第1章 年〜年

SANKYO:中央製作所の設立と三共への改称

1966年〜名古屋で継いだ個人事業の中央製作所と、資本金100万円で立てた三共

毒島邦雄氏は1966年4月、個人事業の中央製作所からパチンコ機の製造販売の事業を継承した。同月、資本金100万円で株式会社中央製作所を名古屋市に設立。設立と同時に名古屋工場を開設し、製造の拠点を本社と同じ地に置いた。毒島邦雄氏はのちに、自社を業界最後発のパチンコ機メーカーと位置づけている。当時の名古屋はパチンコ機製造の中心地で、部品メーカーが数多く集積していた。毒島邦雄氏は、部品の仕入れと下請け工場の協力を得やすいことを名古屋で設立した理由に挙げた。部品を自前で設計せずに済む立地は、後発の新会社にとって参入の負担を軽くしたとみられる。

  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [1]1966年4月、個人事業の中央製作所の事業を継承した毒島邦雄が資本金100万円で株式会社中央製作所を名古屋市に設立
    • [2]1966年4月、個人事業の中央製作所の事業を継承した毒島邦雄が資本金100万円で株式会社中央製作所を名古屋市に設立
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [3]1966年4月 株式会社中央製作所設立(本社名古屋市)、名古屋工場・東京支店・大阪支店・本社業務部を開設
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [4]1966年4月に業界最後発のパチンコ機メーカーとして名古屋市に設立。名古屋はパチンコ機製造の本場で部品メーカーが集まり、部品調達と下請け工場の協力を得やすかった
    • [5]1966年4月に業界最後発のパチンコ機メーカーとして名古屋市に設立。名古屋はパチンコ機製造の本場で部品メーカーが集まり、部品調達と下請け工場の協力を得やすかった
    • [6]1966年4月に業界最後発のパチンコ機メーカーとして名古屋市に設立。名古屋はパチンコ機製造の本場で部品メーカーが集まり、部品調達と下請け工場の協力を得やすかった

中央製作所は設立と同時に東京支店と大阪支店を開設し、本社業務部も置いた。販売網を最初から自社で抱えた理由は、パチンコ機の流通構造にある。当時、商社と販売店の大半はすでに先発メーカーの代理店となっていた。無名の新参メーカーの機械を扱う販売店は見込めず、毒島邦雄氏は自社で販売網を築くほかないと判断した。毒島邦雄氏の説明では、東京と大阪の2拠点は営業所としての出発である。代理店網を持たない後発にとって、直販の拠点は販路の確保と引き換えに固定費の先行負担を伴ったと考えられる。

  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [7]1966年4月 東京支店・大阪支店・本社業務部(現東京本社)を開設
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [8]商社・販売店はほとんど先発メーカーの代理店で新参の製品を扱わず、自社で販売網をつくるため東京と大阪に営業所を開設
    • [9]商社・販売店はほとんど先発メーカーの代理店で新参の製品を扱わず、自社で販売網をつくるため東京と大阪に営業所を開設
    • [10]商社・販売店はほとんど先発メーカーの代理店で新参の製品を扱わず、自社で販売網をつくるため東京と大阪に営業所を開設
    • [11]商社・販売店はほとんど先発メーカーの代理店で新参の製品を扱わず、自社で販売網をつくるため東京と大阪に営業所を開設

中央製作所は設立翌月の1966年5月、商号を株式会社三共製作所へ変更した。同年11月には再び商号を改め、株式会社三共となった。設立から7か月の間に、商号を2度変更したことになる。個人事業から引き継いだ中央製作所の名は、この2度の変更で社名から消えた。1968年以降の支店の開設と製品の発売は、すべて三共の名で進んだ。屋号を継いだ社名を早々に改めたのは、自前の販売網で機械を売り込む会社として自社の名を固めるためだったと推察される。

  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [12]中央製作所は1966年5月に株式会社三共製作所、同年11月に旧株式会社三共へ商号変更
    • [14]中央製作所は1966年5月に株式会社三共製作所、同年11月に旧株式会社三共へ商号変更
    • [17]中央製作所は1966年5月に株式会社三共製作所、同年11月に旧株式会社三共へ商号変更
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [13]1966年5月 株式会社三共製作所に商号変更、同年11月 株式会社三共に商号変更。以後の支店開設は三共として記載
    • [15]1966年5月 株式会社三共製作所に商号変更、同年11月 株式会社三共に商号変更。以後の支店開設は三共として記載
    • [16]1966年5月 株式会社三共製作所に商号変更、同年11月 株式会社三共に商号変更。以後の支店開設は三共として記載
    • [18]1966年5月 株式会社三共製作所に商号変更、同年11月 株式会社三共に商号変更。以後の支店開設は三共として記載
参考文献[1]-[18]
  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [1]1966年4月、個人事業の中央製作所の事業を継承した毒島邦雄が資本金100万円で株式会社中央製作所を名古屋市に設立
    • [2]1966年4月、個人事業の中央製作所の事業を継承した毒島邦雄が資本金100万円で株式会社中央製作所を名古屋市に設立
    • [12]中央製作所は1966年5月に株式会社三共製作所、同年11月に旧株式会社三共へ商号変更
    • [14]中央製作所は1966年5月に株式会社三共製作所、同年11月に旧株式会社三共へ商号変更
    • [17]中央製作所は1966年5月に株式会社三共製作所、同年11月に旧株式会社三共へ商号変更
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [3]1966年4月 株式会社中央製作所設立(本社名古屋市)、名古屋工場・東京支店・大阪支店・本社業務部を開設
    • [7]1966年4月 東京支店・大阪支店・本社業務部(現東京本社)を開設
    • [13]1966年5月 株式会社三共製作所に商号変更、同年11月 株式会社三共に商号変更。以後の支店開設は三共として記載
    • [15]1966年5月 株式会社三共製作所に商号変更、同年11月 株式会社三共に商号変更。以後の支店開設は三共として記載
    • [16]1966年5月 株式会社三共製作所に商号変更、同年11月 株式会社三共に商号変更。以後の支店開設は三共として記載
    • [18]1966年5月 株式会社三共製作所に商号変更、同年11月 株式会社三共に商号変更。以後の支店開設は三共として記載
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [4]1966年4月に業界最後発のパチンコ機メーカーとして名古屋市に設立。名古屋はパチンコ機製造の本場で部品メーカーが集まり、部品調達と下請け工場の協力を得やすかった
    • [5]1966年4月に業界最後発のパチンコ機メーカーとして名古屋市に設立。名古屋はパチンコ機製造の本場で部品メーカーが集まり、部品調達と下請け工場の協力を得やすかった
    • [6]1966年4月に業界最後発のパチンコ機メーカーとして名古屋市に設立。名古屋はパチンコ機製造の本場で部品メーカーが集まり、部品調達と下請け工場の協力を得やすかった
    • [8]商社・販売店はほとんど先発メーカーの代理店で新参の製品を扱わず、自社で販売網をつくるため東京と大阪に営業所を開設
    • [9]商社・販売店はほとんど先発メーカーの代理店で新参の製品を扱わず、自社で販売網をつくるため東京と大阪に営業所を開設
    • [10]商社・販売店はほとんど先発メーカーの代理店で新参の製品を扱わず、自社で販売網をつくるため東京と大阪に営業所を開設
    • [11]商社・販売店はほとんど先発メーカーの代理店で新参の製品を扱わず、自社で販売網をつくるため東京と大阪に営業所を開設

1967年〜名古屋型の製造と桐生型の直販を併せた方式と、札幌から広島まで6支店

毒島邦雄氏は、製造と販売で異なる産地の方式を採り、最後発の遅れを取り戻そうとした。当時のパチンコ機業界には、名古屋市を中心とするメーカー群と桐生の3社という2つの系統があった。桐生のメーカーは地元に部品メーカーを持たないため、設計から自社で手がけ、販売も自ら担った。三共は製造に名古屋の方式を、販売に桐生の方式を採用した。これは、部品を外部から調達して組み立て、完成した機械を代理店を通さずに売る構成である。販売の方式に合わせて、三共は設立時から東京と大阪に支店を置いた。製造の立ち上げ費用を抑えつつ、先発の代理店網に依存しない販路を持つための折衷だったと思われる。

  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [19]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [20]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [21]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [22]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [23]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [24]1966年4月の設立時に東京支店・大阪支店を開設

三共は1968年に自動補給装置を発売し、パチンコ機本体に加えて周辺機器まで製品の品ぞろえを整えた。その後もパチンコ機の電動化と自動化に開発の力点を置いた。1973年には電動式遊技機を開発し、発売した。毒島邦雄氏が創業期の課題に掲げたのは、業界最後発の遅れを取り戻すことである。自社開発の機構を持たない段階の三共にとって、製品の幅は周辺装置と電動化で広げるほかなかった。本体の台で先発メーカーに並べない間、ホールに売れる周辺機器を持つことで取引の糸口を増やしたのだろう。

  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [25]1968年に自動補給装置を発売しパチンコ機周辺機器を含めた製品ラインナップを整え、電動化・自動化に注力、1973年に電動式遊技機を開発・発売
    • [26]1968年に自動補給装置を発売しパチンコ機周辺機器を含めた製品ラインナップを整え、電動化・自動化に注力、1973年に電動式遊技機を開発・発売
    • [27]1968年に自動補給装置を発売しパチンコ機周辺機器を含めた製品ラインナップを整え、電動化・自動化に注力、1973年に電動式遊技機を開発・発売
    • [29]1968年に自動補給装置を発売しパチンコ機周辺機器を含めた製品ラインナップを整え、電動化・自動化に注力、1973年に電動式遊技機を開発・発売
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [28]最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋の流れ(部品を買い集めて組み付け)を採用
    • [30]最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋の流れ(部品を買い集めて組み付け)を採用

直販を選んだ三共は、1968年から1971年にかけて地方の販売拠点を相次いで開設した。1968年11月に九州地区向けの九州支店を福岡市に、1969年4月に北海道地区向けの札幌支店を開設。1970年には9月に広島支店、11月に仙台支店が続いた。1971年4月に北関東支店を群馬県桐生市に、同年5月に名古屋支店を名古屋市に開設した。東京と大阪を合わせ、支店は8拠点となった。1995年の上場時の紹介記事は、1968年からの支店開設を全国の営業拠点の充実の始まりと位置づけている。代理店網を持たない以上、ホールへの直販を全国に及ぼすには地区ごとの支店を自前で持つ以外に手段がなかったと推測される。

  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [31]1968年に福岡市、1969年に札幌市に支店を開設し、全国的な営業拠点の充実を開始
    • [36]1968年に福岡市、1969年に札幌市に支店を開設し、全国的な営業拠点の充実を開始
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [32]1968年11月九州支店(福岡市)、1969年4月札幌支店、1970年9月広島支店、1970年11月仙台支店、1971年4月北関東支店(桐生市)、1971年5月名古屋支店を開設
    • [33]1968年11月九州支店(福岡市)、1969年4月札幌支店、1970年9月広島支店、1970年11月仙台支店、1971年4月北関東支店(桐生市)、1971年5月名古屋支店を開設
    • [34]1968年11月九州支店(福岡市)、1969年4月札幌支店、1970年9月広島支店、1970年11月仙台支店、1971年4月北関東支店(桐生市)、1971年5月名古屋支店を開設
    • [35]1968年11月九州支店(福岡市)、1969年4月札幌支店、1970年9月広島支店、1970年11月仙台支店、1971年4月北関東支店(桐生市)、1971年5月名古屋支店を開設
参考文献[19]-[36]
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [19]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [20]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [21]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [22]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [23]業界は名古屋市中心のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を自社開発し直販。最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋、販売は桐生の流れを採用
    • [28]最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋の流れ(部品を買い集めて組み付け)を採用
    • [30]最後発の遅れを取り戻すため製造は名古屋の流れ(部品を買い集めて組み付け)を採用
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [24]1966年4月の設立時に東京支店・大阪支店を開設
    • [32]1968年11月九州支店(福岡市)、1969年4月札幌支店、1970年9月広島支店、1970年11月仙台支店、1971年4月北関東支店(桐生市)、1971年5月名古屋支店を開設
    • [33]1968年11月九州支店(福岡市)、1969年4月札幌支店、1970年9月広島支店、1970年11月仙台支店、1971年4月北関東支店(桐生市)、1971年5月名古屋支店を開設
    • [34]1968年11月九州支店(福岡市)、1969年4月札幌支店、1970年9月広島支店、1970年11月仙台支店、1971年4月北関東支店(桐生市)、1971年5月名古屋支店を開設
    • [35]1968年11月九州支店(福岡市)、1969年4月札幌支店、1970年9月広島支店、1970年11月仙台支店、1971年4月北関東支店(桐生市)、1971年5月名古屋支店を開設
  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [25]1968年に自動補給装置を発売しパチンコ機周辺機器を含めた製品ラインナップを整え、電動化・自動化に注力、1973年に電動式遊技機を開発・発売
    • [26]1968年に自動補給装置を発売しパチンコ機周辺機器を含めた製品ラインナップを整え、電動化・自動化に注力、1973年に電動式遊技機を開発・発売
    • [27]1968年に自動補給装置を発売しパチンコ機周辺機器を含めた製品ラインナップを整え、電動化・自動化に注力、1973年に電動式遊技機を開発・発売
    • [29]1968年に自動補給装置を発売しパチンコ機周辺機器を含めた製品ラインナップを整え、電動化・自動化に注力、1973年に電動式遊技機を開発・発売
    • [31]1968年に福岡市、1969年に札幌市に支店を開設し、全国的な営業拠点の充実を開始
    • [36]1968年に福岡市、1969年に札幌市に支店を開設し、全国的な営業拠点の充実を開始

1971年〜北関東支店から桐生へ移転した研究開発部と、名古屋・桐生の2工場

三共は1971年4月、北関東・信越地区の販売拠点として群馬県桐生市に北関東支店を開設した。桐生は、名古屋と並ぶパチンコ機のもう1つの産地である。桐生地区の3社は部品を地元で調達できず、開発から販売までを自社で担った。毒島邦雄氏が販売の手本としたのは、この桐生の直販方式である。北関東支店の所在地は、のちに群馬県太田市へ移った。直販の手本とした産地に拠点を置いたことで、三共は桐生の開発方式や技術者に接する機会を得た可能性がある。

  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [37]1971年4月 北関東・信越地区の販売拠点として群馬県桐生市に北関東支店(現群馬県太田市)を開設
    • [41]1971年4月 北関東・信越地区の販売拠点として群馬県桐生市に北関東支店(現群馬県太田市)を開設
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [38]業界は名古屋のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を地元で得られず自社開発・直販。三共は販売で桐生の流れを採用
    • [39]業界は名古屋のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を地元で得られず自社開発・直販。三共は販売で桐生の流れを採用
    • [40]業界は名古屋のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を地元で得られず自社開発・直販。三共は販売で桐生の流れを採用

三共は1975年、研究開発部を製造部から分離し、桐生へ移転した。毒島邦雄氏が移転の狙いに挙げたのは、外部の部品を調達して組み立てるだけの名古屋型の製造から抜け出すことである。背景には、チューリップ型の機械ではゲームの変化に限りがあり、客がパチンコから離れ始めていた事情があった。開発部は、地元の群馬大学工学部の出身者と大手電機メーカーから採用した社員で編成した。1975年当時のパチンコホールは約9,500店、パチンコ機の年間製造台数は約120万台、市場規模は1兆5,000億円だった。製品開発の中心は、その後ICの導入を含むエレクトロニクス化へ移った。独自の機構を持つ機械を自社で設計できる体制は、この分離で初めて整ったとうかがえる。

  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [42]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [43]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [44]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [45]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [46]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [47]その後、集積回路(IC)の導入などパチンコ機器のエレクトロニクス化が製品開発の中心となる

三共は1975年11月、生産拡大のため群馬県桐生市に桐生工場を開設した。設立時の名古屋工場と合わせ、生産拠点は2か所。毒島邦雄氏は、創業から10年を経て三共が業界で中堅の地位を認められるまでになったと振り返った。桐生の研究開発部は2年をかけ、スロットマシンの回転ドラムをパチンコに組み込んだIC搭載の第1号機「ブレンド」を完成させた。発売の時期はインベーダーゲームの全盛期と重なり、販売は年間数万台にとどまった。開発と生産を桐生に集めた体制は、1980年の超特電機「フィーバー」を生む土台になったと読める。

  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [48]1975年に群馬県桐生市に工場を新設し生産力を拡大。1980年に超特電機「フィーバー」
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [49]1975年11月 生産拡大のため群馬県桐生市に桐生工場を開設(1966年に名古屋工場を開設済み)
    • [50]1975年11月 生産拡大のため群馬県桐生市に桐生工場を開設(1966年に名古屋工場を開設済み)
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [51]10年経って中堅メーカーと評価される。研究開発部独立から2年で回転ドラムとIC回路を搭載した第1号機「ブレンド」を完成、インベーダーゲームに押され年間数万台
    • [52]10年経って中堅メーカーと評価される。研究開発部独立から2年で回転ドラムとIC回路を搭載した第1号機「ブレンド」を完成、インベーダーゲームに押され年間数万台
    • [53]10年経って中堅メーカーと評価される。研究開発部独立から2年で回転ドラムとIC回路を搭載した第1号機「ブレンド」を完成、インベーダーゲームに押され年間数万台
参考文献[37]-[53]
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
    • [37]1971年4月 北関東・信越地区の販売拠点として群馬県桐生市に北関東支店(現群馬県太田市)を開設
    • [41]1971年4月 北関東・信越地区の販売拠点として群馬県桐生市に北関東支店(現群馬県太田市)を開設
    • [49]1975年11月 生産拡大のため群馬県桐生市に桐生工場を開設(1966年に名古屋工場を開設済み)
    • [50]1975年11月 生産拡大のため群馬県桐生市に桐生工場を開設(1966年に名古屋工場を開設済み)
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
    • [38]業界は名古屋のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を地元で得られず自社開発・直販。三共は販売で桐生の流れを採用
    • [39]業界は名古屋のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を地元で得られず自社開発・直販。三共は販売で桐生の流れを採用
    • [40]業界は名古屋のメーカー群と桐生の3社の二つの流れ。桐生は部品を地元で得られず自社開発・直販。三共は販売で桐生の流れを採用
    • [42]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [43]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [44]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [45]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [46]1975年に研究開発部を製造部から分離し桐生に移転、既存部品を買い集め組み付ける名古屋の流れからの脱皮を図る。群馬大学工学部出身者と大手電機メーカー出身者で構成。当時ホール約9,500店、年間製造約120万台。チューリップ主流でバリエーションに限界
    • [51]10年経って中堅メーカーと評価される。研究開発部独立から2年で回転ドラムとIC回路を搭載した第1号機「ブレンド」を完成、インベーダーゲームに押され年間数万台
    • [52]10年経って中堅メーカーと評価される。研究開発部独立から2年で回転ドラムとIC回路を搭載した第1号機「ブレンド」を完成、インベーダーゲームに押され年間数万台
    • [53]10年経って中堅メーカーと評価される。研究開発部独立から2年で回転ドラムとIC回路を搭載した第1号機「ブレンド」を完成、インベーダーゲームに押され年間数万台
  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)
    • [47]その後、集積回路(IC)の導入などパチンコ機器のエレクトロニクス化が製品開発の中心となる
    • [48]1975年に群馬県桐生市に工場を新設し生産力を拡大。1980年に超特電機「フィーバー」

出典・参考

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出典・参考
  • 有価証券報告書 2005年3月期 沿革
  • 証券アナリストジャーナル 30(1) 1991年12月 毒島邦雄(会社説明会・大阪)
  • 証券 47(10)(559) 1995年(新規上場会社紹介・沿革)

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