ヒロセ電機:広瀬銈三の広瀬商会創立と湯河原工場の丸形・同軸コネクタ
1937年〜赤坂榎坂町の個人商店・広瀬商会と、戦争末期に建てた湯河原工場
広瀬銈三氏は1937年8月、東京市赤坂区榎坂町(現在の東京都港区)に広瀬商会を創立した。広瀬銈三氏は、のちのヒロセ電機で初代社長に数えられる人物である。広瀬商会は法人ではなく、広瀬銈三氏が個人で経営する商店として発足した。扱った品目は電気絶縁物と通信機部品で、作ることと売ることの両方を手がけた。1973年に社長の酒井秀樹氏が示した沿革でも、創業時の目的は絶縁物を加工して販売することに置かれていた。のちに主力となるコネクタは、創立時の品目にまだ挙がっていない。通信機に組み込む絶縁材と部品に需要が見込め、広瀬銈三氏は大きな設備を要しない加工と販売から事業を立ち上げたとみられる。
- ヒロセ電機 有価証券報告書(2021年6月提出)【沿革】
- [1]1937年8月、広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と通信機部品の製造販売を始めた。広瀬銈三は初代社長
- [2]1937年8月、広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と通信機部品の製造販売を始めた。広瀬銈三は初代社長
- [4]1937年8月、広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と通信機部品の製造販売を始めた。広瀬銈三は初代社長
- [6]1937年8月、広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と通信機部品の製造販売を始めた。広瀬銈三は初代社長
- 証券アナリストジャーナル 11巻2号 1973年2月号(酒井秀樹)
- [3]広瀬商会は昭和12年8月に電気絶縁物の加工販売を目的とする広瀬銈三の個人経営として発足した(1973年の社長講演)
- [5]広瀬商会は昭和12年8月に電気絶縁物の加工販売を目的とする広瀬銈三の個人経営として発足した(1973年の社長講演)
広瀬商会は1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設けた。有価証券報告書の沿革に工場の名が現れるのは、この湯河原工場が最初である。創立から8年を経て、広瀬商会は自前の生産拠点を東京の外に持った。設置は終戦の4か月前にあたり、広瀬商会はこの時点でも広瀬銈三氏の個人経営のままだった。株式会社に改めたのは戦後の1948年6月で、湯河原工場はその後の法人の生産拠点へ引き継がれた。湯河原工場は1948年10月からコネクタを生産し、1991年4月に一関工場へ移るまで操業を続けた。東京への空襲が続いた時期の工場設置で、戦災を避けて生産の場を都外に確保する疎開の性格を持っていたと推察される。
- ヒロセ電機 有価証券報告書(2021年6月提出)【沿革】
- [7]1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。同工場は1991年4月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [8]1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。同工場は1991年4月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [9]1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。同工場は1991年4月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [12]1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。同工場は1991年4月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- 証券アナリストジャーナル 11巻2号 1973年2月号(酒井秀樹)
- [10]広瀬商会は広瀬銈三の個人経営として発足し、昭和23年6月に広瀬商会製作所へ改組した(1973年の社長講演)
- [11]広瀬商会は広瀬銈三の個人経営として発足し、昭和23年6月に広瀬商会製作所へ改組した(1973年の社長講演)
参考文献[1]-[12]
- ヒロセ電機 有価証券報告書(2021年6月提出)【沿革】
- [1]1937年8月、広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と通信機部品の製造販売を始めた。広瀬銈三は初代社長
- [2]1937年8月、広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と通信機部品の製造販売を始めた。広瀬銈三は初代社長
- [4]1937年8月、広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と通信機部品の製造販売を始めた。広瀬銈三は初代社長
- [6]1937年8月、広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町に広瀬商会を創立し、電気絶縁物と通信機部品の製造販売を始めた。広瀬銈三は初代社長
- [7]1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。同工場は1991年4月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [8]1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。同工場は1991年4月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [9]1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。同工場は1991年4月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [12]1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。同工場は1991年4月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- 証券アナリストジャーナル 11巻2号 1973年2月号(酒井秀樹)
- [3]広瀬商会は昭和12年8月に電気絶縁物の加工販売を目的とする広瀬銈三の個人経営として発足した(1973年の社長講演)
- [5]広瀬商会は昭和12年8月に電気絶縁物の加工販売を目的とする広瀬銈三の個人経営として発足した(1973年の社長講演)
- [10]広瀬商会は広瀬銈三の個人経営として発足し、昭和23年6月に広瀬商会製作所へ改組した(1973年の社長講演)
- [11]広瀬商会は広瀬銈三の個人経営として発足し、昭和23年6月に広瀬商会製作所へ改組した(1973年の社長講演)
1948年〜資本金50万円の広瀬商会製作所と、米軍・防衛庁向けで固めたコネクタ技術
広瀬銈三氏は1948年6月、広瀬商会を株式会社に改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とした。創立から11年を経ての法人化で、この社名は1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改めるまで15年間使われた。改組時の資本金は50万円。本社は東京都大田区に置き、生産は湯河原工場が担った。同じ年の10月、湯河原工場は丸形と角形、同軸の3種類のコネクタを作り始めた。創立時の絶縁物と通信機部品の加工販売から、品目の中心はコネクタの製造へ移った。個人商店を法人に改めて信用を整え、戦後に需要が戻った通信機向けの部品で量産に進む準備をしたものと思われる。
- ヒロセ電機 有価証券報告書(2021年6月提出)【沿革】
- [13]1948年6月に株式会社組織へ改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とし、本社を東京都大田区に置いた。同年10月、湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始。1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改称
- [14]1948年6月に株式会社組織へ改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とし、本社を東京都大田区に置いた。同年10月、湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始。1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改称
- [16]1948年6月に株式会社組織へ改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とし、本社を東京都大田区に置いた。同年10月、湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始。1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改称
- [17]1948年6月に株式会社組織へ改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とし、本社を東京都大田区に置いた。同年10月、湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始。1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改称
- 証券アナリストジャーナル 11巻2号 1973年2月号(酒井秀樹)
- [15]昭和23年6月、広瀬商会を資本金50万円の広瀬商会製作所に改組した。以後コネクタに取り組んだ(1973年の社長講演)
- [18]昭和23年6月、広瀬商会を資本金50万円の広瀬商会製作所に改組した。以後コネクタに取り組んだ(1973年の社長講演)
広瀬商会製作所では、1952年から1953年ごろにかけて米軍と防衛庁に関わる仕事が増えた。この受注の増加を受けて、広瀬商会製作所はコネクタを事業の中心に据え、本腰を入れて取り組んだ。1953年2月には本社を大田区から東京都品川区へ移転。1954年7月には東京都大田区に下丸子工場を新設し、湯河原工場に次ぐ2つ目の生産拠点とした。本社の移転と工場の新設は、軍需関連の受注が増えた時期に続けて実施された。下丸子工場は1991年5月に一関工場へ移るまで稼働した。軍需向けの注文が増えて湯河原工場だけでは応じきれなくなり、本社に近い大田区に工場を足したのだろう。
- 証券アナリストジャーナル 11巻2号 1973年2月号(酒井秀樹)
- [19]昭和27〜28年頃から米軍・防衛庁関連の事業が増え、本格的にコネクタに取り組んだ(1973年の社長講演)
- [20]昭和27〜28年頃から米軍・防衛庁関連の事業が増え、本格的にコネクタに取り組んだ(1973年の社長講演)
- ヒロセ電機 有価証券報告書(2021年6月提出)【沿革】
- [21]1953年2月に本社を東京都品川区へ移転し、1954年7月に東京都大田区に下丸子工場を新設した。下丸子工場は1991年5月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [22]1953年2月に本社を東京都品川区へ移転し、1954年7月に東京都大田区に下丸子工場を新設した。下丸子工場は1991年5月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [23]1953年2月に本社を東京都品川区へ移転し、1954年7月に東京都大田区に下丸子工場を新設した。下丸子工場は1991年5月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [24]1953年2月に本社を東京都品川区へ移転し、1954年7月に東京都大田区に下丸子工場を新設した。下丸子工場は1991年5月の一関工場への移転に伴い閉鎖
1959年ごろ、広瀬商会製作所は米軍と防衛庁向けの仕事を通じてコネクタの技術を固めた。社長の酒井秀樹氏は1973年の講演で、この時期を『34年頃にはコネクタエンジニアリングを確立するとともに、試験装置や品質管理のシステムを徹底化した』と説明した。そのうえで、世界水準のコネクタ技術をここで身につけたと振り返った。この蓄積を土台に自主技術の開発へ進み、1963年に開発したミニコン1300シリーズは1965年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された。1963年8月には社名をヒロセ電機株式会社に変更。軍用の厳しい検査に応えた経験が、民需向けの自社製品を量産するときの品質の基盤になったと考えられる。
- 証券アナリストジャーナル 11巻2号 1973年2月号(酒井秀樹)
- [25]昭和34年頃にコネクタエンジニアリングを確立し、試験装置と品質管理のシステムを徹底し、世界水準のコネクタ技術を修得した。38年開発のミニコン1300シリーズが40年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された(1973年の社長講演)
- [26]昭和34年頃にコネクタエンジニアリングを確立し、試験装置と品質管理のシステムを徹底し、世界水準のコネクタ技術を修得した。38年開発のミニコン1300シリーズが40年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された(1973年の社長講演)
- [27]昭和34年頃にコネクタエンジニアリングを確立し、試験装置と品質管理のシステムを徹底し、世界水準のコネクタ技術を修得した。38年開発のミニコン1300シリーズが40年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された(1973年の社長講演)
- [28]昭和34年頃にコネクタエンジニアリングを確立し、試験装置と品質管理のシステムを徹底し、世界水準のコネクタ技術を修得した。38年開発のミニコン1300シリーズが40年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された(1973年の社長講演)
- ヒロセ電機 有価証券報告書(2021年6月提出)【沿革】
- [29]1963年8月、社名をヒロセ電機株式会社に改称した
参考文献[13]-[29]
- ヒロセ電機 有価証券報告書(2021年6月提出)【沿革】
- [13]1948年6月に株式会社組織へ改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とし、本社を東京都大田区に置いた。同年10月、湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始。1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改称
- [14]1948年6月に株式会社組織へ改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とし、本社を東京都大田区に置いた。同年10月、湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始。1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改称
- [16]1948年6月に株式会社組織へ改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とし、本社を東京都大田区に置いた。同年10月、湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始。1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改称
- [17]1948年6月に株式会社組織へ改め、社名を株式会社広瀬商会製作所とし、本社を東京都大田区に置いた。同年10月、湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始。1963年8月にヒロセ電機株式会社へ改称
- [21]1953年2月に本社を東京都品川区へ移転し、1954年7月に東京都大田区に下丸子工場を新設した。下丸子工場は1991年5月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [22]1953年2月に本社を東京都品川区へ移転し、1954年7月に東京都大田区に下丸子工場を新設した。下丸子工場は1991年5月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [23]1953年2月に本社を東京都品川区へ移転し、1954年7月に東京都大田区に下丸子工場を新設した。下丸子工場は1991年5月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [24]1953年2月に本社を東京都品川区へ移転し、1954年7月に東京都大田区に下丸子工場を新設した。下丸子工場は1991年5月の一関工場への移転に伴い閉鎖
- [29]1963年8月、社名をヒロセ電機株式会社に改称した
- 証券アナリストジャーナル 11巻2号 1973年2月号(酒井秀樹)
- [15]昭和23年6月、広瀬商会を資本金50万円の広瀬商会製作所に改組した。以後コネクタに取り組んだ(1973年の社長講演)
- [18]昭和23年6月、広瀬商会を資本金50万円の広瀬商会製作所に改組した。以後コネクタに取り組んだ(1973年の社長講演)
- [19]昭和27〜28年頃から米軍・防衛庁関連の事業が増え、本格的にコネクタに取り組んだ(1973年の社長講演)
- [20]昭和27〜28年頃から米軍・防衛庁関連の事業が増え、本格的にコネクタに取り組んだ(1973年の社長講演)
- [25]昭和34年頃にコネクタエンジニアリングを確立し、試験装置と品質管理のシステムを徹底し、世界水準のコネクタ技術を修得した。38年開発のミニコン1300シリーズが40年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された(1973年の社長講演)
- [26]昭和34年頃にコネクタエンジニアリングを確立し、試験装置と品質管理のシステムを徹底し、世界水準のコネクタ技術を修得した。38年開発のミニコン1300シリーズが40年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された(1973年の社長講演)
- [27]昭和34年頃にコネクタエンジニアリングを確立し、試験装置と品質管理のシステムを徹底し、世界水準のコネクタ技術を修得した。38年開発のミニコン1300シリーズが40年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された(1973年の社長講演)
- [28]昭和34年頃にコネクタエンジニアリングを確立し、試験装置と品質管理のシステムを徹底し、世界水準のコネクタ技術を修得した。38年開発のミニコン1300シリーズが40年に電電公社のボタン電話用コネクタに採用された(1973年の社長講演)
出典・参考
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- ヒロセ電機 有価証券報告書(2021年6月提出)【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 11巻2号 1973年2月号(酒井秀樹)