CKD:5社出資の日本航空電機設立と管球機械への転身
1943年〜資本金1,000万円の日本航空電機と、日本電気京都工場へ納めた真空管製造機械
日本航空電機は1943年4月、資本金1,000万円で名古屋市に設立された。出資者は住友通信工業、川崎航空機工業、小糸製作所、住友金属工業、東洋紡績の5社で、このうち住友通信工業はのちの日本電気である。設立の目的は、軍事用航空機に載せる電装部品の生産に置かれた。発足と同時に始めた仕事は、航空機向けの電装部品などをつくることであった。通信機・機体・灯火・金属材料・繊維と本業の異なる5社が資金を出し合い、戦時の航空機増産に要る電装部品の調達先を名古屋に設けたとみられる。
- CKD 有価証券報告書「沿革」
- [1]1943年4月、住友通信工業・川崎航空機工業・小糸製作所・住友金属工業・東洋紡績の5社出資で日本航空電機を名古屋市に資本金1,000万円で設立
- [2]1943年4月、住友通信工業・川崎航空機工業・小糸製作所・住友金属工業・東洋紡績の5社出資で日本航空電機を名古屋市に資本金1,000万円で設立
- 証券 1979年12月(新規上場会社紹介)
- [3]軍事用航空機の電装部品を生産する目的で設立。出資者の住友通信工業は現在の日本電気
- [4]軍事用航空機の電装部品を生産する目的で設立。出資者の住友通信工業は現在の日本電気
- 企業の歴史(明治百年, 1968)「中京電機」
- [5]1943年4月、5社出資・資本金1,000万円で日本航空電機を設立し、航空機の電装部品などの製作に着手
1945年10月、中京電機への商号変更。設立から2年余りで終戦を迎え、軍事用航空機そのものの生産が止まったためである。改称とともに、事業を電気機械器具の製造・修理・販売へ転換した。重点を置いたのは、真空管を製造する各種の自動機械の設計と製作であった。1948年からは、Chukyo Electric Coの頭文字を取ったCECの標章を使い始めた。航空機向けの電装部品で得た電気の技術を、民需品を量産する工場の設備へ振り向けた転換と推察される。
- CKD 有価証券報告書「沿革」
- [6]1945年10月、社名を中京電機株式会社に改称
- 証券 1979年12月(新規上場会社紹介)
- [7]設立後2年余りで終戦となり軍事用航空機の生産が止まったため、1945年10月に中京電機へ改称し、電気機械器具の製造・修理・販売へ事業を転換
- [8]設立後2年余りで終戦となり軍事用航空機の生産が止まったため、1945年10月に中京電機へ改称し、電気機械器具の製造・修理・販売へ事業を転換
- 企業の歴史(明治百年, 1968)「中京電機」
- [9]1945年10月の改称時に企業の重点を真空管製造用各種自動機械の設計・製作へ転換。1948年からCEC(Chukyo Electric Co)の標章を使用
- [10]1945年10月の改称時に企業の重点を真空管製造用各種自動機械の設計・製作へ転換。1948年からCEC(Chukyo Electric Co)の標章を使用
中京電機の最初の本格的な納入先は、日本電気の京都工場であった。1947年5月、会社は同工場の真空管製造機械装置を製造して販売した。日本電気は、創業時に出資した住友通信工業の後身にあたる。真空管と電球の製造プラントとして生まれた管球製造装置は、のちにブラウン管、蛍光灯、水銀灯などのランプ類の製造プラントへ用途を広げた。1979年時点の納入先には、欧州で大手とされるランプメーカー3社のうち2社が含まれていた。出資元との資本関係が、転換直後の会社に最初の得意先をもたらしたのだろう。
- 証券 1979年12月(新規上場会社紹介)
- [11]1947年5月、日本電気(旧住友通信工業)京都工場の真空管製造機械装置を製造販売
- [12]1947年5月、日本電気(旧住友通信工業)京都工場の真空管製造機械装置を製造販売
- [13]1947年5月、日本電気(旧住友通信工業)京都工場の真空管製造機械装置を製造販売
- 証券アナリストジャーナル 17(6) 1979年
- [14]管球製造装置は約35年前に真空管電球製造プラントとして開発され、ブラウン管・蛍光灯・水銀灯などのランプ類製造プラントへ発展。欧州3大ランプメーカーのうち2社に納入(1979年時点)
- [15]管球製造装置は約35年前に真空管電球製造プラントとして開発され、ブラウン管・蛍光灯・水銀灯などのランプ類製造プラントへ発展。欧州3大ランプメーカーのうち2社に納入(1979年時点)
参考文献[1]-[15]
- CKD 有価証券報告書「沿革」
- [1]1943年4月、住友通信工業・川崎航空機工業・小糸製作所・住友金属工業・東洋紡績の5社出資で日本航空電機を名古屋市に資本金1,000万円で設立
- [2]1943年4月、住友通信工業・川崎航空機工業・小糸製作所・住友金属工業・東洋紡績の5社出資で日本航空電機を名古屋市に資本金1,000万円で設立
- [6]1945年10月、社名を中京電機株式会社に改称
- 証券 1979年12月(新規上場会社紹介)
- [3]軍事用航空機の電装部品を生産する目的で設立。出資者の住友通信工業は現在の日本電気
- [4]軍事用航空機の電装部品を生産する目的で設立。出資者の住友通信工業は現在の日本電気
- [7]設立後2年余りで終戦となり軍事用航空機の生産が止まったため、1945年10月に中京電機へ改称し、電気機械器具の製造・修理・販売へ事業を転換
- [8]設立後2年余りで終戦となり軍事用航空機の生産が止まったため、1945年10月に中京電機へ改称し、電気機械器具の製造・修理・販売へ事業を転換
- [11]1947年5月、日本電気(旧住友通信工業)京都工場の真空管製造機械装置を製造販売
- [12]1947年5月、日本電気(旧住友通信工業)京都工場の真空管製造機械装置を製造販売
- [13]1947年5月、日本電気(旧住友通信工業)京都工場の真空管製造機械装置を製造販売
- 企業の歴史(明治百年, 1968)「中京電機」
- [5]1943年4月、5社出資・資本金1,000万円で日本航空電機を設立し、航空機の電装部品などの製作に着手
- [9]1945年10月の改称時に企業の重点を真空管製造用各種自動機械の設計・製作へ転換。1948年からCEC(Chukyo Electric Co)の標章を使用
- [10]1945年10月の改称時に企業の重点を真空管製造用各種自動機械の設計・製作へ転換。1948年からCEC(Chukyo Electric Co)の標章を使用
- 証券アナリストジャーナル 17(6) 1979年
- [14]管球製造装置は約35年前に真空管電球製造プラントとして開発され、ブラウン管・蛍光灯・水銀灯などのランプ類製造プラントへ発展。欧州3大ランプメーカーのうち2社に納入(1979年時点)
- [15]管球製造装置は約35年前に真空管電球製造プラントとして開発され、ブラウン管・蛍光灯・水銀灯などのランプ類製造プラントへ発展。欧州3大ランプメーカーのうち2社に納入(1979年時点)
1948年〜600万円への減資と、松下電器産業の守口工場から取った乾電池製造機械
1948年7月、中京電機は企業再建整備計画に基づき、資本金を1,000万円から600万円に減資した。終戦直後の資金繰りは、土地の売却で不足を補うほど苦しかった。1963年に社長を務めた嘉納照彦氏は、伝え聞いた当時の状況を『終戦直後は苦難の道を歩き重要な土地を売つて不足をまかなつていた』と表した。嘉納照彦氏はこの経験を、配当や株価で無理をしない堅実な経営を説く根拠に挙げた。減資によって、戦時の航空機部品会社として払い込んだ資本を、管球機械に絞った戦後の事業規模に合わせたと思われる。
- 企業の歴史(明治百年, 1968)「中京電機」
- [16]1948年7月、企業再建整備計画により資本金を600万円に減資
- 野田経済 880 1963年7月22日
- [17]社長の嘉納照彦氏が1963年、終戦直後は重要な土地を売って不足をまかなっていたと聞くとし、配当や株価で無理をしない堅実経営の理由に挙げた
- [18]社長の嘉納照彦氏が1963年、終戦直後は重要な土地を売って不足をまかなっていたと聞くとし、配当や株価で無理をしない堅実経営の理由に挙げた
- [19]社長の嘉納照彦氏が1963年、終戦直後は重要な土地を売って不足をまかなっていたと聞くとし、配当や株価で無理をしない堅実経営の理由に挙げた
1948年11月、中京電機は松下電器産業との取引を始めた。松下電器産業の真空管、電球、乾電池の各工場について、製造設備の自動化を引き受けた。取引開始から2年の間に、会社は自動化の案件で成果を上げた。1950年1月には、守口工場の乾電池製造機械装置を受注した。得意先は日本電気の1社から、家電を量産する松下電器産業へ広がった。真空管の製造機械で身につけた自動化の技術は、電球や乾電池の製造ラインにも通用するものとして評価されたと推測される。
- 企業の歴史(明治百年, 1968)「中京電機」
- [20]1948年11月から松下電器産業と取引を開始し、真空管・電球・乾電池など各工場の設備自動化を引き受け、その後2年間で成果を上げた
- [21]1948年11月から松下電器産業と取引を開始し、真空管・電球・乾電池など各工場の設備自動化を引き受け、その後2年間で成果を上げた
- [22]1948年11月から松下電器産業と取引を開始し、真空管・電球・乾電池など各工場の設備自動化を引き受け、その後2年間で成果を上げた
- 証券 1979年12月(新規上場会社紹介)
- [23]1947年5月の日本電気京都工場に続き、1950年1月に松下電器産業守口工場の乾電池製造機械装置を受注
- [24]1947年5月の日本電気京都工場に続き、1950年1月に松下電器産業守口工場の乾電池製造機械装置を受注
1953年11月、資本金を1,200万円へ増資。この時点の主な収益源は、家電メーカー向けに製造ラインを自動化する機械装置であった。1956年12月には、ソレノイドとソレノイドバルブの生産に着手した。自動機械装置の部品を単体の製品に仕立てる機器製品は、取扱製品を多様化する手段となった。1950年代半ばからの耐久消費財ブームで、家電各社の設備投資は急増した。自動機械の内部で使う部品を自ら作ってきた蓄積が、機器部門への参入の足場になったと考えられる。
- 企業の歴史(明治百年, 1968)「中京電機」
- [25]1953年11月に資本金を1,200万円に増資し、1956年12月にソレノイド・ソレノイドバルブの生産に着手
- [27]1953年11月に資本金を1,200万円に増資し、1956年12月にソレノイド・ソレノイドバルブの生産に着手
- 証券 1979年12月(新規上場会社紹介)
- [26]家電メーカーの製造ライン自動化の機械装置を中心に事業基盤を整備。耐久消費財ブームで家電各社の設備投資が急増し、自動機械装置の部品を製品化(機器製品)して取扱製品を多様化
- [28]家電メーカーの製造ライン自動化の機械装置を中心に事業基盤を整備。耐久消費財ブームで家電各社の設備投資が急増し、自動機械装置の部品を製品化(機器製品)して取扱製品を多様化
- [29]家電メーカーの製造ライン自動化の機械装置を中心に事業基盤を整備。耐久消費財ブームで家電各社の設備投資が急増し、自動機械装置の部品を製品化(機器製品)して取扱製品を多様化
参考文献[16]-[29]
- 企業の歴史(明治百年, 1968)「中京電機」
- [16]1948年7月、企業再建整備計画により資本金を600万円に減資
- [20]1948年11月から松下電器産業と取引を開始し、真空管・電球・乾電池など各工場の設備自動化を引き受け、その後2年間で成果を上げた
- [21]1948年11月から松下電器産業と取引を開始し、真空管・電球・乾電池など各工場の設備自動化を引き受け、その後2年間で成果を上げた
- [22]1948年11月から松下電器産業と取引を開始し、真空管・電球・乾電池など各工場の設備自動化を引き受け、その後2年間で成果を上げた
- [25]1953年11月に資本金を1,200万円に増資し、1956年12月にソレノイド・ソレノイドバルブの生産に着手
- [27]1953年11月に資本金を1,200万円に増資し、1956年12月にソレノイド・ソレノイドバルブの生産に着手
- 野田経済 880 1963年7月22日
- [17]社長の嘉納照彦氏が1963年、終戦直後は重要な土地を売って不足をまかなっていたと聞くとし、配当や株価で無理をしない堅実経営の理由に挙げた
- [18]社長の嘉納照彦氏が1963年、終戦直後は重要な土地を売って不足をまかなっていたと聞くとし、配当や株価で無理をしない堅実経営の理由に挙げた
- [19]社長の嘉納照彦氏が1963年、終戦直後は重要な土地を売って不足をまかなっていたと聞くとし、配当や株価で無理をしない堅実経営の理由に挙げた
- 証券 1979年12月(新規上場会社紹介)
- [23]1947年5月の日本電気京都工場に続き、1950年1月に松下電器産業守口工場の乾電池製造機械装置を受注
- [24]1947年5月の日本電気京都工場に続き、1950年1月に松下電器産業守口工場の乾電池製造機械装置を受注
- [26]家電メーカーの製造ライン自動化の機械装置を中心に事業基盤を整備。耐久消費財ブームで家電各社の設備投資が急増し、自動機械装置の部品を製品化(機器製品)して取扱製品を多様化
- [28]家電メーカーの製造ライン自動化の機械装置を中心に事業基盤を整備。耐久消費財ブームで家電各社の設備投資が急増し、自動機械装置の部品を製品化(機器製品)して取扱製品を多様化
- [29]家電メーカーの製造ライン自動化の機械装置を中心に事業基盤を整備。耐久消費財ブームで家電各社の設備投資が急増し、自動機械装置の部品を製品化(機器製品)して取扱製品を多様化
出典・参考
5件
- CKD 有価証券報告書「沿革」
- 企業の歴史(明治百年, 1968)「中京電機」
- 証券アナリストジャーナル 17(6) 1979年
- 野田経済 880 1963年7月22日
- 証券 1979年12月(新規上場会社紹介)