エイチ・ツー・オー リテイリング:梅田阪急ビルの阪急百貨店と神戸阪急会館の直営売場
1929年〜梅田駅の8階建て阪急ビルで開いた直営百貨店と、2度の増築
阪神急行電鉄は1929年4月15日、梅田駅の第1期阪急ビル(地下2階地上8階)で、2〜6階を売場とする直営の阪急百貨店を開店した。1925年、阪神急行電鉄は旧本社ビルの白木屋梅田出張店を契約満了で閉じ、2・3階に直営マーケットを新設。準備の委員は白木屋の売店や他の電鉄の始発駅の売店の前に立ち、出入りする客の数を数えた。社長の小林一三氏は社報の講話で、旧ビルの食堂で利益の見通しが立ったことを開業の根拠に挙げた。講話では、『商売というものは、儲けなくてもよいと度胸をきめて勉強すれば儲かるもので』とも説いた。売場は沿線の住人向けの食料品と日用雑貨を軸に組み、呉服店を源流とする既存の百貨店と品揃えの中心を変えた。
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 1章「阪神急行電鉄株式会社直営」
- [1]1929年4月15日、地下2階地上8階の第1期阪急ビル(1階駅コンコース・2〜6階百貨店・7〜8階食堂)で阪急百貨店が開店。食料品・日用雑貨中心で呉服は銘仙程度
- [2]1925年4月30日に白木屋梅田出張店との賃貸契約満了で閉鎖。旧本社ビルの2・3階にマーケット、4・5階に食堂を設置。準備委員が白木屋梅田売店や各電鉄始発駅売店の出入口で客数を調査
- [3]1925年4月30日に白木屋梅田出張店との賃貸契約満了で閉鎖。旧本社ビルの2・3階にマーケット、4・5階に食堂を設置。準備委員が白木屋梅田売店や各電鉄始発駅売店の出入口で客数を調査
- [4]社長の小林一三氏の講話(阪神急行電鉄社報 1929年10月7日号):旧館でマーケット直営中に4・5階食堂の利益に確信を得たことが百貨店経営の根拠
- [5]社長の小林一三氏の講話(阪神急行電鉄社報 1929年10月7日号):旧館でマーケット直営中に4・5階食堂の利益に確信を得たことが百貨店経営の根拠
- [6]1929年4月15日、地下2階地上8階の第1期阪急ビル(1階駅コンコース・2〜6階百貨店・7〜8階食堂)で阪急百貨店が開店。食料品・日用雑貨中心で呉服は銘仙程度
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [7]阪急百貨店は呉服店から出た他の百貨店と異なり、電鉄沿線の乗客を対象に食料品・日用雑貨を重点とした。1929年4月の開業はターミナルデパートの最初
小林一三氏は1929年の講話で、第2期工事の完成後に食堂を倍にすれば1日あたりの収入は6,000円から1万2,000円に倍増すると見込んだ。第2期の増築館は1931年12月1日に開店し、延面積は第1期と合わせて2万453平方メートルと従来の2倍となり、店員は2,700人に及ぶ。第2期では呉服を4階全館に移して高級品も扱い、京都の丸紅に運営を任せる京呉会を結成した。1932年3月期は不況下でも、売場と食堂の拡張で売上高が大きく増えた。第3期の西館は1932年11月20日に開店し、全館は延約4万平方メートルの規模である。阪神急行電鉄は第3期の完成を受けて、1932年12月15日に通信販売を始めた。
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 1章「阪神急行電鉄株式会社直営」
- [8]社長の小林一三氏の講話(1929年):第2期工事完成で食堂を倍にし、1日の収入を6,000円から1万2,000円にする見込み
- [9]第2期増築館は1931年12月1日開店。第1期と合わせ延面積2万453平方メートル(従来の2倍)、百貨店部員2,700人
- [10]第2期増築で呉服を4階全館に移し高級呉服を扱う。京都丸紅に一任した京呉会を結成
- [11]1932年3月決算の営業報告書:12月1日に売場・食堂とも約2倍に拡張し売上高が著しく増加
- [12]第3期増築(西館)は1932年11月19日竣工、20日開店。第1〜3期合計で延約4万平方メートル
- [14]第3期館の完成で大阪一の大百貨店となり、1932年12月15日から通信販売を開始
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [13]1931年12月第2期工事、1932年11月第3期工事が竣工
参考文献[1]-[14]
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 1章「阪神急行電鉄株式会社直営」
- [1]1929年4月15日、地下2階地上8階の第1期阪急ビル(1階駅コンコース・2〜6階百貨店・7〜8階食堂)で阪急百貨店が開店。食料品・日用雑貨中心で呉服は銘仙程度
- [2]1925年4月30日に白木屋梅田出張店との賃貸契約満了で閉鎖。旧本社ビルの2・3階にマーケット、4・5階に食堂を設置。準備委員が白木屋梅田売店や各電鉄始発駅売店の出入口で客数を調査
- [3]1925年4月30日に白木屋梅田出張店との賃貸契約満了で閉鎖。旧本社ビルの2・3階にマーケット、4・5階に食堂を設置。準備委員が白木屋梅田売店や各電鉄始発駅売店の出入口で客数を調査
- [4]社長の小林一三氏の講話(阪神急行電鉄社報 1929年10月7日号):旧館でマーケット直営中に4・5階食堂の利益に確信を得たことが百貨店経営の根拠
- [5]社長の小林一三氏の講話(阪神急行電鉄社報 1929年10月7日号):旧館でマーケット直営中に4・5階食堂の利益に確信を得たことが百貨店経営の根拠
- [6]1929年4月15日、地下2階地上8階の第1期阪急ビル(1階駅コンコース・2〜6階百貨店・7〜8階食堂)で阪急百貨店が開店。食料品・日用雑貨中心で呉服は銘仙程度
- [8]社長の小林一三氏の講話(1929年):第2期工事完成で食堂を倍にし、1日の収入を6,000円から1万2,000円にする見込み
- [9]第2期増築館は1931年12月1日開店。第1期と合わせ延面積2万453平方メートル(従来の2倍)、百貨店部員2,700人
- [10]第2期増築で呉服を4階全館に移し高級呉服を扱う。京都丸紅に一任した京呉会を結成
- [11]1932年3月決算の営業報告書:12月1日に売場・食堂とも約2倍に拡張し売上高が著しく増加
- [12]第3期増築(西館)は1932年11月19日竣工、20日開店。第1〜3期合計で延約4万平方メートル
- [14]第3期館の完成で大阪一の大百貨店となり、1932年12月15日から通信販売を開始
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [7]阪急百貨店は呉服店から出た他の百貨店と異なり、電鉄沿線の乗客を対象に食料品・日用雑貨を重点とした。1929年4月の開業はターミナルデパートの最初
- [13]1931年12月第2期工事、1932年11月第3期工事が竣工
1933年〜第4期増築で5万6200平方メートルとなった梅田の店と、神戸三宮の駅ビルの直営食堂・食料品売場
大阪市営地下鉄の梅田・心斎橋間は1933年5月20日に開業し、阪急百貨店の地下1階と梅田駅を結ぶ通路は1935年10月6日に通じた。阪急百貨店は地下鉄の各駅に広告看板を置き、地下鉄の沿線で折込広告を10万枚配り、車内ポスターの掲出も大阪市交通局と契約した。会長の小林一三氏が描いた電鉄・百貨店・東宝の3事業の構想は、第4期館と三宮乗り入れの完成で形になった。第4期の東館は1936年2月26日に竣工し、3月21日に売場と食堂が一斉に開店した。東館の延面積は1万3,765平方メートルで、阪急ビルは総面積5万6,200平方メートルとなり、梅田駅を囲む蹄鉄型の駅ビルがそろった。地下鉄と電車の乗り換え客をそのまま売場へ導く動線を、増築で仕上げたとみられる。
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 1章「阪神急行電鉄株式会社直営」
- [15]1933年5月20日地下鉄梅田・心斎橋間開通。阪急百貨店地下1階と地下鉄梅田駅の連絡通路は1935年10月6日開通。地下鉄各駅に広告看板、沿線に10万枚の折込広告
- [16]1933年5月20日地下鉄梅田・心斎橋間開通。阪急百貨店地下1階と地下鉄梅田駅の連絡通路は1935年10月6日開通。地下鉄各駅に広告看板、沿線に10万枚の折込広告
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 3章「国家統制下における阪急百貨店」
- [17]第4期館(東館)は1936年2月26日竣工、3月21日開店。延面積1万3,765平方メートル、総面積5万6,200平方メートル。1〜4階に電鉄本社事務所。梅田駅を囲む蹄鉄型の阪急ビルが完成
- [18]第4期館(東館)は1936年2月26日竣工、3月21日開店。延面積1万3,765平方メートル、総面積5万6,200平方メートル。1〜4階に電鉄本社事務所。梅田駅を囲む蹄鉄型の阪急ビルが完成
- [19]第4期館(東館)は1936年2月26日竣工、3月21日開店。延面積1万3,765平方メートル、総面積5万6,200平方メートル。1〜4階に電鉄本社事務所。梅田駅を囲む蹄鉄型の阪急ビルが完成
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [20]1936年3月第4期工事が竣工し、本館は延1万7,000坪となった
阪神急行電鉄の神戸線は1936年4月1日に三宮への高架乗り入れを開業し、駅ビルの神戸阪急会館も同日に開館した。阪神急行電鉄は翌2日に会館の3階と西側2階で直営食堂を、10日には地階で食料品と菓子の売場を開業。地元の個人が「阪急マーケット」の名を先に商号として登記していたため、地階の売場の社名は株式会社三宮食料品店である。1937年3月には「阪急直営マーケット」を商号として登記し、5月から共栄部のマーケット課として運営した。1937年10月には会館2階に化粧品・文房具・玩具の売場を設け、このころマーケットの来客は1日に平均3,900人を数えた。会社銀行八十年史は、神戸阪急ビルの売場を梅田の支店と位置づけた。
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 3章「国家統制下における阪急百貨店」
- [21]1936年4月1日に神戸線三宮高架乗入れ開通、神戸阪急会館開業。2日に直営食堂、10日に地階で株式会社三宮食料品店が開業
- [22]1936年4月1日に神戸線三宮高架乗入れ開通、神戸阪急会館開業。2日に直営食堂、10日に地階で株式会社三宮食料品店が開業
- [23]「阪急マーケット」の商号を1935年7月9日に神戸の個人が登記済みで使えず、三宮食料品店を設立。1937年3月23日「阪急直営マーケット」商号登記、5月に共栄部マーケット課として営業
- [24]「阪急マーケット」の商号を1935年7月9日に神戸の個人が登記済みで使えず、三宮食料品店を設立。1937年3月23日「阪急直営マーケット」商号登記、5月に共栄部マーケット課として営業
- [25]「阪急マーケット」の商号を1935年7月9日に神戸の個人が登記済みで使えず、三宮食料品店を設立。1937年3月23日「阪急直営マーケット」商号登記、5月に共栄部マーケット課として営業
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [26]1936年3月の神戸阪急ビル竣工とともに支店を開設
不況下でも拡張を続ける百貨店に小売商が反発し、日本百貨店協会は1932年8月11日に自制声明を出した。阪急百貨店はこれを受けて同年10月から、毎月8日・18日・28日が売場の定休日。阪神急行電鉄は法の制定を見越して1936年9月、食堂や薬房を百貨店部から共栄部へ移した。1937年10月1日施行の百貨店法は、店舗の新設と売場の拡張を主務大臣の許可制とし、閉店を午後6時と定めた。午後6時以降は勤め帰りの客で混む時間帯で、ターミナルの百貨店には大きな打撃だった。阪急百貨店は乗降客の署名を1日約1万2,000枚添えて陳情したものの、1938年1月から閉店を午後9時から6時に繰り上げた。
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 1章「阪神急行電鉄株式会社直営」
- [27]日本百貨店協会が1932年8月11日に自制声明。阪急百貨店は1932年10月から毎月8日・18日・28日を定休日とした(食堂は無休)
- [28]日本百貨店協会が1932年8月11日に自制声明。阪急百貨店は1932年10月から毎月8日・18日・28日を定休日とした(食堂は無休)
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 3章「国家統制下における阪急百貨店」
- [29]1936年9月20日の職制変更で食堂課・薬房・健康相談所などを共栄部に移す。翌年施行予想の百貨店法の影響を避けるため
- [30]百貨店法は1937年8月14日公布、10月1日施行。新設・移転・売場拡張は主務大臣の許可制、閉店時刻・休業日を法定。1938年1月から午後6時閉店、1日約1万2,000枚の延長署名を陳情に添えたが実らず
- [31]百貨店法は1937年8月14日公布、10月1日施行。新設・移転・売場拡張は主務大臣の許可制、閉店時刻・休業日を法定。1938年1月から午後6時閉店、1日約1万2,000枚の延長署名を陳情に添えたが実らず
- [32]百貨店法は1937年8月14日公布、10月1日施行。新設・移転・売場拡張は主務大臣の許可制、閉店時刻・休業日を法定。1938年1月から午後6時閉店、1日約1万2,000枚の延長署名を陳情に添えたが実らず
参考文献[15]-[32]
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 1章「阪神急行電鉄株式会社直営」
- [15]1933年5月20日地下鉄梅田・心斎橋間開通。阪急百貨店地下1階と地下鉄梅田駅の連絡通路は1935年10月6日開通。地下鉄各駅に広告看板、沿線に10万枚の折込広告
- [16]1933年5月20日地下鉄梅田・心斎橋間開通。阪急百貨店地下1階と地下鉄梅田駅の連絡通路は1935年10月6日開通。地下鉄各駅に広告看板、沿線に10万枚の折込広告
- [27]日本百貨店協会が1932年8月11日に自制声明。阪急百貨店は1932年10月から毎月8日・18日・28日を定休日とした(食堂は無休)
- [28]日本百貨店協会が1932年8月11日に自制声明。阪急百貨店は1932年10月から毎月8日・18日・28日を定休日とした(食堂は無休)
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 3章「国家統制下における阪急百貨店」
- [17]第4期館(東館)は1936年2月26日竣工、3月21日開店。延面積1万3,765平方メートル、総面積5万6,200平方メートル。1〜4階に電鉄本社事務所。梅田駅を囲む蹄鉄型の阪急ビルが完成
- [18]第4期館(東館)は1936年2月26日竣工、3月21日開店。延面積1万3,765平方メートル、総面積5万6,200平方メートル。1〜4階に電鉄本社事務所。梅田駅を囲む蹄鉄型の阪急ビルが完成
- [19]第4期館(東館)は1936年2月26日竣工、3月21日開店。延面積1万3,765平方メートル、総面積5万6,200平方メートル。1〜4階に電鉄本社事務所。梅田駅を囲む蹄鉄型の阪急ビルが完成
- [21]1936年4月1日に神戸線三宮高架乗入れ開通、神戸阪急会館開業。2日に直営食堂、10日に地階で株式会社三宮食料品店が開業
- [22]1936年4月1日に神戸線三宮高架乗入れ開通、神戸阪急会館開業。2日に直営食堂、10日に地階で株式会社三宮食料品店が開業
- [23]「阪急マーケット」の商号を1935年7月9日に神戸の個人が登記済みで使えず、三宮食料品店を設立。1937年3月23日「阪急直営マーケット」商号登記、5月に共栄部マーケット課として営業
- [24]「阪急マーケット」の商号を1935年7月9日に神戸の個人が登記済みで使えず、三宮食料品店を設立。1937年3月23日「阪急直営マーケット」商号登記、5月に共栄部マーケット課として営業
- [25]「阪急マーケット」の商号を1935年7月9日に神戸の個人が登記済みで使えず、三宮食料品店を設立。1937年3月23日「阪急直営マーケット」商号登記、5月に共栄部マーケット課として営業
- [29]1936年9月20日の職制変更で食堂課・薬房・健康相談所などを共栄部に移す。翌年施行予想の百貨店法の影響を避けるため
- [30]百貨店法は1937年8月14日公布、10月1日施行。新設・移転・売場拡張は主務大臣の許可制、閉店時刻・休業日を法定。1938年1月から午後6時閉店、1日約1万2,000枚の延長署名を陳情に添えたが実らず
- [31]百貨店法は1937年8月14日公布、10月1日施行。新設・移転・売場拡張は主務大臣の許可制、閉店時刻・休業日を法定。1938年1月から午後6時閉店、1日約1万2,000枚の延長署名を陳情に添えたが実らず
- [32]百貨店法は1937年8月14日公布、10月1日施行。新設・移転・売場拡張は主務大臣の許可制、閉店時刻・休業日を法定。1938年1月から午後6時閉店、1日約1万2,000枚の延長署名を陳情に添えたが実らず
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [20]1936年3月第4期工事が竣工し、本館は延1万7,000坪となった
- [26]1936年3月の神戸阪急ビル竣工とともに支店を開設
1938年〜統制で売場を組み替えた阪急百貨店と、京阪神急行電鉄の物資配給局
百貨店各店の売上は1939年を頂点に、1940年に停滞し、1941年以降は急に減少した。統制の強化で毛糸や高級絹衣類の販売が禁じられ、3階の手芸品売場は毛糸の代わりに人絹の編糸を扱った。阪急百貨店は1941年1月8日に2階で菓子の売場を広げ、21日には工場で働く人の増加に備えて7階西館に機械工具の売場を新設した。2月に地階で売り出した代用食「宝米」の寿司と弁当は、需要に製造が及ばず制限売りとなった。3月18日には政府の銘仙愛用の奨励に合わせて、4階本館で銘仙の売場を拡張した。売れなくなった品の売場を、統制の下でも需要が残る生活必需品や工業用品へ振り替えたと推察される。
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 3章「国家統制下における阪急百貨店」
- [33]百貨店各店の売上は1939年がピーク、1940年停滞、1941年以降急激に下降
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 4章「第2次世界大戦下の阪急百貨店」
- [34]1941年1月8日菓子売場拡張、21日7階西館に機械工具売場新設。毛糸販売禁止で人絹編糸を販売、2月から地階で代用食宝米の寿司・弁当を販売(製造が追いつかず制限売り)、3月18日銘仙売場拡張(高級絹衣類販売停止に対応)
- [35]1941年1月8日菓子売場拡張、21日7階西館に機械工具売場新設。毛糸販売禁止で人絹編糸を販売、2月から地階で代用食宝米の寿司・弁当を販売(製造が追いつかず制限売り)、3月18日銘仙売場拡張(高級絹衣類販売停止に対応)
- [36]1941年1月8日菓子売場拡張、21日7階西館に機械工具売場新設。毛糸販売禁止で人絹編糸を販売、2月から地階で代用食宝米の寿司・弁当を販売(製造が追いつかず制限売り)、3月18日銘仙売場拡張(高級絹衣類販売停止に対応)
- [37]1941年1月8日菓子売場拡張、21日7階西館に機械工具売場新設。毛糸販売禁止で人絹編糸を販売、2月から地階で代用食宝米の寿司・弁当を販売(製造が追いつかず制限売り)、3月18日銘仙売場拡張(高級絹衣類販売停止に対応)
阪神急行電鉄と京阪電気鉄道は1942年10月に政府の正式な勧めを受け、1943年7月20日の臨時株主総会で対等合併を決議した。10月1日に発足した京阪神急行電鉄は5局制を採用し、百貨店は事業局に属する百貨店部となった。事業局長には常務取締役の林藤之輔氏、局次長には取締役の清水雅氏らが就任し、清水雅氏が百貨店部を担当した。特需部・外地部・食堂部・共栄部は百貨店部と別の部に分かれた一方、運営の細部は従来の百貨店部の傘下と同じである。合併によって、京阪の天満橋京阪ビルにも百貨店の支店が加わった。百貨店は戦時の職制に組み込まれつつも、電鉄の1部門として実務の一体性を保ったのだろう。
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 4章「第2次世界大戦下の阪急百貨店」
- [38]1942年10月政府が合併を勧奨、1943年10月1日阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併し京阪神急行電鉄に改称。5局制で百貨店は事業局百貨店部、事業局次長の取締役清水雅が担当
- [39]1942年10月政府が合併を勧奨、1943年10月1日阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併し京阪神急行電鉄に改称。5局制で百貨店は事業局百貨店部、事業局次長の取締役清水雅が担当
- [40]1942年10月政府が合併を勧奨、1943年10月1日阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併し京阪神急行電鉄に改称。5局制で百貨店は事業局百貨店部、事業局次長の取締役清水雅が担当
- [41]特需部・外地部・食堂部・共栄部は職制上は別部だが、経営の細部は百貨店部傘下と同様に運営
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [42]1943年10月の京阪電鉄合併により天満橋京阪ビル内に支店を開設
京阪神急行電鉄の重役会は1944年3月7日、百貨店部の職制上の名称を物資配給部に改めた。百貨店が実際には生活必需品の配給の窓口としてしか残らない以上、名称を実態に合わせるという判断である。同年12月1日には仕入部や食堂部を含む8部を統合して物資配給局を新設し、取締役の清水雅氏が局長に就任した。売場は工場や倉庫への供出で1944年に3分の1となり、1945年には第2期館の各階の半分の規模である。阪急ビルは1945年3月と6月の大空襲でも大きな被害を受けず、食堂は罹災者への炊き出しを担い、8月15日以降も営業を続けた。私鉄ストのたびの休業と電鉄の副業部門としての拘束を理由に、阪急百貨店は1946年12月に分離独立の発起人会を催した。
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 4章「第2次世界大戦下の阪急百貨店」
- [43]1944年3月7日重役会決議で百貨店部を物資配給部と改称(生活必需品の配給機関としてのみ存在するため)。1944年12月1日に仕入部・食堂部など8部を集め物資配給局を新設、局長は取締役清水雅
- [44]1944年3月7日重役会決議で百貨店部を物資配給部と改称(生活必需品の配給機関としてのみ存在するため)。1944年12月1日に仕入部・食堂部など8部を集め物資配給局を新設、局長は取締役清水雅
- [45]1944年3月7日重役会決議で百貨店部を物資配給部と改称(生活必需品の配給機関としてのみ存在するため)。1944年12月1日に仕入部・食堂部など8部を集め物資配給局を新設、局長は取締役清水雅
- [46]売場は供出で1944年に3分の1、1945年に第2期館各階の半分へ縮小。1945年3月・6月の大空襲でも阪急ビルは大事に至らず、食堂は罹災者向け炊出し、終戦当日以降も営業。私鉄ストのたびに休業となる矛盾から1946年12月に分離独立の発起人会
- [47]売場は供出で1944年に3分の1、1945年に第2期館各階の半分へ縮小。1945年3月・6月の大空襲でも阪急ビルは大事に至らず、食堂は罹災者向け炊出し、終戦当日以降も営業。私鉄ストのたびに休業となる矛盾から1946年12月に分離独立の発起人会
- [48]売場は供出で1944年に3分の1、1945年に第2期館各階の半分へ縮小。1945年3月・6月の大空襲でも阪急ビルは大事に至らず、食堂は罹災者向け炊出し、終戦当日以降も営業。私鉄ストのたびに休業となる矛盾から1946年12月に分離独立の発起人会
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [49]電鉄の副業部門として種々の拘束を受けてきたため、1947年3月に企業合理化と百貨店機能の発揮を目的に株式会社阪急百貨店を設立
参考文献[33]-[49]
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 3章「国家統制下における阪急百貨店」
- [33]百貨店各店の売上は1939年がピーク、1940年停滞、1941年以降急激に下降
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 4章「第2次世界大戦下の阪急百貨店」
- [34]1941年1月8日菓子売場拡張、21日7階西館に機械工具売場新設。毛糸販売禁止で人絹編糸を販売、2月から地階で代用食宝米の寿司・弁当を販売(製造が追いつかず制限売り)、3月18日銘仙売場拡張(高級絹衣類販売停止に対応)
- [35]1941年1月8日菓子売場拡張、21日7階西館に機械工具売場新設。毛糸販売禁止で人絹編糸を販売、2月から地階で代用食宝米の寿司・弁当を販売(製造が追いつかず制限売り)、3月18日銘仙売場拡張(高級絹衣類販売停止に対応)
- [36]1941年1月8日菓子売場拡張、21日7階西館に機械工具売場新設。毛糸販売禁止で人絹編糸を販売、2月から地階で代用食宝米の寿司・弁当を販売(製造が追いつかず制限売り)、3月18日銘仙売場拡張(高級絹衣類販売停止に対応)
- [37]1941年1月8日菓子売場拡張、21日7階西館に機械工具売場新設。毛糸販売禁止で人絹編糸を販売、2月から地階で代用食宝米の寿司・弁当を販売(製造が追いつかず制限売り)、3月18日銘仙売場拡張(高級絹衣類販売停止に対応)
- [38]1942年10月政府が合併を勧奨、1943年10月1日阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併し京阪神急行電鉄に改称。5局制で百貨店は事業局百貨店部、事業局次長の取締役清水雅が担当
- [39]1942年10月政府が合併を勧奨、1943年10月1日阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併し京阪神急行電鉄に改称。5局制で百貨店は事業局百貨店部、事業局次長の取締役清水雅が担当
- [40]1942年10月政府が合併を勧奨、1943年10月1日阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併し京阪神急行電鉄に改称。5局制で百貨店は事業局百貨店部、事業局次長の取締役清水雅が担当
- [41]特需部・外地部・食堂部・共栄部は職制上は別部だが、経営の細部は百貨店部傘下と同様に運営
- [43]1944年3月7日重役会決議で百貨店部を物資配給部と改称(生活必需品の配給機関としてのみ存在するため)。1944年12月1日に仕入部・食堂部など8部を集め物資配給局を新設、局長は取締役清水雅
- [44]1944年3月7日重役会決議で百貨店部を物資配給部と改称(生活必需品の配給機関としてのみ存在するため)。1944年12月1日に仕入部・食堂部など8部を集め物資配給局を新設、局長は取締役清水雅
- [45]1944年3月7日重役会決議で百貨店部を物資配給部と改称(生活必需品の配給機関としてのみ存在するため)。1944年12月1日に仕入部・食堂部など8部を集め物資配給局を新設、局長は取締役清水雅
- [46]売場は供出で1944年に3分の1、1945年に第2期館各階の半分へ縮小。1945年3月・6月の大空襲でも阪急ビルは大事に至らず、食堂は罹災者向け炊出し、終戦当日以降も営業。私鉄ストのたびに休業となる矛盾から1946年12月に分離独立の発起人会
- [47]売場は供出で1944年に3分の1、1945年に第2期館各階の半分へ縮小。1945年3月・6月の大空襲でも阪急ビルは大事に至らず、食堂は罹災者向け炊出し、終戦当日以降も営業。私鉄ストのたびに休業となる矛盾から1946年12月に分離独立の発起人会
- [48]売場は供出で1944年に3分の1、1945年に第2期館各階の半分へ縮小。1945年3月・6月の大空襲でも阪急ビルは大事に至らず、食堂は罹災者向け炊出し、終戦当日以降も営業。私鉄ストのたびに休業となる矛盾から1946年12月に分離独立の発起人会
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」
- [42]1943年10月の京阪電鉄合併により天満橋京阪ビル内に支店を開設
- [49]電鉄の副業部門として種々の拘束を受けてきたため、1947年3月に企業合理化と百貨店機能の発揮を目的に株式会社阪急百貨店を設立
出典・参考
4件
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 1章「阪神急行電鉄株式会社直営」
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 3章「国家統制下における阪急百貨店」
- 株式会社阪急百貨店25年史(1976)前史 4章「第2次世界大戦下の阪急百貨店」
- 会社銀行八十年史(1955)日本会社史「阪急百貨店」