第2章 年〜年

三越:三越呉服店への改称とデパートメントストア宣言

1872年〜合名会社への改組と、わが国最初の呉服陳列販売

1872年に三井家から離れた呉服店の所属はその後も定まらず、明治26年には商法の施行にあわせて三井が銀行・物産・鉱山および三井呉服店を合名会社へ改組した。分離・改組・復帰と、組織の形は30年足らずで三度変わった。同じ年の10月には三井家同族会と三井元方が置かれ、明治28年8月になると呉服店は以前の形に戻って三井本家へ復帰している。近代的な洋式の商法が入ったのは合名会社の時代で、三越はその手始めに婦人店員を雇い入れた。貨物自動車による商品輸送も、三井呉服店が国内で早く採った例にあたる。

  • 日本産業史 第1巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「財閥の形成」
    • [1]明治26年6月 商法施行とともに銀行・物産・鉱山および三井呉服店を合名会社に改組
    • [4]明治26年10月 三井家同族会と三井元方を設置
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
    • [2]明治26年9月 三越が合名会社に改組
    • [3]明治5年分離・26年合名会社改組・28年本家復帰と組織形態が変転
    • [5]明治28年8月 以前の形態で三井本家へ復帰
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三越」
    • [6]合名会社期に洋式の近代商法を導入し、最初の試みとして婦人店員を採用
  • 日本産業史 第1巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「陸運-多彩なサービス」
    • [7]三井呉服店が商品の輸送に貨物自動車を採用(国内で早い例)

三越呉服店という名に改まったのは明治29年9月である。それに先立つ明治28年11月、本店の階上が陳列場に造り替えられ、呉服を並べて売る方式が国内で初めて採用されて、売り方の改造が始まっていた。明治32年6月に新橋駅頭へ等身大のポスターを出して街頭広告の先鞭をつけ、明治33年10月には本店の全階が陳列場となって、それまでの座売りはすべて廃された。座売りでは店員が客の前に反物を出したが、陳列販売では客が売場を歩いて自分で商品を選ぶ。陳列販売の採用から座売りの全廃までは5年を要している。三越呉服店へ改称した後の10年間には、営業の一切にわたる改革が行われた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
    • [8]明治29年9月 三越呉服店へ改称
    • [9]明治28年11月 本店階上を陳列場に改築し、わが国最初の呉服陳列販売を採用
    • [10]明治32年6月 新橋駅頭に等身大ポスターを掲示し街頭広告の先鞭をつけた
    • [11]明治33年10月 本店全階を陳列場とし座売りを全廃
    • [12]座売りから商品陳列式売場への転換
    • [13]明治28年11月の陳列販売採用から明治33年10月の座売り全廃まで5年
    • [14]三越呉服店への改称後10年間に営業の一切にわたる改革を実施
参考文献[1]-[14]

1904年〜株式会社三越呉服店の設立とデパートメントストア宣言

明治37年(1904年)12月10日、資本金50万円で株式会社三越呉服店が設立された。越後屋以来の事業と、東京市日本橋の本店、京都および桐生の仕入れ店の一切を引き継いでいる。設立と同じ月に、三越は"デパートメントストア宣言"を発した。ただし呉服店の名を掲げたままの株式会社化であり、商号から呉服店が外れるのは昭和3年6月である。宣言の時点で扱う商品はなお呉服が中心で、食料品と園芸の売場が入るのは大正3年9月の新館竣工にあわせてであった。設立時の資本金50万円は、その後の6年で200万円まで積み増されている。

  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [15]明治37年12月10日 資本金50万円で株式会社三越呉服店を設立
    • [17]設立と同月に「デパートメントストア宣言」を発した
    • [18]昭和3年6月 商号を株式会社三越へ変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三越」
    • [16]東京市日本橋の本店、京都および桐生の仕入れ店など一切を引き継いだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
    • [19]大正3年9月の新館竣工にあわせ食料品・園芸売場を新設
    • [20]明治41年6月に100万円、明治43年3月に200万円へ増資

靴や鞄、履物、洋傘、櫛の販売が始まったのは明治40年頃からで、呉服以外の商品を増やす流れのなかで食堂と写真撮影部も置かれ、同じ明治40年の5月には大阪店も開いた。こうした拡張の背景には、株式会社となった三越が、日露戦争後の経済発展と、一段と進んだ暮らしぶりの欧米化に足並みをそろえるという方針を新しい組織で立てたことがある。翌41年に洋風三階建の新しい建物が落成し、百貨店としての体裁が整った。同年6月に資本金を100万円へ増資し、京城および大連へ出張所を設け、これらはのちに支店となった。明治43年3月には資本金を200万円へ増やし、44年7月に五階建・延4,000坪の建築へ着手する。大正3年9月、ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工した。当時の新聞はこれを"スエズ運河以東の大建築"と書きたてている。竣工を機に食料品と園芸の売場を新設し、百貨店としての部門を完備した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三越」
    • [21]明治40年頃から靴・鞄・履物・洋傘・櫛へ商品を拡張し、食堂と写真撮影部を開設
    • [27]大正3年9月 ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工
    • [28]当時の新聞が「スエズ運河以東の大建築」と報じた
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [22]明治40年5月 大阪店開店
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
    • [23]日露戦争後の経済的発展と生活風俗の欧米化に歩調を合わせる方針
    • [24]明治41年 洋風三階建の新建築が完成し百貨店としての形態を整えた
    • [25]明治41年6月 資本金100万円へ増資し京城・大連に出張所を開設(のち支店)
    • [26]明治43年3月 資本金200万円へ増資、明治44年7月 五階建延4,000坪の建築に着手
    • [29]新館竣工を機に食料品・園芸売場を新設し百貨店としての部門を完備
参考文献[15]-[29]
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [15]明治37年12月10日 資本金50万円で株式会社三越呉服店を設立
    • [17]設立と同月に「デパートメントストア宣言」を発した
    • [18]昭和3年6月 商号を株式会社三越へ変更
    • [22]明治40年5月 大阪店開店
    • [16]東京市日本橋の本店、京都および桐生の仕入れ店など一切を引き継いだ
    • [21]明治40年頃から靴・鞄・履物・洋傘・櫛へ商品を拡張し、食堂と写真撮影部を開設
    • [27]大正3年9月 ルネッサンス式五階建の本店新館が竣工
    • [28]当時の新聞が「スエズ運河以東の大建築」と報じた
    • [19]大正3年9月の新館竣工にあわせ食料品・園芸売場を新設
    • [20]明治41年6月に100万円、明治43年3月に200万円へ増資
    • [23]日露戦争後の経済的発展と生活風俗の欧米化に歩調を合わせる方針
    • [24]明治41年 洋風三階建の新建築が完成し百貨店としての形態を整えた
    • [25]明治41年6月 資本金100万円へ増資し京城・大連に出張所を開設(のち支店)
    • [26]明治43年3月 資本金200万円へ増資、明治44年7月 五階建延4,000坪の建築に着手
    • [29]新館竣工を機に食料品・園芸売場を新設し百貨店としての部門を完備

1920年〜三越マーケットの開設と、関東大震災による本店全焼

エレベーターと暖房換気の設備に加え、日本で最初のエスカレーターが動き、全館の天井にスプリンクラーを備えた本店は、たちまち"日本の新名所"と呼ばれた。欧州大戦が終わったのを機に景気がよくなり、それを映して三越の業績は大きく伸びた。大正9年1月に資本金は1,200万円へ増え、事業も年ごとに大きくなった。同じころ実用品を常時売る"三越マーケット"を設けて大衆に近づこうとし、呉服から日々の実用品まで扱う売場を常設したことで、客層は上得意の外へ広がった。『今日は帝劇、明日は三越』という標語が広く口にされたのもこの時期である。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三越」
    • [30]本店はエレベーター・暖房換気設備、日本初のエスカレーター、全館スプリンクラーを備え「日本の新名所」となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
    • [31]欧州大戦終結を契機とした好景気を反映して業績が著しく進展
    • [32]大正9年1月 資本金1,200万円
    • [33]常設の実用品売場「三越マーケット」を開設し大衆との結びつきを図った
    • [34]実用品売場の常設により客層が広がった
    • [35]「今日は帝劇、明日は三越」の標語が人口に膾炙した

大正12年9月の関東大震災で、三越は本店と丸ノ内別館を焼失した。災害の損失は737万5,000円に上り、資本金を700万円へ減らすほかなかった。応急策として本店の隣接地ほか各所にバラック造りのマーケットを開設し、物資不足と交通の不便に悩む市民の生活に応じている。このマーケットが、のちに新宿店と銀座店を出店する機縁となった。震災はもう一つの変化をもたらし、従来の下足預り制度を廃したことで三越の売場は一段と大衆に開かれた。震災後の都市計画とあわせて近接郊外地域への交通機関が発達し、三越には復興を超える発展の機会が開けている。

  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [36]大正12年9月 関東大震災により本店全焼
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
    • [37]震災の災害損失737万5,000円、700万円へ減資
    • [39]応急マーケットが物資不足と交通不便に悩む市民生活の安定に寄与
    • [40]震災の応急マーケットが新宿・銀座両支店開設の機縁となった
    • [41]震災を機に下足預り制度を廃止し一段と大衆化された
    • [42]震災後の都市計画と近接郊外地域への交通機関の発達により復興以上の発展の機会に恵まれた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三越」
    • [38]本店隣接地ほか各所にバラック造りのマーケットを開設して復旧に努めた
参考文献[30]-[42]
    • [30]本店はエレベーター・暖房換気設備、日本初のエスカレーター、全館スプリンクラーを備え「日本の新名所」となった
    • [38]本店隣接地ほか各所にバラック造りのマーケットを開設して復旧に努めた
    • [31]欧州大戦終結を契機とした好景気を反映して業績が著しく進展
    • [32]大正9年1月 資本金1,200万円
    • [33]常設の実用品売場「三越マーケット」を開設し大衆との結びつきを図った
    • [34]実用品売場の常設により客層が広がった
    • [35]「今日は帝劇、明日は三越」の標語が人口に膾炙した
    • [37]震災の災害損失737万5,000円、700万円へ減資
    • [39]応急マーケットが物資不足と交通不便に悩む市民生活の安定に寄与
    • [40]震災の応急マーケットが新宿・銀座両支店開設の機縁となった
    • [41]震災を機に下足預り制度を廃止し一段と大衆化された
    • [42]震災後の都市計画と近接郊外地域への交通機関の発達により復興以上の発展の機会に恵まれた
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
    • [36]大正12年9月 関東大震災により本店全焼

出典・参考

5件
出典・参考
  • 株式会社三越 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三越」
  • 日本産業史 第1巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「財閥の形成」
  • 日本産業史 第1巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「陸運-多彩なサービス」

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