井深大氏らが疎開工場を捨て、資本金19万円で東京通信工業を設立
りんご園の疎開工場に残るか、8人で焼け跡へ出るか——軍需を失った技術者はなぜ「理想工場」を先に掲げたか
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- 概要
- 1946年5月、井深大氏が資本金19万円で東京通信工業株式会社を設立した創業。前年8月の敗戦で軍需を失った日本測定器の幹部が、長野・須坂の疎開工場に残る案と東京へ出る案に分かれるなか、井深氏は7人の同志とともに小林恵吾氏らとたもとをわかち、日本橋・白木屋百貨店3階を間借りして東京通信研究所を開いた。その法人化にあたる。
- 背景
- 日本測定器は陸海軍向けの測定器と熱線誘導兵器の研究で従業員800名・資本金250万円まで膨らんだが、敗戦で仕事が一夜にして消えた。専務の小林恵吾氏らは7万平方メートルのりんご園を持つ疎開工場に留まれば生活はどうにかなると主張し、井深氏は東京へ出るのは早い方がよいと考えた。
- 内容
- 白木屋3階で短波用コンバーターや真空管電圧計を作り、逓信院・鉄道省へ納入した。官庁需要が増えて個人企業では資本と採用に支障が出たため、1946年5月7日に資本金19万円で法人化する。公職追放中の元文部大臣・前田多門氏を初代社長に、井深氏が専務、盛田昭夫氏が常務に就いた。
- 含意
- 設立趣意書は目的の第一に「自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」を掲げた。井深氏は後年、小人数の小会社では大会社に太刀打ちできないため他社がやらないものを専門的に作る方針でやってきたと語っており、理想工場という理念は大手と競わない事業設計と対になっていた。
持ち物の申告としての理念
敗戦の日に須坂の重役室で分かれた二つの判断は、どちらも合理を備えていた。りんご園を抱えた疎開工場に留まれば800名の生活は当面守られ、世の中が落ち着くのを待つ余裕もあった。井深氏が選んだのは、資本金250万円の会社も工場も従業員も置いたまま、8人で焼け跡へ出る側であった。軍需で膨らんだ組織は軍需が消えれば技術者にとって働く場としての意味を失う——その見切りが先にあり、白木屋三階の間借りはその帰結であったとみることができる。手元に技術者しか残らない状態から始めた以上、技術者が思いきり働ける場をつくると趣意書に書いたのは、理想の表明であると同時に、持ち物の申告でもあったといえる。
見落とせないのは、理想工場という理念が、大手と競わないという冷めた計算と同居していた点である。小人数の小会社では大会社に太刀打ちできないから、他社がやらないものを専門的に作る——1963年に井深氏が語ったこの方針は、趣意書の文言と矛盾しない。技術者が喜んで働ける場を成り立たせるには、価格と量で殴り合う市場を避け、誰も手をつけていない領域を選ぶほかなかったとみられる。電気炊飯器も電熱マットも失敗した会社が、テープレコーダーの特許と大衆という審判者を見つけて離陸したのは、その方針が製品の選び方にまで届いていたためであろう。理念を先に掲げた会社が、その理念を経済的に成り立たせる算段をどこまで持てるか——焼け跡の8人が残した問いは、今日の技術系の新興企業にもそのまま引き継がれているとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
電気と機械の中間を縫う測定器屋
井深大氏は1908年に栃木県日光で生まれ、早稲田大学理工学部を出て写真化学研究所に入り、トーキーの録音技術を手がけた。同社が映画会社へ変わると日本光音工業へ移り、1940年には友愛学舎時代からの友人である小林恵吾氏と語らって日本測定器を発足させている。社長は植村泰二氏、専務が小林氏、常務が井深氏という陣容で、総員はおよそ30名、東京・五反田の裏通りにある小工場から出発した。当時は電気の技術者と機械の技術者が分かれ、電気屋は何でも電気で、機械屋はすべて機械で解決しがちであったのに対し、その中間を縫って双方の特徴を生かす仕事をしようというのが、この小さな会社の根本の考え方であった[1][2]。
音叉発振器や周波数継電器の試作が無線操縦や電探の周波数標準に採用されると、仕事は途切れなくなった。開戦の翌年には月島の工場を借りて従業員が10倍に増え、空襲が激しくなると長野県須坂の製糸工場へ疎開する。疎開と拡充の資金は満洲重工業の三保幹太郎氏が出し、資本金は250万円、従業員は地元採用を含めて800名の所帯になっていた。この間、陸軍の命令で熱線誘導兵器「マルケ」の研究に全精力を集中しており、その戦時研究会が、海軍中尉に任官したばかりの盛田昭夫氏と井深氏を引き合わせる場となった。年齢は10歳離れていたが、二人は早くから馬が合っている[3][4]。
りんご園に残るか、東京へ出るか
1945年8月15日の敗戦で、勝つための研究はすべて無に帰した。日本測定器をどうするか、須坂の古ぼけた重役室で会議が重ねられている。専務の小林恵吾氏らは疎開先に留まる案を採った。工場には7万平方メートルのりんご園があり、生活だけはどうにかなる、世の中が落ち着いてから東京へ出ても遅くはない、という判断であった。軍需で800名まで膨らんだ会社を、いったん信州の暮らしのなかに置いて時機を待つという、生活の裏づけを持つ現実的な選択でもあった[5]。
井深氏は逆の判断をした。東京に出るのは早い方がよいと考え、太刀川正三郎氏を先に送って足場を探させている。日産の管理下にあった日本橋・白木屋百貨店の三階の一室を借りることに成功すると、井深氏は太刀川氏、樋口晃氏、安田順一氏ら7人とともに、小林氏とたもとをわかって9月に上京した。資本金250万円の会社も、りんご園も、800名の従業員も後に残し、身一つで焼け跡へ出た8人が、東京通信研究所の看板を掲げた顔ぶれであった[6]。
決断
個人企業の限界と資本金19万円
白木屋の三階に看板を立てたものの、何から手をつけたらよいのか正直なところ無我夢中であった。月末になっても収入らしい収入はなく、井深氏は自分の預金を引き出して給料を払っている。たけのこ生活のなかで作り上げた最初の製品が、手持ちの受信機に手を加えて短波放送を聞けるようにするコンバーターであった。1945年10月6日、朝日新聞の嘉治隆一氏が「青鉛筆」欄でこれを紹介すると、掲載されたその日のうちに新聞を見た客が列をつくった。この記事を見た盛田昭夫氏が愛知の実家から連絡を寄こし、連絡の方法を失っていた二人の縁がつながっている[7][8]。
桐箱に納めた木製黒塗りの真空管電圧計は逓信院に、楽音音響機は鉄道省に納まった。1945年12月には短波ラジオ用コンバーターの本格的な製造販売を始め、翌1946年2月には逓信院資材局から真空管電圧計100台の大量注文を受けている。官庁の需要が増えるにつれ、井深氏個人の預金と信用で回す形では、資本の面でも従業員の採用でも支障が出てきた。1946年5月に資本金19万円で東京通信工業株式会社を設立したのは、この行き詰まりを解くためであった。株式会社という形態は、理念が先にあって用意されたのではなく、増えた注文を受け止める必要から後追いで整えられている[9]。
理想工場という設計思想
1946年5月7日、坊主頭に国民服という戦時色の抜け切らない30人が集まって創立式が開かれた。初代社長には、戦時中に知事を務めたことで大政翼賛会の地方支部長を兼ね、文部大臣を公職追放された前田多門氏が就き、井深氏が専務、盛田昭夫氏が常務、太刀川正三郎氏と樋口晃氏が取締役、田島道治氏が相談役に名を連ねた。帝国銀行頭取の万代順四郎氏との関係も、前田多門氏(社長)の親友である田島氏の世話でできている。盛田氏は東京工大の講師と三百年続く生家の醸造業を抱えていたが、講師の職が追放にかかり、家業のほうは井深氏らが父君に頭を下げて身柄を譲り受けた[10][11]。
井深氏が起草した設立趣意書は、会社設立の目的の第一に「自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」を掲げ、「技術者達ガ技術スル事ニ深イ喜ビヲ感ジ、ソノ社会的使命ヲ自覚シテ思イキリ働ケル安定シタ職場ヲコシラエル[13]」と記した。文言だけを読めば牧歌的だが、事業の算段としては小ささを前提にした戦略が裏打ちしていた。井深氏は1963年、証券アナリスト向けの工場見学の場で、創立の際は小人数の小会社で大会社との競争には太刀打ちできないと考え、競争をしないよう他社がやらないものを専門的に生産していこうという気持ちでやってきた、と説明している。理想工場という言葉は、大手と正面から張り合わない道を選ぶための、技術者だけを資産とする会社の設計思想であった[12][14]。
結果
失敗商品の連続から大衆商品へ
もっとも、創業直後に作ったものは失敗の連続であった。軍需工場の一斉閉鎖で電力が余ったのに目をつけた電気炊飯器は、白木屋の三階で毎日のように飯を炊いたにもかかわらず、うまく炊けたことが一度もなく、井深氏自身が失敗第一号の商品と呼んでいる。新旧円の切り替えに際して新円をかせぐために作った電熱マットは、夜間の電圧上昇で毛布を焦がしたという苦情が殺到し、気が咎めて会社名を出せず「銀座ネッスル商会」の名で売り逃げるほどの品であった。1948年4月決算は売上高640万円・利益11万円で、59名の株主にようやく5分の配当を行っている[15][16]。
転機は、製品を届ける相手を変えたことにあった。それまで作ってきたのは軍や役所や放送局から与えられた仕様書どおりの品ばかりで、井深氏は大衆に直結した商品をかねて手がけたいと考えていた。NHKに米軍が持ち込んだテープレコーダーを見せられたとき、作るものはこれ以外にないと決めている。1950年には永井健三氏らの発明による高周波バイアス法の特許を安立電気から25万円で買い取って日本電気と共有し、日本初のテープレコーダーG型を売り出した。机ほどの大きさで重さ15キロ、定価17万円のG型は買い手がつかず、裁判所へ20台納めて息をつく始末であったが、続くトランク型を8万円で小学校の視聴覚教育向けに出すと、3年ほどで全国の小学校の3分の1以上が一台ずつ持つに至った。1951年10月決算では売上高1億200万円、利益900万円、配当3割を計上している[17][18]。
- 井深大「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
- 証券アナリストジャーナル 1963年第1巻第4号「ソニー――工場見学」(井深大氏・吉井陛氏による説明の要旨)
- 週刊東洋経済 2002年2月9日号「逆襲のソニー 付加価値は国内にあり! 「理想工場」再興なるか」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- ソニーグループ 有価証券報告書 第108期(2025年3月期)【沿革】