第1章 年〜年

ヤマハ発動機:日本楽器からの分離独立とマリン事業への多角化

遊休工作機械の転用から輸出比率78%の輸送機器メーカーへ

1955年〜戦時遊休資産の転用で後発参入した決断

二輪車への進出は、まず母体である日本楽器製造(現在のヤマハ株式会社)が1954年にオートバイ部門へ参入し125ccの生産に着手したことに始まる。当時の日本楽器には戦時中の軍需用プロペラ製造拠点として政府の指示のもと大量導入されていた約1,000台規模の工作機械群が、終戦後の民需転換期に遊休資産として残されており、楽器製造だけでは活用しきれない生産設備の有効な転用策を模索することが経営陣の喫緊の課題だった。1955年2月に最初の125cc車"YA-1"を市販したのち、同年7月1日に二輪車製造部門を資本金3,000万円で分離独立させて、ヤマハ発動機株式会社が静岡県浜松市に設立された。初代社長に就任した川上源一氏は日本楽器の社長を兼任しつつ新会社の経営にあたり、このYA-1を皮切りに本格的な二輪車事業へ参入した。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1954年 日本楽器製造がオートバイ部門へ進出し125ccの生産に着手
    • [3]初号機YA-1は1955年2月に市販された125cc車
    • [4]設立時の資本金は3,000万円(企業の歴史:明治百年)
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
    • [2]日本楽器の戦後遊休工作機械は約1,000台規模
    • [7]初代社長は川上源一(日本楽器社長を兼任)
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [5]設立地は静岡県浜松市。有報【沿革】は『静岡県浜松市において発足』とし、本文の表記と一致(旧本文の『浜名郡浜北町』は今回の改修で浜松市へ訂正)
    • [6]1955年7月1日 日本楽器製造から資本金3,000万円で分離独立しヤマハ発動機株式会社を設立

当時の二輪車業界では30数社が乱立して競り合い、新規のメーカーが割り込む余地はほとんどないと見られていた。それでも参入したのは、新しい分野を切り開かずにはおれない進取の気風と、高い技術を存立の支えとする"ヤマハ"の方針による。YA-1はワンタッチで始動でき、"赤トンボ"の名で親しまれて、不況続きの業界をよそに走り回った。参入後は技術と販売の両方で業界の先頭に立ち、1957年にオートバイとして初めてグッドデザイン(Gマーク)に選ばれ、1958年には日本製オートバイとして初の海外遠征で入賞した。1961年のロータリーバルブ実用化、1964年のオートルーブ機構の開発はいずれも世界で最初のもので、後から来た会社ながら"技術のヤマハ"として独自の地位を示す企業文化が、この時期にできあがった。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [8]当時の二輪車業界は30数社が乱立し新規参入は困難視されていた。ヤマハはフロンティア精神と高度な技術を生命力とする企業方針で進出
    • [9]YA-1は『赤トンボ』の愛称で親しまれ、不況の業界を尻目に走りまわった
    • [10]1957年にオートバイで初のGマーク受賞、1958年に日本製オートバイ初の海外遠征で初入賞
    • [11]1961年に世界初のロータリーバルブを実用化、1964年に世界にさきがけオートルーブ機構を開発

後発の会社が量を積むために選んだのは、自前で抱える範囲を狭く保つことだった。1959年11月、ヤマハ発動機は浜松研究所を日本楽器製造の技術研究所へ併合し、基礎研究および新製品研究の一切を親会社へ委嘱した。加工の工程も外へ出し、一般的な工作機械加工は藤田鉄工所ほかに、プレスと鈑金・溶接は北川自動車に、塗装とメッキは三井工業に依存して、自社にはエンジン組立と車体組立を残した。販売は全国を六区分し、東京・大阪・名古屋・北海道・仙台に販売所を置いてその管下に特約店を並べ、商品の引渡しと同時に代金の25%を現金、25%を特約店振出しの約束手形、残る50%を末端購入者振出しの約束手形で決済した。1957年10月末の従業員は484人にすぎず、この半期の売上高は19億4,451万円であった。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
    • [12]1959年11月 浜松研究所を日本楽器の技術研究所に併合し、基礎研究および新製品研究の一切を日本楽器に委嘱
    • [13]外注では一般的な工作機械加工を藤田鉄工所その他に、プレス・鈑金・溶接加工を北川自動車に、塗装・メッキ加工を三井工業に主として依存。自社ではエンジン組立・車体組立を行う
    • [14]販売方法は全国を6区分し東京・大阪・名古屋・北海道・仙台に販売所を設け管下に特約店を設置。販売条件は引渡しとともに25%を現金、25%を特約店振出しの約束手形、50%を末端購入者振出しの約束手形で決済
  • 株式会社年鑑 1958年版「ヤマハ発動機」
    • [15]1957年10月末の従業員は484人。1957年10月期(半期)の売上高は1,944,519千円
参考文献[1]-[15]
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1954年 日本楽器製造がオートバイ部門へ進出し125ccの生産に着手
    • [3]初号機YA-1は1955年2月に市販された125cc車
    • [4]設立時の資本金は3,000万円(企業の歴史:明治百年)
    • [8]当時の二輪車業界は30数社が乱立し新規参入は困難視されていた。ヤマハはフロンティア精神と高度な技術を生命力とする企業方針で進出
    • [9]YA-1は『赤トンボ』の愛称で親しまれ、不況の業界を尻目に走りまわった
    • [10]1957年にオートバイで初のGマーク受賞、1958年に日本製オートバイ初の海外遠征で初入賞
    • [11]1961年に世界初のロータリーバルブを実用化、1964年に世界にさきがけオートルーブ機構を開発
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
    • [2]日本楽器の戦後遊休工作機械は約1,000台規模
    • [7]初代社長は川上源一(日本楽器社長を兼任)
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [5]設立地は静岡県浜松市。有報【沿革】は『静岡県浜松市において発足』とし、本文の表記と一致(旧本文の『浜名郡浜北町』は今回の改修で浜松市へ訂正)
    • [6]1955年7月1日 日本楽器製造から資本金3,000万円で分離独立しヤマハ発動機株式会社を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
    • [12]1959年11月 浜松研究所を日本楽器の技術研究所に併合し、基礎研究および新製品研究の一切を日本楽器に委嘱
    • [13]外注では一般的な工作機械加工を藤田鉄工所その他に、プレス・鈑金・溶接加工を北川自動車に、塗装・メッキ加工を三井工業に主として依存。自社ではエンジン組立・車体組立を行う
    • [14]販売方法は全国を6区分し東京・大阪・名古屋・北海道・仙台に販売所を設け管下に特約店を設置。販売条件は引渡しとともに25%を現金、25%を特約店振出しの約束手形、50%を末端購入者振出しの約束手形で決済
  • 株式会社年鑑 1958年版「ヤマハ発動機」
    • [15]1957年10月末の従業員は484人。1957年10月期(半期)の売上高は1,944,519千円

1960年〜マリン事業の参入が二本柱経営の原点となる転換

1960年、ヤマハ発動機はFRP(強化プラスチック)製のヤマハボートと小型船外機の生産を開始し、二輪車に続く新事業として舶用エンジン事業の立ち上げに入った。二輪車で培った小型エンジン技術を海の上の乗り物である船外機に応用するという発想は、単一事業への依存を避けて事業ポートフォリオを多角化するという川上源一社長の長期経営ビジョンから生まれた戦略判断で、以後のヤマハ発動機の事業構造の基本型を形作る歴史的な原点となった。1966年10月には磐田工場が二輪車生産工場として完成し、この新拠点では二輪車と船外機の両方で大量生産の可能な体制が整備された。

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [16]1960年(7月)マリン事業に新規参入。有報はボート・船外機の販売開始を1960年7月とし、企業の歴史:明治百年はFRP製ボート・船外機の生産開始を昭和35年とする
    • [18]磐田工場は1966年10月に二輪車生産工場として完成
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
    • [17]船外機参入は川上源一社長の多角化ビジョンによる戦略判断

多角化の歩みは舶用にとどまらず、四輪車でも長年の研究開発の成果としてトヨタ自動車と共同開発した"トヨタ2000GT""トヨタ7"を世に送り出し、1968年にはわが国初の雪上車"ヤマハスノーモビル"を発表して"技術のヤマハ"を全世界に印象づけた。1960年代後半から1970年代にかけてヤマハの船外機事業は北米市場を中心に成長を遂げ、1970年代には既存の米国メーカーを押しのけて世界市場で有力な地位を獲得し、二輪車とマリンの"二本柱経営"という独自の事業構造が形になった。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [19]四輪車でトヨタ自動車と共同開発した「トヨタ2000GT」「トヨタ7」を発表
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [20]1968年にわが国初の雪上車ヤマハスノーモビルを発表(有報はスノーモビル販売開始を1968年7月とし、企業の歴史:明治百年は昭和43年発表とする)

船外機やボートには、二輪車のときと違って、売り先となる市場そのものがまだ存在しなかった。1960年に参入した発端は、川上源一社長が欧米のマリーナに並ぶ多数のボートやヨットを目にし、四方を海に囲まれたこの国にもいずれ同じような時代が訪れると見込んだことにある。日本楽器製造と組んでFRPの加工技術を開発し、二輪車用のエンジンを改造した船外機をモーターボートに搭載した。売り方の面でも、完成品を流通に流すのではなく、乗る人そのものを増やすところから組み立てる方式をとった。自前で直営マリーナを建設し、第三セクター方式のマリーナにも出資して、船舶免許やヨットの教室を全国で展開した。楽器を売る前に音楽教室を開設した親会社の型を、そのまま海へ移したものである。品目も広げ、1965年に漁船、1968年に和船の販売を始め、1966年には日本楽器の新居工場のボート生産業務を生産設備ごと譲り受けた。

  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [21]マリン事業進出は、川上源一が欧米のマリーナに立ち並ぶボートやヨットを見て「海に囲まれた日本にも必ずこのような時代がくる」と考えたことがきっかけ
    • [22]親会社の日本楽器製造と共同でFRPの加工技術を開発し、二輪車エンジンを改造した船外機を積んでモーターボートに仕立てた
    • [23]自ら市場を広げようと直営マリーナを建設し第3セクターのマリーナにも出資、船舶免許やヨットの教室を全国に展開した。そのやり方はヤマハ音楽教室と同じだった
    • [24]自ら市場を開拓してシェアとブランド力を高めるマリン事業の売り方は、母体であるヤマハの「ヤマハ音楽教室」と同じ型だった
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [25]1965年5月 漁船の販売を開始、1966年3月 日本楽器製造新居工場のボート生産業務を生産設備と共に譲り受け新居工場としてボート生産を開始、1968年4月 和船の販売を開始
参考文献[16]-[25]
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [16]1960年(7月)マリン事業に新規参入。有報はボート・船外機の販売開始を1960年7月とし、企業の歴史:明治百年はFRP製ボート・船外機の生産開始を昭和35年とする
    • [18]磐田工場は1966年10月に二輪車生産工場として完成
    • [20]1968年にわが国初の雪上車ヤマハスノーモビルを発表(有報はスノーモビル販売開始を1968年7月とし、企業の歴史:明治百年は昭和43年発表とする)
    • [25]1965年5月 漁船の販売を開始、1966年3月 日本楽器製造新居工場のボート生産業務を生産設備と共に譲り受け新居工場としてボート生産を開始、1968年4月 和船の販売を開始
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
    • [17]船外機参入は川上源一社長の多角化ビジョンによる戦略判断
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [19]四輪車でトヨタ自動車と共同開発した「トヨタ2000GT」「トヨタ7」を発表
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [21]マリン事業進出は、川上源一が欧米のマリーナに立ち並ぶボートやヨットを見て「海に囲まれた日本にも必ずこのような時代がくる」と考えたことがきっかけ
    • [22]親会社の日本楽器製造と共同でFRPの加工技術を開発し、二輪車エンジンを改造した船外機を積んでモーターボートに仕立てた
    • [23]自ら市場を広げようと直営マリーナを建設し第3セクターのマリーナにも出資、船舶免許やヨットの教室を全国に展開した。そのやり方はヤマハ音楽教室と同じだった
    • [24]自ら市場を開拓してシェアとブランド力を高めるマリン事業の売り方は、母体であるヤマハの「ヤマハ音楽教室」と同じ型だった

1962年〜無配転落から立て直した輸出主導の事業構造

東京証券取引所第一部への上場は1961年9月だが、その直後から業績は崩れた。1961年4月期に193億円だった売上高は1962年4月期に170億円、1963年4月期には148億円まで落ち、当期純利益は3億7,000万円から7,000万円へ縮んだ。配当率は年2%から1%へ下がり、1962年10月期には株主への配当が消えた。要因は、1960年4月に生産を始めた第一種原動機付自転車ヤマハモペットの不振だった。スクーターの販売実績は1961年4月期の1,013台から1962年4月期には6台へ減少している。株価も1961年の高値2,255円から1962年には安値850円まで下げた。のちに川上源一氏は、夜眠れなかったのはヤマハ発動機がモペットで失敗して無配になったときだけだと語っている。

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [26]1961年9月 東京証券取引所第一部に新規上場(ダイヤモンド会社産業総覧は上場開始を昭和36年9月18日東京とする)
  • 会社年鑑
    • [27]売上高は1961年4月期193億円、1962年4月期170.6億円、1963年4月期148.2億円。当期純利益は1961年4月期3.7億円、1963年4月期0.7億円(いずれも単体)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
    • [28]配当率は年2.0%から1.0%へ低下し、1962年10月期は株主配当金の計上なし
    • [29]1960年4月 第一種原動機付自転車ヤマハモペットMF1 50ccの生産を開始
    • [30]スクーターの販売実績は1961年4月期1,013台、1962年4月期6台
    • [31]株価は1961年中の高値2,255円に対し1962年中の安値850円
  • 日経ビジネス 1975年10月13日号
    • [32]川上源一は『夜、眠れなかったのはヤマハ発動機がモペットで失敗して無配になったときだけ(昭和35年)』と述べた

立て直しの手は、新しい市場を探すことではなく、持っているエンジンの搭載用途を増やすことだった。1965年に漁船、1968年にスノーモビル、1969年に汎用エンジン、1973年に発電機、1975年にゴルフカーと、小型エンジンを核にした品目が数年おきに加わった。作る場所と売る場所も国内に置いたままにせず、1968年に欧州、1970年にブラジル、1974年にインドネシアへ現地法人を設け、需要のある土地の近くへ販売と生産を寄せた。売上高は1965年4月期に245億円だったものが、1970年4月期に526億円、1975年4月期には1,767億円となった。二輪車を量産する拠点となったのは、1966年10月に完成した磐田工場である。1972年2月には本社も浜松市から磐田市へ移した。社長の小池久雄氏は、オートバイと雪上車に続く輸出の収益源としてボートと船外機を育てる意向を示していた。

  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [33]1965年5月 漁船、1968年7月 スノーモビル、1969年8月 汎用エンジン、1973年6月 発電機、1975年4月 ゴルフカーの販売をそれぞれ開始
    • [34]1968年10月 Yamaha Motor Europe N.V.、1970年11月 Yamaha Motor do Brasil Ltda.、1974年7月 PT.Yamaha Indonesia Motor Manufacturingを設立
    • [36]1966年10月 静岡県磐田市に二輪車生産工場として磐田工場が完成、1972年2月 静岡県磐田市に本社を移転
  • 会社年鑑
    • [35]単体売上高は1965年4月期245億円、1970年4月期526億円、1975年4月期1,767億円
  • 野田経済 1974年
    • [37]小池久雄社長は主力商品をモーターサイクル、ボート、船外機、スノーモビルとし、オートバイ・雪上車に次いでボート・船外機も輸出商品として伸ばす考えを示した

1974年にヤマハ発動機の社長を務めていた小池久雄氏は、1938年に静岡県立袋井商業を出て日本楽器製造に入り、東京支店次長を経てヤマハ発動機へ業務部長として移り、取締役・常務・専務を歴任して社長に就任した人物である。この時点で年間の売上構成は国内22%に対し輸出78%に達していた。小池久雄氏はこの比率の高さを問題として扱わず『輸出比率が高いという問題は考えたこともないし、それはそれでいいと思っています』、作る製品のすべてを品質で国際水準に上げれば世界のどこでも売れると述べた。同時に、技術力が国際水準に達してもコストが高くては意味がないとして、技術とコストの双方を国際水準へ引き下げることを条件に置いた。情勢の変化が激しいときは少なくとも五年先を見通して現在の意思決定を行わねばならない、というのが判断の立て方だった。この考えは、需要に応じて海外のどこにでも工場を置けるという見通しへ続いていた。

  • 野田経済 1974年
    • [38]小池久雄は大正10年2月生まれ、静岡県出身。昭和13年 静岡県立袋井商業を卒業し日本楽器製造へ入社、同社東京支店次長を経てヤマハ発動機へ業務部長として入社、取締役・常務取締役・専務を経て代表取締役社長に就任
    • [39]主力商品はモーターサイクル、ボート、船外機、スノーモビルで、年間の売上げ構成は国内22%・輸出78%
    • [40]小池久雄は『作る全製品が品質絶対で、より良い国際的な商品なら、日本はもちろん世界の何処でも誰にでも売れます』と述べた
    • [41]小池久雄は『いかに技術力が国際水準に向上してもコストが高くては、なにもならない』とし、技術の国際水準化とコストの国際レベルへの低減を並べた
    • [42]小池久雄は『最近のように情勢変化の激しい時には、少なくとも五年先きの現象状態を見通して、現在の意志決定を行なわねばならない』と述べた
参考文献[26]-[42]
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
    • [26]1961年9月 東京証券取引所第一部に新規上場(ダイヤモンド会社産業総覧は上場開始を昭和36年9月18日東京とする)
    • [33]1965年5月 漁船、1968年7月 スノーモビル、1969年8月 汎用エンジン、1973年6月 発電機、1975年4月 ゴルフカーの販売をそれぞれ開始
    • [34]1968年10月 Yamaha Motor Europe N.V.、1970年11月 Yamaha Motor do Brasil Ltda.、1974年7月 PT.Yamaha Indonesia Motor Manufacturingを設立
    • [36]1966年10月 静岡県磐田市に二輪車生産工場として磐田工場が完成、1972年2月 静岡県磐田市に本社を移転
  • 会社年鑑
    • [27]売上高は1961年4月期193億円、1962年4月期170.6億円、1963年4月期148.2億円。当期純利益は1961年4月期3.7億円、1963年4月期0.7億円(いずれも単体)
    • [35]単体売上高は1965年4月期245億円、1970年4月期526億円、1975年4月期1,767億円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
    • [28]配当率は年2.0%から1.0%へ低下し、1962年10月期は株主配当金の計上なし
    • [29]1960年4月 第一種原動機付自転車ヤマハモペットMF1 50ccの生産を開始
    • [30]スクーターの販売実績は1961年4月期1,013台、1962年4月期6台
    • [31]株価は1961年中の高値2,255円に対し1962年中の安値850円
  • 日経ビジネス 1975年10月13日号
    • [32]川上源一は『夜、眠れなかったのはヤマハ発動機がモペットで失敗して無配になったときだけ(昭和35年)』と述べた
  • 野田経済 1974年
    • [37]小池久雄社長は主力商品をモーターサイクル、ボート、船外機、スノーモビルとし、オートバイ・雪上車に次いでボート・船外機も輸出商品として伸ばす考えを示した
    • [38]小池久雄は大正10年2月生まれ、静岡県出身。昭和13年 静岡県立袋井商業を卒業し日本楽器製造へ入社、同社東京支店次長を経てヤマハ発動機へ業務部長として入社、取締役・常務取締役・専務を経て代表取締役社長に就任
    • [39]主力商品はモーターサイクル、ボート、船外機、スノーモビルで、年間の売上げ構成は国内22%・輸出78%
    • [40]小池久雄は『作る全製品が品質絶対で、より良い国際的な商品なら、日本はもちろん世界の何処でも誰にでも売れます』と述べた
    • [41]小池久雄は『いかに技術力が国際水準に向上してもコストが高くては、なにもならない』とし、技術の国際水準化とコストの国際レベルへの低減を並べた
    • [42]小池久雄は『最近のように情勢変化の激しい時には、少なくとも五年先きの現象状態を見通して、現在の意志決定を行なわねばならない』と述べた

筆者考察

ヤマハ発動機の出発点は、新しい市場を見つけたことではなく、使い道の無くなった機械が手元にあったことだった。日本楽器製造が軍需向けに保有した工作機械は、楽器を作るだけでは余る。その余りを二輪車へ振り向けたのが1955年2月のYA-1であり、会社はその五か月後に資本金3,000万円で切り出された。後発が30数社の乱立する市場へ参入するには、自前で抱える範囲を狭くするしかない。基礎研究は親会社の研究所へ預け、加工は外注へ出し、販売は全国六区分の販売所と特約店に任せた。従業員484人の会社が半期で19億円を売れたのは、持たないことを選んだからである。

資産を持たないその体制は、当たりが外れたときの脆さと裏表だった。1960年に売り出したモペットが売れず、上場から一年で配当が消える。立て直しの答えは、二輪車でもう一度当てることではなく、同じ小型エンジンの搭載用途を増やすことだった。船外機、漁船、スノーモビル、汎用エンジン、発電機、ゴルフカー。搭載用途が増えれば、一つの市場が失速しても会社全体は止まらない。そのうえで、増やした品目をすべて輸出に載せた。1974年の売上構成は国内22%に対し輸出78%である。国内で当てるのではなく世界のどこかで当てればよい構造へ、この20年で組み替わっていた。

売上高(単体・4月期) 1957年〜1976年(億円)

24.7 1957 193 1961 148.2 1963 526 1970 1,767 1975 1,666 1976
  • 出所は株式会社年鑑・ダイヤモンド会社要覧・会社年鑑(いずれも単体)。
  • 1961年4月期から1963年4月期にかけての減少がモペットの販売不振にあたる。

1955年〜1976年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年04月期 単体 24 n/a n/a 0 3.6% n/a
1958年04月期 単体 44 +79.8% n/a 1 2.5% n/a
1959年04月期 単体 86 +95.5% n/a 2 3.2% n/a
1960年04月期 単体 145 +67.1% n/a 9 6.7% n/a
1961年04月期 単体 193 +33.1% n/a 3 1.9% n/a
1962年04月期 単体 170 ▲11.6% n/a 1 0.8% n/a
1963年04月期 単体 148 ▲13.1% n/a 0 0.5% n/a
1964年04月期 単体 176 +18.8% n/a 2 1.6% タイに合弁会社Siam Yamahaを設立(1964)
1965年04月期 単体 245 +39.1% n/a 4 1.7% n/a
1966年04月期 単体 248 +1.2% n/a 6 2.7% n/a
1967年04月期 単体 272 +9.7% n/a 9 3.4% n/a
1968年04月期 単体 300 +10.3% n/a 7 2.6% n/a
1969年04月期 単体 413 +37.7% n/a 8 2.2% Yamaha Motor Europe N.V.を設立(1968/10)静岡県袋井市にヤマハテストコースを開設(1969)
1970年04月期 単体 526 +27.4% n/a 10 1.9% n/a
1971年04月期 単体 704 +33.8% 47 14 2.0% Yamaha Motor do Brasilを設立(1970/11)
1972年04月期 単体 948 +34.7% 64 25 2.6% n/a
1973年04月期 単体 1,221 +28.8% 83 42 3.4% n/a
1974年04月期 単体 1,484 +21.5% 68 36 2.4% n/a
1975年04月期 単体 1,767 +19.1% n/a 29 1.6% PT.Yamaha Indonesia Motor Manufacturingを設立(1974/07)
1976年04月期 単体 1,666 ▲5.7% 39 22 1.3% n/a

出所:株式会社年鑑、ダイヤモンド会社要覧、会社年鑑

出典・参考

9件
出典・参考
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書 第91期(2025年12月期)【沿革】
  • ヤマハ発動機 有価証券報告書
  • 株式会社年鑑 1958年版「ヤマハ発動機」
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社年鑑
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ヤマハ発動機」
  • 日経ビジネス 1975年10月13日号
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
  • 野田経済 1974年

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