三陽商会:三陽商会の開業とレインコート販売への業態転換
1942年〜針止碍管と研磨砥石を軍需工場へ納めた個人商店と、板橋要町の三陽商会製作所
吉原信之氏は1942年12月、東京府板橋区で個人経営の三陽商会を開業した。扱った品は針止碍管や研磨砥石で、戦争の激化で資材を求める軍需工場を納め先とする商いだった。吉原信之氏はそれまで石油会社の太田商店に勤めており、1941年の開戦で石油の輸入が途絶えて勤め先は開店休業に陥った。26歳で独立した吉原信之氏は、日本電気に勤める友人の伝手で入手した鋼材用の切断砥石から商売を始めた。日本電気で使える品なら他社でも需要があると考え、日本無線などへも売り込みを重ねた。やがて碍子のような絶縁物にも扱いを広げ、日本電気向けを中心に取引が安定した。メーカーを1社ずつ訪ねて口座を得た手法は、戦後に百貨店を開拓する際の原型になったとみられる。
- 有価証券報告書 沿革
- [1]1942年12月、吉原信之が東京府板橋区に個人経営三陽商会を開業(工業用品・繊維製品の製造販売が目的)
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [2]前身は1942年12月に軍需工場への資材供給を目的に開業した個人企業で、針止碍管・研磨砥石を主要事業とした
- Decide 9(1)(87) 1991年
- [3]吉原信之は早稲田卒業後に太田商店(石油会社)に勤務。1941年の開戦で石油輸入が途絶し同社は開店休業となり、26歳で独立
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [4]独立後、日本電気(当時住友通信工業)の友人の伝手で切断砥石を扱い、日本無線などへ販売。のち碍子などの絶縁物も扱った
- [5]独立後、日本電気(当時住友通信工業)の友人の伝手で切断砥石を扱い、日本無線などへ販売。のち碍子などの絶縁物も扱った
- [6]独立後、日本電気(当時住友通信工業)の友人の伝手で切断砥石を扱い、日本無線などへ販売。のち碍子などの絶縁物も扱った
1943年5月、三陽商会は株式会社となり、工作機械工具の修理と販売を開始。有価証券報告書の沿革は、設立時の資本金を5万円とする。1971年の証券誌は資本金を12万5,000円とし、社長には吉原信之氏の実父である吉原陽氏が就任したと記した。吉原信之氏の回想では、仲介で利ざやを得る商売は戦時下で許されず、自前の工場を持つ必要に迫られた。会社は1944年10月に社名を三陽商会製作所へ改め、豊島工場と銀座営業所を設けた。工場は吉原信之氏の自宅に近い要町に建てたものの、工場経営の知識がなく設備と職人の確保に苦労を重ねた。完成直後の1945年5月に吉原信之氏が応召し、工場を縮小して手持ちの品も売却した。戦時の事業は、統制に合わせて業態を変えた直後にほぼ振り出しへ戻った。
- 有価証券報告書 沿革
- [7]1943年5月資本金5万円で株式会社三陽商会を設立し工作機械工具の修理加工・販売を開始。1944年10月三陽商会製作所に改称、豊島工場・銀座営業所を設置
- [8]1943年5月資本金5万円で株式会社三陽商会を設立し工作機械工具の修理加工・販売を開始。1944年10月三陽商会製作所に改称、豊島工場・銀座営業所を設置
- [11]1943年5月資本金5万円で株式会社三陽商会を設立し工作機械工具の修理加工・販売を開始。1944年10月三陽商会製作所に改称、豊島工場・銀座営業所を設置
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [9]1943年5月株式会社三陽商会を設立(資本金12万5,000円)、社長に吉原信之の実父吉原陽が就任
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [10]ブローカー的商売が戦時中に許されず工場をつくり三陽商会製作所に改称。要町に工場を建てたが1945年5月に応召し、縮小・売却して元に戻った
- [12]ブローカー的商売が戦時中に許されず工場をつくり三陽商会製作所に改称。要町に工場を建てたが1945年5月に応召し、縮小・売却して元に戻った
- [13]ブローカー的商売が戦時中に許されず工場をつくり三陽商会製作所に改称。要町に工場を建てたが1945年5月に応召し、縮小・売却して元に戻った
- [14]ブローカー的商売が戦時中に許されず工場をつくり三陽商会製作所に改称。要町に工場を建てたが1945年5月に応召し、縮小・売却して元に戻った
終戦後の三陽商会は平和産業へ一度に切り替えられず、1949年まで各種の雑貨の販売で事業をつないだ。切断砥石の商売は敗戦に伴う重要産業部門の閉鎖で消え、手元には銀座並木通りの本社営業所ビルと社員10名が残った。本店は1945年10月に京橋区(現中央区)へ移し、この頃から主な事業をレインコートの販売へ切り替えた。吉原信之氏は戦時中の取引先との縁を切り、落下傘用に残った羽二重へ防空暗幕にならって油を引き、オイルシルクのレインコートを製造した。材料の量に限りがあったため、この商いは1949年ごろまで小規模にとどまった。商号を株式会社三陽商会へ戻したのは1948年7月である。軍需の取引先を捨て、素材の残る雨具に絞った判断が、のちの専業化の起点になったと考えられる。
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [15]終戦で軍需産業が衰退し平和産業へ一挙に切り換えられず、1949年まで各種雑貨を販売
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- [16]切断砥石は敗戦時の重要産業部門閉鎖で消滅。3年間の儲けは銀座並木通りの本社営業所ビル・社員10名の規模として残った
- 有価証券報告書 沿革
- [17]1945年10月本店を京橋区(現中央区)に移転、この頃より主要業務を工作機械工具からレインコート販売へ変更。1948年7月株式会社三陽商会に改称
- [20]1945年10月本店を京橋区(現中央区)に移転、この頃より主要業務を工作機械工具からレインコート販売へ変更。1948年7月株式会社三陽商会に改称
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [18]戦時中の取引先と縁を切り、防空暗幕をヒントに落下傘用羽二重に油を引いたオイルシルクでレインコートを製造。量が少なく1949年ごろまで細々と継続
- [19]戦時中の取引先と縁を切り、防空暗幕をヒントに落下傘用羽二重に油を引いたオイルシルクでレインコートを製造。量が少なく1949年ごろまで細々と継続
参考文献[1]-[20]
- 有価証券報告書 沿革
- [1]1942年12月、吉原信之が東京府板橋区に個人経営三陽商会を開業(工業用品・繊維製品の製造販売が目的)
- [7]1943年5月資本金5万円で株式会社三陽商会を設立し工作機械工具の修理加工・販売を開始。1944年10月三陽商会製作所に改称、豊島工場・銀座営業所を設置
- [8]1943年5月資本金5万円で株式会社三陽商会を設立し工作機械工具の修理加工・販売を開始。1944年10月三陽商会製作所に改称、豊島工場・銀座営業所を設置
- [11]1943年5月資本金5万円で株式会社三陽商会を設立し工作機械工具の修理加工・販売を開始。1944年10月三陽商会製作所に改称、豊島工場・銀座営業所を設置
- [17]1945年10月本店を京橋区(現中央区)に移転、この頃より主要業務を工作機械工具からレインコート販売へ変更。1948年7月株式会社三陽商会に改称
- [20]1945年10月本店を京橋区(現中央区)に移転、この頃より主要業務を工作機械工具からレインコート販売へ変更。1948年7月株式会社三陽商会に改称
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [2]前身は1942年12月に軍需工場への資材供給を目的に開業した個人企業で、針止碍管・研磨砥石を主要事業とした
- [9]1943年5月株式会社三陽商会を設立(資本金12万5,000円)、社長に吉原信之の実父吉原陽が就任
- [15]終戦で軍需産業が衰退し平和産業へ一挙に切り換えられず、1949年まで各種雑貨を販売
- Decide 9(1)(87) 1991年
- [3]吉原信之は早稲田卒業後に太田商店(石油会社)に勤務。1941年の開戦で石油輸入が途絶し同社は開店休業となり、26歳で独立
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [4]独立後、日本電気(当時住友通信工業)の友人の伝手で切断砥石を扱い、日本無線などへ販売。のち碍子などの絶縁物も扱った
- [5]独立後、日本電気(当時住友通信工業)の友人の伝手で切断砥石を扱い、日本無線などへ販売。のち碍子などの絶縁物も扱った
- [6]独立後、日本電気(当時住友通信工業)の友人の伝手で切断砥石を扱い、日本無線などへ販売。のち碍子などの絶縁物も扱った
- [10]ブローカー的商売が戦時中に許されず工場をつくり三陽商会製作所に改称。要町に工場を建てたが1945年5月に応召し、縮小・売却して元に戻った
- [12]ブローカー的商売が戦時中に許されず工場をつくり三陽商会製作所に改称。要町に工場を建てたが1945年5月に応召し、縮小・売却して元に戻った
- [13]ブローカー的商売が戦時中に許されず工場をつくり三陽商会製作所に改称。要町に工場を建てたが1945年5月に応召し、縮小・売却して元に戻った
- [14]ブローカー的商売が戦時中に許されず工場をつくり三陽商会製作所に改称。要町に工場を建てたが1945年5月に応召し、縮小・売却して元に戻った
- [18]戦時中の取引先と縁を切り、防空暗幕をヒントに落下傘用羽二重に油を引いたオイルシルクでレインコートを製造。量が少なく1949年ごろまで細々と継続
- [19]戦時中の取引先と縁を切り、防空暗幕をヒントに落下傘用羽二重に油を引いたオイルシルクでレインコートを製造。量が少なく1949年ごろまで細々と継続
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- [16]切断砥石は敗戦時の重要産業部門閉鎖で消滅。3年間の儲けは銀座並木通りの本社営業所ビル・社員10名の規模として残った
1949年〜三井物産の試作で得た羽二重ゴム引きレインコートと、日本ゴム工業の一手発売元
レインコートへの本格的な参入は、1949年に三井物産から輸出見本市向けの試作を引き受けたことに始まった。吉原信之氏の回想では、依頼主は三井物産の前身にあたる第一通商で、ゴム引きの布地で作り始めた直後に話が来た。エキスポート・バザーは、進駐軍が高島屋や京都の大丸といった各地の大手百貨店に設けた家庭用の売り場を指す。三陽商会はゴムを引いた羽二重でレインコートを縫い上げることに成功し、これを機にレインコートの製造へ事業を絞った。敗戦後に落下傘用の羽二重でレインコートを試作した経験が、コート事業の出発点になった。売り場では大きいサイズより小さいサイズから先に売れ、買い手の多くは日本人女性に贈る客だった。外国人向けの売り場で国内の需要を確かめた経験が、国内向けの百貨店販売へ進む判断を後押ししたと思われる。
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [21]1949年三井物産からエキスポート・バザー出品のレインコートの試作を引き受け、羽二重ゴム引レインコートの縫製加工に成功、以後レインコートメーカーの地盤を築いた
- [24]1949年三井物産からエキスポート・バザー出品のレインコートの試作を引き受け、羽二重ゴム引レインコートの縫製加工に成功、以後レインコートメーカーの地盤を築いた
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [22]1949年ゴム引き布地でレインコートを作り始めた直後、三井物産の前身とされる第一通商からエキスポートバザー用の話。進駐軍が高島屋・京都大丸などの百貨店に設けた売り場で、小さいサイズから売れ日本人女性向けに買われた
- [23]1949年ゴム引き布地でレインコートを作り始めた直後、三井物産の前身とされる第一通商からエキスポートバザー用の話。進駐軍が高島屋・京都大丸などの百貨店に設けた売り場で、小さいサイズから売れ日本人女性向けに買われた
- [26]1949年ゴム引き布地でレインコートを作り始めた直後、三井物産の前身とされる第一通商からエキスポートバザー用の話。進駐軍が高島屋・京都大丸などの百貨店に設けた売り場で、小さいサイズから売れ日本人女性向けに買われた
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- [25]敗戦後、落下傘用羽二重でレーンコートを試作したのを事業の手始めとした
三陽商会は1949年9月、日本ゴム工業(現オカモト)製レインコートを一手に販売する特約を結び、この頃から百貨店への販売に力を入れた。吉原信之氏は、エキスポート・バザーが百貨店の中にあったことから国内向けの売り場への出品を求め、百貨店を1店ずつ開拓した。百貨店を選んだ理由は、支払いが確実で焦げ付きがない点にある。兄の吉原敬一氏が考えた宣伝文句を携えて回った結果、2〜3年で三越を除く有名百貨店の口座を得た。当時の有名百貨店は買い取り制で、仕入れ品に自店のマークを付けて販売していた。吉原信之氏は自社ブランドでの販売を譲らず、三越との取引開始までに15年を要した。量産設備の乏しい段階で他社製品の発売元を兼ねたのは、販路の開拓を先行させる狙いだったと推察される。
- 有価証券報告書 沿革
- [27]1949年9月日本ゴム工業(現オカモト)と同社製レインコートの一手発売元の特約を締結、この頃より百貨店への販売を積極的に開始
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [28]エキスポートバザーが百貨店内にあったため国内用売場にも出そうと百貨店に入り、一つ一つ開拓。百貨店は支払いが確実で焦げ付かない
- [29]エキスポートバザーが百貨店内にあったため国内用売場にも出そうと百貨店に入り、一つ一つ開拓。百貨店は支払いが確実で焦げ付かない
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- [30]兄・敬一が作った宣伝文句で百貨店を回り、2〜3年で三越を除く有名百貨店の口座を獲得。百貨店は買い取り制で自店マークに付け替え、自社ブランドを譲らず三越との取引に15年を要した
- [31]兄・敬一が作った宣伝文句で百貨店を回り、2〜3年で三越を除く有名百貨店の口座を獲得。百貨店は買い取り制で自店マークに付け替え、自社ブランドを譲らず三越との取引に15年を要した
- [32]兄・敬一が作った宣伝文句で百貨店を回り、2〜3年で三越を除く有名百貨店の口座を獲得。百貨店は買い取り制で自店マークに付け替え、自社ブランドを譲らず三越との取引に15年を要した
1951年、ギャバジンの生地を使ったレインダスターコートとレイントップコートの発売。同じ1951年に「サンヨーレーンコート」の商標を登録し、吉原信之氏は関東近県や浜松、米沢、新潟の生地工場を自ら訪ねて職人に製法を聞いた。綿の統制解除でアセテートやテトロンが入り、1953〜1954年ごろにはウールも手に入るようになって、季節に合わせたオーバーコートを加えられた。営業は1952年7月、東京都千代田区に設けた東京営業所へ主体を移し、中央区には銀座サービス・ステイションという拠点を置いた。1957年の広告は、本社を千代田区神田旭町、支社を大阪と記す。素材の選択肢が増えたことで、雨の日の実用品を晴れた日にも着るコートへ広げる余地が生まれたのだろう。
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [33]1951年ギャバジン生地のレインダスターコート・レイントップコートを発表
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- [34]1951年「サンヨーレーンコート」の商標を登録し、吉原は関東近県・浜松・米沢・新潟の工場を訪ねて取材ノートを作った
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [35]綿の統制解除でアセテート・テトロンなどが入り、昭和28〜29年ごろからウールも出回りオーバーコートなどを加えた
- 有価証券報告書 沿革
- [36]1952年7月千代田区に東京営業所を設置して営業活動の主体を移転、中央区に銀座サービス・ステイションを設置
- あなたのせんい 1957年 三陽商会「サンヨーレインコート」広告
- [37]1957年の広告で本社を千代田区神田旭町14、支社を大阪市に置く
参考文献[21]-[37]
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [21]1949年三井物産からエキスポート・バザー出品のレインコートの試作を引き受け、羽二重ゴム引レインコートの縫製加工に成功、以後レインコートメーカーの地盤を築いた
- [24]1949年三井物産からエキスポート・バザー出品のレインコートの試作を引き受け、羽二重ゴム引レインコートの縫製加工に成功、以後レインコートメーカーの地盤を築いた
- [33]1951年ギャバジン生地のレインダスターコート・レイントップコートを発表
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [22]1949年ゴム引き布地でレインコートを作り始めた直後、三井物産の前身とされる第一通商からエキスポートバザー用の話。進駐軍が高島屋・京都大丸などの百貨店に設けた売り場で、小さいサイズから売れ日本人女性向けに買われた
- [23]1949年ゴム引き布地でレインコートを作り始めた直後、三井物産の前身とされる第一通商からエキスポートバザー用の話。進駐軍が高島屋・京都大丸などの百貨店に設けた売り場で、小さいサイズから売れ日本人女性向けに買われた
- [26]1949年ゴム引き布地でレインコートを作り始めた直後、三井物産の前身とされる第一通商からエキスポートバザー用の話。進駐軍が高島屋・京都大丸などの百貨店に設けた売り場で、小さいサイズから売れ日本人女性向けに買われた
- [28]エキスポートバザーが百貨店内にあったため国内用売場にも出そうと百貨店に入り、一つ一つ開拓。百貨店は支払いが確実で焦げ付かない
- [29]エキスポートバザーが百貨店内にあったため国内用売場にも出そうと百貨店に入り、一つ一つ開拓。百貨店は支払いが確実で焦げ付かない
- [35]綿の統制解除でアセテート・テトロンなどが入り、昭和28〜29年ごろからウールも出回りオーバーコートなどを加えた
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- [25]敗戦後、落下傘用羽二重でレーンコートを試作したのを事業の手始めとした
- [30]兄・敬一が作った宣伝文句で百貨店を回り、2〜3年で三越を除く有名百貨店の口座を獲得。百貨店は買い取り制で自店マークに付け替え、自社ブランドを譲らず三越との取引に15年を要した
- [31]兄・敬一が作った宣伝文句で百貨店を回り、2〜3年で三越を除く有名百貨店の口座を獲得。百貨店は買い取り制で自店マークに付け替え、自社ブランドを譲らず三越との取引に15年を要した
- [32]兄・敬一が作った宣伝文句で百貨店を回り、2〜3年で三越を除く有名百貨店の口座を獲得。百貨店は買い取り制で自店マークに付け替え、自社ブランドを譲らず三越との取引に15年を要した
- [34]1951年「サンヨーレーンコート」の商標を登録し、吉原は関東近県・浜松・米沢・新潟の工場を訪ねて取材ノートを作った
- 有価証券報告書 沿革
- [27]1949年9月日本ゴム工業(現オカモト)と同社製レインコートの一手発売元の特約を締結、この頃より百貨店への販売を積極的に開始
- [36]1952年7月千代田区に東京営業所を設置して営業活動の主体を移転、中央区に銀座サービス・ステイションを設置
- あなたのせんい 1957年 三陽商会「サンヨーレインコート」広告
- [37]1957年の広告で本社を千代田区神田旭町14、支社を大阪市に置く
1953年〜バーバリーの生地を入れた1964年と、1965年ごろからのブレザー・婦人服への品目拡大
三陽商会は1964年以降、英国のバーバリー社やフランスのベ・ド・ベ社など海外の生地とデザインを積極的に取り入れた。吉原信之氏によれば、バーバリー社の話は三井物産から持ち込まれ、有利な条件を得るために時間をかけて交渉した。吉原信之氏は、三陽商会が1955年以降レインコート業界で首位にあり、世界的な雨具の銘柄を他社へ渡すわけにいかなかったと振り返った。導入によってレインコートの印象が改まり、流行に敏感な若い客層が新たに加わって、レインコートは流行品として扱われるようになった。バーバリーの扱いは1980年時点で、レインコートからウールのコート、スーツ、カジュアルへ広がっていた。海外銘柄の導入は、季節の実用品から単価の高い流行品へ商品の位置づけを移す転機になったとみられる。
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [38]1964年以降英国バーバリー社・仏ベ・ド・ベ社など外国の生地・デザインを導入し、レインコートのイメージを変え若年層が新顧客層となり流行品化
- [41]1964年以降英国バーバリー社・仏ベ・ド・ベ社など外国の生地・デザインを導入し、レインコートのイメージを変え若年層が新顧客層となり流行品化
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [39]バーバリーの話は三井物産から来た。昭和30年以降レインコート業界トップで、他社に渡すことは許されず、有利な条件を求め時間をかけて交渉
- [40]バーバリーの話は三井物産から来た。昭和30年以降レインコート業界トップで、他社に渡すことは許されず、有利な条件を求め時間をかけて交渉
- 証券アナリストジャーナル 18(9) 1980年
- [42]バーバリー社との提携はレインコートから入りウールコート、スーツ、カジュアルへ拡大(1980年時点)
三陽商会は1965年ごろから、紳士のブレザーやスラックス、婦人のオーバーコートやニットウェア、子供のスノーコートへ品目を広げた。レインコートは、営業の忙しい時期と暇な時期の差が大きい季節商品である。吉原信之氏は、コートだけでは年に6カ月しか稼働できず、従業員の増えた会社に半年の空白が生じたと振り返った。1966年の事務誌で製造部長の中埜愛三氏は、出庫が春と秋の短い日数に集中し、型や素材、色の数が多く在庫の把握が難しいと記した。スーツなどの衣料を加えて通年の品ぞろえがそろったのは、1965年以降の昭和40年代に入ってからである。品目の拡大は、季節に偏った売上と人員の稼働を年間でならす手段だったと推測される。
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [43]レインコートは季節的商品で営業の繁閑が大きく、1965年ごろから紳士ブレザー・スラックス、婦人オーバーコート・ニットウェア、子供スノーコートなどに進出
- [44]レインコートは季節的商品で営業の繁閑が大きく、1965年ごろから紳士ブレザー・スラックス、婦人オーバーコート・ニットウェア、子供スノーコートなどに進出
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [45]コートだけでは年6カ月しか働けず従業員も増えていたため、スーツなど衣料品に進出し、通年の品ぞろえがそろったのは昭和40年代
- [47]コートだけでは年6カ月しか働けず従業員も増えていたため、スーツなど衣料品に進出し、通年の品ぞろえがそろったのは昭和40年代
- 事務と経営 18(206) 1966年「カーデックスの採用でデッド・ストックの解消と外注管理の改善〈三陽商会〉」中埜愛三 p99〜101
- [46]製造部長兼青山分室長中埜愛三の寄稿:出庫は春秋とも短い日数に集中し、型数・素材数・色数が多岐で在庫・仕掛品の把握が困難
三陽商会は1962年4月に本店を東京都千代田区へ移し、翌5月に同区で本社ビルを新築。全国の販路を押さえるため、支店や営業所、商品倉庫を順次設けた。1966年の事務誌の記事では、支店と出張所は大阪、名古屋、福岡、札幌にあり、パリに海外駐在員を置き、販売先は国内の全百貨店と専門店だった。同じ記事は1965年度の取扱高を36億円、社員を400名とする。商品は自社工場を持たず、一部の仕入れ品を除いて全量を外注加工でまかなった。コート業界は1963年を境に買い手市場へ転じ、三陽商会は商品管理合理化委員会を設けて在庫と外注工場の管理を見直した。売上高は1968年12月期に67.4億円となった。外注に依存した多品種の生産を管理する仕組みが、1969年以降の総合アパレルへの展開を支える基盤になったと読み取れる。
- 有価証券報告書 沿革
- [48]1962年4月本店を千代田区に移転、1962年5月本社ビルを千代田区に新築
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [49]早くから全国的販路確保のため支店・営業所・商品倉庫を設置。自社製造品はなく一部仕入以外は全部外注加工(1971年時点)
- [52]早くから全国的販路確保のため支店・営業所・商品倉庫を設置。自社製造品はなく一部仕入以外は全部外注加工(1971年時点)
- 事務と経営 18(206) 1966年「カーデックスの採用でデッド・ストックの解消と外注管理の改善〈三陽商会〉」中埜愛三 p99〜101
- [50]1966年時点:支店出張所は大阪・名古屋・福岡・札幌、海外駐在員パリ、販売先は国内全百貨店・専門店、1965年度取扱高36億円・社員400名。コート業界は1963年を曲り角に買い手市場へ転換し、商品管理合理化委員会を設置
- [51]1966年時点:支店出張所は大阪・名古屋・福岡・札幌、海外駐在員パリ、販売先は国内全百貨店・専門店、1965年度取扱高36億円・社員400名。コート業界は1963年を曲り角に買い手市場へ転換し、商品管理合理化委員会を設置
- [53]1966年時点:支店出張所は大阪・名古屋・福岡・札幌、海外駐在員パリ、販売先は国内全百貨店・専門店、1965年度取扱高36億円・社員400名。コート業界は1963年を曲り角に買い手市場へ転換し、商品管理合理化委員会を設置
- 会社年鑑 三陽商会 1968年12月期 損益
- [54]1968年12月期 売上高67.4億円(単体)
参考文献[38]-[54]
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- [38]1964年以降英国バーバリー社・仏ベ・ド・ベ社など外国の生地・デザインを導入し、レインコートのイメージを変え若年層が新顧客層となり流行品化
- [41]1964年以降英国バーバリー社・仏ベ・ド・ベ社など外国の生地・デザインを導入し、レインコートのイメージを変え若年層が新顧客層となり流行品化
- [43]レインコートは季節的商品で営業の繁閑が大きく、1965年ごろから紳士ブレザー・スラックス、婦人オーバーコート・ニットウェア、子供スノーコートなどに進出
- [44]レインコートは季節的商品で営業の繁閑が大きく、1965年ごろから紳士ブレザー・スラックス、婦人オーバーコート・ニットウェア、子供スノーコートなどに進出
- [49]早くから全国的販路確保のため支店・営業所・商品倉庫を設置。自社製造品はなく一部仕入以外は全部外注加工(1971年時点)
- [52]早くから全国的販路確保のため支店・営業所・商品倉庫を設置。自社製造品はなく一部仕入以外は全部外注加工(1971年時点)
- Decide 3(5)(20) 1985年
- [39]バーバリーの話は三井物産から来た。昭和30年以降レインコート業界トップで、他社に渡すことは許されず、有利な条件を求め時間をかけて交渉
- [40]バーバリーの話は三井物産から来た。昭和30年以降レインコート業界トップで、他社に渡すことは許されず、有利な条件を求め時間をかけて交渉
- [45]コートだけでは年6カ月しか働けず従業員も増えていたため、スーツなど衣料品に進出し、通年の品ぞろえがそろったのは昭和40年代
- [47]コートだけでは年6カ月しか働けず従業員も増えていたため、スーツなど衣料品に進出し、通年の品ぞろえがそろったのは昭和40年代
- 証券アナリストジャーナル 18(9) 1980年
- [42]バーバリー社との提携はレインコートから入りウールコート、スーツ、カジュアルへ拡大(1980年時点)
- 事務と経営 18(206) 1966年「カーデックスの採用でデッド・ストックの解消と外注管理の改善〈三陽商会〉」中埜愛三 p99〜101
- [46]製造部長兼青山分室長中埜愛三の寄稿:出庫は春秋とも短い日数に集中し、型数・素材数・色数が多岐で在庫・仕掛品の把握が困難
- [50]1966年時点:支店出張所は大阪・名古屋・福岡・札幌、海外駐在員パリ、販売先は国内全百貨店・専門店、1965年度取扱高36億円・社員400名。コート業界は1963年を曲り角に買い手市場へ転換し、商品管理合理化委員会を設置
- [51]1966年時点:支店出張所は大阪・名古屋・福岡・札幌、海外駐在員パリ、販売先は国内全百貨店・専門店、1965年度取扱高36億円・社員400名。コート業界は1963年を曲り角に買い手市場へ転換し、商品管理合理化委員会を設置
- [53]1966年時点:支店出張所は大阪・名古屋・福岡・札幌、海外駐在員パリ、販売先は国内全百貨店・専門店、1965年度取扱高36億円・社員400名。コート業界は1963年を曲り角に買い手市場へ転換し、商品管理合理化委員会を設置
- 有価証券報告書 沿革
- [48]1962年4月本店を千代田区に移転、1962年5月本社ビルを千代田区に新築
- 会社年鑑 三陽商会 1968年12月期 損益
- [54]1968年12月期 売上高67.4億円(単体)
1942年〜1968年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | 67 | n/a | 1 | 2.8% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
9件
- 有価証券報告書 沿革
- 会社年鑑 三陽商会 1968年12月期 損益
- 証券アナリストジャーナル 18(9) 1980年
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- あなたのせんい 1957年 三陽商会「サンヨーレインコート」広告
- 事務と経営 18(206) 1966年「カーデックスの採用でデッド・ストックの解消と外注管理の改善〈三陽商会〉」中埜愛三 p99〜101
- 証券 23(7)(268) 1971年7月
- Decide 3(5)(20) 1985年
- Decide 9(1)(87) 1991年