第4章 年〜年

日産自動車:50年ぶりの営業赤字と座間工場の車両生産中止

1986年〜50年ぶりの営業赤字と、久米豊社長のヒラメ組織の刷新

久米豊社長の就任2年目の1986年10月、日産自動車は1986年9月中間決算で197億円の営業赤字を計上した。戦後の混乱期を除けば、創業から50年で初めての営業赤字だった。経常損益は財テクの金融収益と株式売却益で386億円の黒字を保った。完成車11社のうち、トラック主体の2社を除いて営業赤字を出したのは日産自動車だけだった。1986年の生産は224万台にとどまり、年産能力を70万台以上下回った。連結純利益では1983年度に本田技研工業に抜かれ、国内3位に下がっていた。日経ビジネスの特集は、赤字の原因を円高ではなく設備と人員の過剰に求めた。久米豊社長は決算処理で赤字を目立たなくできたが、社内に危機感を持たせるため公表に踏み切った。

  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [1]社長就任2年目、1986年9月中間期の約197億円の営業赤字は決算処理で目立たなくできたが、久米豊社長は危機感を植え付けるため公表した。石原俊会長は経営責任を心配した
    • [8]社長就任2年目、1986年9月中間期の約197億円の営業赤字は決算処理で目立たなくできたが、久米豊社長は危機感を植え付けるため公表した。石原俊会長は経営責任を心配した
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [2]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [3]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [4]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [5]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [6]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [7]日産だけが巨額の営業赤字を出した原因は設備と人員の過剰にあり、凋落の原因は国内シェア低下・海外戦略・商品開発力・労使対立が絡んだことにあるとの見立て

1986年末の創立記念日に、久米豊社長は「お客様の満足を第一義」とする企業理念を発表した。久米豊社長は、上下関係が価値判断の先に立つことを大組織の欠点とみていた。社長や副社長が祭り上げられないよう、自ら現場へ降りることを最も重く見た。設計と販売は、車が売れない責任を互いに押し付け合っていた。企業理念は、両部門が反対できない共通の基準として置いたものだった。広告の制作は若手に任せ、上の人間が口を出さない形で権限委譲を進めた。1986年末には若手幹部に対し、技術で裏づけた商品を供給する方針は捨てないとも説いた。1989年2月時点では、Be-1からシーマ、パオまで新車の販売が好調だった。

  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [9]営業赤字の公表と同じ年の年末の創立記念日に「お客様の満足を第一義」とする新しい企業理念を発表した
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [10]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [11]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [12]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [13]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [14]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [16]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
  • Decide 1987年
    • [15]久米豊社長は前年末に社内の若手幹部を前に、しっかりした技術に裏づけされた商品を供給すべきで「技術の日産」の言葉は捨てないと話した

労使関係は、塩路一郎氏が自動車労連会長を退任したのを機に組み替えられた。社内では、塩路一郎氏は川又克二氏と並んで「天皇」と呼ばれていた。日産自動車の労使は1953年の大争議のあと協調を深め、会社は工場管理や合理化の主導権まで組合に与えていた。英国進出を巡る石原俊社長と塩路一郎氏の対立で、組合員でもある現場の係長は双方に萎縮した。久米豊社長自身も、労組との対立の局面で係長層が口を閉ざすのを経験していた。人事部長は、組合を口実に何もしない風土ができたと認めた。塩路一郎氏の後任には清水春樹副会長が昇格し、新執行部は1986年12月に包括労使協定を結んだ。中央経営協議会は中央労使協議会へ改称され、会社と組合の役割を分けた。

  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [17]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [19]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [20]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [22]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [23]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [24]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [18]かつて「川又天皇」(川又克二社長)・「塩路天皇」(塩路一郎前自動車労連会長)と呼ばれる大物がいた。久米豊氏は工場時代、労組が対決姿勢を強めると心服していた係長クラスが沈黙した経験を持つ
    • [21]かつて「川又天皇」(川又克二社長)・「塩路天皇」(塩路一郎前自動車労連会長)と呼ばれる大物がいた。久米豊氏は工場時代、労組が対決姿勢を強めると心服していた係長クラスが沈黙した経験を持つ
参考文献[1]-[24]
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [1]社長就任2年目、1986年9月中間期の約197億円の営業赤字は決算処理で目立たなくできたが、久米豊社長は危機感を植え付けるため公表した。石原俊会長は経営責任を心配した
    • [8]社長就任2年目、1986年9月中間期の約197億円の営業赤字は決算処理で目立たなくできたが、久米豊社長は危機感を植え付けるため公表した。石原俊会長は経営責任を心配した
    • [9]営業赤字の公表と同じ年の年末の創立記念日に「お客様の満足を第一義」とする新しい企業理念を発表した
    • [18]かつて「川又天皇」(川又克二社長)・「塩路天皇」(塩路一郎前自動車労連会長)と呼ばれる大物がいた。久米豊氏は工場時代、労組が対決姿勢を強めると心服していた係長クラスが沈黙した経験を持つ
    • [21]かつて「川又天皇」(川又克二社長)・「塩路天皇」(塩路一郎前自動車労連会長)と呼ばれる大物がいた。久米豊氏は工場時代、労組が対決姿勢を強めると心服していた係長クラスが沈黙した経験を持つ
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [2]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [3]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [4]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [5]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [6]連結純利益は1983年度に本田に抜かれ3位。1986年9月中間決算は営業損益197億円の赤字・経常損益386億円の黒字。戦後の混乱期を除き50年で初の営業赤字で、完成車11社中いすゞ・日産ディーゼルを除けば日産だけ。1986年の生産224万台に対し能力は70万台以上余剰
    • [7]日産だけが巨額の営業赤字を出した原因は設備と人員の過剰にあり、凋落の原因は国内シェア低下・海外戦略・商品開発力・労使対立が絡んだことにあるとの見立て
    • [17]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [19]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [20]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [22]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [23]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
    • [24]1953年の大争議以来なれあいといわれる協調で、会社は組合に工場管理や合理化の主導権を与えた。英国進出を巡る石原・塩路の対立で係長が萎縮し、藤井大至人事部長は組合を口実に何もしない風土を認めた。塩路氏は自動車労連会長を退き清水副会長が昇格、1986年12月に包括労使協定、中央経営協議会を中央労使協議会へ改称
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [10]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [11]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [12]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [13]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [14]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
    • [16]久米豊社長は大組織の欠点を上下関係が価値判断の先に来ることとし、設計と販売の言い合いを「お客様の満足第一義」でまとめた。コマーシャルを若い社員に任せて権限委譲を進めた。Be-1・シーマ・シルビア・セフィーロ・パオの販売が好調
  • Decide 1987年
    • [15]久米豊社長は前年末に社内の若手幹部を前に、しっかりした技術に裏づけされた商品を供給すべきで「技術の日産」の言葉は捨てないと話した

1989年〜欧州と米国に打った開発と生産の布石と、座間工場の車両生産の打ち切り

新車の販売が戻ると、日産自動車は輸出を増やさずに海外の現地体制を積み増した。1989年4月、アムステルダムに欧州日産を設立し、東京の本社が組んできた欧州の販売計画を現地へ移した。英国日産は1992年に年産20万台へ能力を引き上げる計画だった。1988年の欧州の乗用車販売は37万7277台で、シェア2.9%は日本車で最も高かった。久米豊社長は、世界全体で輸出を減らしながら販売を増やすと繰り返した。背景には、1992年のEC市場統合後に日本車の輸入規制が強まるとの懸念があった。米国本部長の塙義一専務も、国内の能力は増やさず現地で売る車は現地で作る方針を語った。そのうえで、スマーナ工場の拡張でカムリやアコードと同じ級の車を生産するとした。

  • Decide 1990年
    • [25]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [26]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [27]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [28]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [29]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [30]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [31]塙義一専務は、国内のキャパシティは増やさず現地で売るものは現地で作る方針と語り、スマーナ工場の拡張ではカムリ・アコード級のスタンザクラスを生産するとした
    • [32]塙義一専務は、国内のキャパシティは増やさず現地で売るものは現地で作る方針と語り、スマーナ工場の拡張ではカムリ・アコード級のスタンザクラスを生産するとした

1991年6月、久米豊社長は国内の自動車販売を景気後退の入り口とみて、先行きを厳しく見積もった。そのうえで、利益を減らしてまでシェアを争う日本の自動車業界の拡大主義を批判した。企業の成長だけを追う風潮を改めなければ従業員は幸せにならない、という論だった。同じ席で久米豊社長は、6月末に副社長を増やして経営陣の若返りを図ると語った。1992年3月期の経常利益は前期から6割減り、日米同時不況で販売は不振だった。1992年6月末、生産畑出身の辻義文副社長が社長に就任した。1992〜1994年度の中期計画は、無理な拡販と部品メーカーに負担を寄せる合理化を改め、「最適成長」を目標に置いた。

  • 日経ビジネス 1991年6月3日号
    • [33]久米豊社長は日本は景気後退が始まったばかりと国内販売を厳しく見た。利益を減らしてまでシェア争いに固執する拡大主義を批判し、企業成長一本槍を改めなければ従業員の本当の幸せはないとした。6月末に副社長を増やして若返りを図る
    • [34]久米豊社長は日本は景気後退が始まったばかりと国内販売を厳しく見た。利益を減らしてまでシェア争いに固執する拡大主義を批判し、企業成長一本槍を改めなければ従業員の本当の幸せはないとした。6月末に副社長を増やして若返りを図る
    • [35]久米豊社長は日本は景気後退が始まったばかりと国内販売を厳しく見た。利益を減らしてまでシェア争いに固執する拡大主義を批判し、企業成長一本槍を改めなければ従業員の本当の幸せはないとした。6月末に副社長を増やして若返りを図る
    • [36]久米豊社長は日本は景気後退が始まったばかりと国内販売を厳しく見た。利益を減らしてまでシェア争いに固執する拡大主義を批判し、企業成長一本槍を改めなければ従業員の本当の幸せはないとした。6月末に副社長を増やして若返りを図る
  • 日経ビジネス 1992年5月4日号
    • [37]1992年3月期の経常利益は6割減、日米同時不況で販売不振。生産畑出身の辻義文副社長が1992年6月末に社長就任予定。強引な拡販や部品メーカーを犠牲にした合理化をやめ最適成長企業へ変わる新中期計画(1992〜94年度)を推進中
    • [38]1992年3月期の経常利益は6割減、日米同時不況で販売不振。生産畑出身の辻義文副社長が1992年6月末に社長就任予定。強引な拡販や部品メーカーを犠牲にした合理化をやめ最適成長企業へ変わる新中期計画(1992〜94年度)を推進中
    • [39]1992年3月期の経常利益は6割減、日米同時不況で販売不振。生産畑出身の辻義文副社長が1992年6月末に社長就任予定。強引な拡販や部品メーカーを犠牲にした合理化をやめ最適成長企業へ変わる新中期計画(1992〜94年度)を推進中

1993年2月、辻義文社長は座間工場を1995年春に閉鎖し、5000人を削減する合理化計画を発表した。1992年度の国内生産は、1990年度の238万台から35万台減っていた。1993年3月期は290億円の経常赤字に陥る見通しだった。座間の車種を九州工場と村山工場へ移し、他工場の稼働率を75%から90%へ上げる計画だった。国内の年産能力は270万台から230万台へ縮め、年200万台の生産で利益を出す体制を目標に置いた。辻義文社長は、1円の円高で50億円の利益が消えると語り、座間の閉鎖だけで収益は戻らないとも述べた。座間にいた2000人の異動は、2年半かけて終わった。

  • 日経ビジネス 1993年3月8日号
    • [40]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
    • [41]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
    • [42]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
    • [43]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
    • [44]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [45]辻義文社長は1円の円高ごとに50億円の利益が吹き飛ぶとし、座間の問題は改革の一部でこれだけで収益は改善しないと述べた。1993年度の黒字転換を目標とした
  • Decide 1996年
    • [46]座間の仕事は九州と村山へ分散し、座間にいた2000人を他工場へ移し終えるまでに2年半かかった
参考文献[25]-[46]
  • Decide 1990年
    • [25]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [26]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [27]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [28]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [29]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [30]1988年の欧州乗用車販売は37万7277台・シェア2.9%で日本車トップ。1989年4月にアムステルダムに欧州日産を設立し、本社で組み立てていた欧州販売戦略を移した。英国日産は1992年に年産20万台。久米豊社長は世界全体で輸出を減らすと繰り返した。1992年のEC統合後の輸入規制強化が懸念されていた
    • [31]塙義一専務は、国内のキャパシティは増やさず現地で売るものは現地で作る方針と語り、スマーナ工場の拡張ではカムリ・アコード級のスタンザクラスを生産するとした
    • [32]塙義一専務は、国内のキャパシティは増やさず現地で売るものは現地で作る方針と語り、スマーナ工場の拡張ではカムリ・アコード級のスタンザクラスを生産するとした
  • 日経ビジネス 1991年6月3日号
    • [33]久米豊社長は日本は景気後退が始まったばかりと国内販売を厳しく見た。利益を減らしてまでシェア争いに固執する拡大主義を批判し、企業成長一本槍を改めなければ従業員の本当の幸せはないとした。6月末に副社長を増やして若返りを図る
    • [34]久米豊社長は日本は景気後退が始まったばかりと国内販売を厳しく見た。利益を減らしてまでシェア争いに固執する拡大主義を批判し、企業成長一本槍を改めなければ従業員の本当の幸せはないとした。6月末に副社長を増やして若返りを図る
    • [35]久米豊社長は日本は景気後退が始まったばかりと国内販売を厳しく見た。利益を減らしてまでシェア争いに固執する拡大主義を批判し、企業成長一本槍を改めなければ従業員の本当の幸せはないとした。6月末に副社長を増やして若返りを図る
    • [36]久米豊社長は日本は景気後退が始まったばかりと国内販売を厳しく見た。利益を減らしてまでシェア争いに固執する拡大主義を批判し、企業成長一本槍を改めなければ従業員の本当の幸せはないとした。6月末に副社長を増やして若返りを図る
  • 日経ビジネス 1992年5月4日号
    • [37]1992年3月期の経常利益は6割減、日米同時不況で販売不振。生産畑出身の辻義文副社長が1992年6月末に社長就任予定。強引な拡販や部品メーカーを犠牲にした合理化をやめ最適成長企業へ変わる新中期計画(1992〜94年度)を推進中
    • [38]1992年3月期の経常利益は6割減、日米同時不況で販売不振。生産畑出身の辻義文副社長が1992年6月末に社長就任予定。強引な拡販や部品メーカーを犠牲にした合理化をやめ最適成長企業へ変わる新中期計画(1992〜94年度)を推進中
    • [39]1992年3月期の経常利益は6割減、日米同時不況で販売不振。生産畑出身の辻義文副社長が1992年6月末に社長就任予定。強引な拡販や部品メーカーを犠牲にした合理化をやめ最適成長企業へ変わる新中期計画(1992〜94年度)を推進中
  • 日経ビジネス 1993年3月8日号
    • [40]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
    • [41]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
    • [42]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
    • [43]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
    • [44]座間工場の1995年春閉鎖と5000人削減を発表。1993年3月期は290億円の経常赤字。1992年度国内生産は1990年度の238万台から35万台減。サニーを九州、プレセアを村山へ移し他工場の稼働率を75%から90%へ。国内能力を270万台から230万台にし、年200万台で利益の出る体制を目指す
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [45]辻義文社長は1円の円高ごとに50億円の利益が吹き飛ぶとし、座間の問題は改革の一部でこれだけで収益は改善しないと述べた。1993年度の黒字転換を目標とした
  • Decide 1996年
    • [46]座間の仕事は九州と村山へ分散し、座間にいた2000人を他工場へ移し終えるまでに2年半かかった

1995年〜3期連続の営業赤字と、他責の文化を認めた塙義一社長

座間工場の車両生産は1995年3月に終わったが、1995年3月期の営業赤字は748億円で3期連続となった。経常赤字は610億円で、過去最大だった。閉鎖の前日、日本経済新聞は1ドル80円台の円高で合理化の効果が薄まる懸念を報じていた。1996年3月期の営業黒字化には1500億円の増益要因が要り、販売増とコスト削減で800億円を見込んだ。残る700億円は、取引先193社の日翔会に求めた前年度比3.5%の値下げで埋める計画だった。担当役員は、社内の合理化はやり尽くしたと判断していた。トヨタ自動車の同年度の要求は1.5%前後で、日産系の部品メーカーからは反発が出た。

  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
    • [47]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [48]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [50]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [51]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [52]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [53]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
  • 日本経済新聞 1995年3月21日
    • [49]組み立て工場の閉鎖は日本の自動車産業で初。1ドル80円台の急激な円高で合理化効果が薄まる懸念が強い

1996年6月、塙義一副社長が社長に就任し、4期連続赤字の連結決算の黒字化を辻義文社長から託された。1997年11月と12月には、国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。塙義一社長は、RVへの対応の遅れを、赤字で開発費を使えなかったことと若い消費者への感度の鈍さに帰した。そのうえで、社内には他人に責任を求める「他責」の文化があったと認めた。車が売れないと、開発は販売を、販売は車を責める構図だった。塙義一社長は、石原俊社長と塩路一郎氏の対立が経営への不信を残したことも一因とみていた。塙義一社長は2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げて25%にする目標を掲げた。努力の延長では届かない水準に置き、車の作り方と売り方の変革を求めた。

  • 日経ビジネス 1996年6月24日号
    • [54]1996年6月社長就任予定。会長に就く辻義文社長から4期連続赤字の連結決算の黒字化を託された
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [55]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [56]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [57]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [58]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [59]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [60]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [61]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした

1997年9月のフランクフルト自動車ショーで、塙義一社長はダイムラー・ベンツのシュレンプ会長から商用車の共同事業を持ちかけられた。ダイムラー・ベンツの関心は、日産ディーゼル工業の大型トラックとバスにあった。経営再建中の日産自動車は、日産ディーゼル工業にとどまらない包括的な提携を逆に提案した。グローバル事業革新計画は、有利子負債の削減を最優先の課題に据えた。自動車事業の実質有利子負債を、1998年3月期の2.3兆円から2001年3月期までに1.3兆円へ減らす目標だった。1998年7月にはルノーとも協議を始め、約200人で数カ月の共同検討を進めた。負債を減らしながら新車と設備への投資を続ける資金は、社内から出せなくなっていたとみられる。

  • Decide 1998年
    • [62]1997年9月のフランクフルト自動車ショーでシュレンプ会長が塙義一社長に商用車の共同事業を打診。ダイムラーの関心は日産ディーゼルの大型トラック・バスにあったが、経営再建中の日産は包括的な提携を逆提案した
    • [63]1997年9月のフランクフルト自動車ショーでシュレンプ会長が塙義一社長に商用車の共同事業を打診。ダイムラーの関心は日産ディーゼルの大型トラック・バスにあったが、経営再建中の日産は包括的な提携を逆提案した
    • [64]1997年9月のフランクフルト自動車ショーでシュレンプ会長が塙義一社長に商用車の共同事業を打診。ダイムラーの関心は日産ディーゼルの大型トラック・バスにあったが、経営再建中の日産は包括的な提携を逆提案した
  • 日産自動車 アニュアルレポート 1999(1999年3月期)「A New Alliance for the Millennium」
    • [65]グローバル事業革新計画は有利子負債の削減を最優先課題とし、自動車事業の実質有利子負債を1998年3月期の2.3兆円から2001年3月期までに約1.3兆円へ減らす目標。ルノーとの協議は1998年7月に始まり、約200人が数カ月の共同検討を行った
    • [66]グローバル事業革新計画は有利子負債の削減を最優先課題とし、自動車事業の実質有利子負債を1998年3月期の2.3兆円から2001年3月期までに約1.3兆円へ減らす目標。ルノーとの協議は1998年7月に始まり、約200人が数カ月の共同検討を行った
    • [67]グローバル事業革新計画は有利子負債の削減を最優先課題とし、自動車事業の実質有利子負債を1998年3月期の2.3兆円から2001年3月期までに約1.3兆円へ減らす目標。ルノーとの協議は1998年7月に始まり、約200人が数カ月の共同検討を行った
参考文献[47]-[67]
  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
    • [47]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [48]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [50]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [51]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [52]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
    • [53]1995年3月期は過去最大610億円の経常赤字、営業赤字748億円。1996年3月期の営業黒字化に1500億円の増益要因が必要で、販売増400億円・コスト削減400億円。常務は社内的にできることはしつくしたと判断。残り700億円を日翔会193社への3.5%の値下げ要請で捻出。トヨタの要求は1.5%前後。直系部品メーカーの社長は反発
  • 日本経済新聞 1995年3月21日
    • [49]組み立て工場の閉鎖は日本の自動車産業で初。1ドル80円台の急激な円高で合理化効果が薄まる懸念が強い
  • 日経ビジネス 1996年6月24日号
    • [54]1996年6月社長就任予定。会長に就く辻義文社長から4期連続赤字の連結決算の黒字化を託された
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
    • [55]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [56]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [57]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [58]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [59]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [60]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
    • [61]1997年11・12月に国内販売台数で本田技研工業に抜かれた。RVの出遅れは赤字で開発費を使えなかったことと感受性の鈍さ。他責の文化があり、開発と販売が互いを責めた。石原社長と塩路氏の確執が経営への不信感を残し行動できない一因になった。2000年に国内販売シェアを5ポイント近く上げ25%にする目標は、努力でなく変革を求めるためとした
  • Decide 1998年
    • [62]1997年9月のフランクフルト自動車ショーでシュレンプ会長が塙義一社長に商用車の共同事業を打診。ダイムラーの関心は日産ディーゼルの大型トラック・バスにあったが、経営再建中の日産は包括的な提携を逆提案した
    • [63]1997年9月のフランクフルト自動車ショーでシュレンプ会長が塙義一社長に商用車の共同事業を打診。ダイムラーの関心は日産ディーゼルの大型トラック・バスにあったが、経営再建中の日産は包括的な提携を逆提案した
    • [64]1997年9月のフランクフルト自動車ショーでシュレンプ会長が塙義一社長に商用車の共同事業を打診。ダイムラーの関心は日産ディーゼルの大型トラック・バスにあったが、経営再建中の日産は包括的な提携を逆提案した
  • 日産自動車 アニュアルレポート 1999(1999年3月期)「A New Alliance for the Millennium」
    • [65]グローバル事業革新計画は有利子負債の削減を最優先課題とし、自動車事業の実質有利子負債を1998年3月期の2.3兆円から2001年3月期までに約1.3兆円へ減らす目標。ルノーとの協議は1998年7月に始まり、約200人が数カ月の共同検討を行った
    • [66]グローバル事業革新計画は有利子負債の削減を最優先課題とし、自動車事業の実質有利子負債を1998年3月期の2.3兆円から2001年3月期までに約1.3兆円へ減らす目標。ルノーとの協議は1998年7月に始まり、約200人が数カ月の共同検討を行った
    • [67]グローバル事業革新計画は有利子負債の削減を最優先課題とし、自動車事業の実質有利子負債を1998年3月期の2.3兆円から2001年3月期までに約1.3兆円へ減らす目標。ルノーとの協議は1998年7月に始まり、約200人が数カ月の共同検討を行った

1986年〜1998年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 英国サンダーランドで生産を開始(1986/07)
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 64,179 n/a n/a n/a 1,012 苅田専用埠頭が完成(1991/05)
1993年03月期 連結 61,975 ▲3.4% n/a n/a ▲559 n/a
1994年03月期 連結 58,008 ▲6.4% n/a n/a ▲869 n/a
1995年03月期 連結 58,341 +0.6% n/a n/a ▲1,660 n/a
1996年03月期 連結 60,391 +3.5% n/a n/a ▲884 n/a
1997年03月期 連結 66,588 +10.3% n/a n/a 777 n/a
1998年03月期 連結 65,646 ▲1.4% n/a n/a ▲140 n/a

出所:会社年鑑、有価証券報告書

出典・参考

16件
出典・参考
  • 日産自動車 アニュアルレポート 1999(1999年3月期)「A New Alliance for the Millennium」
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
  • 日経ビジネス 1991年6月3日号
  • 日経ビジネス 1992年5月4日号
  • 日経ビジネス 1993年3月8日号
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
  • 日経ビジネス 1996年6月24日号
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号
  • 日本経済新聞 1995年3月21日
  • Decide 1987年
  • Decide 1990年
  • Decide 1996年
  • Decide 1998年

免責事項およびポリシー