アルプスアルパイン:片岡電気の設立とバリコン・VHFチューナー
片岡電気の創業から商標アルプスへの社名転換
1948年〜上海での部品調達から始まった同族会社の設立
片岡勝太郎氏は、電子部品のほかに何も知らない技術者として戦地から戻った人物である。1937年に旧制神戸高等工業学校の機械科を出て東京電気へ入り、入社式の直後に無線部へ配属された。翌1938年に召集され、中支で無線小隊長として3年3か月を過ごしている。CTSやハリクラフターなど米国の部品会社の名を覚えたのは、日本製の電子部品がほとんど見当たらない上海でのことだった。1941年の初めから無線器材の補給が途切れがちになり、そこで部品を集めて無線機を自分たちで組み上げていた。優れた部品を作れば世界じゅうで売れ、その商標は世界の人々に通じるものであるべきだという考えが生まれ『良い部品を造れば世界中に売れる、しかもそのブランドは世界の人に理解出来るものでなければならないと考えたことから今のアルプスの商標が生まれた』、創立と同時に採った「アルプス」の商標はそこから来ている。
- 通信工業 1974年 随想「わが職業記」片岡勝太郎
- [1]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [2]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [3]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [4]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [5]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [6]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [7]商標「アルプス」は創立と同時に採用され、世界市場での通用を条件に決められた。意匠は米フォード社の社章を参考にした
片岡電気の設立は1948年11月1日、資本金50万円の片岡一族の同族会社だった。発足時の陣容は重役以下23名で、ロータリースイッチとバリコンの製造販売から事業を起こしている。創業者社長には勝太郎氏の兄にあたる片岡信直氏が就き、勝太郎氏は専務として兄を助けた。設立までの1年あまり、勝太郎氏はスイッチや電圧昇圧器を作って神田の現金問屋へ売り、駅前で問屋の真似事もしている。東芝の温室で育った技術者に部品商売の作法を教えたのは、このとき出会った問屋のセールスマンや部品メーカーの経営者たちだった。戦後に生まれた日本の電子部品メーカーの多くは同族会社であり、片岡電気もその型を外れてはいない。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [8]片岡電気は1948年11月1日に資本金50万円の片岡一族の同族会社として発足し、重役以下23名でロータリースイッチとバリコンの製造販売を開始した
- [9]片岡電気は1948年11月1日に資本金50万円の片岡一族の同族会社として発足し、重役以下23名でロータリースイッチとバリコンの製造販売を開始した
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [10]創業者社長は勝太郎の兄・片岡信直で、勝太郎は当初専務。戦後生まれの日本の電子部品メーカーの多くは同族会社であった
- [13]創業者社長は勝太郎の兄・片岡信直で、勝太郎は当初専務。戦後生まれの日本の電子部品メーカーの多くは同族会社であった
- 通信工業 1974年 随想「わが職業記」片岡勝太郎
- [11]片岡勝太郎は1948年の片岡電気創立までスイッチや電圧昇圧器を作って神田の現金問屋へ売り、1年余り神田駅前で現金問屋の真似事もした
- [12]片岡勝太郎は1948年の片岡電気創立までスイッチや電圧昇圧器を作って神田の現金問屋へ売り、1年余り神田駅前で現金問屋の真似事もした
部品メーカーが受ける注文の量は、景気や完成品の売れ行きだけでは決まらず、発注する側との力の差という経済の外の事情にも左右される。大阪出張所を1949年に開くなど売り先を広げようとしたが、1950年1月になってもラジオの生産は月2万台で低迷し、苦しい経営が続いた。潮目を変えたのは同年6月に起きた朝鮮戦争である。片岡勝太郎氏が打ち出した3割の増産が当たり、経営はここで上向いた。1952年には従業員が100名台に乗り、売上高も1億200万円と1億円台に届いた。増産の決定は、需要を読み切った判断というより、発注元が動く前に手を挙げる賭けに近かった。
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [14]片岡電気の売上高は1952年に1億200万円と1億円台に乗せた。電子部品はセットメーカーとの力関係という経済外要因で発注量が調節される
- [18]片岡電気の売上高は1952年に1億200万円と1億円台に乗せた。電子部品はセットメーカーとの力関係という経済外要因で発注量が調節される
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [15]1949年に大阪出張所を開設したが1950年1月のラジオ生産量は2万台を低迷し、1950年6月の朝鮮戦争を機に片岡勝太郎が3割増産を打ち出して成功、従業員が100名台を突破したのは1952年
- [16]1949年に大阪出張所を開設したが1950年1月のラジオ生産量は2万台を低迷し、1950年6月の朝鮮戦争を機に片岡勝太郎が3割増産を打ち出して成功、従業員が100名台を突破したのは1952年
- [17]1949年に大阪出張所を開設したが1950年1月のラジオ生産量は2万台を低迷し、1950年6月の朝鮮戦争を機に片岡勝太郎が3割増産を打ち出して成功、従業員が100名台を突破したのは1952年
参考文献[1]-[18]
- 通信工業 1974年 随想「わが職業記」片岡勝太郎
- [1]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [2]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [3]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [4]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [5]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [6]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校機械科を卒業して東京電気に入社し無線部へ配属、1938年召集で中支へ派遣、1941年初めから上海で部品を現地調達して無線機を自作した
- [11]片岡勝太郎は1948年の片岡電気創立までスイッチや電圧昇圧器を作って神田の現金問屋へ売り、1年余り神田駅前で現金問屋の真似事もした
- [12]片岡勝太郎は1948年の片岡電気創立までスイッチや電圧昇圧器を作って神田の現金問屋へ売り、1年余り神田駅前で現金問屋の真似事もした
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [7]商標「アルプス」は創立と同時に採用され、世界市場での通用を条件に決められた。意匠は米フォード社の社章を参考にした
- [8]片岡電気は1948年11月1日に資本金50万円の片岡一族の同族会社として発足し、重役以下23名でロータリースイッチとバリコンの製造販売を開始した
- [9]片岡電気は1948年11月1日に資本金50万円の片岡一族の同族会社として発足し、重役以下23名でロータリースイッチとバリコンの製造販売を開始した
- [15]1949年に大阪出張所を開設したが1950年1月のラジオ生産量は2万台を低迷し、1950年6月の朝鮮戦争を機に片岡勝太郎が3割増産を打ち出して成功、従業員が100名台を突破したのは1952年
- [16]1949年に大阪出張所を開設したが1950年1月のラジオ生産量は2万台を低迷し、1950年6月の朝鮮戦争を機に片岡勝太郎が3割増産を打ち出して成功、従業員が100名台を突破したのは1952年
- [17]1949年に大阪出張所を開設したが1950年1月のラジオ生産量は2万台を低迷し、1950年6月の朝鮮戦争を機に片岡勝太郎が3割増産を打ち出して成功、従業員が100名台を突破したのは1952年
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [10]創業者社長は勝太郎の兄・片岡信直で、勝太郎は当初専務。戦後生まれの日本の電子部品メーカーの多くは同族会社であった
- [13]創業者社長は勝太郎の兄・片岡信直で、勝太郎は当初専務。戦後生まれの日本の電子部品メーカーの多くは同族会社であった
- [14]片岡電気の売上高は1952年に1億200万円と1億円台に乗せた。電子部品はセットメーカーとの力関係という経済外要因で発注量が調節される
- [18]片岡電気の売上高は1952年に1億200万円と1億円台に乗せた。電子部品はセットメーカーとの力関係という経済外要因で発注量が調節される
1954年〜テレビ放送の開始に合わせて出そろった四つの主力部門
1953年にテレビ放送が始まると、片岡電気は翌1954年、業界に先んじてテレビ用チューナーの生産へ入った。テレビ時代の幕開けに対応した進出だったと、後年の記事も同じ位置づけで記している。スイッチは創業時のロータリーに、1953年のスライド、1956年のボタンを重ねた。チューナーも1954年のスイッチ式から1956年のターレットへ移った。さらに1960年にFM、1961年にUHFコンバーター、1962年にUHFチューナーを加えている。受信機の心臓部は放送方式が変わるたびに置き換わり、置き換わるたびに発注の先も入れ替わる。先に作って待つか、決まってから追うか——片岡電気は前者を採り続けた。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [19]片岡電気は1954年にテレビチューナーの生産を開始し、スイッチはロータリー・スライド(1953年)・ボタン(1956年)、チューナーはスイッチ式(1954年)・ターレット(1956年)・FM(1960年)・UHFコンバーター(1961年)・UHFチューナー(1962年)と品種を加えた
- [21]片岡電気は1954年にテレビチューナーの生産を開始し、スイッチはロータリー・スライド(1953年)・ボタン(1956年)、チューナーはスイッチ式(1954年)・ターレット(1956年)・FM(1960年)・UHFコンバーター(1961年)・UHFチューナー(1962年)と品種を加えた
- [22]片岡電気は1954年にテレビチューナーの生産を開始し、スイッチはロータリー・スライド(1953年)・ボタン(1956年)、チューナーはスイッチ式(1954年)・ターレット(1956年)・FM(1960年)・UHFコンバーター(1961年)・UHFチューナー(1962年)と品種を加えた
- [23]片岡電気は1954年にテレビチューナーの生産を開始し、スイッチはロータリー・スライド(1953年)・ボタン(1956年)、チューナーはスイッチ式(1954年)・ターレット(1956年)・FM(1960年)・UHFコンバーター(1961年)・UHFチューナー(1962年)と品種を加えた
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [20]1954年のチューナー進出はテレビ時代の幕開けに対応したものであった。電子部品はセットメーカーの製品の好不調によって発注が動く
- [24]1954年のチューナー進出はテレビ時代の幕開けに対応したものであった。電子部品はセットメーカーの製品の好不調によって発注が動く
1957年から研究を進めたボリュームは、1958年に生産へ移った。ここでスイッチ、バリコン、チューナー、ボリュームという四つの部門が顔をそろえ、以後の急速な発展を押し出す主力として引き継がれていく。製品の9割以上は民生用の部品であり、1960年以降の所得倍増政策のもとでテレビや冷蔵庫が家庭へ入るほど、部品の需要も増えた。売上高は1952年の1億200万円から1959年の16億2400万円、1965年の59億9300万円へ伸びている。総合という言い方は、後から取りそろえた品揃えを指すのではなく、放送と家電の普及に合わせて1品種ずつ足していった結果を指していた。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [25]1957年から研究開発を進めたボリュームを1958年に生産開始し、スイッチ・バリコン・チューナー・ボリュームの四部門がこの頃に出そろった
- [26]1957年から研究開発を進めたボリュームを1958年に生産開始し、スイッチ・バリコン・チューナー・ボリュームの四部門がこの頃に出そろった
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [27]製品の9割以上が民生用部品。売上高は1952年1億200万円、1959年16億2400万円、1965年59億9300万円
- [28]製品の9割以上が民生用部品。売上高は1952年1億200万円、1959年16億2400万円、1965年59億9300万円
品質の裏づけも同じ時期に取っており、ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格の認定を受けた。認定の水準は当時の最高だった。1961年には米ゼネラル・エレクトリックからバリコン25万個の大量注文を受け、輸出が本格的に始まる。1963年には米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を結び、技術革新への対応を外からも取り込んだ。売上高は1962年3月期の25億2000万円から1963年3月期に27億4000万円となった。輸出の加わった1964年3月期は38億3000万円、当期純利益は2億9000万円である。部品は買い手が試験で選ぶ商品であり、規格の認定は営業活動より先に効く。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [29]ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格を取得。1961年に米GEからバリコン25万個の大量注文を受け、1963年に米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を締結した
- [30]ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格を取得。1961年に米GEからバリコン25万個の大量注文を受け、1963年に米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を締結した
- [31]ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格を取得。1961年に米GEからバリコン25万個の大量注文を受け、1963年に米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を締結した
- [32]ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格を取得。1961年に米GEからバリコン25万個の大量注文を受け、1963年に米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を締結した
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [33]売上高は1962年3月期25.2億円、1963年3月期27.4億円、1964年3月期38.3億円、当期純利益は1964年3月期2.9億円(単体・日本基準)
- [34]売上高は1962年3月期25.2億円、1963年3月期27.4億円、1964年3月期38.3億円、当期純利益は1964年3月期2.9億円(単体・日本基準)
参考文献[19]-[34]
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [19]片岡電気は1954年にテレビチューナーの生産を開始し、スイッチはロータリー・スライド(1953年)・ボタン(1956年)、チューナーはスイッチ式(1954年)・ターレット(1956年)・FM(1960年)・UHFコンバーター(1961年)・UHFチューナー(1962年)と品種を加えた
- [21]片岡電気は1954年にテレビチューナーの生産を開始し、スイッチはロータリー・スライド(1953年)・ボタン(1956年)、チューナーはスイッチ式(1954年)・ターレット(1956年)・FM(1960年)・UHFコンバーター(1961年)・UHFチューナー(1962年)と品種を加えた
- [22]片岡電気は1954年にテレビチューナーの生産を開始し、スイッチはロータリー・スライド(1953年)・ボタン(1956年)、チューナーはスイッチ式(1954年)・ターレット(1956年)・FM(1960年)・UHFコンバーター(1961年)・UHFチューナー(1962年)と品種を加えた
- [23]片岡電気は1954年にテレビチューナーの生産を開始し、スイッチはロータリー・スライド(1953年)・ボタン(1956年)、チューナーはスイッチ式(1954年)・ターレット(1956年)・FM(1960年)・UHFコンバーター(1961年)・UHFチューナー(1962年)と品種を加えた
- [25]1957年から研究開発を進めたボリュームを1958年に生産開始し、スイッチ・バリコン・チューナー・ボリュームの四部門がこの頃に出そろった
- [26]1957年から研究開発を進めたボリュームを1958年に生産開始し、スイッチ・バリコン・チューナー・ボリュームの四部門がこの頃に出そろった
- [29]ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格を取得。1961年に米GEからバリコン25万個の大量注文を受け、1963年に米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を締結した
- [30]ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格を取得。1961年に米GEからバリコン25万個の大量注文を受け、1963年に米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を締結した
- [31]ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格を取得。1961年に米GEからバリコン25万個の大量注文を受け、1963年に米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を締結した
- [32]ロータリースイッチは1958年に防衛庁規格、1959年にアメリカ軍用規格を取得。1961年に米GEからバリコン25万個の大量注文を受け、1963年に米GIC社とUHFチューナーの技術援助契約を締結した
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [20]1954年のチューナー進出はテレビ時代の幕開けに対応したものであった。電子部品はセットメーカーの製品の好不調によって発注が動く
- [24]1954年のチューナー進出はテレビ時代の幕開けに対応したものであった。電子部品はセットメーカーの製品の好不調によって発注が動く
- [27]製品の9割以上が民生用部品。売上高は1952年1億200万円、1959年16億2400万円、1965年59億9300万円
- [28]製品の9割以上が民生用部品。売上高は1952年1億200万円、1959年16億2400万円、1965年59億9300万円
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [33]売上高は1962年3月期25.2億円、1963年3月期27.4億円、1964年3月期38.3億円、当期純利益は1964年3月期2.9億円(単体・日本基準)
- [34]売上高は1962年3月期25.2億円、1963年3月期27.4億円、1964年3月期38.3億円、当期純利益は1964年3月期2.9億円(単体・日本基準)
1961年〜上場と東北進出を経て商標を社名に据えるまで
1961年10月、片岡電気は東京証券取引所第二部へ上場した。売上高は1961年3月期の10億8000万円から、1964年3月期の38億3000万円へ膨らんだ。この間に資本金は2億4000万円となり、東京工場の大幅な拡張に加え、1960年に第一期工事を済ませた横浜工場でも第二期工事が始まった。設備の増強は需要の見通しが立ったからではなく、需要に置いていかれないための手当てだった。とはいえ手元資金にゆとりはなく、建屋を造るかたわら時価発行増資で資金を工面し、長期の資金は北海道東北開発公庫や生命保険会社に頼ってしのいだ。メーンバンクの三井銀行にも貸せる資金がない時代だったと、片岡勝太郎氏は後年振り返っている。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [35]1961年に資本金2億4000万円へ達して東証第二市場に上場。東京工場を拡張し、1960年に第一期工事を終えた横浜工場は第二期工事に着工した
- [37]1961年に資本金2億4000万円へ達して東証第二市場に上場。東京工場を拡張し、1960年に第一期工事を終えた横浜工場は第二期工事に着工した
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [36]売上高は1961年3月期10.8億円、1964年3月期38.3億円(単体・日本基準)
- 日経ビジネス 1989年5月15日号増刊号
- [38]設備増強期は工場の建屋を建てながら時価発行増資を行い、北海道東北開発公庫や生命保険会社から長期資金を借りた。メーンバンクの三井銀行にも資金が無い時代だった
- [39]設備増強期は工場の建屋を建てながら時価発行増資を行い、北海道東北開発公庫や生命保険会社から長期資金を借りた。メーンバンクの三井銀行にも資金が無い時代だった
- [40]設備増強期は工場の建屋を建てながら時価発行増資を行い、北海道東北開発公庫や生命保険会社から長期資金を借りた。メーンバンクの三井銀行にも資金が無い時代だった
東北アルプスは全額出資の子会社で、実態は本体の生産部門にあたり、1964年8月に宮城県古川で設立された同社が、地方に工場を置いた最初の例となった。裏付けとなる長期計画はなく、テレビの普及率が世帯数3000万に対してなお6割どまりという大づかみな読みと、輸出でも採算に乗るという感触が決断を後押しした。資金は集められる限り集めたが、建屋が半分できた時点で操業に入るのがやっとだった。人手は東北ですべてまかない、労働効率は都市部の工場に劣らなかった。工場を建てた年、駐車場には自転車が2000台並んだ。それが10年後には自家用車へ置き換わっていたと、片岡勝太郎氏は驚きとともに書き残している。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [41]1964年に東北アルプスを設立し、宮城県古川へ初の地方工場を進出させた。東北アルプスは100%出資の子会社で実質的に本体の生産部門であった
- [42]1964年に東北アルプスを設立し、宮城県古川へ初の地方工場を進出させた。東北アルプスは100%出資の子会社で実質的に本体の生産部門であった
- 日経ビジネス 1989年5月15日号増刊号
- [43]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- [44]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- [45]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- [47]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- [48]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻2号 片岡勝太郎
- [46]設備投資にともなう労務の確保は東北地方ですべてまかない、労働効率はまったく劣らなかった
「アルプス」の商標は創立の時から使われており、そこには国内にとどまらず世界で通じる名になるという希望と目標が託されていた。図柄は米フォード社の社章を手本にしている。1964年12月1日、片岡電気は商号をアルプス電気に改め、同じ月に片岡勝太郎氏が社長の座に就いた。1937年に入社してから27年、うち16年は専務として兄を支えてきた末の就任である。この年に設けた東北アルプスにも商標がそのまま付けられ、その後の子会社は地名と商標を組み合わせた名で並ぶことになる。1964年3月期は売上高38億3000万円、当期純利益2億9000万円だった。資本金50万円・23名で出発した会社の、16年目の姿である。創業者一族の姓を掲げた社名を捨て、輸出先で通じる商標を会社の名に据えたところで、草創期は終わった。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [49]1964年12月1日に社名を片岡電気からアルプス電気へ変更した。商標「アルプス」は創立と同時に採用され、「日本のアルプスより世界のアルプスへ」との目標が込められ、意匠は米フォード社の社章を参考にした。同年に東北アルプスを設立した
- [50]1964年12月1日に社名を片岡電気からアルプス電気へ変更した。商標「アルプス」は創立と同時に採用され、「日本のアルプスより世界のアルプスへ」との目標が込められ、意匠は米フォード社の社章を参考にした。同年に東北アルプスを設立した
- [51]1964年12月1日に社名を片岡電気からアルプス電気へ変更した。商標「アルプス」は創立と同時に採用され、「日本のアルプスより世界のアルプスへ」との目標が込められ、意匠は米フォード社の社章を参考にした。同年に東北アルプスを設立した
- [54]1964年12月1日に社名を片岡電気からアルプス電気へ変更した。商標「アルプス」は創立と同時に採用され、「日本のアルプスより世界のアルプスへ」との目標が込められ、意匠は米フォード社の社章を参考にした。同年に東北アルプスを設立した
- 日経ビジネス 1987年6月22日号 編集長インタビュー
- [52]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校を卒業、1948年に片岡電気を設立して専務、1964年に社長へ就任し社名をアルプス電気へ改称した
- [53]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校を卒業、1948年に片岡電気を設立して専務、1964年に社長へ就任し社名をアルプス電気へ改称した
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [55]売上高は1964年3月期38.3億円、当期純利益2.9億円(単体・日本基準)
- [56]売上高は1964年3月期38.3億円、当期純利益2.9億円(単体・日本基準)
参考文献[35]-[56]
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [35]1961年に資本金2億4000万円へ達して東証第二市場に上場。東京工場を拡張し、1960年に第一期工事を終えた横浜工場は第二期工事に着工した
- [37]1961年に資本金2億4000万円へ達して東証第二市場に上場。東京工場を拡張し、1960年に第一期工事を終えた横浜工場は第二期工事に着工した
- [41]1964年に東北アルプスを設立し、宮城県古川へ初の地方工場を進出させた。東北アルプスは100%出資の子会社で実質的に本体の生産部門であった
- [42]1964年に東北アルプスを設立し、宮城県古川へ初の地方工場を進出させた。東北アルプスは100%出資の子会社で実質的に本体の生産部門であった
- [49]1964年12月1日に社名を片岡電気からアルプス電気へ変更した。商標「アルプス」は創立と同時に採用され、「日本のアルプスより世界のアルプスへ」との目標が込められ、意匠は米フォード社の社章を参考にした。同年に東北アルプスを設立した
- [50]1964年12月1日に社名を片岡電気からアルプス電気へ変更した。商標「アルプス」は創立と同時に採用され、「日本のアルプスより世界のアルプスへ」との目標が込められ、意匠は米フォード社の社章を参考にした。同年に東北アルプスを設立した
- [51]1964年12月1日に社名を片岡電気からアルプス電気へ変更した。商標「アルプス」は創立と同時に採用され、「日本のアルプスより世界のアルプスへ」との目標が込められ、意匠は米フォード社の社章を参考にした。同年に東北アルプスを設立した
- [54]1964年12月1日に社名を片岡電気からアルプス電気へ変更した。商標「アルプス」は創立と同時に採用され、「日本のアルプスより世界のアルプスへ」との目標が込められ、意匠は米フォード社の社章を参考にした。同年に東北アルプスを設立した
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [36]売上高は1961年3月期10.8億円、1964年3月期38.3億円(単体・日本基準)
- [55]売上高は1964年3月期38.3億円、当期純利益2.9億円(単体・日本基準)
- [56]売上高は1964年3月期38.3億円、当期純利益2.9億円(単体・日本基準)
- 日経ビジネス 1989年5月15日号増刊号
- [38]設備増強期は工場の建屋を建てながら時価発行増資を行い、北海道東北開発公庫や生命保険会社から長期資金を借りた。メーンバンクの三井銀行にも資金が無い時代だった
- [39]設備増強期は工場の建屋を建てながら時価発行増資を行い、北海道東北開発公庫や生命保険会社から長期資金を借りた。メーンバンクの三井銀行にも資金が無い時代だった
- [40]設備増強期は工場の建屋を建てながら時価発行増資を行い、北海道東北開発公庫や生命保険会社から長期資金を借りた。メーンバンクの三井銀行にも資金が無い時代だった
- [43]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- [44]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- [45]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- [47]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- [48]1964年の古川進出では資金をかき集めて建てた工場が半分建ち上がった段階で稼働を始めた。世帯数3000万・テレビ普及率6割という粗い見通しと輸出の感触で進めた。進出時に駐車場へ並んだ自転車2000台は10年後に大半が自家用車へ変わった
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻2号 片岡勝太郎
- [46]設備投資にともなう労務の確保は東北地方ですべてまかない、労働効率はまったく劣らなかった
- 日経ビジネス 1987年6月22日号 編集長インタビュー
- [52]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校を卒業、1948年に片岡電気を設立して専務、1964年に社長へ就任し社名をアルプス電気へ改称した
- [53]片岡勝太郎は1937年に神戸高等工業学校を卒業、1948年に片岡電気を設立して専務、1964年に社長へ就任し社名をアルプス電気へ改称した
筆者考察
片岡電気が選んだのは、完成品ではなく完成品の内側だった。片岡勝太郎は東京電気無線の技術者として無線機の匡体を手がけ、戦地では補給の切れた部品を上海で調達して無線機を組み立てている。そこで分かったのは、部品さえあれば機械は成り立ち、部品が無ければ何一つ成り立たないという順序である。1948年の創業でロータリースイッチとバリコンを選んだのは、ラジオという当時ほぼ唯一の量産機器の内側で、必ず数の要る品目だったからだ。完成品へ出れば売り先を自分で作らねばならないが、部品なら売り先が先に立っている。資本金50万円・23名で出発した会社が採れる位置は、そこしかなかった。
もっとも部品専業には代償がある。何を作るかは発注元の製品が決め、いつ作るかは発注元の在庫が決める。片岡電気が1954年にテレビ用チューナー、1958年にボリュームと品目を足し続けたのは、品揃えを誇るためではない。放送方式と家電の世代が変わるたびに主力が入れ替わる市場で、次の一つを外さないためだった。1958年の防衛庁規格、1959年の米軍用規格、1961年の米GEからのバリコン25万個は、その一つ一つが買い手の試験を通った証にあたる。1964年に同族の姓を外して商標アルプスを社名へ据えたのは、売り先が国内の数社から世界の完成品メーカーへ広がることを見越した改名だった。
1948年〜1964年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 10 | n/a | 1 | 10.2% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 25 | +133.3% | 2 | 10.3% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 27 | +8.7% | 2 | 7.7% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 38 | +39.8% | 2 | 7.6% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
7件
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- 会社年鑑(長期業績系列)
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻2号 片岡勝太郎
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- 日経ビジネス 1987年6月22日号 編集長インタビュー
- 日経ビジネス 1989年5月15日号増刊号
- 通信工業 1974年 随想「わが職業記」片岡勝太郎