アルプスアルパイン:1974年の大量希望退職と売上高3,551億円への拡大
2,400人の希望退職を経たアルパインの分離独立
1967年〜モトローラとの合弁と一工場一品種の専門工場群
1967年、アルプス電気の資本金は10億円に達し、同年8月に東京証券取引所第一部へ指定替えとなった。同じ年の5月、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立している。狙いは自動車用電子装置の技術導入で、テープデッキとカーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬に建てた工場では、カーステレオのデッキを月産3万台の規模で生産する計画が立てられた。技術は無償ではなく、当時のアルプス電気は合弁相手へ6%のロイヤルティーを甘受させられている。日本電気でさえ米フェアチャイルドへ12%を払っていた時期であり、部品の側から車載へ入るには対価が要った。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [1]1967年に資本金10億円へ達し東証第一市場へランク替え。同年、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立し、自動車用電子装置の技術を導入してテープデッキ・カーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬工場でカーステレオのデッキを月産3万台の規模で本格生産する計画だった
- [3]1967年に資本金10億円へ達し東証第一市場へランク替え。同年、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立し、自動車用電子装置の技術を導入してテープデッキ・カーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬工場でカーステレオのデッキを月産3万台の規模で本格生産する計画だった
- [5]1967年に資本金10億円へ達し東証第一市場へランク替え。同年、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立し、自動車用電子装置の技術を導入してテープデッキ・カーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬工場でカーステレオのデッキを月産3万台の規模で本格生産する計画だった
- [6]1967年に資本金10億円へ達し東証第一市場へランク替え。同年、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立し、自動車用電子装置の技術を導入してテープデッキ・カーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬工場でカーステレオのデッキを月産3万台の規模で本格生産する計画だった
- アルプスアルパイン 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
- [2]1967年5月に東京都大田区でアメリカのモトローラ社との合弁によりアルプス・モートローラ株式会社を設立、1967年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定
- [4]1967年5月に東京都大田区でアメリカのモトローラ社との合弁によりアルプス・モートローラ株式会社を設立、1967年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定
- 日経ビジネス 1989年5月15日号増刊号
- [7]15年ほど前まで日本電気でさえ米フェアチャイルド社へ12%のロイヤルティーを払っており、アルプス電気も米モトローラ社との合弁で6%のロイヤルティーを甘受させられた
- [8]15年ほど前まで日本電気でさえ米フェアチャイルド社へ12%のロイヤルティーを払っており、アルプス電気も米モトローラ社との合弁で6%のロイヤルティーを甘受させられた
生産の側では、一工場一品種という割り方が敷かれた。東北アルプスは古川がバリコンと機械加工、涌谷がボリューム、高清水がバリコンを受け持った。1967年11月に設立した仙南アルプスは、角田と丸森の二つの工場でチューナーを担っている。同じ月、横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、付属して移った八海電子を新潟アルプスとして再発足させた。東北アルプスと仙南アルプスはいずれも全額出資の子会社であり、実質は本体の生産部門にあたる。専門工場に割ったのは徹底した合理化のためで、品種を混ぜないことが原価の引き下げに直結した。1967年12月には宮城県角田市に角田工場が開き、1969年11月には福島県いわき市へ事業所を置いている。
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [9]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [10]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [11]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [13]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [14]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [15]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- アルプスアルパイン 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
- [12]1967年12月に宮城県角田市へ角田工場を開設し、1969年11月に福島県いわき市へいわき事業所を開設した
- [16]1967年12月に宮城県角田市へ角田工場を開設し、1969年11月に福島県いわき市へいわき事業所を開設した
1968年、カラーテレビの生産が年初予想を大きく超えて年間274万台に達し、電子部品業界は活況を呈した。アルプス電気の売上は1年で70%増え、1969年末までに月産16億円を28億円へ引き上げる計画が立てられた。設備投資は1968年度が発注ベースで23億円、1969年度は確定分だけで12億から13億円にのぼる。従業員7,400名は年内に1万名へ増える見込みだった。ただし片岡勝太郎氏は、1970年に予想される半期売上150億円の先に主力製品の転換期が来ると述べ、『売上の伸びをいたずらに喜ぶだけでは企業の将来はない』と釘を刺している。実際の1970年3月期の売上高は285億円に達し、当期純利益も16億6000万円へ伸びた。増産に追いつくだけの設備を持てるかどうかが、この時期の制約だった。
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻2号 片岡勝太郎
- [17]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- [18]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- [19]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- [20]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- [21]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [22]売上高は1970年3月期285億円、当期純利益16.6億円(単体・日本基準)
参考文献[1]-[22]
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- [1]1967年に資本金10億円へ達し東証第一市場へランク替え。同年、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立し、自動車用電子装置の技術を導入してテープデッキ・カーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬工場でカーステレオのデッキを月産3万台の規模で本格生産する計画だった
- [3]1967年に資本金10億円へ達し東証第一市場へランク替え。同年、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立し、自動車用電子装置の技術を導入してテープデッキ・カーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬工場でカーステレオのデッキを月産3万台の規模で本格生産する計画だった
- [5]1967年に資本金10億円へ達し東証第一市場へランク替え。同年、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立し、自動車用電子装置の技術を導入してテープデッキ・カーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬工場でカーステレオのデッキを月産3万台の規模で本格生産する計画だった
- [6]1967年に資本金10億円へ達し東証第一市場へランク替え。同年、米モトローラと60対40の出資比率で合弁会社アルプス・モートローラを設立し、自動車用電子装置の技術を導入してテープデッキ・カーラジオ用チューナーの増産に乗り出した。相馬工場でカーステレオのデッキを月産3万台の規模で本格生産する計画だった
- [9]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [10]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [11]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [13]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [14]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- [15]東北アルプスは古川工場がバリコンと機械加工、涌谷工場がボリューム、高清水工場がバリコンを生産。1967年11月に仙南アルプスを設立し角田工場・丸森工場でチューナーを生産した。いずれも一工場一品種の専門工場で徹底した合理化が進んでいた。1967年11月に横河電機の子会社ハチマン電子から磁気ヘッド部門の委譲を受け、子会社の八海電子を新潟アルプスとして新発足させた。東北・仙南は100%出資の子会社で実質的には生産部門であった
- アルプスアルパイン 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
- [2]1967年5月に東京都大田区でアメリカのモトローラ社との合弁によりアルプス・モートローラ株式会社を設立、1967年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定
- [4]1967年5月に東京都大田区でアメリカのモトローラ社との合弁によりアルプス・モートローラ株式会社を設立、1967年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定
- [12]1967年12月に宮城県角田市へ角田工場を開設し、1969年11月に福島県いわき市へいわき事業所を開設した
- [16]1967年12月に宮城県角田市へ角田工場を開設し、1969年11月に福島県いわき市へいわき事業所を開設した
- 日経ビジネス 1989年5月15日号増刊号
- [7]15年ほど前まで日本電気でさえ米フェアチャイルド社へ12%のロイヤルティーを払っており、アルプス電気も米モトローラ社との合弁で6%のロイヤルティーを甘受させられた
- [8]15年ほど前まで日本電気でさえ米フェアチャイルド社へ12%のロイヤルティーを払っており、アルプス電気も米モトローラ社との合弁で6%のロイヤルティーを甘受させられた
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻2号 片岡勝太郎
- [17]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- [18]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- [19]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- [20]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- [21]1968年のカラーテレビ生産は年間274万台に達し、アルプス電気の売上は1年で70%増加した。1968年12月の月産16億円を1969年末に28億円へ引き上げる計画で、設備投資は1968年度23億円(発注ベース)、1969年度12〜13億円。従業員7,400名は年内に1万名へ達する見込みだった。片岡勝太郎は1970年に予想される半期売上150億円の後に主力製品の転換期が来ると述べた
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [22]売上高は1970年3月期285億円、当期純利益16.6億円(単体・日本基準)
1974年〜石油ショックによる受注半減と2,400人の希望退職
1974年3月期の売上高は527億円、経常利益は42億3100万円で、そこまでの最高を記録した。もっとも同じ時期、片岡勝太郎氏は原材料の側から締め上げられていた。月間の材料費は前年同月比で2億円増え、経常利益の半分が吹き飛ぶ計算になる。材料の供給には数量制限がかかり、2割ほど減りそうな情勢だった。東北アルプスを含めた従業員は1万2000人、年商は500億円に達している。加工が本業であるためエネルギー消費は大きくないが、材料が来なければ増産は止まる。片岡勝太郎氏はこの時期、会社そのものが伸びきっていると語った。1957年に初めて渡米したときから、売上も従業員も20倍から30倍になっていた。3年計画は持っていても3年先は分からず、5年計画は立てられないとも述べている。
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [23]売上高は1974年3月期527億円、経常利益42.31億円(単体・日本基準)
- 日経ビジネス 1974年1月21日号
- [24]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [25]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [26]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [27]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [28]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [29]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [30]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [31]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
受注は1974年の後半から落ち始めた。11月に27億1900万円、12月に30億4400万円、1975年1月は22億7300万円、2月は21億8500万円で底を打つ。最盛期の月48億円ベースからの落差であり、操業率は50から60%まで下がった。原因はカラーテレビの減産で、1975年1月の業界全体の生産台数は36万7000台と前年同月比40.2%減、1971年並みの水準へ逆戻りした。1974年12月、アルプス電気は全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募った。四つの子会社を含めて1万2000人まで膨らんだ陣容を、半分前後に減った仕事に合わせる処理だった。
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [32]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [33]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [34]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [35]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [36]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [37]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
1975年3月期の決算は、売上高が前期比29.9%減、経常段階で4億300万円の欠損となった。希望退職者への特別退職金5億2800万円などを加えた赤字は9億6500万円、当期純損失は7億円に達している。1961年の東証二部上場以来、初めての欠損だった。ところが人員削減を終えた直後の3月から受注は回復し、7月には最盛期の48億円ラインを突破する。片岡勝太郎氏は下請けの外注を増やす方針へ転じたが、混乱期に2割を超える値引きで納入された価格は、そのまま通り値として残った。1976年3月期の売上高は519億円、経常利益21億円まで戻っている。削ったのは人であり、戻らなかったのは値段だった。
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [38]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- [39]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- [41]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- [42]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- [43]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [40]売上高は1975年3月期425億円、経常利益1.16億円、当期純損失7億円。1976年3月期は売上高519億円、経常利益21億円(いずれも単体・日本基準)
- [44]売上高は1975年3月期425億円、経常利益1.16億円、当期純損失7億円。1976年3月期は売上高519億円、経常利益21億円(いずれも単体・日本基準)
参考文献[23]-[44]
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [23]売上高は1974年3月期527億円、経常利益42.31億円(単体・日本基準)
- [40]売上高は1975年3月期425億円、経常利益1.16億円、当期純損失7億円。1976年3月期は売上高519億円、経常利益21億円(いずれも単体・日本基準)
- [44]売上高は1975年3月期425億円、経常利益1.16億円、当期純損失7億円。1976年3月期は売上高519億円、経常利益21億円(いずれも単体・日本基準)
- 日経ビジネス 1974年1月21日号
- [24]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [25]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [26]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [27]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [28]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [29]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [30]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- [31]1974年1月時点で月間の材料費が前年同月比2億円増加し経常利益の半分が吹き飛ぶ計算で、材料供給の数量制限により20%ほど減りそうな情勢だった。年商500億円、従業員は東北アルプスを含め1万2000人。片岡勝太郎は「ウチ自身伸びきっている」とし、1957年の初渡米時から売上・従業員とも20〜30倍になったと語り、3年計画はあるが3年先は分からず5年計画は立てられないと述べた
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- [32]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [33]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [34]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [35]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [36]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [37]受注は1974年11月27億1900万円、12月30億4400万円、1975年1月22億7300万円、2月21億8500万円と減り、最盛期の月48億円ベースから操業率50〜60%まで低下した。1975年1月のカラーテレビ生産は業界全体で36万7000台・前年同月比40.2%減。1974年12月に全従業員の20%にあたる約2,400人の希望退職を募集した。子会社4社を含むグループ従業員は約1万2000人であった
- [38]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- [39]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- [41]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- [42]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
- [43]1975年3月期は売上高が前期比29.9%減、経常利益段階で4億300万円の欠損、希望退職者の特別退職金5億2800万円などを加え9億6500万円の赤字。1961年の東証二部上場以来初の欠損であった。3月から受注が回復し7月に最盛期の48億円ラインを突破、外注を増やす方針を打ち出した。石油ショック後にひどい場合20%を超す値引きが行われ、その値下げ価格が通り値となった
1978年〜モトローラ持分の取得とアルパインの独立、円高下の海外展開
1978年8月、アルプス電気は合弁相手のモトローラからアルプス・モートローラの株式を譲り受け、全額出資の子会社とした。同年11月、社名をアルパインへ改めている。車載機器はここで部品の一部門から独立した会社の事業になった。アルパインは1988年3月に東京証券取引所第二部へ上場し、1991年9月には第一部へ指定替えとなる。親会社が議決権の4割を持つ上場子会社という構えは、このときに生まれている。1978年3月期の売上高は765億円、1980年3月期には1,077億円へ乗せた。合弁でロイヤルティーを払って技術を買った側が、11年後には相手の持ち分を買い取り、さらに10年後には市場から資本を集める側へ回った。
- アルプスアルパイン 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
- [45]1978年8月にアルプス・モートローラ株式会社の株式をアメリカのモトローラ社より譲受して100%子会社とし、同年11月に社名をアルパイン株式会社へ変更した。1988年3月にアルパインが東証市場第二部へ上場、1991年9月に第一部へ指定
- [46]1978年8月にアルプス・モートローラ株式会社の株式をアメリカのモトローラ社より譲受して100%子会社とし、同年11月に社名をアルパイン株式会社へ変更した。1988年3月にアルパインが東証市場第二部へ上場、1991年9月に第一部へ指定
- [47]1978年8月にアルプス・モートローラ株式会社の株式をアメリカのモトローラ社より譲受して100%子会社とし、同年11月に社名をアルパイン株式会社へ変更した。1988年3月にアルパインが東証市場第二部へ上場、1991年9月に第一部へ指定
- [48]1978年8月にアルプス・モートローラ株式会社の株式をアメリカのモトローラ社より譲受して100%子会社とし、同年11月に社名をアルパイン株式会社へ変更した。1988年3月にアルパインが東証市場第二部へ上場、1991年9月に第一部へ指定
- アルプスアルパイン 有価証券報告書 第86期(2019年3月期)【企業結合等関係】
- [49]アルパインはアルプス電気が議決権の41.15%を持つ上場子会社で、車載機器を手がけていた
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [50]売上高は1978年3月期765億円、1980年3月期1,077億円(単体・日本基準)
1980年代後半の円高は、生産の置き場所そのものを問い直させた。1986年度は1ドル180円で予算を組んだところ160円へ進み、下期は150円、1987年度は140円まで動いた。販売価格を上げられない部品業界では、労働力の安い国への生産移管がまず検討される。アルプス電気は1986年9月にシンガポール、1987年2月に韓国へ現地法人を置いた。1988年3月にアイルランド、1989年4月にマレーシア、同年5月に台湾が続く。1987年の時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産の上限を片岡勝太郎氏は30%と見ていた。労働力の安い国で作るものと先進国で作るものを分け、日本に残すべきものは残すという分け方を、グローバルなマトリックスと呼んでいる。
- 日経ビジネス 1987年6月22日号 編集長インタビュー
- [51]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [52]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [53]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [56]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [57]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- アルプスアルパイン 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
- [54]1986年9月シンガポール、1987年2月韓国、1988年3月アイルランド、1989年4月マレーシア、1989年5月台湾に現地法人を設立した
- [55]1986年9月シンガポール、1987年2月韓国、1988年3月アイルランド、1989年4月マレーシア、1989年5月台湾に現地法人を設立した
海外展開の順番を決めたのは、自社の計画だけではなかった。1989年に10億円を投じて設立したアルプス・エレクトリック・マレーシアは、視察の途中で決まった拠点である。片岡政隆氏が現地の日系セットメーカーを回り、部品調達難の訴えを各地で聞かされた末の判断だった。進出が遅れる間に国内の取引を縮小した発注元もあり、要請は半ば脅しに近かったという。片岡勝太郎氏はそうした圧力の下でも値決めを譲らなかった。原価構成は流動費65%、人件費20%、一般管理販売費10%で、利益は5%にすぎない。『うちは原価を割るような売り方はしなかった。一定の価格以下で売られなければならないのなら、売るな。注文を辞退して帰って来る、というのが基本姿勢です』という基本姿勢が、安売りに走った部品メーカーとの分かれ目になった。売上高は1985年3月期に3,144億円、1992年3月期には連結で4,613億円へ達している。
- 日経ビジネス 1991年1月14日号
- [58]1989年に10億円を投じて100%出資のアルプス・エレクトリック・マレーシアを設立した。1988年12月に片岡政隆社長がASEANを視察し、現地日系セットメーカーの部品調達難の訴えを受けて進出を決断した。進出決定が遅いため国内の取引を縮小したセットメーカーもあり、要請は半ば脅しに近かった
- [59]1989年に10億円を投じて100%出資のアルプス・エレクトリック・マレーシアを設立した。1988年12月に片岡政隆社長がASEANを視察し、現地日系セットメーカーの部品調達難の訴えを受けて進出を決断した。進出決定が遅いため国内の取引を縮小したセットメーカーもあり、要請は半ば脅しに近かった
- [60]1989年に10億円を投じて100%出資のアルプス・エレクトリック・マレーシアを設立した。1988年12月に片岡政隆社長がASEANを視察し、現地日系セットメーカーの部品調達難の訴えを受けて進出を決断した。進出決定が遅いため国内の取引を縮小したセットメーカーもあり、要請は半ば脅しに近かった
- [61]1989年に10億円を投じて100%出資のアルプス・エレクトリック・マレーシアを設立した。1988年12月に片岡政隆社長がASEANを視察し、現地日系セットメーカーの部品調達難の訴えを受けて進出を決断した。進出決定が遅いため国内の取引を縮小したセットメーカーもあり、要請は半ば脅しに近かった
- 日経ビジネス 1987年6月22日号 編集長インタビュー
- [62]原価構成は材料費・外注加工費などの流動費65%、人件費20%、一般管理販売費10%で利益は5%。原価を割る売り方はせず、一定の価格以下でしか売れないなら注文を辞退するのが基本姿勢だった
- [63]原価構成は材料費・外注加工費などの流動費65%、人件費20%、一般管理販売費10%で利益は5%。原価を割る売り方はせず、一定の価格以下でしか売れないなら注文を辞退するのが基本姿勢だった
- [64]原価構成は材料費・外注加工費などの流動費65%、人件費20%、一般管理販売費10%で利益は5%。原価を割る売り方はせず、一定の価格以下でしか売れないなら注文を辞退するのが基本姿勢だった
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [65]売上高は1985年3月期3,144億円(単体)、1992年3月期4,613億円(連結)。いずれも日本基準
参考文献[45]-[65]
- アルプスアルパイン 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
- [45]1978年8月にアルプス・モートローラ株式会社の株式をアメリカのモトローラ社より譲受して100%子会社とし、同年11月に社名をアルパイン株式会社へ変更した。1988年3月にアルパインが東証市場第二部へ上場、1991年9月に第一部へ指定
- [46]1978年8月にアルプス・モートローラ株式会社の株式をアメリカのモトローラ社より譲受して100%子会社とし、同年11月に社名をアルパイン株式会社へ変更した。1988年3月にアルパインが東証市場第二部へ上場、1991年9月に第一部へ指定
- [47]1978年8月にアルプス・モートローラ株式会社の株式をアメリカのモトローラ社より譲受して100%子会社とし、同年11月に社名をアルパイン株式会社へ変更した。1988年3月にアルパインが東証市場第二部へ上場、1991年9月に第一部へ指定
- [48]1978年8月にアルプス・モートローラ株式会社の株式をアメリカのモトローラ社より譲受して100%子会社とし、同年11月に社名をアルパイン株式会社へ変更した。1988年3月にアルパインが東証市場第二部へ上場、1991年9月に第一部へ指定
- [54]1986年9月シンガポール、1987年2月韓国、1988年3月アイルランド、1989年4月マレーシア、1989年5月台湾に現地法人を設立した
- [55]1986年9月シンガポール、1987年2月韓国、1988年3月アイルランド、1989年4月マレーシア、1989年5月台湾に現地法人を設立した
- アルプスアルパイン 有価証券報告書 第86期(2019年3月期)【企業結合等関係】
- [49]アルパインはアルプス電気が議決権の41.15%を持つ上場子会社で、車載機器を手がけていた
- 会社年鑑(長期業績系列)
- [50]売上高は1978年3月期765億円、1980年3月期1,077億円(単体・日本基準)
- [65]売上高は1985年3月期3,144億円(単体)、1992年3月期4,613億円(連結)。いずれも日本基準
- 日経ビジネス 1987年6月22日号 編集長インタビュー
- [51]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [52]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [53]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [56]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [57]1986年度は1ドル180円で予算を立てたが160円へ進み、下期150円、1987年度は140円まで円高が進行した。競争が激しく販売価格を上げられないため労働力の安い国への生産移管を先に考えた。1987年時点で5カ国9工場を持ち、海外へ移す生産は最大30%と見込んでいた
- [62]原価構成は材料費・外注加工費などの流動費65%、人件費20%、一般管理販売費10%で利益は5%。原価を割る売り方はせず、一定の価格以下でしか売れないなら注文を辞退するのが基本姿勢だった
- [63]原価構成は材料費・外注加工費などの流動費65%、人件費20%、一般管理販売費10%で利益は5%。原価を割る売り方はせず、一定の価格以下でしか売れないなら注文を辞退するのが基本姿勢だった
- [64]原価構成は材料費・外注加工費などの流動費65%、人件費20%、一般管理販売費10%で利益は5%。原価を割る売り方はせず、一定の価格以下でしか売れないなら注文を辞退するのが基本姿勢だった
- 日経ビジネス 1991年1月14日号
- [58]1989年に10億円を投じて100%出資のアルプス・エレクトリック・マレーシアを設立した。1988年12月に片岡政隆社長がASEANを視察し、現地日系セットメーカーの部品調達難の訴えを受けて進出を決断した。進出決定が遅いため国内の取引を縮小したセットメーカーもあり、要請は半ば脅しに近かった
- [59]1989年に10億円を投じて100%出資のアルプス・エレクトリック・マレーシアを設立した。1988年12月に片岡政隆社長がASEANを視察し、現地日系セットメーカーの部品調達難の訴えを受けて進出を決断した。進出決定が遅いため国内の取引を縮小したセットメーカーもあり、要請は半ば脅しに近かった
- [60]1989年に10億円を投じて100%出資のアルプス・エレクトリック・マレーシアを設立した。1988年12月に片岡政隆社長がASEANを視察し、現地日系セットメーカーの部品調達難の訴えを受けて進出を決断した。進出決定が遅いため国内の取引を縮小したセットメーカーもあり、要請は半ば脅しに近かった
- [61]1989年に10億円を投じて100%出資のアルプス・エレクトリック・マレーシアを設立した。1988年12月に片岡政隆社長がASEANを視察し、現地日系セットメーカーの部品調達難の訴えを受けて進出を決断した。進出決定が遅いため国内の取引を縮小したセットメーカーもあり、要請は半ば脅しに近かった
筆者考察
1965年からの28年でアルプス電気の売上高は60億円から4,613億円へ伸びたが、その伸びを設計したのは自社の計画ではなかった。1968年にカラーテレビの生産が274万台へ跳ねると売上は1年で70%増え、1974年に同じカラーテレビが在庫調整へ入ると受注は月48億円から21億8500万円まで落ちる。同じ工場、同じ人員、同じ製品で、半年のうちに倍にも半分にもなった。1974年12月の2,400人の希望退職は、不振企業の整理ではなく、発注元の生産計画へ自社の規模を合わせ直す作業である。片岡勝太郎が増産の只中で売上の伸びを喜ぶなと釘を刺していたのは、この振幅を知っていたからだろう。
振幅から逃げる道は二つあった。一つは値段を守ること。原価の65%が材料費と外注加工費で利益は5%という構造では、2割の値引きを飲めば増産するほど赤字が増える。原価を割るなら注文を辞退するという値決めは、発注元との力関係を価格でだけは受け入れないという線引きだった。もう一つは、発注元の隣へ工場を移すこと。1986年から1989年にかけてシンガポール、韓国、アイルランド、マレーシア、台湾へ拠点を置いたのは、円高への対応であると同時に、部品が届かなければ取引ごと失うという圧力への応答でもある。1978年にモトローラの持ち分を買い取ってアルパインを手中へ収めたのも、車載という別の発注元を自前で持つための手だった。
1965年〜1992年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1965年03月期 | 単体 | 61 | n/a | n/a | 4 | 6.5% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 58 | ▲5.0% | n/a | 3 | 6.2% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 92 | +58.6% | n/a | 5 | 6.4% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 105 | +13.9% | n/a | 6 | 5.9% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 179 | +69.8% | n/a | 9 | 5.3% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 285 | +58.8% | n/a | 16 | 5.8% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 290 | +1.8% | 20 | 12 | 4.2% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 322 | +11.0% | 16 | 9 | 3.0% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 416 | +29.2% | 34 | 19 | 4.6% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 527 | +26.7% | 42 | 22 | 4.3% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 425 | ▲19.4% | 1 | ▲7 | ▲1.6% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 519 | +22.1% | 21 | 10 | 1.9% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 846 | +63.0% | 71 | 28 | 3.3% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 765 | ▲9.6% | 34 | 19 | 2.5% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 870 | +13.7% | 32 | 13 | 1.5% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 1,077 | +23.8% | 48 | 23 | 2.1% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 1,461 | +35.7% | 90 | 36 | 2.5% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 1,805 | +23.5% | 156 | 76 | 4.2% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 1,858 | +2.9% | 139 | 69 | 3.7% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 2,515 | +35.4% | 188 | 84 | 3.3% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 3,144 | +25.0% | 259 | 126 | 4.0% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 4,613 | n/a | n/a | 73 | 1.6% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
10件
- アルプスアルパイン 有価証券報告書 第86期(2019年3月期)【企業結合等関係】
- アルプスアルパイン 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
- 経済春秋社『企業の歴史・明治百年』「アルプス電気」(経済春秋社, 1968年)
- 会社年鑑(長期業績系列)
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻2号 片岡勝太郎
- 日経ビジネス 1974年1月21日号
- 日経ビジネス 1975年9月15日号
- 日経ビジネス 1987年6月22日号 編集長インタビュー
- 日経ビジネス 1989年5月15日号増刊号
- 日経ビジネス 1991年1月14日号