸支店を移転した
  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)第二編二章 呉服店から百貨店へ
    • [45]恐慌の年にあたる1920年度に21万6,252円49銭の当期純利益を計上し、従業員500名へ総額3万円の賞与を分配した
    • [46]1920年(大正9年)に始まった不況は、株式会社設立直後のそごうにとって大きな試練だった
    • [47]そごうは時代の流れに対応して営業を大衆化し、百貨店業態を急速に築き上げることで不況を克服した
    • [49]1923年(大正12年)10月1日、十合秀太郎が経営する高級洋服店の十合洋服店を吸収し、大阪本店3階に洋服部を新設した
    • [50]洋服部の縫製工場は南区大宝寺中之町の建物を借りて開設された
    • [52]紳士服売場は仮仕立の型十数種をあらかじめ陳列し、希望の型の指定を受けて採寸し、仮縫いなしで短時日のうちに安い価格で仕立てる方式を採用した
    • [53]洋服部は発足後ただちに営業の大衆化を進めた
    • [54]紳士服売場は季節の変り目に手持ちの舶来・国産服地を値下げする「お誂え均一会」を開催した
    • [55]これらは当時の洋服の分野では全く新しい企画で、客層の拡張に大きな効果を発揮した
    • [56]1924年(大正13年)に婦人服売場が拡張されて紳士服に匹敵する規模となり、高級品に主力を置いて洋服のほか肌着・帽子・靴・パラソルも扱う総合的なファッション売場となった
    • [57]婦人服の仕立ては神戸の洋装店に委託し、帽子は神戸の帽子店、靴は神戸・トアロードの大仏堂から仕入れた
    • [58]大正末期の神戸支店は693平方メートル(210坪)の店舗と40名の従業員を擁し、市中の有力呉服店としての地歩を築いていた
    • [59]1920年(大正9年)3月25日、好況中にあげた収益の一部を投じて神戸支店の五度目の拡張と改築を行った
    • [60]支店裏手の土地118.6平方メートル(35.9坪)と建物を買収して店舗に併合し、売場の土間を広げて陳列ケースを置き陳列販売に改めた
    • [61]大正末期の神戸の有力店は元町の大丸・そごう・三越・小橋屋、有馬道の吉田屋、湊川新開地の白木屋で、六店は月一回の定例会合を開いて情報交換していた
  • そごう 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1919年に株式会社十合呉服店を設立し、洋品・雑貨・家庭用品の取り扱いを始めた
  • 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
    • [63]1933年(昭和8年)、神戸店は新興市街地である三宮の現在地へ進出した

筆者考察

株式会社十合呉服店の定款は、会社を開くための文書であると同時に、閉じるための文書でもあった。1919年12月に設立し、翌年3月に合名会社を吸収したとき、資本の総額は300万円に達している。それでも株主は十合家と同族に限り、株式の譲渡には取締役会の承諾を要すると定めた。京阪神の三都市に店を構え、従業員500人を抱えながら、所有だけは一族の内側に置いたのである。個人企業色の強い合名会社を選んだ1897年の判断と、株式会社になってなお同族で固めた1920年の判断は、同じ性格のものだった。

売り方の刷新は、所有の閉鎖性とは逆の方向へ進んだ。1900年のショーウインドーは、番頭が客の好みを聞いて蔵から品を運ばせる座売りをやめる装置であり、1905年に始めた「衣裳界」は店に来ない客へ商品を届ける仕組みである。1923年に吸収した十合洋服店では高級洋服店の看板を下ろし、仮縫いなしの仮仕立と服地を値下げする均一会で客層を広げた。1933年に神戸支店を老舗の並ぶ元町から三宮の新しい市街地へ移したのも同じ判断で、客のいる場所へ店を寄せている。品ぞろえを広げたのは、その帰結だった。

資本額 十合合名会社から株式会社十合呉服店へ(万円)

20 1897 300 1920
  • 1897年5月に設立した十合合名会社の資本額は20万円。1920年3月に合名会社を吸収合併した株式会社十合呉服店の資本総額は300万円で、6万株に分け1株50円の全額払込とした。
  • 出所は『株式会社そごう社史』(1969年)、『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)。

出典・参考

6件
出典・参考
  • そごう 有価証券報告書【沿革】
  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)三章 合名会社の時代
  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)第二編一章 株式会社設立
  • 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)第二編二章 呉服店から百貨店へ
  • 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
  • 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」

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