そごう:古手商「大和屋」の開業と十合呉服店への改称
大和屋の古手商から十合呉服店への業態転換
1830年〜古手屋として選んだ市場と大和屋の開業
初代十合伊兵衛は、大和国十市郡十市村の農家に生まれ、呉服の行商を兼ねる家で育った。生家は「きぬや」の屋号を用い、父の徳兵衛は販路を吉野から紀州方面まで広げるほど商いに熱心だった。末子の伊兵衛が大坂へ出たのは1821年、17歳のときである。それから9年を経た1830年、26歳で坐摩神社の南隣にあたる南組上難波北之町に古手屋を開き、屋号を大和屋とした。扱ったのは絹布と木綿の古着だった。江戸時代の古手は今日の古着とは意味が違い、庶民が求める衣料は普段着も晴れ着も古手が中心だった。しかも古手商の株仲間は1645年に公認されながら、ほかの仲間ほどの排他性も特権も持たなかった。衣料の扱いに慣れた家に生まれ、株を取りやすい業種を選んだのだろう。
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)一章 草創の頃
- [1]初代十合伊兵衛は大和国十市郡十市村の生まれで、生家は農業のかたわら呉服の行商を営んだ
- [2]生家は屋号を「きぬや」と称し、父の徳兵衛は商売に熱心で販路は吉野から紀州方面におよんだ
- [3]伊兵衛は1821年(文政4年)、17歳で大坂へ出た
- [6]江戸時代の古手は今日の古着とは意味が異なり、庶民が買い求める衣料は普段着・晴れ着を問わず古手が多かった
- [7]古手商の株仲間は1645年(正保2年)に公認されたが、ほかの仲間に比べ強い排他性を持たず特権も乏しかった
- 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
- [4]1830年(天保元年)、伊兵衛は大坂・坐摩神社の南隣、南組上難波北之町に古手屋を開き屋号を大和屋とした
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
- [5]大和屋伊兵衛の商号で衣類小売商を創業し、主として絹布および木綿の古着を商った
初代の店は借店で、数名の使用人を置いて古着を商った。場所は坐摩の前通りである。東本願寺難波別院と坐摩神社にはさまれた目抜き通りで、境内に人形浄瑠璃や見世物がかかり、屋台が並ぶ、大坂でも指折りの歓楽街だった。古手屋の多い通りでもあり、近くの三田屋・中村屋・きのくに屋の三店は早くから古手問屋として大きく商っていた。伊兵衛はこの三店と親しくなり、仕入れで取引きをしながら、年季の入った先輩の商いぶりから古手の扱いを身につけた。三店の主人の側も、若い伊兵衛を物心両面で助けた。品物はたいてい質流れか素人から買ったもので、1780年代には仲買の各組から札付組という問屋を経て小売組へ回る流れが固まっていた。資本の乏しい新参にとって、問屋との関係はそのまま仕入れ能力だった。1834年3月、商売の基礎が固まった伊兵衛は生家から分家し、間もなく結婚した。
- そごう 有価証券報告書【沿革】
- [8]初代十合伊兵衛は坐摩神社前の借店で数名とともに古着を扱った
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)一章 草創の頃
- [9]坐摩神社と東本願寺難波別院の間の通りは坐摩の前通りと呼ばれ、商家と屋台が並ぶ大坂の繁華街のひとつだった
- [10]大和屋の近くには三田屋、中村屋、きのくに屋があり、三店とも早くから同地で古手問屋を手広く営んでいた
- [11]伊兵衛は三店と親交を結び、仕入れ取引きのかたわら古手商いの多くを先輩商人から学んだ
- [12]三田屋・中村屋・きのくに屋の三店主は若い伊兵衛に好意を示し、物心両面にわたって援助を惜しまなかった
- [13]古手屋の商品はほとんどが質流れ品と素人買いの品で、1780年代には仲買の各組から札付組を経て小売組へ流れる仕組みが整っていた
- [14]1834年(天保5年)3月、商売の基礎が固まった伊兵衛は大和の生家から分家し、間もなく結婚した
1860年3月7日、木造の商家が密集する坐摩の前通りで近隣から火が出て、大和屋の店舗を一瞬のうちに焼いた。同じ年の12月12日、再建の途上にあった店舗がふたたび近火で灰燼に帰した。創業以来、最大の苦難だった。それでも伊兵衛親子は店を建て直し、業績を取り戻した。1841年に幕府が株仲間の解散を布令し、衣食住のすみずみまで消費を規制したときも、大和屋は古手屋であったためか深刻な影響を受けなかった。奢侈の禁令は、高級な品を扱わない商いの外側を通り過ぎた。1837年12月に生まれた長男には、家督を継ぐ者として商いの道を仕込んだ。坐摩神社前の借店で始まった暖簾は、初代から3代にわたって継がれた。
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)一章 草創の頃
- [15]1860年(万延元年)3月7日、近隣から出た火災で大和屋の店舗が全焼した
- [16]同年12月12日、再建途上の店舗がふたたび近火で灰燼に帰した
- [17]二度の焼失は創業以来最大の苦難で、店舗の再建と業績の回復は容易ではなかった
- [18]伊兵衛親子は屈せず店舗を再建し、大和屋は1863年頃までに再建の軌道に乗った
- [19]1841年(天保12年)の株仲間解散と消費規制のもとでも、大和屋は古手屋のためかさほど深刻な影響を受けなかった
- [20]1837年(天保8年)12月12日に長男の二代伊兵衛が生まれ、初代は大和屋を継ぐこの長男に商いの道を教えこんだ
- そごう 有価証券報告書【沿革】
- [21]坐摩神社前の借店で始まった暖簾は3代にわたり継がれた
参考文献[1]-[21]
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)一章 草創の頃
- [1]初代十合伊兵衛は大和国十市郡十市村の生まれで、生家は農業のかたわら呉服の行商を営んだ
- [2]生家は屋号を「きぬや」と称し、父の徳兵衛は商売に熱心で販路は吉野から紀州方面におよんだ
- [3]伊兵衛は1821年(文政4年)、17歳で大坂へ出た
- [6]江戸時代の古手は今日の古着とは意味が異なり、庶民が買い求める衣料は普段着・晴れ着を問わず古手が多かった
- [7]古手商の株仲間は1645年(正保2年)に公認されたが、ほかの仲間に比べ強い排他性を持たず特権も乏しかった
- [9]坐摩神社と東本願寺難波別院の間の通りは坐摩の前通りと呼ばれ、商家と屋台が並ぶ大坂の繁華街のひとつだった
- [10]大和屋の近くには三田屋、中村屋、きのくに屋があり、三店とも早くから同地で古手問屋を手広く営んでいた
- [11]伊兵衛は三店と親交を結び、仕入れ取引きのかたわら古手商いの多くを先輩商人から学んだ
- [12]三田屋・中村屋・きのくに屋の三店主は若い伊兵衛に好意を示し、物心両面にわたって援助を惜しまなかった
- [13]古手屋の商品はほとんどが質流れ品と素人買いの品で、1780年代には仲買の各組から札付組を経て小売組へ流れる仕組みが整っていた
- [14]1834年(天保5年)3月、商売の基礎が固まった伊兵衛は大和の生家から分家し、間もなく結婚した
- [15]1860年(万延元年)3月7日、近隣から出た火災で大和屋の店舗が全焼した
- [16]同年12月12日、再建途上の店舗がふたたび近火で灰燼に帰した
- [17]二度の焼失は創業以来最大の苦難で、店舗の再建と業績の回復は容易ではなかった
- [18]伊兵衛親子は屈せず店舗を再建し、大和屋は1863年頃までに再建の軌道に乗った
- [19]1841年(天保12年)の株仲間解散と消費規制のもとでも、大和屋は古手屋のためかさほど深刻な影響を受けなかった
- [20]1837年(天保8年)12月12日に長男の二代伊兵衛が生まれ、初代は大和屋を継ぐこの長男に商いの道を教えこんだ
- 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
- [4]1830年(天保元年)、伊兵衛は大坂・坐摩神社の南隣、南組上難波北之町に古手屋を開き屋号を大和屋とした
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
- [5]大和屋伊兵衛の商号で衣類小売商を創業し、主として絹布および木綿の古着を商った
- そごう 有価証券報告書【沿革】
- [8]初代十合伊兵衛は坐摩神社前の借店で数名とともに古着を扱った
- [21]坐摩神社前の借店で始まった暖簾は3代にわたり継がれた
1870年〜株仲間の廃止と吊りぎれによる呉服店への転業
平民にも姓の使用が認められ、一族が公に十合を名のりはじめた年、初代伊兵衛は店を退いた。1870年4月15日、66歳で大和屋のいっさいを33歳の二代伊兵衛に渡したのである。維新で大坂の経済が根元から崩れていくなか、この急変には合わせきれないと見たのだろう。職業と平民の身なりをめぐる制限は翌1871年になくなり、1872年には政府が旧来の株仲間を廃止して、誰でも自由に商いができる原則が固まった。父のやり方を引き継ぐ考えはなく、同じ年に二代伊兵衛は呉服店への転業を決めた。庶民が力をつけ商業が近代化していく以上、古手屋に大きな将来は望めないと判断したのである。
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)二章 呉服店への発展
- [22]1870年(明治3年)に平民も姓を名のることが許され、大和屋の一族ははじめて公に十合の姓を名のった
- [24]1871年(明治4年)、職業や平民の身なりについての制限が撤廃された
- [25]1872年(明治5年)、政府は古い株仲間の制度を廃した
- [26]前年の職業制限の撤廃とあわせ、ここではじめて営業自由の原則が確立した
- [27]1872年(明治5年)、二代伊兵衛は呉服店への転業を決意した
- [28]庶民の台頭・商業の近代化・営業自由化の進展に照らし、古手屋の将来にもはや大きな期待は繋げないと二代伊兵衛は考えた
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)一章 草創の頃
- [23]1870年(明治3年)4月15日、初代伊兵衛は66歳で大和屋のすべてを33歳の二代伊兵衛に譲って隠居した
古着を商ってきた大和屋は、やがて新品も扱うようになった。転業の足がかりに選んだのは吊りぎれである。大坂でこの品が店先に出るのは誓文払いのような特別な売出しの日に限られ、いつでも手に入るものではなかった。もとは呉服の染め見本や仕立ての余りぎれのことで、裏地、襦袢の袖、前掛け、座ぶとんの側まで使い道が多く、安いので庶民に好まれた。四季を通じて店に吊るし、大和屋の看板となる品に仕立てる——二代伊兵衛の狙いはそこにあった。もっとも、本来は半端物を片づけるための品を切らさず並べるには、呉服店と同じ仕入れ先では量が足りないため、二代伊兵衛は蒸汽船で伏見まで行き、高瀬舟に乗り換えて四条室町の呉服問屋を訪ね歩き、蔵の奥で眠っている反物や使わなくなった染め見本を安値でまとめて買った。呉服商も古手商も、大坂では誰も思いつかない仕入れ方だった。
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
- [29]大和屋は絹布および木綿の古着を商っていたが、その後新品を取り扱うようになった
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)二章 呉服店への発展
- [30]呉服店への転業を決めた頃を境に、大和屋は吊りぎれを売り出すようになった
- [31]大坂では吊りぎれは誓文払いなどの特別な売出し日に限って店頭に吊られ、いつでも買える商品ではなかった
- [32]吊りぎれは呉服の染め見本や仕立て残りのきれで、裏地・襦袢の袖・前掛け・ふとんの側まで用途が広く値も安い人気商品だった
- [33]二代伊兵衛は吊りぎれを四季を通じて常に店頭に吊り、大和屋の名物にしようと考えた
- [34]二代伊兵衛は蒸汽船で伏見へ出て高瀬舟に乗り換え、四条室町の京都の呉服問屋で蔵に眠る反物や不用の染め見本を安く買い集めた
- [35]こうした仕入れのやり方は当時の一般の呉服商や古手商には考えおよばないものだった
坐摩の大火と呼ばれる火事は1875年2月7日の午前11時頃に近所から出て、西風に乗って東へ燃え広がり、午後10時頃まで続いて民家820戸、寺院5、土蔵16を焼いた。大和屋にとってはこれが三度目の焼失で、吊りぎれの売れ行きが年々伸びていたさなかのことだった。1860年に二度焼けたときと違い、蓄えは十分にあり信用も固まっていたため、店はすぐに建て直され、商いもほどなく持ち直した。一方で二代伊兵衛は、坐摩前の店をこの機会に広げることはせず、隣の土地を買おうとした跡も見当たらない。維新後の十合が時の流れを機敏にとらえて伸びたのだとすれば、焼け跡を元の広さのまま再建したこともその判断の一つだったのだろう。
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)二章 呉服店への発展
- [36]火は午前11時頃に出て西風にあおられ東へ延び、午後10時頃まで燃えつづけて民家820戸・寺院5・土蔵16を焼きつくした
- [37]この火災は坐摩の大火と呼ばれた
- [38]1875年(明治8年)2月7日、三度目の火災が大和屋を襲った
- [39]1860年(万延元年)の罹災時に比べ、豊かな蓄財と厚い信用があったため再建にそれほどの労苦はなかった
- [40]店舗はたちまち再建され、業績の回復も早かった
- [41]坐摩の大火後、坐摩前店舗を拡張しようとした形跡はない
- [42]隣接地の買収を試みたふしも見当たらない
参考文献[22]-[42]
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)二章 呉服店への発展
- [22]1870年(明治3年)に平民も姓を名のることが許され、大和屋の一族ははじめて公に十合の姓を名のった
- [24]1871年(明治4年)、職業や平民の身なりについての制限が撤廃された
- [25]1872年(明治5年)、政府は古い株仲間の制度を廃した
- [26]前年の職業制限の撤廃とあわせ、ここではじめて営業自由の原則が確立した
- [27]1872年(明治5年)、二代伊兵衛は呉服店への転業を決意した
- [28]庶民の台頭・商業の近代化・営業自由化の進展に照らし、古手屋の将来にもはや大きな期待は繋げないと二代伊兵衛は考えた
- [30]呉服店への転業を決めた頃を境に、大和屋は吊りぎれを売り出すようになった
- [31]大坂では吊りぎれは誓文払いなどの特別な売出し日に限って店頭に吊られ、いつでも買える商品ではなかった
- [32]吊りぎれは呉服の染め見本や仕立て残りのきれで、裏地・襦袢の袖・前掛け・ふとんの側まで用途が広く値も安い人気商品だった
- [33]二代伊兵衛は吊りぎれを四季を通じて常に店頭に吊り、大和屋の名物にしようと考えた
- [34]二代伊兵衛は蒸汽船で伏見へ出て高瀬舟に乗り換え、四条室町の京都の呉服問屋で蔵に眠る反物や不用の染め見本を安く買い集めた
- [35]こうした仕入れのやり方は当時の一般の呉服商や古手商には考えおよばないものだった
- [36]火は午前11時頃に出て西風にあおられ東へ延び、午後10時頃まで燃えつづけて民家820戸・寺院5・土蔵16を焼きつくした
- [37]この火災は坐摩の大火と呼ばれた
- [38]1875年(明治8年)2月7日、三度目の火災が大和屋を襲った
- [39]1860年(万延元年)の罹災時に比べ、豊かな蓄財と厚い信用があったため再建にそれほどの労苦はなかった
- [40]店舗はたちまち再建され、業績の回復も早かった
- [41]坐摩の大火後、坐摩前店舗を拡張しようとした形跡はない
- [42]隣接地の買収を試みたふしも見当たらない
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)一章 草創の頃
- [23]1870年(明治3年)4月15日、初代伊兵衛は66歳で大和屋のすべてを33歳の二代伊兵衛に譲って隠居した
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
- [29]大和屋は絹布および木綿の古着を商っていたが、その後新品を取り扱うようになった
1876年〜心斎橋筋への進出と十合呉服店への改称
二代伊兵衛は、店を継ぐ人材を養子縁組で確保した。長女とくは使用人の十合庄吉を婿に迎え、1876年4月には次女はるも使用人の木水重助と縁組し、重助が十合姓を名のった。男子のない家で長女に婿を取るのは当然としても、次女まで他家に嫁がせなかったのは、大和屋を広げる計画に沿って志を同じくする一族を増やすためだった。重助夫婦は安堂寺橋通三丁目に小さな呉服店を開いた。扱いは木綿物と吊りぎれで、規模も小さく業績は上がらなかった。それでも店を構えたのは、手狭な坐摩前から重助を独立させ、呉服商いを習熟させるためだった。長堀川の南、島の内へ出るための布石である。
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)二章 呉服店への発展
- [43]二代伊兵衛は男子がなく、長女・次女ともに使用人を養子に迎えて一族を増やした
- [44]坐摩の大火後、長女とくが使用人の十合庄吉と養子縁組で結婚した。庄吉は後の三代十合伊兵衛である
- [45]1876年(明治9年)4月、次女はるが使用人の木水重助と結婚し、重助がはるの戸籍に入って十合姓を名のった
- [46]次女まで他家に嫁がせず養子縁組させたのは、大和屋発展の計画に沿い志を同じくする人材を一族を増やすことで得るためだった
- [48]重助夫婦は大阪・安堂寺橋通三丁目に呉服店を開き、扱い商品は木綿物と吊りぎれで、規模も小さく業績は挙がらなかった
- [49]不景気のさなかに新店を構えたのは、手狭な坐摩前の店から重助夫婦を独立させ、重助に呉服商いを習熟させるためだった
- [50]安堂寺橋通りの店舗は、大和屋が呉服店として心斎橋の南へ進出するまでの布石だった
- 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
- [47]維新後の十合は安堂寺橋通りに進出し、呉服商へ転進した
1877年、西郷隆盛の挙兵で始まった西南戦争は、大阪に征討軍の基地を置かせ、軍隊とご用商人を集めて市中を軍需ブームに沸かせた。大阪の経済が維新の混乱と低迷から脱け出したのは、この戦争を契機としてだった。大和屋はその渦中で安堂寺橋通の店を閉じ、心斎橋筋一丁目の鰻谷通西南角に呉服店を開いた。地主の田中千治郎から土地建物を借りて改造した店で、面積は104坪、坐摩前の店のおよそ2倍あった。同時に古手業を完全に廃業し、江戸時代以来の屋号も捨てた。新しい看板には「現金正札呉服太物帯地十合呉服店」としるされた。改造の資金も、二店にわたる絹物の仕入れも巨額で、大和屋時代の蓄積はすべて投入された。
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)西南戦争と大阪経済の立直り/商標と商号
- [51]1877年(明治10年)の西南戦争で政府は大阪に征討軍の基地を置き、軍隊とご用商人が集まって市中は軍需ブームに沸いた
- [52]大阪の経済は西南戦争を契機に維新の混乱と低迷から脱け出した
- [54]心斎橋筋の店は鰻谷通り西南の角で、地主の田中千治郎所有の土地建物を借りて改造したもの。面積は333.2平方メートル(104坪)で坐摩前の店の約2倍だった
- [56]心斎橋筋の新店と坐摩前の店には「現金正札呉服太物帯地十合呉服店」としるした看板とのれんが掲げられた
- [57]店舗の改造費も二店にわたる絹物の大量仕入れも巨額で、大和屋時代の蓄積のすべてが投入された
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
- [53]1877年(明治10年)、二代伊兵衛ら一族が心斎橋筋に店舗を新設し、呉服店としてのスタートを切った
- そごう 有価証券報告書【沿革】
- [55]1877年に屋号を十合呉服店へ改め、古手から新品呉服へ業態を転じた
心斎橋筋一丁目には大丸、二丁目には小大丸と丸亀屋という大呉服店が店を構えていた。屋号を捨てた新参が並び立つには、店の名そのものを売らなければならない。商標には生家きぬやから継いだ「まるにちきり」を用い、商号を改めてからこれを積極的に使うようになった。もっとも「十合」はすぐには読んでもらえず、1879年の浪華諸商独案内も1882年の浪華の魁も店を「曽合」と当て字で紹介しており、店自身も1880年代の初めまでこの表記を併用した。1885年7月、京都に支店を置いた。吊りぎれの仕入れで通った産地に、自前の拠点を構えたことになる。取扱いは高級品から実用品までのあらゆる呉服類におよび、心斎橋進出から短い年月で十合の名は広まった。
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)西南戦争と大阪経済の立直り/商標と商号
- [58]十合呉服店が誕生した頃、心斎橋筋一丁目には大丸、二丁目には小大丸・丸亀屋などの大呉服店があった
- [59]商標「まるにちきり」は初代の生家である十市村きぬやの商標を継承したもので、商号が十合呉服店と改められてから積極的に用いられるようになった
- [60]1879年(明治12年)の浪華諸商独案内、1882年(明治15年)の浪華の魁はいずれも店を「曽合」と紹介しており、少なくとも明治10年代の前半まで当て字が併用された
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
- [61]1885年(明治18年)7月、京都支店を設置した
- [63]取扱品は高級品から実用品に至るまであらゆる呉服類を網羅し、心斎橋進出後の短い年月で確固たる社礎が築かれて十合の名声は広まった
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)二章 呉服店への発展
- [62]京都は当時わが国随一の呉服の集散地で、二代伊兵衛は吊りぎれの仕入れのため京都の呉服問屋へ頻繁に通っていた
参考文献[43]-[63]
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)二章 呉服店への発展
- [43]二代伊兵衛は男子がなく、長女・次女ともに使用人を養子に迎えて一族を増やした
- [44]坐摩の大火後、長女とくが使用人の十合庄吉と養子縁組で結婚した。庄吉は後の三代十合伊兵衛である
- [45]1876年(明治9年)4月、次女はるが使用人の木水重助と結婚し、重助がはるの戸籍に入って十合姓を名のった
- [46]次女まで他家に嫁がせず養子縁組させたのは、大和屋発展の計画に沿い志を同じくする人材を一族を増やすことで得るためだった
- [48]重助夫婦は大阪・安堂寺橋通三丁目に呉服店を開き、扱い商品は木綿物と吊りぎれで、規模も小さく業績は挙がらなかった
- [49]不景気のさなかに新店を構えたのは、手狭な坐摩前の店から重助夫婦を独立させ、重助に呉服商いを習熟させるためだった
- [50]安堂寺橋通りの店舗は、大和屋が呉服店として心斎橋の南へ進出するまでの布石だった
- [62]京都は当時わが国随一の呉服の集散地で、二代伊兵衛は吊りぎれの仕入れのため京都の呉服問屋へ頻繁に通っていた
- 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」
- [47]維新後の十合は安堂寺橋通りに進出し、呉服商へ転進した
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)西南戦争と大阪経済の立直り/商標と商号
- [51]1877年(明治10年)の西南戦争で政府は大阪に征討軍の基地を置き、軍隊とご用商人が集まって市中は軍需ブームに沸いた
- [52]大阪の経済は西南戦争を契機に維新の混乱と低迷から脱け出した
- [54]心斎橋筋の店は鰻谷通り西南の角で、地主の田中千治郎所有の土地建物を借りて改造したもの。面積は333.2平方メートル(104坪)で坐摩前の店の約2倍だった
- [56]心斎橋筋の新店と坐摩前の店には「現金正札呉服太物帯地十合呉服店」としるした看板とのれんが掲げられた
- [57]店舗の改造費も二店にわたる絹物の大量仕入れも巨額で、大和屋時代の蓄積のすべてが投入された
- [58]十合呉服店が誕生した頃、心斎橋筋一丁目には大丸、二丁目には小大丸・丸亀屋などの大呉服店があった
- [59]商標「まるにちきり」は初代の生家である十市村きぬやの商標を継承したもので、商号が十合呉服店と改められてから積極的に用いられるようになった
- [60]1879年(明治12年)の浪華諸商独案内、1882年(明治15年)の浪華の魁はいずれも店を「曽合」と紹介しており、少なくとも明治10年代の前半まで当て字が併用された
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
- [53]1877年(明治10年)、二代伊兵衛ら一族が心斎橋筋に店舗を新設し、呉服店としてのスタートを切った
- [61]1885年(明治18年)7月、京都支店を設置した
- [63]取扱品は高級品から実用品に至るまであらゆる呉服類を網羅し、心斎橋進出後の短い年月で確固たる社礎が築かれて十合の名声は広まった
- そごう 有価証券報告書【沿革】
- [55]1877年に屋号を十合呉服店へ改め、古手から新品呉服へ業態を転じた
筆者考察
十合家が二代にかけてやったのは、店を大きくすることではなく、売る品を替えることだった。初代伊兵衛が1830年に坐摩神社の南隣で開いた大和屋は、質流れと素人買いの古着を庶民に売る店である。株仲間の特権が薄い古手商は、資本の乏しい新参でも入りやすい市場だった。その市場を1872年に捨てる判断を下したのは二代伊兵衛で、きっかけは株仲間の廃止による営業自由の確立にある。父の代の商いが続けられなくなったわけではない。続けられるうちに、この先の伸びが見込めない商売だと見切ったのだった。
転業の難所は、新しい品をどこから仕入れるかにあった。二代伊兵衛が選んだ吊りぎれは、呉服店が半端物を処分するために作った商品で、常時そろえられる筋のものではない。そこで大坂の問屋を通さず、蒸汽船と高瀬舟を乗り継いで京都・四条室町の呉服問屋を回った。仕入れ先を自分で開いたからこそ、1877年に心斎橋筋の104坪へ移り、古手業を廃業して十合呉服店を名乗ることができた。1885年の京都支店は、この仕入れ路を店として固定したものである。屋号を捨てて姓を看板に掲げた店が、産地に拠点を構える形をとった。
- 1830年は坐摩前の大和屋のみ。1877年は坐摩前と心斎橋筋一丁目の二店で、どちらにも十合呉服店の看板を掲げた。1885年7月に京都支店を加えて三店。
- 出所は『株式会社そごう社史』(1969年)、『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)。
出典・参考
6件
- そごう 有価証券報告書【沿革】
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)一章 草創の頃
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)二章 呉服店への発展
- 『株式会社そごう社史』(1969年、株式会社そごう社長室弘報室 編)西南戦争と大阪経済の立直り/商標と商号
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「十合」
- 『企業の歴史 明治百年』第三編(1968年)「十合」