第1章 年〜年

松屋:松屋鶴屋呉服店の設立と銀座三丁目への本店移転

1919年〜資本金100万円で新設した松屋鶴屋呉服店と、震災で焼けた今川橋店

1919年3月1日、古屋家は合名会社の鶴屋呉服店と松屋呉服店から営業権のすべてを譲り受け、株式会社松屋鶴屋呉服店を設立した。既存の合名会社を株式組織へ改めたのではなく、新しい会社を立てて事業を移す方式である。資本金は100万円で、本店を東京市神田区鍛冶町、支店を横浜市石川町に置いた。株主は古屋一族と関係者、永年勤続の社員の47名に限り、一般公募は実施しなかった。初代社長には2代古屋徳兵衛氏が就任し、取締役に古屋惣八氏らが名を連ねた。明治末から大正にかけて大呉服店は百貨店へ移る途上にあり、同業の各店も相次いで株式会社に改組した。古屋家は長く続けた個人経営を改め、横浜と東京の2店を1社に統合して百貨店化に備えたとみられる。

  • 松屋百年史(1969)コマ51-100
    • [1]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [2]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [3]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [5]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [6]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [8]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1919年3月、東京市神田鍛冶町で株式会社松屋鶴屋呉服店を資本金100万円で設立
  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [7]1919年3月に資本金100万円の株式会社松屋鶴屋呉服店として設立され、長い個人経営を株式会社に改めた
  • 松屋発展史(1935)コマ1-50
    • [9]1919年に資本金100万円の株式会社松屋鶴屋呉服店が発足し、横浜の鶴屋呉服店もその傘下に入った

1923年9月の関東大震災で今川橋の本店と横浜の鶴屋は焼け、松屋と鶴屋に残ったのは土地と商標だけだった。250名の店員を抱えた幹部会議では解散を唱える声も出た。それでも社長の2代古屋徳兵衛氏の決断で復興に進むと決まった。松屋は10月27日に大森売店を開設し、11月5日には四谷見付の料理店の2階を借りて売場とした。日比谷ビルの1階50坪も賃借し、マーケットを設けた。同じ11月、建築中の銀座の新店舗の1階を板で囲い、売店として営業を始めた。横浜でも10月18日に地蔵坂上へ50坪の仮店舗を建て、12月中旬には神奈川二ツ谷に仮営業所を開設した。焼け跡で売場を絶やさなかったことが、銀座開店まで顧客と取引先をつなぎとめたと推察される。

  • 松屋発展史(1935)コマ1-50
    • [10]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [11]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [12]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [13]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [14]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [15]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [17]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [16]震災で松屋は焼失したが、いち早く銀座ビルの焼け跡に紅白の幕を張って営業した
参考文献[1]-[17]
  • 松屋百年史(1969)コマ51-100
    • [1]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [2]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [3]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [5]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [6]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
    • [8]1919年3月1日、古屋合名会社鶴屋呉服店・同松屋呉服店の営業権を譲り受け株式会社松屋鶴屋呉服店を新設。資本金100万円、本店神田区鍛冶町34、支店横浜市石川町、株主47名・2万株で公募なし。社長2代古屋徳兵衛、取締役古屋惣八ら。明治末〜大正は大呉服店の百貨店移行期で各店が株式会社化
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1919年3月、東京市神田鍛冶町で株式会社松屋鶴屋呉服店を資本金100万円で設立
  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [7]1919年3月に資本金100万円の株式会社松屋鶴屋呉服店として設立され、長い個人経営を株式会社に改めた
  • 松屋発展史(1935)コマ1-50
    • [9]1919年に資本金100万円の株式会社松屋鶴屋呉服店が発足し、横浜の鶴屋呉服店もその傘下に入った
    • [10]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [11]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [12]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [13]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [14]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [15]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
    • [17]震災で松屋・鶴屋とも土地と商標を残し焼失。幹部会議で解散論も出たが社長徳兵衛の決心で復興へ。10/27大森売店、11/5四谷見付の料理店2階、同月建築中の銀座新店舗1階を板囲して売店。横浜は10/18地蔵坂上に50坪のバラック、12月中旬神奈川二ツ谷に仮営業所。日比谷ビル1階50坪を賃借してマーケット
  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [16]震災で松屋は焼失したが、いち早く銀座ビルの焼け跡に紅白の幕を張って営業した

1924年〜年額57万5千円で借りた銀座ビルディングと、東武ビルに開いた浅草支店

松屋は1925年5月、本店を今川橋から東京市京橋区銀座三丁目の銀座ビルディングへ移した。第一徴兵保険が銀座に大店舗を新築すると聞き、松屋は震災前に賃借の契約を結んだ。家賃は年額57万5千円で、5年ごとの更新、最初の1年に限り5万円を減額する条件だった。交渉は第一徴兵保険の社長と取締役の古屋惣八氏の間で進めた。開店に先立つ1925年1月には、資本金を500万円へ増資。今川橋の店舗は4月28日に休業し、翌1926年には本店の登記も銀座へ移した。建物は地下2階・地上8階、総延べ7,144坪で、設備は東洋一と評された。震災後の神田では繁華街が衰え、百貨店の他区への転出が続いた。重い家賃を受け入れたのは、衰える神田に留まるより復興する銀座で売場を広げる利を大きくみたためと思われる。

  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [18]銀座ビルディングの家賃は年額57万5千円・5年ごと更新・初年度のみ5万円減額。第一徴兵保険社長と取締役古屋惣八が交渉。地下2階地上8階、総延坪7,144坪、東洋一の設備
    • [21]銀座ビルディングの家賃は年額57万5千円・5年ごと更新・初年度のみ5万円減額。第一徴兵保険社長と取締役古屋惣八が交渉。地下2階地上8階、総延坪7,144坪、東洋一の設備
    • [22]銀座ビルディングの家賃は年額57万5千円・5年ごと更新・初年度のみ5万円減額。第一徴兵保険社長と取締役古屋惣八が交渉。地下2階地上8階、総延坪7,144坪、東洋一の設備
    • [24]今川橋店舗は1925年4月28日に銀座開店準備のため休業、1926年に本店登記を銀座に移した
    • [25]銀座ビルディングの家賃は年額57万5千円・5年ごと更新・初年度のみ5万円減額。第一徴兵保険社長と取締役古屋惣八が交渉。地下2階地上8階、総延坪7,144坪、東洋一の設備
    • [26]震災後の神田繁華街の衰微は百貨店の他区への転出にも表れた
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1925年5月、本店を東京市京橋区銀座三丁目に移した
  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [20]第一徴兵保険の銀座新築計画を聞いて賃借契約を結んだが震災で一時挫折。1925年5月に銀座店を開いた
    • [23]第一徴兵保険の銀座新築計画を聞いて賃借契約を結んだが震災で一時挫折。1925年5月に銀座店を開いた

松屋は1924年9月に商号を松屋呉服店へ改め、呉服店の名を残したまま銀座で百貨店の売場を組み立てた。銀座開店では一度に約1,000人が入社し、今川橋以来の中堅社員が社風を伝えた。1926年12月には流行研究会が発足し、古屋惣八氏が会長に就任した。仕入部は予算を持って商品を研究し、その成果がカレッジタイや学習院型ランドセルなど松屋ブランドの特製品である。1934年には日本で最初の女物ポロシャツを製造。開店後まもなく商品試験室を設け、品質と衛生の面から商品を検査した。管理面では販売・会計・受渡しの3部門が互いに牽制する伝票制度を採り入れ、三権分立方式と呼んだ。呉服の老舗から、自前の商品と相互牽制の管理を備えた百貨店へ移る転機になったと考えられる。

  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [27]1924年9月に商号を松屋呉服店に変更
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1924年9月、商号を株式会社松屋呉服店に変更
  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [29]銀座開店に際し一挙に千人もの入社があり、今川橋時代からの中堅幹部が結束して伝統を伝えた
    • [30]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [31]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [32]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [33]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [34]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度

東武鉄道は業平橋で終わっていた線を延ばし、浅草区花川戸にターミナルの東武ビルを建てた。当初は駅と貸事務所に充てる計画で、工事が進むうちに百貨店へ貸す方針に変わった。東武鉄道社長の根津嘉一郎氏が松屋の取締役を兼ねていた縁で、賃借の話は松屋に持ち込まれた。ビルの総延べは1万1,344坪余で、当時の本店の約6千坪を上回った。松屋は1931年5月14日に東武鉄道と契約し、花川戸線の開通した5月25日に2階で浅草売店を開設した。地元商店の反対運動を受けながらも、11月1日に浅草支店を開設。人員は本店から約350名を幹部要員として移し、中等学校卒約1,100名を新たに採用した。東京で初のターミナルデパートとなる立地に、乗降客を百貨店へ導く成長余地をみたのだろう。

  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [35]東武鉄道が花川戸に東武ビルを建て業平橋止まりの線を延長。当初は駅と貸事務所の予定を百貨店賃貸に変更。根津嘉一郎社長が松屋取締役だった関係で松屋に話。総延坪1万1,300余坪は本店6千坪を上回る。1931年5月14日契約、11月1日浅草支店開設
    • [36]東武鉄道が花川戸に東武ビルを建て業平橋止まりの線を延長。当初は駅と貸事務所の予定を百貨店賃貸に変更。根津嘉一郎社長が松屋取締役だった関係で松屋に話。総延坪1万1,300余坪は本店6千坪を上回る。1931年5月14日契約、11月1日浅草支店開設
    • [37]東武鉄道が花川戸に東武ビルを建て業平橋止まりの線を延長。当初は駅と貸事務所の予定を百貨店賃貸に変更。根津嘉一郎社長が松屋取締役だった関係で松屋に話。総延坪1万1,300余坪は本店6千坪を上回る。1931年5月14日契約、11月1日浅草支店開設
    • [38]東武鉄道が花川戸に東武ビルを建て業平橋止まりの線を延長。当初は駅と貸事務所の予定を百貨店賃貸に変更。根津嘉一郎社長が松屋取締役だった関係で松屋に話。総延坪1万1,300余坪は本店6千坪を上回る。1931年5月14日契約、11月1日浅草支店開設
    • [39]5月25日花川戸線開通と同時に2階に浅草売店を開設。総延坪1万1,344坪余。1931年2〜3月に地元商店の開設反対運動。本店から約350名を幹部要員として移し、大学卒約40名・中等学校卒約1,100名を採用
    • [40]5月25日花川戸線開通と同時に2階に浅草売店を開設。総延坪1万1,344坪余。1931年2〜3月に地元商店の開設反対運動。本店から約350名を幹部要員として移し、大学卒約40名・中等学校卒約1,100名を採用
    • [41]5月25日花川戸線開通と同時に2階に浅草売店を開設。総延坪1万1,344坪余。1931年2〜3月に地元商店の開設反対運動。本店から約350名を幹部要員として移し、大学卒約40名・中等学校卒約1,100名を採用
    • [43]5月25日花川戸線開通と同時に2階に浅草売店を開設。総延坪1万1,344坪余。1931年2〜3月に地元商店の開設反対運動。本店から約350名を幹部要員として移し、大学卒約40名・中等学校卒約1,100名を採用
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1931年11月、東京市浅草区花川戸に浅草支店を開設
参考文献[18]-[43]
  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [18]銀座ビルディングの家賃は年額57万5千円・5年ごと更新・初年度のみ5万円減額。第一徴兵保険社長と取締役古屋惣八が交渉。地下2階地上8階、総延坪7,144坪、東洋一の設備
    • [21]銀座ビルディングの家賃は年額57万5千円・5年ごと更新・初年度のみ5万円減額。第一徴兵保険社長と取締役古屋惣八が交渉。地下2階地上8階、総延坪7,144坪、東洋一の設備
    • [22]銀座ビルディングの家賃は年額57万5千円・5年ごと更新・初年度のみ5万円減額。第一徴兵保険社長と取締役古屋惣八が交渉。地下2階地上8階、総延坪7,144坪、東洋一の設備
    • [24]今川橋店舗は1925年4月28日に銀座開店準備のため休業、1926年に本店登記を銀座に移した
    • [25]銀座ビルディングの家賃は年額57万5千円・5年ごと更新・初年度のみ5万円減額。第一徴兵保険社長と取締役古屋惣八が交渉。地下2階地上8階、総延坪7,144坪、東洋一の設備
    • [26]震災後の神田繁華街の衰微は百貨店の他区への転出にも表れた
    • [29]銀座開店に際し一挙に千人もの入社があり、今川橋時代からの中堅幹部が結束して伝統を伝えた
    • [30]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [31]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [32]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [33]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [34]1926年12月流行研究会発足(会長古屋惣八)。仕入部内で商品研究を行いカレッジタイ・学習院型ランドセル等の松屋ブランド特製品を開発、商品試験室で品質・衛生を試験、1934年に日本初の女物ポロシャツ。販売・会計・受渡しの3部門が牽制する三権分立方式の伝票制度
    • [35]東武鉄道が花川戸に東武ビルを建て業平橋止まりの線を延長。当初は駅と貸事務所の予定を百貨店賃貸に変更。根津嘉一郎社長が松屋取締役だった関係で松屋に話。総延坪1万1,300余坪は本店6千坪を上回る。1931年5月14日契約、11月1日浅草支店開設
    • [36]東武鉄道が花川戸に東武ビルを建て業平橋止まりの線を延長。当初は駅と貸事務所の予定を百貨店賃貸に変更。根津嘉一郎社長が松屋取締役だった関係で松屋に話。総延坪1万1,300余坪は本店6千坪を上回る。1931年5月14日契約、11月1日浅草支店開設
    • [37]東武鉄道が花川戸に東武ビルを建て業平橋止まりの線を延長。当初は駅と貸事務所の予定を百貨店賃貸に変更。根津嘉一郎社長が松屋取締役だった関係で松屋に話。総延坪1万1,300余坪は本店6千坪を上回る。1931年5月14日契約、11月1日浅草支店開設
    • [38]東武鉄道が花川戸に東武ビルを建て業平橋止まりの線を延長。当初は駅と貸事務所の予定を百貨店賃貸に変更。根津嘉一郎社長が松屋取締役だった関係で松屋に話。総延坪1万1,300余坪は本店6千坪を上回る。1931年5月14日契約、11月1日浅草支店開設
    • [39]5月25日花川戸線開通と同時に2階に浅草売店を開設。総延坪1万1,344坪余。1931年2〜3月に地元商店の開設反対運動。本店から約350名を幹部要員として移し、大学卒約40名・中等学校卒約1,100名を採用
    • [40]5月25日花川戸線開通と同時に2階に浅草売店を開設。総延坪1万1,344坪余。1931年2〜3月に地元商店の開設反対運動。本店から約350名を幹部要員として移し、大学卒約40名・中等学校卒約1,100名を採用
    • [41]5月25日花川戸線開通と同時に2階に浅草売店を開設。総延坪1万1,344坪余。1931年2〜3月に地元商店の開設反対運動。本店から約350名を幹部要員として移し、大学卒約40名・中等学校卒約1,100名を採用
    • [43]5月25日花川戸線開通と同時に2階に浅草売店を開設。総延坪1万1,344坪余。1931年2〜3月に地元商店の開設反対運動。本店から約350名を幹部要員として移し、大学卒約40名・中等学校卒約1,100名を採用
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1925年5月、本店を東京市京橋区銀座三丁目に移した
    • [28]1924年9月、商号を株式会社松屋呉服店に変更
    • [42]1931年11月、東京市浅草区花川戸に浅草支店を開設
  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [20]第一徴兵保険の銀座新築計画を聞いて賃借契約を結んだが震災で一時挫折。1925年5月に銀座店を開いた
    • [23]第一徴兵保険の銀座新築計画を聞いて賃借契約を結んだが震災で一時挫折。1925年5月に銀座店を開いた
    • [27]1924年9月に商号を松屋呉服店に変更

1932年〜壽百貨店を吸収した横浜支店と、進駐軍に接収された銀座・横浜の2店

松屋は1930年10月に横浜支店の新店舗を落成させ、同年12月には伊勢佐木町の越前屋の不動産を大林組から取得する契約を結んだ。1932年8月、百貨店協会は不況下の自制案を声明し、支店・分店を当分設けないと協定した。松屋は伊勢佐木町の出店を既定計画として商工大臣に具申したものの、同業店の反対は止まなかった。そこで支店としての開店を取りやめ、1934年5月に株式会社鶴屋を設立して運営を委ねた。伊勢佐木町の店は6月3日に松屋の支店ではなく鶴屋として開店した。同年7月には商号を壽百貨店に改め、松屋と役員・株式の関係を断った。戦時下の1944年2月に吉田橋の横浜支店は供出に備えて休業し、松屋は4月に壽百貨店を吸収合併して横浜支店と改称した。

  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [44]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [46]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [47]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [48]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [49]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [50]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [51]1944年2月17日、吉田橋の横浜支店が供出準備のため休業し、壽百貨店を吸収合併して伊勢佐木町で営業を継続
  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [45]1930年10月新店舗落成と同時に横浜支店として発足。1944年4月に伊勢佐木町の壽百貨店を吸収合併し資本金524万5千円
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1944年4月、横浜市伊勢佐木町の株式会社寿百貨店を吸収合併し横浜支店と改称

1940年7月7日に奢侈品等製造販売制限規則が施行され、金糸・銀糸を使う呉服などの高級品は製造も販売も禁じられた。1942年2月1日には衣料切符制が始まり、都市部の消費者は年100点の枠で繊維製品を購入する仕組みになった。同年5月に企業整備令が公布され、9月30日の日本百貨店組合総会で売場面積の供出が決まった。松屋は11月に今川橋の家庭部を全館供出し、12月には浅草支店の5〜7階の一部がこれに続く。1943年7月には銀座本店でも供出が始まり、1944年5月には横浜支店の5〜7階を東京芝浦電気に貸した。売る商品が減少するなかで、松屋は売場を国策の求める用途へ明け渡し、店舗網と人員を残そうとしたと解される。

  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [53]1940年7月7日奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)で金糸銀糸入りの呉服等の高級品の製造販売を禁止。1942年2月1日衣料切符制、都市部は年100点
    • [54]1940年7月7日奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)で金糸銀糸入りの呉服等の高級品の製造販売を禁止。1942年2月1日衣料切符制、都市部は年100点
    • [55]1942年5月12日企業整備令公布。9月30日日本百貨店組合総会で売場供出を決定。11月今川橋店舗(家庭部)全館供出、12月25日浅草支店5〜7階の一部、1943年7月19日銀座本店、1944年5月1日横浜支店5〜7階を東京芝浦電気通信機製造所に賃貸
    • [56]1942年5月12日企業整備令公布。9月30日日本百貨店組合総会で売場供出を決定。11月今川橋店舗(家庭部)全館供出、12月25日浅草支店5〜7階の一部、1943年7月19日銀座本店、1944年5月1日横浜支店5〜7階を東京芝浦電気通信機製造所に賃貸
    • [58]1942年5月12日企業整備令公布。9月30日日本百貨店組合総会で売場供出を決定。11月今川橋店舗(家庭部)全館供出、12月25日浅草支店5〜7階の一部、1943年7月19日銀座本店、1944年5月1日横浜支店5〜7階を東京芝浦電気通信機製造所に賃貸
  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [57]1942年11月、供出命令に基づき神田今川橋店舗を閉鎖

戦争末期の空襲で浅草支店は地階を除く大部分を焼失し、銀座本店も一部を焼かれた。進駐軍は1945年8月30日に横浜の吉田橋の店舗を接収し、9月10日には伊勢佐木町の横浜支店にも及んだ。銀座本店は11月10日に一部を将校用のPXとして接収され、1946年4月にGHQから本館全部の接収を命じられた。撤回を求める運動は実らず、4月29日に接収は実行された。松屋の手元には、戦災を受けた浅草支店だけが残った。社長の2代古屋徳兵衛氏は百貨店業を続ける再建案を決め、1946年5月1日に銀座の別館を売場として開店した。占領軍の求める大型ビルを自ら使えないまま、浅草支店の売上が再建を支える構図になったと推測される。

  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [59]戦争末期に浅草支店の地階を除く大部分と銀座本店の一部を焼失。1945年9月横浜支店、11月銀座本店を接収
    • [61]戦争末期に浅草支店の地階を除く大部分と銀座本店の一部を焼失。1945年9月横浜支店、11月銀座本店を接収
  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [60]1945年8月30日吉田橋店舗、9月10日伊勢佐木町の横浜支店一部を接収。11月10日銀座本店の一部を米軍将校用PXとして接収、1946年4月GHQ命令で本館全部、4月29日実行。主力の銀座・横浜を接収され、戦災を受けた浅草支店だけが残った
    • [62]1945年8月30日吉田橋店舗、9月10日伊勢佐木町の横浜支店一部を接収。11月10日銀座本店の一部を米軍将校用PXとして接収、1946年4月GHQ命令で本館全部、4月29日実行。主力の銀座・横浜を接収され、戦災を受けた浅草支店だけが残った
    • [63]1945年8月30日吉田橋店舗、9月10日伊勢佐木町の横浜支店一部を接収。11月10日銀座本店の一部を米軍将校用PXとして接収、1946年4月GHQ命令で本館全部、4月29日実行。主力の銀座・横浜を接収され、戦災を受けた浅草支店だけが残った
    • [64]1945年8月30日吉田橋店舗、9月10日伊勢佐木町の横浜支店一部を接収。11月10日銀座本店の一部を米軍将校用PXとして接収、1946年4月GHQ命令で本館全部、4月29日実行。主力の銀座・横浜を接収され、戦災を受けた浅草支店だけが残った
  • 松屋百年史(1969)コマ151-200
    • [65]浅草支店は3店舗のうち接収を免れた唯一の店で、被接収中は松屋の主力だった
    • [66]古屋社長は百貨店業継続の再建案を決め、別館1〜4階を売場として1946年5月1日に開店
参考文献[44]-[66]
  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
    • [44]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [46]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [47]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [48]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [49]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [50]1930年12月31日、越前屋の不動産を大林組東京支店から総額66万459円79銭で取得契約。1932年8月11日百貨店協会の自制案(支店・分店の設置を当分行わない)。8月23日商工大臣に支店設置既定計画具申書、同業店が反対。支店開店を中止し1934年5月15日資本金50万円の株式会社鶴屋を設立、6月3日開店、7月1日壽百貨店に商号変更し松屋と本支店関係を断つ措置
    • [51]1944年2月17日、吉田橋の横浜支店が供出準備のため休業し、壽百貨店を吸収合併して伊勢佐木町で営業を継続
    • [53]1940年7月7日奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)で金糸銀糸入りの呉服等の高級品の製造販売を禁止。1942年2月1日衣料切符制、都市部は年100点
    • [54]1940年7月7日奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)で金糸銀糸入りの呉服等の高級品の製造販売を禁止。1942年2月1日衣料切符制、都市部は年100点
    • [55]1942年5月12日企業整備令公布。9月30日日本百貨店組合総会で売場供出を決定。11月今川橋店舗(家庭部)全館供出、12月25日浅草支店5〜7階の一部、1943年7月19日銀座本店、1944年5月1日横浜支店5〜7階を東京芝浦電気通信機製造所に賃貸
    • [56]1942年5月12日企業整備令公布。9月30日日本百貨店組合総会で売場供出を決定。11月今川橋店舗(家庭部)全館供出、12月25日浅草支店5〜7階の一部、1943年7月19日銀座本店、1944年5月1日横浜支店5〜7階を東京芝浦電気通信機製造所に賃貸
    • [58]1942年5月12日企業整備令公布。9月30日日本百貨店組合総会で売場供出を決定。11月今川橋店舗(家庭部)全館供出、12月25日浅草支店5〜7階の一部、1943年7月19日銀座本店、1944年5月1日横浜支店5〜7階を東京芝浦電気通信機製造所に賃貸
    • [60]1945年8月30日吉田橋店舗、9月10日伊勢佐木町の横浜支店一部を接収。11月10日銀座本店の一部を米軍将校用PXとして接収、1946年4月GHQ命令で本館全部、4月29日実行。主力の銀座・横浜を接収され、戦災を受けた浅草支店だけが残った
    • [62]1945年8月30日吉田橋店舗、9月10日伊勢佐木町の横浜支店一部を接収。11月10日銀座本店の一部を米軍将校用PXとして接収、1946年4月GHQ命令で本館全部、4月29日実行。主力の銀座・横浜を接収され、戦災を受けた浅草支店だけが残った
    • [63]1945年8月30日吉田橋店舗、9月10日伊勢佐木町の横浜支店一部を接収。11月10日銀座本店の一部を米軍将校用PXとして接収、1946年4月GHQ命令で本館全部、4月29日実行。主力の銀座・横浜を接収され、戦災を受けた浅草支店だけが残った
    • [64]1945年8月30日吉田橋店舗、9月10日伊勢佐木町の横浜支店一部を接収。11月10日銀座本店の一部を米軍将校用PXとして接収、1946年4月GHQ命令で本館全部、4月29日実行。主力の銀座・横浜を接収され、戦災を受けた浅草支店だけが残った
  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
    • [45]1930年10月新店舗落成と同時に横浜支店として発足。1944年4月に伊勢佐木町の壽百貨店を吸収合併し資本金524万5千円
    • [57]1942年11月、供出命令に基づき神田今川橋店舗を閉鎖
    • [59]戦争末期に浅草支店の地階を除く大部分と銀座本店の一部を焼失。1945年9月横浜支店、11月銀座本店を接収
    • [61]戦争末期に浅草支店の地階を除く大部分と銀座本店の一部を焼失。1945年9月横浜支店、11月銀座本店を接収
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1944年4月、横浜市伊勢佐木町の株式会社寿百貨店を吸収合併し横浜支店と改称
  • 松屋百年史(1969)コマ151-200
    • [65]浅草支店は3店舗のうち接収を免れた唯一の店で、被接収中は松屋の主力だった
    • [66]古屋社長は百貨店業継続の再建案を決め、別館1〜4階を売場として1946年5月1日に開店

出典・参考

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出典・参考
  • 松屋 有価証券報告書【沿革】
  • 松屋百年史(1969)コマ51-100
  • 松屋百年史(1969)コマ101-150
  • 松屋百年史(1969)コマ151-200
  • 会社銀行八十年史(1955)松屋
  • 松屋発展史(1935)コマ1-50

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