第1章 年〜年

カヤバ:萱場発明研究所の創業と萱場製作所の創立

1919年〜芝区日之出町の萱場発明研究所と、従業員43名で始めた個人経営の萱場製作所

萱場資郎氏は1919年、東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設した。萱場資郎氏は1898年に仙台市で生まれ、東北学院を経て1917年に早稲田大学工科へ進んだ。在学中から兵器の研究に関心を寄せ、東京帝大造兵科の講義ノートを借りて独学した。第1次世界大戦下の現実を前に、萱場資郎氏は『宗教や道徳は戦争には無力だ。むしろ,すぐれた兵器こそが戦争を抑止する力をもつのではないか』と考えるに至った。萱場資郎氏は大学の講義に見切りをつけ、理想とする兵器の開発を自分の生涯の目的に据えた。研究所は創業直後に所憲を定め、独創的な発明考案による奉公と、全人類の恒久平和への寄与を目的に掲げた。学業より発明を先に置いた選択が、のちに海軍と油圧技術へ結び付く起点になったとみられる。

  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [1]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [2]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [4]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [5]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [6]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [3]萱場資郎は早大在学中に東大造兵科の講義ノートを借りて兵器を研究し、1919年に芝浦日之出町に萱場発明研究所を創設

萱場資郎氏は研究所の開設から2年後の1921年、海軍艦政本部の造兵・航空の嘱託になった。1923年9月の関東大震災で研究所が全焼すると、萱場資郎氏は非常勤から専任の嘱託に移った。海軍は1922年のワシントン軍縮会議で戦艦の保有数を制限され、「加賀」「赤城」を空母に改装していた。「鳳翔」で着艦訓練中の1機が海中に転落する事故が起き、海軍は安全な発着艦装置の開発を萱場資郎氏に委ねた。萱場資郎氏は研究所の再建を中断し、1924年から1926年まで艦政本部で発着艦装置の開発に専念した。専念した期間に6種類の装置を考案し、甲板上の機械を油圧作動筒で遠隔操作する仕組みを「鳳翔」「加賀」「赤城」に艤装させた。海軍の課題が本人の関心とも重なったことが、民間の発明家と油圧技術を結び付けたと思われる。

  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [7]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [9]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [10]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [11]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [12]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [8]1921年に艦政本部の嘱託を兼務、1923年9月の関東大震災で研究所を失った後に専任の嘱託となり発着艦装置の開発に取り組んだ

萱場資郎氏は1926年末に艦政本部の嘱託を辞任し、1927年1月19日に個人経営の萱場製作所を発足させた。母体は芝区西応寺町で倒産状態にあった日本絹織製作所で、萱場資郎氏は入札で工場を3年賦で取得し、従業員も引き継いだ。発足時の従業員は43名、敷地は800坪。辞任の理由は研究所の再開にあり、前例のない装置に反対の多い海軍の内部を離れ、民間人の立場で開発を進めようと考えた。萱場製作所は同年2月15日に海軍機密指定工場の認可を受け、艦政本部から艦上機用の油圧緩衝脚(オレオ)を受注した。同年7月には発条油圧式カタパルトの発注を受け、1928年8月に完成させて艦政本部へ納めた。従業員50人足らずの工場に機密兵器の製造が任された背景には、海軍の特別な措置があったと推察される。

  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [13]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
    • [15]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
    • [16]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
    • [17]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
    • [18]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [14]倒産し従業員管理下にあった日本絹織機製作所の入札に応じ3年賦で取得、1927年1月19日に個人経営の萱場製作所が誕生、従業員43名
参考文献[1]-[18]
  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [1]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [2]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [4]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [5]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [6]1919年、萱場資郎が東京市芝区日之出町に萱場発明研究所を開設。1898年仙台市生まれ、東北学院を経て1917年早大工科入学。第1次大戦を機に兵器による戦争抑止を構想し、大学教育に失望して研究所を開いた。創業時に所憲を制定
    • [7]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [9]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [10]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [11]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [12]1921年に萱場資郎が海軍艦政本部の造兵・航空嘱託に。1922年軍縮で加賀・赤城を空母に改装。鳳翔での転落事故を受け海軍が発着艦装置の開発を委嘱。1924-26年に専念し6種類を考案、油圧作動筒による遠隔操作を空母に艤装
    • [13]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
    • [15]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
    • [16]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
    • [17]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
    • [18]1926年末に萱場資郎が艦政本部嘱託を辞任し、1927年1月19日に芝区西応寺町の日本絹織製作所を買収して個人経営の萱場製作所を発足(従業員43名・敷地800坪)。2月15日海軍機密指定工場に認可、オレオを受注。1927年7月カタパルト受注、1928年8月納入
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [3]萱場資郎は早大在学中に東大造兵科の講義ノートを借りて兵器を研究し、1919年に芝浦日之出町に萱場発明研究所を創設
    • [8]1921年に艦政本部の嘱託を兼務、1923年9月の関東大震災で研究所を失った後に専任の嘱託となり発着艦装置の開発に取り組んだ
    • [14]倒産し従業員管理下にあった日本絹織機製作所の入札に応じ3年賦で取得、1927年1月19日に個人経営の萱場製作所が誕生、従業員43名

1935年〜芝浦で株式会社にした萱場製作所と、約5万機の陸海軍機が採った緩衝脚

萱場製作所は1935年3月10日、資本金80万円の株式会社萱場製作所に改組した。改組を促したのは陸軍で、1933年に陸軍航空本部長が個人企業では製造体制が安定しないとして株式会社化を勧告している。1934年末には陸軍から、改組と設備の拡充を進めなければ陸軍自体でK装置を製造すると警告され、萱場資郎氏は改組を決めた。萱場製作所は1934年1月25日に芝浦製作所の芝浦工場跡地の取得契約を結び、分散していた工場を芝浦へ集約した。新会社の出資先は陸軍航空本部長の推薦で三井物産に決まり、1935年1月23日に提携契約が結ばれた。設立時の従業員は役員を含め180名で、社長に萱場資郎氏が就任した。軍の調達先として量産を担う責任が、発明家の個人工場を株式会社へ移したとも読める。

  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [19]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [20]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [22]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [23]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [24]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [21]1934年末に堀陸軍航空本部長から、改組して製造体制を整えなければK装置を軍自ら製造すると警告され、萱場資郎が株式改組を受け入れた。当初資本金80万円

萱場製作所は1938年にオレオの標準化を発表し、航空機会社ごとの特注品を標準1型・2型・3型に統合した。陸海軍航空本部や主要飛行機会社の了解を得て、1939年までに規格書2,000部を印刷して配った。以後1945年の終戦までに、約5万の陸海軍機が萱場製作所の標準形式を採用した。萱場製作所は1940年ごろに油圧機能部品の標準型も完成させ、軍に標準型式を採用させた。受注の拡大は生産を上回り、1938年のオレオ受注は6,873本に達し、年末に600万円の受注残を抱えた。1941年12月1日の従業員は2,916名、1941年度の売上高は949万円。標準化で品種を絞ったことが、急増する軍の注文を量産で受け止める前提になったとうかがえる。

  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [25]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
    • [26]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
    • [27]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
    • [29]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
    • [30]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [28]1940年ごろに萱場標準型油圧機能部品を完成させ、陸海軍航空機に標準型式を採用させた
参考文献[19]-[30]
  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [19]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [20]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [22]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [23]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [24]1933年に陸軍航空本部長が株式会社への改組を勧告。1934年1月25日芝浦製作所の芝浦工場跡地の売買契約。1935年1月23日三井物産と提携契約。1935年3月10日資本金80万円で株式会社萱場製作所発足、社長萱場資郎、従業員180名
    • [25]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
    • [26]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
    • [27]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
    • [29]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
    • [30]1938年オレオの標準化(標準1型・2型・3型に統合)を発表し、1939年までに2,000部配布。終戦までに約5万の陸海軍機が採用。1938年オレオ受注6,873本・年末受注残600万円。従業員は1941年12月1日2,916名、売上高は1935年度92万円から1941年度949万円
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [21]1934年末に堀陸軍航空本部長から、改組して製造体制を整えなければK装置を軍自ら製造すると警告され、萱場資郎が株式改組を受け入れた。当初資本金80万円
    • [28]1940年ごろに萱場標準型油圧機能部品を完成させ、陸海軍航空機に標準型式を採用させた

1943年〜岐阜製造所の新設と、終戦後に萱場産業で探った民需転換

萱場製作所は1942年9月7日の役員会で岐阜製造所の建設計画を決め、1943年7月18日に開所式を挙げた。太平洋戦争の開戦後、軍需工場には大規模な増産計画の立案が求められ、萱場製作所は既存の工場の取得で生産を広げた。1942年には倉敷紡績の仙台工場を取得して仙台製造所とし、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所も開設した。岐阜の用地とした可児郡土田村は東京・関西の両方面と2本ずつの鉄道で結ばれ、1線が爆撃を受けても輸送を保てた。建設資金は陸海軍が折半で責任を持ち、戦時金融金庫と安田銀行が融資する条件で4,500万円が承認された。岐阜製造所は終戦時に従業員6,500名を抱え、陸海軍機の脚の大半と全生産高の40%を担った。空襲による幹線の分断を見込み、生産を東京から分散させる狙いもあったのだろう。

  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [31]1942年9月7日の役員会で岐阜製造所建設計画を決定、1943年7月18日開所。開戦後に軍需工場へ増産計画の立案を要求。1942年に倉敷紡績仙台工場を買収し仙台製造所、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所。終戦時の岐阜は従業員6,500名・全生産高の40%
    • [32]1942年9月7日の役員会で岐阜製造所建設計画を決定、1943年7月18日開所。開戦後に軍需工場へ増産計画の立案を要求。1942年に倉敷紡績仙台工場を買収し仙台製造所、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所。終戦時の岐阜は従業員6,500名・全生産高の40%
    • [33]1942年9月7日の役員会で岐阜製造所建設計画を決定、1943年7月18日開所。開戦後に軍需工場へ増産計画の立案を要求。1942年に倉敷紡績仙台工場を買収し仙台製造所、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所。終戦時の岐阜は従業員6,500名・全生産高の40%
    • [36]1942年9月7日の役員会で岐阜製造所建設計画を決定、1943年7月18日開所。開戦後に軍需工場へ増産計画の立案を要求。1942年に倉敷紡績仙台工場を買収し仙台製造所、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所。終戦時の岐阜は従業員6,500名・全生産高の40%
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [34]1942年8月15日に岐阜県可児郡土田村を候補地とし、各方面と2線の鉄道で結ばれ1線が爆撃されても輸送が途絶しない立地とした。建設資金4,500万円を陸海軍折半で責任、戦時金融金庫と安田銀行が融資
    • [35]1942年8月15日に岐阜県可児郡土田村を候補地とし、各方面と2線の鉄道で結ばれ1線が爆撃されても輸送が途絶しない立地とした。建設資金4,500万円を陸海軍折半で責任、戦時金融金庫と安田銀行が融資

会社は1945年6月1日付で萱場航空兵器に改称し、同年8月15日の終戦を迎えた。同年8月30日の臨時株主総会で企業の存続を決め、社名を萱場産業株式会社に改めた。同じ総会で8月20日予定の5,000万円への増資を取り消し、定款の営業品目を一般機械器具・鋳造品・電機機械器具の製造販売へ変更した。手持現金は8月31日時点で570万円にとどまり、月250万円の経費では2か月しか続かない計算。会社は1万6,000名を超える従業員を9月15日付で解雇し、同日付で1,400名を再採用した。民需産業転換の許可は東京製造所に11月23日、岐阜製造所に12月26日に下り、各製造所は1946年1月ごろから本格操業に入った。航空機器の生産しか経験のない工場では、手持ちの材料で作れるくわや製粉機が当面の製品になったと推測される。

  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [37]本社組織は1945年6月1日付で萱場航空兵器に改称。民需産業転換許可願を岐阜10月15日、東京10月23日に提出
  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [38]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [39]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [40]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [41]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [42]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造

萱場産業は1946年6月、仙台・岐阜の両製造所を第2次賠償工場に指定され、接収命令を受けた。岐阜製造所は川崎航空機工業岐阜工場に次いで設備を撤去する日程まで決まった。同じ6月施行の制限会社令では、筆頭株主が国策会社の東北興業だったため、制限会社に指定されるおそれもあった。萱場資郎氏は所有地13万坪と引き換えに東北興業の持株11万5,000株を譲り受け、同年9月の名義書換えで指定を免れた。民需転換の実態を示せば賠償工場の接収が解除される見込みがあり、萱場産業は岐阜・仙台で自転車の量産を急いだ。会社は1946年8月11日付で特別経理会社として新旧勘定に分離され、同年10月公布の企業再建整備法による再建案の検討に入った。賠償と制限会社の二重の制約が旧会社のままでの再建を難しくし、第二会社による出直しの検討へつながったと考えられる。

  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [43]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
    • [44]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
    • [45]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
    • [46]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
    • [48]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [47]1946年に入り賠償撤去の方針が緩和に向かい、民需転換の実態を整えれば接収解除の可能性があったため、萱場は自転車の生産体制整備を急ぎ、自転車生産が接収解除に主要な役割を果たした
参考文献[31]-[48]
  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
    • [31]1942年9月7日の役員会で岐阜製造所建設計画を決定、1943年7月18日開所。開戦後に軍需工場へ増産計画の立案を要求。1942年に倉敷紡績仙台工場を買収し仙台製造所、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所。終戦時の岐阜は従業員6,500名・全生産高の40%
    • [32]1942年9月7日の役員会で岐阜製造所建設計画を決定、1943年7月18日開所。開戦後に軍需工場へ増産計画の立案を要求。1942年に倉敷紡績仙台工場を買収し仙台製造所、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所。終戦時の岐阜は従業員6,500名・全生産高の40%
    • [33]1942年9月7日の役員会で岐阜製造所建設計画を決定、1943年7月18日開所。開戦後に軍需工場へ増産計画の立案を要求。1942年に倉敷紡績仙台工場を買収し仙台製造所、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所。終戦時の岐阜は従業員6,500名・全生産高の40%
    • [36]1942年9月7日の役員会で岐阜製造所建設計画を決定、1943年7月18日開所。開戦後に軍需工場へ増産計画の立案を要求。1942年に倉敷紡績仙台工場を買収し仙台製造所、日本モスリンの土地建物で滝野川製造所。終戦時の岐阜は従業員6,500名・全生産高の40%
    • [38]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [39]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [40]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [41]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [42]1945年8月30日臨時株主総会で存続再建と萱場産業株式会社への社名変更、5,000万円増資の取消し、営業品目の変更を決議。8月31日手持現金570万円・月経費250万円。9月15日付で1万6,000名超を解雇し1,400名を再採用。民需転換許可は東京11月23日・岐阜12月26日・仙台1946年3月3日、1946年1月ごろ本格操業。手持材料でくわ・製粉機・自転車ポンプ等を製造
    • [43]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
    • [44]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
    • [45]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
    • [46]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
    • [48]1946年6月仙台・岐阜両製造所が第2次賠償工場に指定され接収命令。岐阜は川崎航空機工業岐阜工場に次いで撤去予定。1946年6月の制限会社令で筆頭株主東北興業のため指定の恐れ、萱場資郎が所有地13万坪と交換に11万5,000株を譲受け9月名義書換で除外。1946年8月11日付で新旧勘定分離、10月企業再建整備法公布で第二会社設立を検討
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50
    • [34]1942年8月15日に岐阜県可児郡土田村を候補地とし、各方面と2線の鉄道で結ばれ1線が爆撃されても輸送が途絶しない立地とした。建設資金4,500万円を陸海軍折半で責任、戦時金融金庫と安田銀行が融資
    • [35]1942年8月15日に岐阜県可児郡土田村を候補地とし、各方面と2線の鉄道で結ばれ1線が爆撃されても輸送が途絶しない立地とした。建設資金4,500万円を陸海軍折半で責任、戦時金融金庫と安田銀行が融資
    • [37]本社組織は1945年6月1日付で萱場航空兵器に改称。民需産業転換許可願を岐阜10月15日、東京10月23日に提出
    • [47]1946年に入り賠償撤去の方針が緩和に向かい、民需転換の実態を整えれば接収解除の可能性があったため、萱場は自転車の生産体制整備を急ぎ、自転車生産が接収解除に主要な役割を果たした

出典・参考

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出典・参考
  • カヤバ工業50年史 1935-1985(1986)コマ1-50
  • 風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて(1975)コマ1-50

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