そごうそごう創業——大坂・坐摩神社前の古手屋「大和屋」から心斎橋の百貨店へ
新品呉服を三井越後屋系の老舗が握る大坂で、近江から出た初代十合伊兵衛 氏はなぜ参入障壁の低い古手(古着)から店を興したか
- 概要
- 1830年(天保元年)、大坂船場の坐摩神社前で初代十合伊兵衛 氏が古手(古着)を扱う「大和屋」を開いた。新品呉服を三井越後屋系の老舗が握る商業秩序の外側で、参入障壁の低い古手流通から信用と資金を積み上げ、1877年に4代目十合伊兵衛 氏が屋号を「十合呉服店」へ改めて新品呉服へ転じた。1919年の株式会社化を経て心斎橋に百貨店を構え、1940年に株式会社そごう、1949年に大阪証券取引所へ上場した。
- 背景
- 天保期の大坂船場は、三井越後屋系の呉服店が本町・心斎橋筋の表通りで新品呉服を扱う一方、坐摩神社の門前には古手・古道具を商う小店が集まっていた。武家や商家の奉公人・町人が着る日常着の古着には安定した需要があり、振売や仲買から少額で仕入れが回る流通であった。初代十合伊兵衛 氏は、老舗が支配する新品呉服ではなく、この参入障壁の低い古手の領域から商いを興した。
- 内容
- 開業から約半世紀、屋号「大和屋」と古手商という業態は初代から3代目までの伊兵衛が受け継いだ。1877年、4代目十合伊兵衛 氏が屋号を「十合呉服店」へ改め、扱いも新品呉服へ移した。維新後の身分制度の解体と洋装の浸透で古着流通の規模に限りが見えるなか、坐摩前で積み上げた商圏と仲買網を心斎橋筋へ振り向け直す判断であった。1919年には株式会社十合呉服店として法人化し、洋品・雑貨・家庭用品を加えて百貨店へと業態を移した。
- 含意
- 1930年に心斎橋筋へ地上8階・地下2階建ての新本店を構え、当時東洋一を称する百貨店として大阪の中心に立った。1933年の神戸店開業と前後する建築投資の負担で、1935年に十合家は保有株式を売却し、経営権は板谷家へ移って創業家は経営から退いた。1940年に株式会社そごうへ改称し、戦中の空襲と進駐軍接収を経て、1949年5月に大阪証券取引所へ上場した。参入障壁の低い古手から始めた商家は、二度の業態転換を重ねて上場企業へと姿を変えた。
古手から始めた商家が上場企業に至るまで
この創業からうかがえるのは、老舗が支配する新品呉服の表通りではなく、参入障壁の低い古手(古着)の裏通りから商いを起こした選択の意味である。振売や仲買が古着を持ち寄る坐摩神社前で、初代十合伊兵衛 氏は多額の元手を持たずに信用と資金を少しずつ積み上げ、その蓄積を三代にわたって受け継いだ。派手さのない日常着の商いが、後の百貨店へつながる商家の土台を用意したとみられる。低い場所から出発した商いであればこそ、次代が業態を引き上げる余地も残されていたと読める。
もう一つ見えてくるのは、そごうが二度の業態転換を経て姿を変えていった経緯である。1877年に4代目十合伊兵衛 氏が新品呉服へ移り、1919年の法人化を機に洋品・雑貨を加えて百貨店へ進んだ二段階の転換は、古手で培った商圏と資力を、より単価の高い領域へ順に振り向け直す歩みであったと読める。もっとも、心斎橋本店と神戸店への大規模投資は財務の重荷ともなり、1935年に創業家が経営を退く一因となった。低参入の古手から始めた商家が上場企業へ至る道のりは、業態を段階的に引き上げることと、その投資を支える資本をいかに確保するかという両輪の上にあったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
大坂船場の商業秩序と古手(古着)流通
天保期の大坂船場では、三井越後屋をはじめとする老舗が本町筋や心斎橋筋の表通りで新品呉服を扱い、暖簾を持たない新参がその高付加価値の商いに割って入る余地は乏しかった。一方で古手(古着)は奉公人や町人の日常着として売り買いが絶えず、振売や仲買から少額で仕入れが回る流通でもあった。そごうの始まりは百貨店ではなく、この参入障壁の低い古手を扱う一軒の店にあり、後に呉服店へ、さらに百貨店へと業態を移していった[1]。初代十合伊兵衛 氏は、老舗の支配が及ばない古手の領域から商いを興している。
古手を商う小店は、摂津国一宮として船場商人町の鎮守であった坐摩神社の門前に集まり、古着や古道具を持ち寄る集散の場を成していた。仕入れがまとまった元手を要さないため、多額の資本を持たない者でも商いを起こしやすい土地であった。1830年(天保元年)、初代十合伊兵衛 氏はこの坐摩神社前に古手商「大和屋」の暖簾を掲げた[2]。屋号「大和屋」と古手という業態は、以後およそ半世紀にわたり初代から3代目までの伊兵衛が受け継いでいる。
決断
坐摩神社前の古手商から新品呉服へ
坐摩神社前の小さな借店で、初代十合伊兵衛 氏は数名の手代・小僧とともに商いを始め、船場の奉公人や町人を相手に日用の古着を扱った[3]。新品呉服が三井越後屋系の老舗に握られたなかで、古手は仕入れと信用を少しずつ積み上げられる領域であり、伊兵衛家はこの地で三代にわたり暖簾を守った。派手な完成品ではなく、人々の日常着が回る地味な古着の商いから、後の百貨店へつながる商家の礎が築かれている。約半世紀にわたる古手商としての蓄積が、次代の業態転換を支える商圏と資力を用意した。
1877年(明治10年)、4代目十合伊兵衛 氏が屋号を「大和屋」から「十合呉服店」へ改め、扱いも古手から新品呉服へ移した[4]。維新後の身分制度の解体と俸禄の廃止で武家相手の古着流通は縮み、開港地・神戸を経由した洋装品の流入で和装古着の市場にも限りが見えていた。単価の低い古手から、信用と資本を前提とする新品呉服へ商いを引き上げる判断であり、坐摩前で積み上げた商圏と仲買網を心斎橋筋へ振り向け直すものであった。以後、十合呉服店は心斎橋筋の南寄りに店を構え、後の本店へつながる立地と顧客層を固めていった。
結果
法人化と百貨店化——心斎橋本店
1919年(大正8年)、十合呉服店は個人商店から株式会社組織へ改め、株式会社十合呉服店となった。1904年の三越呉服店による「デパートメントストア宣言」の後、上方でも呉服店から百貨店への転換が課題となり、大丸や高島屋が相次いで法人化していた。十合も法人化と同時に洋品・雑貨・家庭用品の取り扱いを加え、呉服専門店から総合小売への道を進んだ[5]。個人経営では難しい売場拡張と多部門化を、株式の発行と銀行借入で賄う体制を整えている。
1930年(昭和5年)、十合は心斎橋筋2丁目に地上8階・地下2階建ての新本店を竣工させ、当時東洋一を称する百貨店建築として心斎橋筋に構えた[6]。売場は呉服にとどまらず、洋品・雑貨から食料品や喫茶・催事までを揃える総合百貨店へと姿を変えている。1933年(昭和8年)には神戸・三宮に神戸店を開き、大阪と神戸の二都に売場を持つ上方百貨店となった。株式会社年鑑によれば、心斎橋の大阪本店は1961年時点で従業員1,442名を数え、本部・大阪・東京・神戸などの店を合わせた従業員は3,341名に達している[7]。
創業家の退場と戦後の上場
心斎橋本店の新築と神戸店の出店が重なり、建築費と土地取得の負担で十合の財務は逼迫した。昭和恐慌期の売上低迷とも相まって資金繰りが行き詰まり、1935年(昭和10年)、十合家は保有株式の大半を手放し、経営権は資本を提供した板谷家へ移った。金融破綻に陥りかけたそごうの苦境を救い経営陣に入ったのが北海道・小樽の地方財閥である板谷家で、以後そごうは創業家の意思決定回路を持たない外部資本のもとで運営される会社へと転じている[8]。株式会社年鑑でも、1961年の大株主に板谷宮吉と板谷商船の名が並んでいる[9]。
1940年(昭和15年)、十合呉服店は商号から「呉服店」を外し、株式会社そごうへ改めた[10]。日中戦争下で繊維の配給統制が強まり、呉服専業の看板で営業を続けることが実態に合わなくなったためで、同時期に三越や大丸も社名から「呉服店」を外している。戦中の大阪本店は空襲の被害を受け、戦後は進駐軍による接収で約6年にわたり売場が制約された[11]。接収の解けきらぬなか、1949年(昭和24年)5月、そごうは戦後に再開した大阪証券取引所へ株式を上場し、創業119年目で公開企業として復興の資金を集める道に立った[12]。
- 有価証券報告書(沿革)
- Decide=決断 1985/10
- 株式会社年鑑 昭和37年版(1962)