第2章 年〜年

安川電機:1,000億円計画の挫折から、メカトロニクスへの事業転換

1969年〜「モートルの安川」から「オートメーションの安川」への旗の掛け替え

1969年12月、安川電機製作所は3分の1の増資を終えて資本金を70億円とした。1967年度に立てた長期5カ年計画の一環だったが、その計画は3年目にして枠を超えている。最終年度1971年度の受注目標350億円に対し、1969年度の受注は365億円が見込まれたためである。会社は計画の途中で新6カ年計画へ差し替え、最終年度の1975年度に売上1,000億円、6年間の設備投資200億円という目標を掲げた。1969年3月期の売上は281億円であり、6年で3.5倍にするという絵である。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻1号(富永和郎)
    • [1]1969年12月8日に3分の1の増資を完了し資本金70億円
    • [2]1967年度策定の長期5カ年計画の1971年度受注目標350億円を、3年目の1969年度に年間予想受注365億円で上回る見込み
    • [3]1970年度を初年度、1975年度を最終年度とする新6カ年計画へ差し替え、最終年度に年間売上高1,000億円内外、6カ年で約200億円の設備投資を想定
  • 会社年鑑
    • [4]1969年3月期の売上高281億円

計画を支える構えとして副社長の富永和郎が挙げたのは、電動機と制御装置を1社で作っていることだった。欧米ではモーターメーカーと制御器メーカーが分業しており、系全体の自動制御を求められる時代にその形は不利になる、という見立てである。もう一つは、受注生産に偏った収益を平らにする作業だった。汎用モータと汎用スイッチが全製品に占める比率を45%まで引き上げ、変動の大きい設備投資への依存度を下げる。汎用品の仕向け先はすでに3割が家電向けであり、家庭用電気製品を自社では作らない会社が、家電の伸びを間接的に取り込んでいた。従業員は6,000人、工場は北九州に3つと埼玉県入間市に1つだった。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻1号(富永和郎)
    • [5]欧米では電動機メーカーと制御器メーカーが分業しており、系統の総合自動制御を要求される時代には不利。安川電機は双方を自社で製造
    • [6]変動の多い一般設備投資への依存度を下げるため、汎用モータ・汎用スイッチの全製品に占める割合を45%程度まで上昇させた
    • [7]汎用製品の仕向先は家電が約30%を占める。家庭電気品は手がけていない
    • [8]1969年末時点で従業員6,000人、北九州市に3工場・埼玉県入間市に1工場

会社が掲げた旗は「モートルの安川」から「オートメーションの安川」への掛け替えだった『端的にいえば「モートルの安川」から「オートメーションの安川」というイメージを打ちだし、そのイメージ・アップを強力に推進することとしたものである』。電動機はもはや電化の道具ではなく、五感にあたる電子技術と頭脳にあたる計算機に続く手足として、系の一部に組み込まれる。1971年3月には2事業部制を重電・電動機・制御器・自動化機の4事業部へ改組し、同年5月に安川エンジニアリング、1973年9月には電算機の周辺端末機器へ進むワイ・イー・データを設けた。1972年5月に社長へ就任した安川敬二は、本社を東京へ移す同業が相次ぐなかで北九州に本社を置き続け、事業部長へ権限を委ねる一方、決定そのものは社長が下した。だが1973年の石油危機は、受注しても物が作れないという事態を持ち込んだ。設備投資が連続して伸びるという前提が、ここで崩れた。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻1号(富永和郎)
    • [9]オートメーションは五感にあたるエレクトロニクス、頭脳にあたるコンピュータ、手足にあたる電動機の三要素で成り立つとし、「モートルの安川」から「オートメーションの安川」へイメージを転換
  • 日本企業要覧 1981年版「安川電機」
    • [10]1971年3月 従来の2事業部制を改組し、重電・電動機・制御器・自動化機の4事業部制とする
  • 安川電機 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1971年5月 安川エンジニアリングを設立。1973年9月 電算機周辺端末機器の事業分野へ進出するためワイ・イー・データを設立
  • 日経ビジネス 1974年2月18日号
    • [12]1972年5月に安川敬二が社長就任。本社機構を東京へ移す地方企業が相次ぐなか、北九州に本社を置き続けた
    • [13]事業部制のもとで事業部長へ権限を委譲する一方、責任者は社長ひとりであり決定は社長が行うとした
    • [14]物資不足でコストが上がるだけでなく、受注しても計画どおり生産できない状況が生じた
参考文献[1]-[14]
  • 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻1号(富永和郎)
    • [1]1969年12月8日に3分の1の増資を完了し資本金70億円
    • [2]1967年度策定の長期5カ年計画の1971年度受注目標350億円を、3年目の1969年度に年間予想受注365億円で上回る見込み
    • [3]1970年度を初年度、1975年度を最終年度とする新6カ年計画へ差し替え、最終年度に年間売上高1,000億円内外、6カ年で約200億円の設備投資を想定
    • [5]欧米では電動機メーカーと制御器メーカーが分業しており、系統の総合自動制御を要求される時代には不利。安川電機は双方を自社で製造
    • [6]変動の多い一般設備投資への依存度を下げるため、汎用モータ・汎用スイッチの全製品に占める割合を45%程度まで上昇させた
    • [7]汎用製品の仕向先は家電が約30%を占める。家庭電気品は手がけていない
    • [8]1969年末時点で従業員6,000人、北九州市に3工場・埼玉県入間市に1工場
    • [9]オートメーションは五感にあたるエレクトロニクス、頭脳にあたるコンピュータ、手足にあたる電動機の三要素で成り立つとし、「モートルの安川」から「オートメーションの安川」へイメージを転換
  • 会社年鑑
    • [4]1969年3月期の売上高281億円
  • 日本企業要覧 1981年版「安川電機」
    • [10]1971年3月 従来の2事業部制を改組し、重電・電動機・制御器・自動化機の4事業部制とする
  • 安川電機 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1971年5月 安川エンジニアリングを設立。1973年9月 電算機周辺端末機器の事業分野へ進出するためワイ・イー・データを設立
  • 日経ビジネス 1974年2月18日号
    • [12]1972年5月に安川敬二が社長就任。本社機構を東京へ移す地方企業が相次ぐなか、北九州に本社を置き続けた
    • [13]事業部制のもとで事業部長へ権限を委譲する一方、責任者は社長ひとりであり決定は社長が行うとした
    • [14]物資不足でコストが上がるだけでなく、受注しても計画どおり生産できない状況が生じた

1976年〜4期連続の経常赤字と804名の退職を伴う企業縮小

新6カ年計画が掲げた1975年度売上1,000億円に対し、1976年3月期の実績は売上486億円、経常損益は14億円の赤字だった。石油危機後の設備投資停止で受注が減り、鉄鋼向けの比重が高い安川電機製作所はその打撃をまともに受けた。翌1977年3月期には売上高こそ563億円まで戻したものの、経常損失40億円、当期損失39億円と赤字が広がった。1990年時点でも、鉄鋼と関連業種向けのシステム電機品と重電機器が売上の49%を占めており、鉄鋼の不振がそのまま業績に響くという構図は社内でも口にされていた。需要がずっと伸びる前提で計画を立てていたため、見込みが外れた場合の手当ては何もなかった。

  • 会社年鑑
    • [15]1976年3月期の売上高486億円、経常損益は14億円の赤字
  • 日本企業要覧 1981年版「安川電機」
    • [16]1977年3月期の売上高563億6,900万円、経常損失40億6,000万円、当期損失39億8,600万円
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [17]鉄鋼およびその関連向けのシステム電機品・重電機器の売上構成比は1990年時点で49%。「鉄が風邪をひけば、安川は肺炎になる」と言われてきた

1976年3月、会社は700名の希望退職者を募り、804名が退職した。1969年末に6,000人だった従業員は、1981年6月には4,403名まで減っている。赤字はこの1期では終わらず、経常損益は1976年3月期から1979年3月期まで4期続けて赤字となり、配当は1977年3月期から5年にわたって見送られた。この間に選ばれたのは事業の多角化ではなく、原価の組織的な引き下げだった。VE活動でコストを詰め、経費を抑え、資本効率を上げることへ経営の全般を寄せている。この再建を副社長として指揮したのは菊池功で、多角化ではなく原価の引き下げと生産の効率化を選んだ。

  • 日本企業要覧 1978年版「安川電機」
    • [18]1976年3月に700名の希望退職者を募集し、804名が退職
    • [22]VE活動(原価の組織的引き下げ活動)によるコストダウン、経費の抑制・節減、資本効率の向上を経営全般にわたり実施
  • 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻1号(富永和郎)
    • [19]1969年末時点の従業員は6,000人
  • 日本企業要覧 1981年版「安川電機」
    • [20]1981年6月時点の在籍人員は男3,784名・女619名の計4,403名
    • [21]1977年3月期から1979年3月期まで経常損失が続き配当は0%。1976年3月期も経常損益は赤字
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [23]第1次石油危機後の不況時にも見境のない事業多角化ではなく地道なコスト削減と生産の効率化で乗り切った。当時の指揮は副社長だった菊池功

合理化と並んで動いたのは、売る物の組み替えだった。1978年3月期の事業構成は重電機器38%・汎用電機器32%・電子省力機器17%・電気工事その他13%だったが、1981年3月期には重電機器41%・汎用電機器19%・電子省力機器24%・電気工事その他16%となり、汎用電機器の比率が下がった分だけ電子・省力機器が伸びている。牽引したのは産業用ロボット、数値制御装置、プログラマブルコントローラだった。1981年3月期の受注は890億円で前期比20.3%増、売上は758億円で同12.4%増と、いずれも創業以来の最高を記録し、当期利益27億5,400万円を計上して5年ぶりに1株4円の配当を復活させた。

  • 日本企業要覧 1978年版「安川電機」
    • [24]1978年時点の事業内容は重電機器38%・汎用電機器32%・電子省力機器17%・電気工事その他13%
  • 日本企業要覧 1981年版「安川電機」
    • [25]1981年時点の事業内容は重電機器41%・汎用電機器19%・電子省力機器24%・電気工事その他16%
    • [26]産業用ロボット、NC装置、PC等の電子・省力機器部門の伸びが著しい
    • [27]1981年3月期は受注高約890億円(前期比20.3%増)、売上高約758億円(同12.4%増)でいずれも創業以来最高。当期利益27億5,400万円、5年ぶりに1株4円・年8%で復配
参考文献[15]-[27]
  • 会社年鑑
    • [15]1976年3月期の売上高486億円、経常損益は14億円の赤字
  • 日本企業要覧 1981年版「安川電機」
    • [16]1977年3月期の売上高563億6,900万円、経常損失40億6,000万円、当期損失39億8,600万円
    • [20]1981年6月時点の在籍人員は男3,784名・女619名の計4,403名
    • [21]1977年3月期から1979年3月期まで経常損失が続き配当は0%。1976年3月期も経常損益は赤字
    • [25]1981年時点の事業内容は重電機器41%・汎用電機器19%・電子省力機器24%・電気工事その他16%
    • [26]産業用ロボット、NC装置、PC等の電子・省力機器部門の伸びが著しい
    • [27]1981年3月期は受注高約890億円(前期比20.3%増)、売上高約758億円(同12.4%増)でいずれも創業以来最高。当期利益27億5,400万円、5年ぶりに1株4円・年8%で復配
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [17]鉄鋼およびその関連向けのシステム電機品・重電機器の売上構成比は1990年時点で49%。「鉄が風邪をひけば、安川は肺炎になる」と言われてきた
    • [23]第1次石油危機後の不況時にも見境のない事業多角化ではなく地道なコスト削減と生産の効率化で乗り切った。当時の指揮は副社長だった菊池功
  • 日本企業要覧 1978年版「安川電機」
    • [18]1976年3月に700名の希望退職者を募集し、804名が退職
    • [22]VE活動(原価の組織的引き下げ活動)によるコストダウン、経費の抑制・節減、資本効率の向上を経営全般にわたり実施
    • [24]1978年時点の事業内容は重電機器38%・汎用電機器32%・電子省力機器17%・電気工事その他13%
  • 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻1号(富永和郎)
    • [19]1969年末時点の従業員は6,000人

1982年〜メカトロニクスを第3の柱に据えた非同族経営

電子制御と機械を結ぶ領域に、安川電機製作所は1972年、自ら「メカトロニクス」という新語を与えた。総合品質管理でデミング賞を取ると掲げてから8年、1984年に受賞した。こうした品質管理の継続を下地に、名称を得たモーター電子制御の技術群は、重電機器・システム電機品と並ぶ第3の柱と目されるようになった。副社長だった菊池功は、始めのうちは鉛筆1本の節約くらいの提案しか出なくても、続けるうちに生産の根本に踏み込む提案が上がるようになると考えていた。売上高は1982年3月期に928億円、1985年3月期に1,123億円だった。

  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [28]1972年に安川電機がはじめて「メカトロニクス」という新語を造ったといわれる
    • [29]TQC(総合品質管理)でデミング賞を目標に掲げ、1984年に受賞
    • [30]メカトロニクスは重電機器・システム電機品に続く第3の柱と位置づけられた
    • [31]初めは鉛筆1本を減らすような改善案しか出ないが、長く続けると生産の本質に触れる提案が出てくると菊池功が述べた
  • 会社年鑑
    • [32]売上高は1982年3月期928億円、1985年3月期1,123億円

1985年6月、菊池功が社長に就任した。創業一族以外から社長が出るのは、1915年の創立以来はじめてのことだった。就任後最初の決算は減収・経常減益となった。円高による不況は、1986年3月期に1,121億9,500万円あった売上高を1987年3月期には976億6,400万円へ、税引前利益も65億7,500万円から5億5,900万円へ押し下げている。菊池がまず着手したのは、自社がどの事業領域に立っているかを見つめ直す作業であった『香り高き白きバラはよその場所では薫らない。これが私の持論なんです。今の事業が調子良くないからと言って、自分たちの生存領域とは違ったことをやってもダメ』。社内に21世紀ビジョン委員会を設け、将来の幹部候補となる新入社員から40歳までの社員を集めて、次の世紀を支える収益源を議論させた。議論の内容は夢物語であってもかまわず、自分たちが拠りどころとする技術や製品は何かを改めて考えさせることに狙いがあった。

  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [33]1985年6月に菊池功が社長就任。創業一族以外からの社長は初
    • [34]1985年6月に菊池功が社長就任。創業一族以外からの社長は初
    • [36]社内に「21世紀ビジョン委員会」を設け、新入社員から40歳程度までの社員を集めて次代の柱となる事業を議論させた
    • [37]議論から出てくる事業の内容は夢物語でもよく、どんな技術や製品をよりどころにしているのかを考えさせることが狙いだったと菊池功が述べた
  • 安川電機75年史(安川電機製作所, 1990)・単体
    • [35]売上高は1986年3月期1,121億9,500万円から1987年3月期976億6,400万円へ、税引前利益は65億7,500万円から5億5,900万円へ減少

売上の主力は、この時期にメカトロニクスへ移り切った。菊池功の就任当時は4割程度だったメカトロニクスの売上比率が1990年3月期に51%へ達し、重電機器32%とシステム電機品17%を上回る。モートマンと名づけた産業用ロボットは世界でおよそ1万台が稼働し、溶接ロボットでは首位のシェアを得ていた。付加価値が高く、鉄鋼と電力という従来の得意先以外へ広く売り込めることが、この分野の利点だった。内需拡大策が招いた人手不足も自動化機器の需要を押し上げ、1990年3月期の売上は1,304億6,700万円、税引前利益は63億8,200万円と、8年ぶりに最高益を更新した。17年の赤字から始まった会社は、絞り込みと組み替えを繰り返して、モータを売る会社から動きを売る会社へ移った。

  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [38]1990年3月期の売上構成比は重電32%・システム電機品17%・メカトロニクス51%。菊池功の社長就任当時のメカトロ比率は40%程度
    • [39]「モートマン」と名付けたロボットは世界で約1万台が稼働し、溶接ロボットはシェア首位
    • [40]メカトロニクスはシステム電機品や重電機器より付加価値が高く、従来の得意先である鉄鋼・電力会社以外の産業へ広く売り込める
    • [41]内需拡大策による人手不足が自動化機器への需要を伸ばした
  • 安川電機75年史(安川電機製作所, 1990)・単体
    • [42]1990年3月期の売上高1,304億6,700万円、税引前利益63億8,200万円
参考文献[28]-[42]
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [28]1972年に安川電機がはじめて「メカトロニクス」という新語を造ったといわれる
    • [29]TQC(総合品質管理)でデミング賞を目標に掲げ、1984年に受賞
    • [30]メカトロニクスは重電機器・システム電機品に続く第3の柱と位置づけられた
    • [31]初めは鉛筆1本を減らすような改善案しか出ないが、長く続けると生産の本質に触れる提案が出てくると菊池功が述べた
    • [33]1985年6月に菊池功が社長就任。創業一族以外からの社長は初
    • [34]1985年6月に菊池功が社長就任。創業一族以外からの社長は初
    • [36]社内に「21世紀ビジョン委員会」を設け、新入社員から40歳程度までの社員を集めて次代の柱となる事業を議論させた
    • [37]議論から出てくる事業の内容は夢物語でもよく、どんな技術や製品をよりどころにしているのかを考えさせることが狙いだったと菊池功が述べた
    • [38]1990年3月期の売上構成比は重電32%・システム電機品17%・メカトロニクス51%。菊池功の社長就任当時のメカトロ比率は40%程度
    • [39]「モートマン」と名付けたロボットは世界で約1万台が稼働し、溶接ロボットはシェア首位
    • [40]メカトロニクスはシステム電機品や重電機器より付加価値が高く、従来の得意先である鉄鋼・電力会社以外の産業へ広く売り込める
    • [41]内需拡大策による人手不足が自動化機器への需要を伸ばした
  • 会社年鑑
    • [32]売上高は1982年3月期928億円、1985年3月期1,123億円
  • 安川電機75年史(安川電機製作所, 1990)・単体
    • [35]売上高は1986年3月期1,121億9,500万円から1987年3月期976億6,400万円へ、税引前利益は65億7,500万円から5億5,900万円へ減少
    • [42]1990年3月期の売上高1,304億6,700万円、税引前利益63億8,200万円

筆者考察

1969年の安川電機製作所は、設備投資が途切れないことを前提に会社の絵を描いていた。1967年度に立てた5カ年計画を3年目で追い越し、差し替えた新6カ年計画では1975年度に売上1,000億円、6年で設備投資200億円を掲げる。1969年3月期の281億円を3.5倍にする計画である。ところが石油危機で前提が消えると、1976年3月期は売上486億円で経常損失14億円、翌1977年3月期は経常損失40億円まで悪化した。鉄鋼とその関連向けが売上の半分を占める会社は、鉄が風邪をひけば安川は肺炎になると自ら言っていたとおりの姿になる。計画の大きさは、需要を自分で作れない会社にとって危うさそのものだった。

再建で選ばれたのは、逃げ場を増やすことではなく持ち物を組み替えることだった。1976年3月に700名を募って804名が退き、従業員は6,000人から4,403名へ減る。その間も多角化には向かわず、原価を組織的に引き下げながら、汎用電機器の比率を32%から19%へ落として電子・省力機器を17%から24%へ引き上げた。1972年に自ら造った「メカトロニクス」という語が、やがて事業そのものの名前になる。1985年に創業一族以外からはじめて社長となった菊池功が円高不況のさなかに社員へ問うたのも、新しい市場ではなく自社の生存領域の輪郭だった。1990年3月期に売上1,304億6,700万円の51%をメカトロニクスが占めたとき、モータを売る会社は動きを売る会社になっていた。

売上高の推移 1969年3月期〜1990年3月期(億円)

281 1969 611 1975 563 1977 758 1981 1,123 1985 976.64 1987 1,304.67 1990
  • いずれも単体の売上高で、決算期は3月。
  • 1969年3月期から1985年3月期は会社年鑑、1987年3月期と1990年3月期は安川電機75年史(安川電機製作所, 1990)。

1969年〜1990年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1969年03月期 単体 281 n/a 18 12 4.3% n/a
1970年03月期 単体 340 +21.0% 24 16 4.7% n/a
1971年03月期 単体 395 +16.2% 24 16 4.1% n/a
1972年03月期 単体 368 ▲6.8% 15 11 3.0% n/a
1973年03月期 単体 387 +5.2% 17 12 3.1% n/a
1974年03月期 単体 559 +44.4% 26 18 3.2% n/a
1975年03月期 単体 611 +9.3% 15 10 1.6% n/a
1976年03月期 単体 486 ▲20.5% ▲14 ▲4 ▲0.8% n/a
1977年03月期 単体 563 +15.8% ▲40 ▲39 ▲6.9% n/a
1978年03月期 単体 540 ▲4.1% ▲32 ▲18 ▲3.3% n/a
1979年03月期 単体 587 +8.7% ▲14 ▲3 ▲0.5% n/a
1980年03月期 単体 674 +14.8% 14 15 2.2% n/a
1981年03月期 単体 758 +12.5% 34 27 3.6% n/a
1982年03月期 単体 928 +22.4% 64 28 3.0% n/a
1983年03月期 単体 947 +2.0% 40 23 2.4% n/a
1984年03月期 単体 947 0.0% 21 10 1.1% n/a
1985年03月期 単体 1,123 +18.6% 43 17 1.5% n/a
1986年03月期 単体 1,121 ▲0.1% n/a 65 5.9% n/a
1987年03月期 単体 976 ▲13.0% n/a 5 0.6% n/a
1988年03月期 単体 969 ▲0.8% n/a 17 1.8% n/a
1989年03月期 単体 1,177 +21.5% n/a 44 3.8% n/a
1990年03月期 単体 1,304 +10.8% n/a 63 4.9% n/a

出所:会社年鑑、安川電機75年史

出典・参考

8件
出典・参考
  • 安川電機 有価証券報告書【沿革】
  • 安川電機75年史(安川電機製作所, 1990)・単体
  • 会社年鑑
  • 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻1号(富永和郎)
  • 日経ビジネス 1974年2月18日号
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
  • 日本企業要覧 1978年版「安川電機」
  • 日本企業要覧 1981年版「安川電機」

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