第2章 年〜年

ヤマハ発動機:HY戦争の増産競争と1983年の赤字からの再建

HY戦争の過剰在庫から米国現地生産への転換

1977年〜世界第2位への到達と資本・技術集約企業への転換方針

1977年1月、ヤマハ発動機は米国に販売会社Yamaha Motor Corporation, U.S.A.を設立した。翌1978年には除雪機の販売も始めている。この時期の姿は、創立25周年に当たる1980年の記録に残っている。二輪車で世界第2位、舟艇部門では国内首位、船外機と雪上車を含めて輸送機器に特化し、約30か国に海外工場を持ち、輸出比率は60%台に達していた。売上高は1977年4月期の2,204億円から1980年4月期には3,384億円へ、経常利益は75億円から143億円へ伸びた。国内で作って世界へ運ぶ体制から、需要のある土地の近くで作る体制へ、生産の置き場所そのものが動き始めていた。

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]1977年1月 Yamaha Motor Corporation, U.S.A.(連結子会社)を設立
    • [2]1978年10月 除雪機の販売を開始
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ヤマハ発動機 小池久雄」
    • [3]1980年はヤマハ発動機の創立25周年に当たる年
    • [4]1980年時点で世界第2位の二輪車メーカー。日本一の舟艇部門、船外機、雪上車など輸送機器に特化し、約30カ国に海外工場をもち、輸出比率は60%台
  • 会社年鑑
    • [5]単体売上高は1977年4月期2,204億円、1980年4月期3,384億円。経常利益は1977年4月期75.7億円、1980年4月期143.1億円

石油不安からのインフレが続けばコストが膨らみ、円高に振れれば輸出が減少するので、どちらになっても苦しい立場にあると小池久雄社長は読んでいた。1980年の年頭、社長は足元の浮揚感について、情勢の移り変わりがもたらした一時のものにすぎないと言い切っている。そのうえで打ち出したのが、労働集約型の体質を早く抜け出し、資本と技術を集約した企業へ移るという方針である。人の力を機械と設備へ置き換えてシステム化を図り、空いた人の能力を新しい商品の企画・開発・生産・販売へ振り向ける。モーターサイクルについては、現有能力のまま生産性を30%高めてコスト面の国際競争力をつけ、そのうえで高付加価値化を図ることを一つの目安に置いた。1980年4月期の経常利益143億円は前期の72億円から倍近く戻っており、余力のあるうちに体質を組み替える方針であった。

  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ヤマハ発動機 小池久雄」
    • [6]小池久雄は『このままいけばインフレによるコストアップに,また,円高となれば輸出の低迷にそれぞれ苦しむことになります』と述べた
    • [7]小池久雄は1980年の年頭所感で『現在,当社は浮上感を得ていますが,これは状況の変化による一時的なものに過ぎません』と述べた
    • [8]小池久雄は『労働集約的体質から早く脱皮し,資本・技術集約企業へと転換しなければなりません』と述べた
    • [9]小池久雄は『人の力は機械・設備に置き換えてシステム化を図りながら,人の能力を新しい商品の企画,開発,生産,販売に振り向けていく必要に迫られています』と述べた
    • [10]小池久雄は『モーターサイクルは現有能力で30%生産性を高め,コスト面で国際競争力をつけ,さらに,高付加価値化を図ることが一つのメド』と述べた
  • 会社年鑑
    • [11]単体経常利益は1979年4月期72.5億円、1980年4月期143.1億円

体質の改革より先に動いたのは、数量だった。1980年代の前半、ヤマハ発動機は首位の本田技研工業に対して新型車を相次いで投入する乱売合戦を仕掛けた。会長の川上源一氏は後年、小池久雄社長に対し、本田技研を刺激せず、本田技研が手がけない商売をせよと機会あるごとに言い続けてきたと語っている。船外機やボートの開発も、本田技研と競合しない製品であることを前提にしていた。ところが売上高を1981年4月期の4,280億円から1982年4月期の5,158億円へと二期で2割以上伸ばしたこの攻勢は、社内で一致した方針のもとにあったわけではない。二輪車の国内シェアを真正面から奪い合う消耗戦に入ったことで、その前提は崩れた。

  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [12]1980年代前半、ヤマハ発動機はトップメーカーの本田技研工業に熾烈な乱売合戦を仕掛けた(HY戦争)
  • Decide 1985年
    • [13]川上源一は『私は折にふれて小池に「ホンダを刺激しないように、ホンダがやらない商売をやれ」ということを口を酸っぱくして言ってきた』と述べた
    • [14]川上源一は船外機・ボートについて『すべて、ホンダとぶつからないものを、という前提でやってきた』と述べた
  • 会社年鑑
    • [15]単体売上高は1981年4月期4,280億円、1982年4月期5,158億円
参考文献[1]-[15]
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]1977年1月 Yamaha Motor Corporation, U.S.A.(連結子会社)を設立
    • [2]1978年10月 除雪機の販売を開始
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ヤマハ発動機 小池久雄」
    • [3]1980年はヤマハ発動機の創立25周年に当たる年
    • [4]1980年時点で世界第2位の二輪車メーカー。日本一の舟艇部門、船外機、雪上車など輸送機器に特化し、約30カ国に海外工場をもち、輸出比率は60%台
    • [6]小池久雄は『このままいけばインフレによるコストアップに,また,円高となれば輸出の低迷にそれぞれ苦しむことになります』と述べた
    • [7]小池久雄は1980年の年頭所感で『現在,当社は浮上感を得ていますが,これは状況の変化による一時的なものに過ぎません』と述べた
    • [8]小池久雄は『労働集約的体質から早く脱皮し,資本・技術集約企業へと転換しなければなりません』と述べた
    • [9]小池久雄は『人の力は機械・設備に置き換えてシステム化を図りながら,人の能力を新しい商品の企画,開発,生産,販売に振り向けていく必要に迫られています』と述べた
    • [10]小池久雄は『モーターサイクルは現有能力で30%生産性を高め,コスト面で国際競争力をつけ,さらに,高付加価値化を図ることが一つのメド』と述べた
  • 会社年鑑
    • [5]単体売上高は1977年4月期2,204億円、1980年4月期3,384億円。経常利益は1977年4月期75.7億円、1980年4月期143.1億円
    • [11]単体経常利益は1979年4月期72.5億円、1980年4月期143.1億円
    • [15]単体売上高は1981年4月期4,280億円、1982年4月期5,158億円
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [12]1980年代前半、ヤマハ発動機はトップメーカーの本田技研工業に熾烈な乱売合戦を仕掛けた(HY戦争)
  • Decide 1985年
    • [13]川上源一は『私は折にふれて小池に「ホンダを刺激しないように、ホンダがやらない商売をやれ」ということを口を酸っぱくして言ってきた』と述べた
    • [14]川上源一は船外機・ボートについて『すべて、ホンダとぶつからないものを、という前提でやってきた』と述べた

1983年〜年産半減と一括処理による縮小再建

増産の反動は決算に現れた。1983年4月期の売上高は前期の5,158億円から4,199億円へ落ち、経常利益は149億円から2億円へ、最終損益は106億円の赤字となった。翌1984年4月期はさらに深く、売上高3,288億円に対し経常損失197億円、最終赤字350億円である。川上源一会長がヤマハ発動機の異変に気づいた時点で、借入金は3,000億円に達していた。市場では、ヤマハがオートバイ部門を売り渡すのではないかという観測まで出た。売れ残った車両が在庫として積み上がり、稼働しない設備が損失を抱えたまま帳簿に残っていた。数量で首位に並ぼうとした攻勢が、相手の反撃余力を読み違えたまま過剰在庫へ行き着いたことになる。

  • 会社年鑑
    • [16]単体で1983年4月期は売上高4,199億円、経常利益2.1億円、当期純損失106億円。前期1982年4月期は売上高5,158億円、経常利益149億円
    • [17]単体で1984年4月期は売上高3,288億円、経常損失197億円、当期純損失350億円
  • Decide 1985年
    • [18]川上源一は『ヤマハ発動機がおかしいぞ、と気がついた時点で、借入金が3000億円、赤字が350億円という大変な事態にたち至っていた』と述べた
    • [19]最悪期には『ヤマハはオートバイ部門を売り渡すんじゃないか』という声が高まるほどの危機感に包まれ、会社売却説まで出た

1983年8月、江口秀人氏がヤマハ発動機の社長に就任した。1927年に東京で生まれ、1953年に東京大学経済学部を出て日本楽器製造に入り、1968年からヤマハ発動機の取締役を務めてきた人物である。江口社長は、損失を数期に分けて薄める方針を採らなかった。年産350万台の生産体制を一気に150万台以下へ縮め、使わない機械には縄を張って休止を可視化し、隠れていた損を初年度の決算へ一括して出した。川上源一会長も、少しでも軽く見せようと粉飾すれば役員の刑事責任を問われかねないとして、あるがままを決算に出したうえで再建計画を作る方針を取ったと述べている。その処理の結果が、1984年4月期の350億円の最終赤字であった。

  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [20]江口秀人は1983年8月にヤマハ発動機社長に就任
    • [21]江口秀人は1927年2月東京都生まれ。1953年3月 東京大学経済学部卒業、日本楽器製造(ヤマハ)入社。1968年6月 ヤマハ発動機取締役就任
  • 日経ビジネス 1994年9月5日号
    • [22]江口秀人社長は年産350万台の生産体制を150万台以下へ半減し、使わない機械に縄を張って休止を可視化し、隠れていた損を初年度に一括処理した
  • Decide 1985年
    • [23]川上源一は『少しでも軽く見せようと粉飾なんかしたら役員の刑事責任を問われることにもなりかねない。だからあるがままをキチッと決算に出して、その上に立って再建計画を作っていこうじゃないか、ということでスタートした』と述べた
  • 会社年鑑
    • [24]単体で1984年4月期の当期純損失は350億円

再建の中身は、単純な作業の積み重ねだった。まず、ひどいときには週に1車種という頻度に達していたモデルチェンジを止め、50cc・100cc・250ccといった排気量の区分ごとに1車種へ絞って売る体制へ戻した。積み上がった在庫は圧縮して現金に換え、借入金のうち1,000億円を返済にあてた。1985年4月期、業績は黒字化した。ただ2,000億円の借入金は手つかずで残った。この間には人員の整理にも踏み切っている。川上源一会長によれば、それをやり遂げられたのは、江口社長が組合と話し合いを尽くしたためだった。目標も据え直され、首位の奪回ではなく、シェアが高くなくても着実に利益の出る体制づくりが掲げられた。十年に及んだ再建を江口社長はのちに振り返り、社内の風通しが良くなり、労働組合との溝もなくなったと語っている。

  • Decide 1985年
    • [25]川上源一は『バカバカしいモデルチェンジのラッシュはすぐやめろ』『車種もせいぜい1ランク、つまり50ccなら50cc、100cc、250cc……に1車種ずつに集中して売っていこう』と指示したと述べた。HY戦争の佳境にはひどい時は1週間に1車種の割合で新車種が誕生していた
    • [26]川上源一は『1000億円返しました。これは過剰在庫を圧縮する形で返済にあてていった』と述べた
    • [27]川上源一は1985年4月末の決算で黒字が出るところまで来たとし、なお2,000億円の借入金が残っていると述べた
    • [28]川上源一は再建で最も功を奏した点として江口社長の人柄を挙げ『だから、人員整理もやれたんですよ。彼は組合の人たちと、トコトン誠意をもって話し合いました』と述べた
    • [29]川上源一は『占拠率が高くなくても確実に採算のとれる体制を作ろうじゃないか、ということを訴えた』と述べた
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [30]江口秀人は1992年時点で『発動機は再建に取り組んでから既に10年。その間に社内の風通しはよくなり、労働組合との隔たりもなくなった』と述べた
参考文献[16]-[30]
  • 会社年鑑
    • [16]単体で1983年4月期は売上高4,199億円、経常利益2.1億円、当期純損失106億円。前期1982年4月期は売上高5,158億円、経常利益149億円
    • [17]単体で1984年4月期は売上高3,288億円、経常損失197億円、当期純損失350億円
    • [24]単体で1984年4月期の当期純損失は350億円
  • Decide 1985年
    • [18]川上源一は『ヤマハ発動機がおかしいぞ、と気がついた時点で、借入金が3000億円、赤字が350億円という大変な事態にたち至っていた』と述べた
    • [19]最悪期には『ヤマハはオートバイ部門を売り渡すんじゃないか』という声が高まるほどの危機感に包まれ、会社売却説まで出た
    • [23]川上源一は『少しでも軽く見せようと粉飾なんかしたら役員の刑事責任を問われることにもなりかねない。だからあるがままをキチッと決算に出して、その上に立って再建計画を作っていこうじゃないか、ということでスタートした』と述べた
    • [25]川上源一は『バカバカしいモデルチェンジのラッシュはすぐやめろ』『車種もせいぜい1ランク、つまり50ccなら50cc、100cc、250cc……に1車種ずつに集中して売っていこう』と指示したと述べた。HY戦争の佳境にはひどい時は1週間に1車種の割合で新車種が誕生していた
    • [26]川上源一は『1000億円返しました。これは過剰在庫を圧縮する形で返済にあてていった』と述べた
    • [27]川上源一は1985年4月末の決算で黒字が出るところまで来たとし、なお2,000億円の借入金が残っていると述べた
    • [28]川上源一は再建で最も功を奏した点として江口社長の人柄を挙げ『だから、人員整理もやれたんですよ。彼は組合の人たちと、トコトン誠意をもって話し合いました』と述べた
    • [29]川上源一は『占拠率が高くなくても確実に採算のとれる体制を作ろうじゃないか、ということを訴えた』と述べた
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [20]江口秀人は1983年8月にヤマハ発動機社長に就任
    • [21]江口秀人は1927年2月東京都生まれ。1953年3月 東京大学経済学部卒業、日本楽器製造(ヤマハ)入社。1968年6月 ヤマハ発動機取締役就任
    • [30]江口秀人は1992年時点で『発動機は再建に取り組んでから既に10年。その間に社内の風通しはよくなり、労働組合との隔たりもなくなった』と述べた
  • 日経ビジネス 1994年9月5日号
    • [22]江口秀人社長は年産350万台の生産体制を150万台以下へ半減し、使わない機械に縄を張って休止を可視化し、隠れていた損を初年度に一括処理した

1984年〜二輪車以外への収益源の分散と現地生産への移行

赤字の底で始めたのは、二輪車以外の収益源を増やす作業だった。1984年2月、ヤマハ発動機は四輪バギーと産業用ロボットの販売を同時に始めている。産業用ロボットは、エンジンを載せない初めての製品系列である。1986年11月にウォータービークル、1987年1月に電子部品を基板へ装着するサーフェスマウンター、1989年12月に産業用無人ヘリコプターが続いた。川上源一会長は1985年の時点で、売上の半分がすでにオートバイ以外の商品で占められ、スノーモビルや船外機がかなり好調だと述べている。二輪車だけで血道を上げなくてよければ、同じ消耗戦を二度繰り返す必要もない、というのがその含意だった。無人ヘリコプターは農家の農薬散布に使われ、評判を得た。

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [31]1984年2月 四輪バギーの販売を開始、同じく1984年2月 産業用ロボットの販売を開始
    • [32]1986年11月 ウォータービークル、1987年1月 サーフェスマウンター、1989年12月 産業用無人ヘリコプターの販売をそれぞれ開始
  • Decide 1985年
    • [33]川上源一は『ヤマハ発動機の全体の売り上げの半分が、オートバイ以外の商品で占められてきた』『スノーモービルとかモーターボートの船外機といったやつがかなり好調』と述べた
    • [34]川上源一は『オートバイだけで血道をあげなくてもいいわけですから、あの(HY戦争)のようなバカげたことを2度も繰り返す必要はない』と述べた
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [35]ヤマハ発動機のリモコン式無人ヘリコプターは農家の農薬散布に使われ評判を得た

輸出の比率が高い会社にとって、円高は売値を動かさないまま採算だけを悪化させる。1980年代後半に入ると、この円高に50cc以下の二輪車へのヘルメット着用義務化が重なり、二輪車の需要は戻らず、事業にも持ち直しの兆しは出なかった。打った手は、生産の拠点を需要のある地域へ移すことである。1986年10月、ヤマハ発動機は米国に生産子会社Yamaha Motor Manufacturing Corporation of Americaを設け、ジョージア州で現地生産を開始した。同年12月には台湾山葉機車工業股份有限公司も設けている。1989年の時点で、本田技研工業との競争で会社売却説まで出た危機から脱し、米国で現地生産する段階まで復したと評され、アトランタ工場は順調な立ち上がりを見せていた。連結売上高は1989年3月期の5,226億円から1991年3月期には6,927億円へ伸びた。

  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [36]1980年代後半に入っても、50cc以下の二輪車のヘルメット着用義務化や円高の影響で二輪車事業に回復の兆しは見えなかった
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [37]1986年10月 Yamaha Motor Manufacturing Corporation of America(連結子会社)を設立
    • [38]1986年12月 台湾山葉機車工業股份有限公司(連結子会社)を設立
  • Decide 1989年
    • [39]1989年時点で『本田技研との二輪車戦争に敗れて、会社売却説まで出る経営危機に陥ったことがある。その危機から脱し、米国で現地生産しようというところまで復活してきた』とされ、アトランタ工場は順調なスタートを切ったと報じられた
  • 会社年鑑
    • [40]連結売上高は1989年3月期5,226億円、1991年3月期6,927億円

1980年代を通じて二輪車の販売の主力は国内から海外へ移っていき、国内市場は長い縮小期に入った。高校生に二輪車の運転も免許取得も認めない「三ない運動」が広がり、若いうちに乗らなかった人々は、その後になって改めて免許を取ろうとはしなかった。江口秀人社長は、オートバイ市場の拡大は二度起こると整理していた。一度目は経済発展の初期で、実用の足として売れる時期にあたり、国民一人あたりの所得がおよそ数百ドルになるのがその目安である。次は所得水準が十分上がった欧米や日本で、暮らしにゆとりのできた層が趣味の対象として大型車を求め始める。数の上で大きくさばけるのは発展途上国が圧倒的で、そこが成長の源泉となる。こうして十年のうちに、売上でも利益でも海外が国内を上回る構造が定まった。台湾と米国に置いた生産会社は、海外へ販売が移ったことを設備の形で追認する布石だった。

  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [41]江口秀人は日本のオートバイ市場が長期的に縮小傾向にあるとし、その原因として高校生に二輪車を乗せず免許も取らせない『3ない運動』を挙げた
    • [42]江口秀人は『オートバイというのは市場の拡大期が二度あるんです。一度目は経済発展の初期の段階で、実用品としてのオートバイが売れる。一人当たり国民所得が数百ドルというのが、市場拡大期を迎える目安となります』と述べた
    • [43]江口秀人は『さらに、経済発展を遂げた後で、今度は大型のオートバイが売れるようになる。生活に余裕ができて、趣味としてオートバイを楽しむ人が出てくるためです。欧米先進国や日本がこの姿』と述べた
    • [44]江口秀人は『量がさばけるのは圧倒的に途上国です』と述べた
    • [45]江口秀人は『オートバイ事業の成長の源泉は国内ではなく、海外に移った。売り上げだけでなく、利益への貢献度も海外の方が国内よりも上です』と述べた
参考文献[31]-[45]
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [31]1984年2月 四輪バギーの販売を開始、同じく1984年2月 産業用ロボットの販売を開始
    • [32]1986年11月 ウォータービークル、1987年1月 サーフェスマウンター、1989年12月 産業用無人ヘリコプターの販売をそれぞれ開始
    • [37]1986年10月 Yamaha Motor Manufacturing Corporation of America(連結子会社)を設立
    • [38]1986年12月 台湾山葉機車工業股份有限公司(連結子会社)を設立
  • Decide 1985年
    • [33]川上源一は『ヤマハ発動機の全体の売り上げの半分が、オートバイ以外の商品で占められてきた』『スノーモービルとかモーターボートの船外機といったやつがかなり好調』と述べた
    • [34]川上源一は『オートバイだけで血道をあげなくてもいいわけですから、あの(HY戦争)のようなバカげたことを2度も繰り返す必要はない』と述べた
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [35]ヤマハ発動機のリモコン式無人ヘリコプターは農家の農薬散布に使われ評判を得た
    • [41]江口秀人は日本のオートバイ市場が長期的に縮小傾向にあるとし、その原因として高校生に二輪車を乗せず免許も取らせない『3ない運動』を挙げた
    • [42]江口秀人は『オートバイというのは市場の拡大期が二度あるんです。一度目は経済発展の初期の段階で、実用品としてのオートバイが売れる。一人当たり国民所得が数百ドルというのが、市場拡大期を迎える目安となります』と述べた
    • [43]江口秀人は『さらに、経済発展を遂げた後で、今度は大型のオートバイが売れるようになる。生活に余裕ができて、趣味としてオートバイを楽しむ人が出てくるためです。欧米先進国や日本がこの姿』と述べた
    • [44]江口秀人は『量がさばけるのは圧倒的に途上国です』と述べた
    • [45]江口秀人は『オートバイ事業の成長の源泉は国内ではなく、海外に移った。売り上げだけでなく、利益への貢献度も海外の方が国内よりも上です』と述べた
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [36]1980年代後半に入っても、50cc以下の二輪車のヘルメット着用義務化や円高の影響で二輪車事業に回復の兆しは見えなかった
  • Decide 1989年
    • [39]1989年時点で『本田技研との二輪車戦争に敗れて、会社売却説まで出る経営危機に陥ったことがある。その危機から脱し、米国で現地生産しようというところまで復活してきた』とされ、アトランタ工場は順調なスタートを切ったと報じられた
  • 会社年鑑
    • [40]連結売上高は1989年3月期5,226億円、1991年3月期6,927億円

筆者考察

1980年代前半のヤマハ発動機は、自分で組み上げた構造を自分で崩した。輸出比率60%台、約30か国の海外工場、二輪車で世界第2位という位置は、二輪車以外の収益源を増やしてきた20年の産物である。その位置にいながら、国内シェアの首位を本田技研工業から取りに行った。週に1車種という頻度で新型を出し、売上高は1982年4月期に5,158億円まで膨らむ。だが伸びていたのは売れた台数ではなく作った台数だった。相手が同じ規模で反撃すれば、差は在庫として残る。1983年4月期の最終赤字106億円は、その差が帳簿の表へ出た数字である。

江口秀人社長が選んだのは、規模を取り戻すことではなく、規模を先に捨てることだった。年産350万台を150万台以下へ落とし、使わない機械には縄を張って休止を可視化し、隠れていた損を初年度の決算へ一括して出す。決算の見栄えは最悪になるが、翌期以降の損益分岐点は下がる。同時に、収益源を二輪車の外へ散らす作業が始まった。産業用ロボット、サーフェスマウンター、産業用無人ヘリコプター。エンジンを載せない製品が並び始めたのは、二輪車の一本足では同じことがもう一度起きると分かったからである。円高で採算が削られれば、作る場所を米国へ移す。この十年でヤマハ発動機が身につけたのは、伸ばし方ではなく縮め方だった。

売上高(単体・4月期) 1977年〜1984年(億円)

2,204 1977 2,903 1978 2,740 1979 3,384 1980 4,280 1981 5,158 1982 4,199 1983 3,288 1984
  • 出所は会社年鑑(単体)。連結決算の開示は1989年3月期から始まるため、この図は単体で揃えた。
  • 1982年4月期の5,158億円が増産期の頂点、1984年4月期の3,288億円が縮小再建後の水準にあたる。

1977年〜1991年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1977年04月期 単体 2,204 n/a 75 34 1.5% n/a
1978年04月期 単体 2,903 +31.7% 87 39 1.4% 米国に海外初の研究開発拠点、R&Dミネソタを開設(1978)
1979年04月期 単体 2,740 ▲5.6% 72 41 1.5% n/a
1980年04月期 単体 3,384 +23.5% 143 60 1.8% n/a
1981年04月期 単体 4,280 +26.5% 144 85 2.0% n/a
1982年04月期 単体 5,158 +20.5% 149 71 1.4% 本社敷地内に技術センターを開設(1982)
1983年04月期 単体 4,199 ▲18.6% 2 ▲106 ▲2.5% ブラジルにYamaha Motor da Amazoniaを設立(1983)
1984年04月期 単体 3,288 ▲21.7% ▲197 ▲350 ▲10.6% n/a
1985年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 米国にYamaha Motor Manufacturing Corporation of Americaを設立(1986)台湾山葉機車工業を設立(1986/12)
1987年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 静岡県御前崎市に浜岡テストコースを開設(1988)
1989年03月期 連結 5,226 n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 連結 5,925 +13.4% n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 連結 6,927 +16.9% n/a n/a n/a メキシコにYamaha Motor de Mexicoを設立(1991)

出所:会社年鑑、ヤノニュース

出典・参考

8件
出典・参考
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
  • 日経ビジネス 1994年9月5日号
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「ヤマハ発動機 小池久雄」
  • Decide 1985年
  • Decide 1989年

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