ユニ・チャーム:大成化工からの転業と生理用品での首位
1961年〜資本金300万円で川之江に興した大成化工と、値決めの利かない木毛セメント板
高原慶一朗氏は1961年2月、郷里の愛媛県川之江市に資本金300万円で大成化工を設立し、社長に就任した。父が経営する国光製紙の専務を務めたのちの独立で、このとき高原慶一朗氏は29歳。創業にあたり掲げた目標は『事業を通じて世の中の役に立つこと』と、参入した業界で首位に立つことの2つだった。戦後の復興が昭和20年代は食、30年代は衣の順に進んだことから、高原慶一朗氏は次に需要が移るのは住宅だと読んだ。そこで防火不燃材料の木毛セメント板を「タイセイボード」の名で製造販売し、有価証券報告書の沿革も大成化工の建材事業を会社の起点に置く。競合の少ない新しい市場で早く首位に立つという発想が、その後の事業選びの基準になったと推察される。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「新販路求め雑貨問屋にアタック」高原慶一朗
- [1]高原慶一朗は1961年、29歳で資本金300万円の大成化工を川之江市に設立し社長に就任。国光製紙専務などを経ての創業。目標は社会への貢献と業界ナンバーワン
- [2]高原慶一朗は1961年、29歳で資本金300万円の大成化工を川之江市に設立し社長に就任。国光製紙専務などを経ての創業。目標は社会への貢献と業界ナンバーワン
- [3]高原慶一朗は1961年、29歳で資本金300万円の大成化工を川之江市に設立し社長に就任。国光製紙専務などを経ての創業。目標は社会への貢献と業界ナンバーワン
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [4]衣食住のうち昭和20年代は食、30年代前半は衣の産業が興り、残る住の分野を狙って川之江市でタイセイボード(木毛セメント板)の製造販売を開始
- [5]衣食住のうち昭和20年代は食、30年代前半は衣の産業が興り、残る住の分野を狙って川之江市でタイセイボード(木毛セメント板)の製造販売を開始
- 有価証券報告書 FY18 沿革
- [6]1961年2月 高原慶一朗が大成化工㈱を設立し建材の製造・販売を開始
大成化工の「タイセイボード」は有力な競合が少なく、1963年には全国首位の銘柄となった。一方で木毛セメント板の市場は当時年20億円程度で、成長を見込んでも規模に限りがあった。建材の中間製品のため納入先に値を下げられやすく、メーカーが価格決定権を持てないことを高原慶一朗氏は大きな誤算と振り返った。建材の会社を興して間もない時期に、高原慶一朗氏が生理用品の事業化に着目したきっかけは米国視察である。1962年9月からの2カ月間、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団に加わり、米国のスーパーに大量に並ぶ生理用品を目にした。当時の日本では脱脂綿が主流で、米国では衛生紙綿の製品が40年前から使われていた。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「新販路求め雑貨問屋にアタック」高原慶一朗
- [7]タイセイボードは1963年に全国トップブランド。木毛セメント板の市場は年20億円程度で、中間製品のため価格決定権を持てず誤算。1962年9月から2カ月、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団で渡米し、スーパーの生理用品を見た
- [8]タイセイボードは1963年に全国トップブランド。木毛セメント板の市場は年20億円程度で、中間製品のため価格決定権を持てず誤算。1962年9月から2カ月、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団で渡米し、スーパーの生理用品を見た
- [9]タイセイボードは1963年に全国トップブランド。木毛セメント板の市場は年20億円程度で、中間製品のため価格決定権を持てず誤算。1962年9月から2カ月、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団で渡米し、スーパーの生理用品を見た
- [11]タイセイボードは1963年に全国トップブランド。木毛セメント板の市場は年20億円程度で、中間製品のため価格決定権を持てず誤算。1962年9月から2カ月、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団で渡米し、スーパーの生理用品を見た
- 日経ビジネス 1996年7月8日号
- [10]建材の会社を興して間もない32〜33歳の頃、米国視察で生理用品ビジネスの可能性に着目
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [12]日本では生理用品に脱脂綿を使っていた当時、米国では40年前から衛生紙綿があった
帰国した高原慶一朗氏は川之江市内の古い映画館を取得して工場に改修し、生理用品の試作に着手した。紙の機能のうちふき取る用途の開発が遅れていたことに着目し、地場産品の紙を使う製品として生理用品を選んだ。女性が消費の主役になり始めた時期でもあり、高原慶一朗氏は市場の将来性を確信したという。1963年8月、大成化工による衛生紙綿工場の建設と、生理用ナプキンの製造販売の開始。建材と生理用品という性格の異なる新製品を2年余りで相次いで手掛けたことを、高原慶一朗氏は創業を2度経験したと表現した。建材で首位を取っても価格を決められなかった経験が、消費者向けの最終製品を選ばせたのだろう。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「新販路求め雑貨問屋にアタック」高原慶一朗
- [13]帰国後、川之江市内の古い映画館を買収して工場に改修し試作。紙の「ふきとる」機能の開発が遅れていた点に着目。女性が消費の主役になり始めた時期で将来性を確信。創業時代を二回経験したと述懐
- [14]帰国後、川之江市内の古い映画館を買収して工場に改修し試作。紙の「ふきとる」機能の開発が遅れていた点に着目。女性が消費の主役になり始めた時期で将来性を確信。創業時代を二回経験したと述懐
- [15]帰国後、川之江市内の古い映画館を買収して工場に改修し試作。紙の「ふきとる」機能の開発が遅れていた点に着目。女性が消費の主役になり始めた時期で将来性を確信。創業時代を二回経験したと述懐
- [18]帰国後、川之江市内の古い映画館を買収して工場に改修し試作。紙の「ふきとる」機能の開発が遅れていた点に着目。女性が消費の主役になり始めた時期で将来性を確信。創業時代を二回経験したと述懐
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [16]昭和38年8月に衛生紙綿工場を建設し、生理用ナプキンの製造販売を開始
- 有価証券報告書 FY18 沿革
- [17]1963年8月 衛生紙綿(生理用ナプキン)の製造、販売を開始
参考文献[1]-[18]
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「新販路求め雑貨問屋にアタック」高原慶一朗
- [1]高原慶一朗は1961年、29歳で資本金300万円の大成化工を川之江市に設立し社長に就任。国光製紙専務などを経ての創業。目標は社会への貢献と業界ナンバーワン
- [2]高原慶一朗は1961年、29歳で資本金300万円の大成化工を川之江市に設立し社長に就任。国光製紙専務などを経ての創業。目標は社会への貢献と業界ナンバーワン
- [3]高原慶一朗は1961年、29歳で資本金300万円の大成化工を川之江市に設立し社長に就任。国光製紙専務などを経ての創業。目標は社会への貢献と業界ナンバーワン
- [7]タイセイボードは1963年に全国トップブランド。木毛セメント板の市場は年20億円程度で、中間製品のため価格決定権を持てず誤算。1962年9月から2カ月、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団で渡米し、スーパーの生理用品を見た
- [8]タイセイボードは1963年に全国トップブランド。木毛セメント板の市場は年20億円程度で、中間製品のため価格決定権を持てず誤算。1962年9月から2カ月、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団で渡米し、スーパーの生理用品を見た
- [9]タイセイボードは1963年に全国トップブランド。木毛セメント板の市場は年20億円程度で、中間製品のため価格決定権を持てず誤算。1962年9月から2カ月、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団で渡米し、スーパーの生理用品を見た
- [11]タイセイボードは1963年に全国トップブランド。木毛セメント板の市場は年20億円程度で、中間製品のため価格決定権を持てず誤算。1962年9月から2カ月、日本生産性本部の中小企業新製品開発視察団で渡米し、スーパーの生理用品を見た
- [13]帰国後、川之江市内の古い映画館を買収して工場に改修し試作。紙の「ふきとる」機能の開発が遅れていた点に着目。女性が消費の主役になり始めた時期で将来性を確信。創業時代を二回経験したと述懐
- [14]帰国後、川之江市内の古い映画館を買収して工場に改修し試作。紙の「ふきとる」機能の開発が遅れていた点に着目。女性が消費の主役になり始めた時期で将来性を確信。創業時代を二回経験したと述懐
- [15]帰国後、川之江市内の古い映画館を買収して工場に改修し試作。紙の「ふきとる」機能の開発が遅れていた点に着目。女性が消費の主役になり始めた時期で将来性を確信。創業時代を二回経験したと述懐
- [18]帰国後、川之江市内の古い映画館を買収して工場に改修し試作。紙の「ふきとる」機能の開発が遅れていた点に着目。女性が消費の主役になり始めた時期で将来性を確信。創業時代を二回経験したと述懐
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [4]衣食住のうち昭和20年代は食、30年代前半は衣の産業が興り、残る住の分野を狙って川之江市でタイセイボード(木毛セメント板)の製造販売を開始
- [5]衣食住のうち昭和20年代は食、30年代前半は衣の産業が興り、残る住の分野を狙って川之江市でタイセイボード(木毛セメント板)の製造販売を開始
- [12]日本では生理用品に脱脂綿を使っていた当時、米国では40年前から衛生紙綿があった
- [16]昭和38年8月に衛生紙綿工場を建設し、生理用ナプキンの製造販売を開始
- 有価証券報告書 FY18 沿革
- [6]1961年2月 高原慶一朗が大成化工㈱を設立し建材の製造・販売を開始
- [17]1963年8月 衛生紙綿(生理用ナプキン)の製造、販売を開始
- 日経ビジネス 1996年7月8日号
- [10]建材の会社を興して間もない32〜33歳の頃、米国視察で生理用品ビジネスの可能性に着目
1963年〜アンネの薬局網を避けた雑貨問屋の販路と、120社の消耗戦を抜けたチャームナップの首位
大成化工が1963年秋に試作品を仕上げた当時、生理用品市場では2年前に参入したアンネが9割近いシェアを持っていた。薬系の問屋はアンネが押さえていたため、高原慶一朗氏は生理用品を扱った経験のない雑貨系と紙系の問屋に的を絞った。高原慶一朗氏を含む社員6人は山陽道と山陰道に分かれ、都市ごとに問屋へ飛び込みで商談を持ち込んだ。生理用品を知らない問屋との商談では、同行した既婚の女性社員2人の説明が成約を後押しした。雑貨系の経路は、その後のスーパーをはじめとする量販店での大量販売の土台にあたる。1976年には中核の代理店350社が、10万店以上のチェーンストアと小売店をカバーしていた。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「新販路求め雑貨問屋にアタック」高原慶一朗
- [19]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [20]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [21]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [23]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [24]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- 日経ビジネス 1996年7月8日号
- [22]販路開拓は高原慶一朗が先頭に立ち、問屋を一軒一軒回った
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [25]1976年時点で核となる代理店350社が10万店以上のチェーンストア・小売店をカバー
大成化工は「チャームナップ」の銘柄で、1971年に生理用品の業界首位に立ち、参入から8年余りでシェア9割のアンネを上回った。生理用品業界では大手と中小を合わせた120社が、1976年までの10年にわたり激しい競争を続けた。商品改良とコスト引き下げの争いで同業の多くが赤字を計上するなか、大成化工は黒字を保ち、適正な利益を得る体質へ変わった。1976年時点で業界2位から4位の売上高を合計しても、ユニ・チャーム1社に届かない水準である。高原慶一朗氏は1985年の講演で、四国での創業から全国首位に至る過程を、県大会から国体での優勝へ進む歩みにたとえた。消耗戦の中で利益を出し続けたことが、商品改良と販売網づくりに資金を投じ続ける余力を生んだとみられる。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「新販路求め雑貨問屋にアタック」高原慶一朗
- [26]1963年に生理用品市場に参入し、チャームナップで71年に業界第1位。アンネを8年余で追い抜いた
- 証券アナリストジャーナル 23(6) 1985年 高原慶一朗
- [27]昭和46年、生理用品で90%のシェアを占めていたアンネを抑えてトップに立ち、県大会優勝から国体優勝になぞらえた
- [31]昭和46年、生理用品で90%のシェアを占めていたアンネを抑えてトップに立ち、県大会優勝から国体優勝になぞらえた
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [28]過去10年間に大手中小120社が激しく競争。同業他社の多くが赤字の中で黒字経営・適正利益の体質に。昭和47年にトップの位置を奪取(創業者精神・1985年講演は1971年)。第2位から第4位の売上高合計が同社1社を下回る
- [29]過去10年間に大手中小120社が激しく競争。同業他社の多くが赤字の中で黒字経営・適正利益の体質に。昭和47年にトップの位置を奪取(創業者精神・1985年講演は1971年)。第2位から第4位の売上高合計が同社1社を下回る
- [30]過去10年間に大手中小120社が激しく競争。同業他社の多くが赤字の中で黒字経営・適正利益の体質に。昭和47年にトップの位置を奪取(創業者精神・1985年講演は1971年)。第2位から第4位の売上高合計が同社1社を下回る
首位に立ったあとも、世間での生理用品の代名詞は依然として「アンネ」。社長の高原慶一朗氏は1976年10月の証券アナリスト向け講演で、マーケティングを差別化要因に挙げた。首位に立ってからは、一定の差をつければ寡占に至るというランチェスターの法則に拠り、アンネとのシェア差を年々広げた。ユニ・チャームは1976年2月に新商品「チャームナップミニ」を全国発売し、同年夏には歌手の研ナオコ氏を起用したタンポンのCMを流した。当時のシェアは30%前後で、高原慶一朗氏は当面の目標を過半のシェア獲得に置いた。1985年の講演で高原慶一朗氏は、120社の競争を経て業界が2〜3社の寡占へ向かったと振り返った。
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [32]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- [33]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- [34]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- [35]新商品チャームナップミニを1976年2月に全国一斉発売。女性10人のうち3人が同社製品を使用
- [36]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- [37]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- 証券アナリストジャーナル 23(6) 1985年 高原慶一朗
- [38]120社ぐらいの競争の結果、2〜3社寡占の方向に進んだ
参考文献[19]-[38]
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「新販路求め雑貨問屋にアタック」高原慶一朗
- [19]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [20]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [21]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [23]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [24]1963年秋に試作品完成。アンネが2年前に参入し9割近いシェア。薬系問屋はアンネが押さえていたため雑貨系・紙系問屋を開拓。社員6人で山陽道・山陰道に分かれ問屋キャラバン。量販店での大量販売の土台に
- [26]1963年に生理用品市場に参入し、チャームナップで71年に業界第1位。アンネを8年余で追い抜いた
- 日経ビジネス 1996年7月8日号
- [22]販路開拓は高原慶一朗が先頭に立ち、問屋を一軒一軒回った
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [25]1976年時点で核となる代理店350社が10万店以上のチェーンストア・小売店をカバー
- [28]過去10年間に大手中小120社が激しく競争。同業他社の多くが赤字の中で黒字経営・適正利益の体質に。昭和47年にトップの位置を奪取(創業者精神・1985年講演は1971年)。第2位から第4位の売上高合計が同社1社を下回る
- [29]過去10年間に大手中小120社が激しく競争。同業他社の多くが赤字の中で黒字経営・適正利益の体質に。昭和47年にトップの位置を奪取(創業者精神・1985年講演は1971年)。第2位から第4位の売上高合計が同社1社を下回る
- [30]過去10年間に大手中小120社が激しく競争。同業他社の多くが赤字の中で黒字経営・適正利益の体質に。昭和47年にトップの位置を奪取(創業者精神・1985年講演は1971年)。第2位から第4位の売上高合計が同社1社を下回る
- [32]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- [33]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- [34]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- [35]新商品チャームナップミニを1976年2月に全国一斉発売。女性10人のうち3人が同社製品を使用
- [36]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- [37]生理用品といえばアンネが代名詞の中で首位奪取後もシェア格差を拡大。ランチェスターの法則によるマーケティング。1976年夏から研ナオコを起用したタンポンのCM。シェア30%そこそこで過半数を目指す
- 証券アナリストジャーナル 23(6) 1985年 高原慶一朗
- [27]昭和46年、生理用品で90%のシェアを占めていたアンネを抑えてトップに立ち、県大会優勝から国体優勝になぞらえた
- [31]昭和46年、生理用品で90%のシェアを占めていたアンネを抑えてトップに立ち、県大会優勝から国体優勝になぞらえた
- [38]120社ぐらいの競争の結果、2〜3社寡占の方向に進んだ
1974年〜額面変更で岡田産業が継いだユニ・チャームの商号と、東証二部上場
大成化工は1974年3月、衛生紙綿の製造をチャーム工業へ営業譲渡した。同年9月には株式の額面を変更するため、岡田産業を存続会社として大成化工を吸収合併し、社名をユニ・チャームに改めた。製造を切り分けた結果、1976年のユニ・チャームは全国に生産拠点を持ち、全額出資の子会社を9社抱えていた。ユニ・チャーム本体の人員は285名で、その過半はセールスマンである。高原慶一朗氏は、1977年4月以降の連結決算の義務化で製造を子会社に置く構造が評価されると見込んでいた。製造を子会社へ分けて本体を販売とマーケティングに絞った再編は、上場を見据えた準備だったと思われる。
- 有価証券報告書 FY18 沿革
- [39]1974年3月 衛生紙綿の製造をチャーム工業㈱へ営業譲渡。1974年9月 株式額面変更のため岡田産業㈱を存続会社として大成化工㈱を吸収合併し、ユニ・チャーム㈱に社名変更
- [40]1974年3月 衛生紙綿の製造をチャーム工業㈱へ営業譲渡。1974年9月 株式額面変更のため岡田産業㈱を存続会社として大成化工㈱を吸収合併し、ユニ・チャーム㈱に社名変更
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [41]1976年時点で全国に生産拠点、100%出資子会社9社。本体285名の過半数がセールスマン、出向者含め1,200名、1人当たり経常利益約400万円。昭和52年4月以降の連結決算義務化で脚光を浴びると確信
- [42]1976年時点で全国に生産拠点、100%出資子会社9社。本体285名の過半数がセールスマン、出向者含め1,200名、1人当たり経常利益約400万円。昭和52年4月以降の連結決算義務化で脚光を浴びると確信
- [43]1976年時点で全国に生産拠点、100%出資子会社9社。本体285名の過半数がセールスマン、出向者含め1,200名、1人当たり経常利益約400万円。昭和52年4月以降の連結決算義務化で脚光を浴びると確信
ユニ・チャームは1976年8月2日、東京証券取引所市場第二部に上場した。高原慶一朗氏にとっては、創業時から内心に抱いていた上場企業の夢の、45歳での実現である。高原慶一朗氏は上場の要因を、40歳のころから営業・開発・生産・財務の本部長の知見を持ち寄る運営へ切り替えたことに求めた。1976年9月期末の財務は短期借入金と割引手形がゼロで、長期借入金19億円に対し預金は25億円という内容である。公募価格650円の株価は、上場から2カ月半で1,300円になった。ユニ・チャームは6年間で売上高3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画を進め、第一部への早期上場を目指して翌期に2割以上の増収増益を掲げた。
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [44]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [46]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [49]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [50]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [51]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- 有価証券報告書 FY18 沿革
- [45]1976年8月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 日経ビジネス 1996年7月8日号
- [47]40歳頃から各本部長の知恵を集める組織運営へ。1976年、45歳で東証二部に上場
- [48]40歳頃から各本部長の知恵を集める組織運営へ。1976年、45歳で東証二部に上場
1976年10月時点の国内の生理用ナプキン市場は360億円で、米国の1975年実績1,350億円の3分の1に満たない規模である。高原慶一朗氏は人口差を踏まえても、国内市場が700億円規模になるまで時間はかからないと見ていた。そのうえで商品構成は、女性専科の色合いを強めつつ住宅分野の量も増やし、多様化を進める必要があると説いた。1985年の講演で高原慶一朗氏は、生理用品を700億円市場とし、その4〜5倍の3,000億円規模に育つ紙おむつ市場へ参入したと説明した。また高原慶一朗氏は、48歳の年の決算で増収増益を果たせなかった原因を、生理用品首位への自惚れに求めた。首位の座に安住した反省が、生理用品の外に次の市場を求める動機になったとうかがえる。
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [52]ナプキン市場は360億円、米国は1975年実績1,350億円。日本も700億円市場になると予想。女性専科のカラーを強めつつ住宅分野のボリュームも上げて商品を多様化する方針
- [53]ナプキン市場は360億円、米国は1975年実績1,350億円。日本も700億円市場になると予想。女性専科のカラーを強めつつ住宅分野のボリュームも上げて商品を多様化する方針
- [54]ナプキン市場は360億円、米国は1975年実績1,350億円。日本も700億円市場になると予想。女性専科のカラーを強めつつ住宅分野のボリュームも上げて商品を多様化する方針
- 証券アナリストジャーナル 23(6) 1985年 高原慶一朗
- [55]生理用品(700億円)の4〜5倍に当たる3,000億円の紙オムツ市場に参入
- 日経ビジネス 1996年7月8日号
- [56]増収増益を果たせなかった2度の決算のうち1度目は48歳の時で、生理用品トップの座への自惚れが原因
参考文献[39]-[56]
- 有価証券報告書 FY18 沿革
- [39]1974年3月 衛生紙綿の製造をチャーム工業㈱へ営業譲渡。1974年9月 株式額面変更のため岡田産業㈱を存続会社として大成化工㈱を吸収合併し、ユニ・チャーム㈱に社名変更
- [40]1974年3月 衛生紙綿の製造をチャーム工業㈱へ営業譲渡。1974年9月 株式額面変更のため岡田産業㈱を存続会社として大成化工㈱を吸収合併し、ユニ・チャーム㈱に社名変更
- [45]1976年8月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- [41]1976年時点で全国に生産拠点、100%出資子会社9社。本体285名の過半数がセールスマン、出向者含め1,200名、1人当たり経常利益約400万円。昭和52年4月以降の連結決算義務化で脚光を浴びると確信
- [42]1976年時点で全国に生産拠点、100%出資子会社9社。本体285名の過半数がセールスマン、出向者含め1,200名、1人当たり経常利益約400万円。昭和52年4月以降の連結決算義務化で脚光を浴びると確信
- [43]1976年時点で全国に生産拠点、100%出資子会社9社。本体285名の過半数がセールスマン、出向者含め1,200名、1人当たり経常利益約400万円。昭和52年4月以降の連結決算義務化で脚光を浴びると確信
- [44]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [46]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [49]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [50]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [51]昭和51年8月2日上場、公募価格650円が2カ月半後に1,300円。内心に上場企業進出の夢。51年9月期は短期借入金・割引手形ゼロ、長期借入金19億円に対し預金25億円。6年で売上3倍・利益4倍・人員50%増の中期計画。1部上場を目指し来期2割以上の増収増益
- [52]ナプキン市場は360億円、米国は1975年実績1,350億円。日本も700億円市場になると予想。女性専科のカラーを強めつつ住宅分野のボリュームも上げて商品を多様化する方針
- [53]ナプキン市場は360億円、米国は1975年実績1,350億円。日本も700億円市場になると予想。女性専科のカラーを強めつつ住宅分野のボリュームも上げて商品を多様化する方針
- [54]ナプキン市場は360億円、米国は1975年実績1,350億円。日本も700億円市場になると予想。女性専科のカラーを強めつつ住宅分野のボリュームも上げて商品を多様化する方針
- 日経ビジネス 1996年7月8日号
- [47]40歳頃から各本部長の知恵を集める組織運営へ。1976年、45歳で東証二部に上場
- [48]40歳頃から各本部長の知恵を集める組織運営へ。1976年、45歳で東証二部に上場
- [56]増収増益を果たせなかった2度の決算のうち1度目は48歳の時で、生理用品トップの座への自惚れが原因
- 証券アナリストジャーナル 23(6) 1985年 高原慶一朗
- [55]生理用品(700億円)の4〜5倍に当たる3,000億円の紙オムツ市場に参入
1961年〜1980年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年09月期 | 単体 | 118 | n/a | 5 | 3 | 2.5% | n/a |
| 1976年09月期 | 単体 | 151 | +28.0% | 11 | 5 | 3.3% | n/a |
| 1977年09月期 | 単体 | 188 | +24.5% | 17 | 8 | 4.3% | n/a |
| 1978年09月期 | 単体 | 231 | +22.9% | 23 | 12 | 5.2% | n/a |
| 1979年09月期 | 単体 | 273 | +18.2% | 27 | 14 | 5.1% | n/a |
| 1980年09月期 | 単体 | 256 | ▲6.2% | 11 | 6 | 2.3% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
5件
- 有価証券報告書 FY18 沿革
- 証券アナリストジャーナル 14(11) 1976年 高原慶一朗(昭和51年10月22日講演要旨)
- 証券アナリストジャーナル 23(6) 1985年 高原慶一朗
- 日経ビジネス 1996年7月8日号
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊 1993)「新販路求め雑貨問屋にアタック」高原慶一朗