井関農機:井関農具商会の創立と井関農機の設立
1926年〜宇和島で出会った除草機と、松山・新玉町に開いた井関農具商会
井関邦三郎氏は1918年、農作業を続ける体力に自信を持てず、田畑と家屋敷を処分した3635円を元手に商いへ転じた。肥料の行商は信用組合の無税販売に価格で対抗できず、約3500円を残して清算した。当時の籾摺機と発動機は1組800円ほどで米約50俵に相当し、一般の農家には手が届かなかった。井関邦三郎氏は1919年初夏に宇和島で大野商店の中耕除草機を目にし、草取りの労苦を減らせると見て特約販売を始めた。1924年7月には郷里の三間村に個人営業の井関農具製作所を構え、除草機の生産へ転換。高価な動力機械ではなく、農家の手が届く価格の手押し農具から入ったことが創業の足場になったとみられる。
- 井関農機60年史(1989)「井関邦三郎の生い立ち」
- [1]1918年に家業の農業をやめ全財産を3635円で処分、肥料商を経て約3500円を残し清算
- [2]1918年に家業の農業をやめ全財産を3635円で処分、肥料商を経て約3500円を残し清算
- 井関農機60年史(1989)「大正期までの農機事情」
- [3]大正14年ごろ籾摺機と発動機は1セット約800円で米約50俵分、一般農家は購入できず
- 井関農機60年史(1989)「井関農具製作所の創業」
- [4]1919年宇和島で大野式中耕除草機を見て特約販売、1924年7月三間村で井関農具製作所を創業
- [5]1919年宇和島で大野式中耕除草機を見て特約販売、1924年7月三間村で井関農具製作所を創業
井関邦三郎氏は1925年10月、熊本の共進会で岩田式籾はぎ機の実演を見て、東京の岩田兄弟工場と特約販売の契約を結んだ。契約は愛媛・高知の2県を対象とし、月13台を引き取る条件で、1926年に届いた機械は愛媛でほとんど販売できず資金繰りを圧迫した。打開を求めて訪ねた高知の農事試験場で選別機の併用を勧められ、山本農機商会の山本式自動選別機を選んだ。両機を組み合わせた籾摺機は三間村の実演で10台ほどの注文を得て、滞っていた在庫も動き始めた。井関邦三郎氏は山本松次氏が求めた岩田式の高知での販売権を、愛媛での山本式の製造販売権と交換した。他社製品の販売権を交渉材料に転じ、自ら製造できる製品を確保したことが製造業への入口になったと考えられる。
- 井関農機60年史(1989)「岩田式籾はぎ機の販売」
- [6]1925年10月岩田式籾はぎ機の愛媛・高知2県の特約契約(保証金1000円・月13台)、1926年に在庫が積み上がり資金繰りが悪化
- [7]1925年10月岩田式籾はぎ機の愛媛・高知2県の特約契約(保証金1000円・月13台)、1926年に在庫が積み上がり資金繰りが悪化
- 井関農機60年史(1989)「山本式自動選別機の権利取得」
- [8]高知の農事試験場の助言で山本式自動選別機を採用、岩田式の高知販売権と山本式の愛媛製造販売権を交換
- [9]高知の農事試験場の助言で山本式自動選別機を採用、岩田式の高知販売権と山本式の愛媛製造販売権を交換
- [10]高知の農事試験場の助言で山本式自動選別機を採用、岩田式の高知販売権と山本式の愛媛製造販売権を交換
井関邦三郎氏は1926年8月7日、三間村の井関農具製作所を解散し、松山市新玉町に井関農具商会を創立した。事業は山本式自動選別機の生産販売と岩田式籾はぎ機の仕入販売が中心で、いずれも愛媛県内に限られていた。両機を組み合わせた全自動籾摺機は1台400円で、初年度に36台、1927年に60台を生産販売した。創立時の生産要員は12名、工場は約40坪の賃借の建屋。山本式の製造販売権は1928年に九州、1929年に北海道、1931年に残り全域へと広がり、権利金は5000〜6000円とされる。地域を限った権利から始めて対象を順に広げたことで、資金の制約の中でも全国展開への道筋をつけたのだろう。
- 井関農機60年史(1989)「創立,山本式自動選別機の生産」
- [11]1926年8月7日松山市新玉町に井関農具商会を創立、山本式選別機の生産販売と岩田式の仕入販売(愛媛県内)
- [12]1926年8月7日松山市新玉町に井関農具商会を創立、山本式選別機の生産販売と岩田式の仕入販売(愛媛県内)
- 井関農機60年史(1989)「創立当時の販売活動」
- [13]全自動籾摺機1台400円、初年度36台・1927年60台、生産要員12名・工場約40坪、山本式の権利を1928九州・1929北海道・1931残り全域で取得
- [14]全自動籾摺機1台400円、初年度36台・1927年60台、生産要員12名・工場約40坪、山本式の権利を1928九州・1929北海道・1931残り全域で取得
- [15]全自動籾摺機1台400円、初年度36台・1927年60台、生産要員12名・工場約40坪、山本式の権利を1928九州・1929北海道・1931残り全域で取得
- 井関農機60年史(1989)「株式会社井関製作所に改組・改称」
- [16]山本式の全国販売権の権利金は5000〜6000円(社内報『はぐるま』11号)
参考文献[1]-[16]
- 井関農機60年史(1989)「井関邦三郎の生い立ち」
- [1]1918年に家業の農業をやめ全財産を3635円で処分、肥料商を経て約3500円を残し清算
- [2]1918年に家業の農業をやめ全財産を3635円で処分、肥料商を経て約3500円を残し清算
- 井関農機60年史(1989)「大正期までの農機事情」
- [3]大正14年ごろ籾摺機と発動機は1セット約800円で米約50俵分、一般農家は購入できず
- 井関農機60年史(1989)「井関農具製作所の創業」
- [4]1919年宇和島で大野式中耕除草機を見て特約販売、1924年7月三間村で井関農具製作所を創業
- [5]1919年宇和島で大野式中耕除草機を見て特約販売、1924年7月三間村で井関農具製作所を創業
- 井関農機60年史(1989)「岩田式籾はぎ機の販売」
- [6]1925年10月岩田式籾はぎ機の愛媛・高知2県の特約契約(保証金1000円・月13台)、1926年に在庫が積み上がり資金繰りが悪化
- [7]1925年10月岩田式籾はぎ機の愛媛・高知2県の特約契約(保証金1000円・月13台)、1926年に在庫が積み上がり資金繰りが悪化
- 井関農機60年史(1989)「山本式自動選別機の権利取得」
- [8]高知の農事試験場の助言で山本式自動選別機を採用、岩田式の高知販売権と山本式の愛媛製造販売権を交換
- [9]高知の農事試験場の助言で山本式自動選別機を採用、岩田式の高知販売権と山本式の愛媛製造販売権を交換
- [10]高知の農事試験場の助言で山本式自動選別機を採用、岩田式の高知販売権と山本式の愛媛製造販売権を交換
- 井関農機60年史(1989)「創立,山本式自動選別機の生産」
- [11]1926年8月7日松山市新玉町に井関農具商会を創立、山本式選別機の生産販売と岩田式の仕入販売(愛媛県内)
- [12]1926年8月7日松山市新玉町に井関農具商会を創立、山本式選別機の生産販売と岩田式の仕入販売(愛媛県内)
- 井関農機60年史(1989)「創立当時の販売活動」
- [13]全自動籾摺機1台400円、初年度36台・1927年60台、生産要員12名・工場約40坪、山本式の権利を1928九州・1929北海道・1931残り全域で取得
- [14]全自動籾摺機1台400円、初年度36台・1927年60台、生産要員12名・工場約40坪、山本式の権利を1928九州・1929北海道・1931残り全域で取得
- [15]全自動籾摺機1台400円、初年度36台・1927年60台、生産要員12名・工場約40坪、山本式の権利を1928九州・1929北海道・1931残り全域で取得
- 井関農機60年史(1989)「株式会社井関製作所に改組・改称」
- [16]山本式の全国販売権の権利金は5000〜6000円(社内報『はぐるま』11号)
1928年〜株式会社井関製作所への改組と、設立から解散までの東洋農機
井関邦三郎氏は1931年6月、井関農具商会を資本金5万円の株式会社井関製作所に改組し、社名も改めた。全国の製造販売権を得て設備を増強するため、拡張の余地がない新玉町から松山市湊町の約1000坪の工場跡地へ移った。1929年の農林省の比較審査を機に瑞光社のゴムロール式が普及し、衝撃式の岩田式は砕米の弱点を克服できず後退した。井関製作所も1931年春に試験を経て、岩田式に代えてゴムロール式の脱稃部を採用すると決めた。井関邦三郎氏は後年、創業から10年間は資金が伴わず一人で金策に奔走したと回想した。製品の方式転換と工場拡張が重なる時期に、会社の形を整えて信用を得る必要があったと推察される。
- 井関農機60年史(1989)「株式会社井関製作所に改組・改称」
- [17]1931年6月株式会社井関製作所に改組(資本金5万円)、湊町の約1000坪を賃借、従業員約30名、資金繰りに苦労
- [18]1931年6月株式会社井関製作所に改組(資本金5万円)、湊町の約1000坪を賃借、従業員約30名、資金繰りに苦労
- [21]1931年6月株式会社井関製作所に改組(資本金5万円)、湊町の約1000坪を賃借、従業員約30名、資金繰りに苦労
- 井関農機60年史(1989)「岩田式からロール式へ」
- [19]1929年比較審査後ゴムロール式が普及し衝撃式が衰退、1931年春ゴムロール式への切替えを決定
- [20]1929年比較審査後ゴムロール式が普及し衝撃式が衰退、1931年春ゴムロール式への切替えを決定
1931年6月、近畿を地盤とする販売業者の吉田商工部が、ゴムロール式脱稃部付きの籾摺機を販売しているとの情報が届いた。井関製作所は選別機、吉田商工部は脱稃部を持つだけで、両者の製品は互いの欠けた部分を補い合う組み合わせである。井関製作所は本州全域の販売権を得たばかりで、本州での販売はまだ手つかずだった。当時の農機具販売は現地で実演して注文を取る方式が多く、個人経営が大半の販売店では売り込める量が限られた。1931年9月に愛媛県の農業祭へ出した試作機が好評を得て、1932年からは選別機と脱稃部を相互に供給し、各自の販売網で販売した。自前の販路が届かない本州を他社の販売網で補う判断だったと推測される。
- 井関農機60年史(1989)「吉田商工部との販売提携」
- [22]1931年6月吉田商工部のゴムロール式脱稃部を知り、選別機と脱稃部の補完関係から1932年より相互供給・相互販売
- [23]1931年6月吉田商工部のゴムロール式脱稃部を知り、選別機と脱稃部の補完関係から1932年より相互供給・相互販売
- [24]1931年6月吉田商工部のゴムロール式脱稃部を知り、選別機と脱稃部の補完関係から1932年より相互供給・相互販売
- [26]1931年6月吉田商工部のゴムロール式脱稃部を知り、選別機と脱稃部の補完関係から1932年より相互供給・相互販売
- 井関農機60年史(1989)「創立当時の販売活動」
- [25]昭和初期の農機具販売は現地での実演による注文取りが主で、個人経営の販売能力に限界
井関製作所と吉田商工部は1933年3月、円札鉄工所を加えて東洋農機合名会社を大阪に設立し、井関製作所35、吉田商工部65の比率で出資した。1935年2月には関係会社を吸収合併して資本金100万円の東洋農機株式会社とし、従業員は約400名となった。直後に吉田商工部が桑名で籾摺機工場を準備していると伝わり、井関製作所の幹部は選別機の技術を狙った合併と受け止めた。1935年6月に決別が決まり、1936年2月28日に会社は解散。井関邦三郎氏は解散の理由を、従来の機構では農機具の改良研究や需要者との取引が円滑を欠いたためと新聞に説明した。決別の直後の1935年7月2日、乗船したみどり丸が小豆島沖で沈没し、井関邦三郎氏は海中から救助された。
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機合名会社の設立」
- [27]1933年3月東洋農機合名会社を設立(資本金20万円、出資比率井関35・吉田65)
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機株式会社の設立」
- [28]1935年2月東洋農機株式会社を設立し関係会社を吸収合併(資本金100万円、従業員約400名)
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機の解散」
- [29]吉田側の桑名工場計画で不信が高まり1935年6月決別、1936年2月28日解散。邦三郎は改良研究・取引の不円滑を理由に挙げた(1936年4月5日付中外農林新聞)
- [30]吉田側の桑名工場計画で不信が高まり1935年6月決別、1936年2月28日解散。邦三郎は改良研究・取引の不円滑を理由に挙げた(1936年4月5日付中外農林新聞)
- [31]吉田側の桑名工場計画で不信が高まり1935年6月決別、1936年2月28日解散。邦三郎は改良研究・取引の不円滑を理由に挙げた(1936年4月5日付中外農林新聞)
- 井関農機60年史(1989)「みどり丸遭難事件」
- [32]1935年7月2日みどり丸が小豆島沖で千山丸と衝突沈没、邦三郎は救助された
参考文献[17]-[32]
- 井関農機60年史(1989)「株式会社井関製作所に改組・改称」
- [17]1931年6月株式会社井関製作所に改組(資本金5万円)、湊町の約1000坪を賃借、従業員約30名、資金繰りに苦労
- [18]1931年6月株式会社井関製作所に改組(資本金5万円)、湊町の約1000坪を賃借、従業員約30名、資金繰りに苦労
- [21]1931年6月株式会社井関製作所に改組(資本金5万円)、湊町の約1000坪を賃借、従業員約30名、資金繰りに苦労
- 井関農機60年史(1989)「岩田式からロール式へ」
- [19]1929年比較審査後ゴムロール式が普及し衝撃式が衰退、1931年春ゴムロール式への切替えを決定
- [20]1929年比較審査後ゴムロール式が普及し衝撃式が衰退、1931年春ゴムロール式への切替えを決定
- 井関農機60年史(1989)「吉田商工部との販売提携」
- [22]1931年6月吉田商工部のゴムロール式脱稃部を知り、選別機と脱稃部の補完関係から1932年より相互供給・相互販売
- [23]1931年6月吉田商工部のゴムロール式脱稃部を知り、選別機と脱稃部の補完関係から1932年より相互供給・相互販売
- [24]1931年6月吉田商工部のゴムロール式脱稃部を知り、選別機と脱稃部の補完関係から1932年より相互供給・相互販売
- [26]1931年6月吉田商工部のゴムロール式脱稃部を知り、選別機と脱稃部の補完関係から1932年より相互供給・相互販売
- 井関農機60年史(1989)「創立当時の販売活動」
- [25]昭和初期の農機具販売は現地での実演による注文取りが主で、個人経営の販売能力に限界
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機合名会社の設立」
- [27]1933年3月東洋農機合名会社を設立(資本金20万円、出資比率井関35・吉田65)
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機株式会社の設立」
- [28]1935年2月東洋農機株式会社を設立し関係会社を吸収合併(資本金100万円、従業員約400名)
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機の解散」
- [29]吉田側の桑名工場計画で不信が高まり1935年6月決別、1936年2月28日解散。邦三郎は改良研究・取引の不円滑を理由に挙げた(1936年4月5日付中外農林新聞)
- [30]吉田側の桑名工場計画で不信が高まり1935年6月決別、1936年2月28日解散。邦三郎は改良研究・取引の不円滑を理由に挙げた(1936年4月5日付中外農林新聞)
- [31]吉田側の桑名工場計画で不信が高まり1935年6月決別、1936年2月28日解散。邦三郎は改良研究・取引の不円滑を理由に挙げた(1936年4月5日付中外農林新聞)
- 井関農機60年史(1989)「みどり丸遭難事件」
- [32]1935年7月2日みどり丸が小豆島沖で千山丸と衝突沈没、邦三郎は救助された
1936年〜資本金50万円で立てた井関農機と、甲位に入選した自動送込脱穀機
井関邦三郎氏は1936年3月20日、資本金50万円で井関農機株式会社を設立し、籾摺機と自動選別機の製造販売を始めた。新会社は製品に初めて「ヰセキ式」の名称を付け、従業員約200名で脱稃部と選別機の両方を自社工場で生産した。販売では吉田商工部系の特約店に依存した近畿・東海などの建て直しと、関東・東北の開拓が課題である。1936年4月に杉山商店と東日本の総代理店契約を結び、同店は年末までに1000台を超える籾摺機を販売した。吉田商工部との特約店の争奪では、改良した11年型籾摺機を投入し、半年足らずで大半を傘下に収めた。製造と販売を自社に一本化したことで、製品改良の成果が特約店の選択に直結したと思われる。
- 井関農機60年史(1989)「新生「ヰセキ」の体制」
- [33]1936年3月20日井関農機株式会社設立(資本金50万円・4分の1払込み、代表取締役井関邦三郎、従業員約200名)、ヰセキ式の名称を採用
- [35]1936年3月20日井関農機株式会社設立(資本金50万円・4分の1払込み、代表取締役井関邦三郎、従業員約200名)、ヰセキ式の名称を採用
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)「井関農機」
- [34]1936年3月資本金50万円で設立し籾摺機・自動選別機の製造販売を開始
- 井関農機60年史(1989)「販売網の形成」
- [36]1936年4月杉山商店と東日本総代理店契約、年末に1000台突破、11年型籾摺機で特約店の大半を獲得
- [37]1936年4月杉山商店と東日本総代理店契約、年末に1000台突破、11年型籾摺機で特約店の大半を獲得
- [38]1936年4月杉山商店と東日本総代理店契約、年末に1000台突破、11年型籾摺機で特約店の大半を獲得
九州の特約店から開発を求められていた井関邦三郎氏は1936年秋、鴻巣の農事試験場で高千穂製作所の自動脱穀機を見て開発を決意した。高千穂製作所との権利交渉は法外な条件を示されて進まず、1937年春に自力での開発へ切り替えた。技術陣3名が上下に動く挟扼桿を考案し、1938年3月にヰセキ式自動送込脱穀機として公表した。1941年3月に公示された農林省の比較審査では、1号C型が出品23台の中で最高位の甲位に入った。それまでの扱い製品はすべて他社の市販機の改良で、自動脱穀機は社内で一から設計した初めての製品である。これを境に開発・生産・販売を一貫して担うメーカーへ移り、社史はこの転換を「商から工へ」と位置づけた。
- 井関農機60年史(1989)「自動脱穀機の研究開発」
- [39]1936年秋に高千穂製の自動脱穀機を見て開発を決意、権利交渉は不調で1937年春に自社開発を決断
- [40]1936年秋に高千穂製の自動脱穀機を見て開発を決意、権利交渉は不調で1937年春に自社開発を決断
- 井関農機60年史(1989)「比較審査で甲位入選」
- [41]1938年3月ヰセキ式自動送込脱穀機を公表、1941年3月農林省比較審査で1号C型が甲位入選(23台中)、商から工への転機
- [42]1938年3月ヰセキ式自動送込脱穀機を公表、1941年3月農林省比較審査で1号C型が甲位入選(23台中)、商から工への転機
- [43]1938年3月ヰセキ式自動送込脱穀機を公表、1941年3月農林省比較審査で1号C型が甲位入選(23台中)、商から工への転機
- [44]1938年3月ヰセキ式自動送込脱穀機を公表、1941年3月農林省比較審査で1号C型が甲位入選(23台中)、商から工への転機
井関農機は1936年から年5割前後の増産を続け、1940年に生産高の順位が業界2番目へ上がった。同じ1940年5月に農機具配給株式会社が設立され、メーカーは割り当てられた資材と数量の範囲で製造し、製品は指定機関が配給する仕組みに移った。1942年3月に海軍第11空廠の指定工場となり、1943年7月10日には井関航空兵器製作所を設置し、航空機のシリンダの生産にあたった。軍部から全面的な軍需工場への転換を勧められた際、井関邦三郎氏は平和回復後の農機具供給に間に合わないとして辞退した。1944年に本土が空襲圏に入り、井関農機は1945年4月に潮見村への工場疎開を決めた。軍需で資材と人員を確保しながら農機具の設備を残したことが、本業を絶やさない条件になったと読み取れる。
- 井関農機60年史(1989)「戦時統制経済の進展」
- [45]1936年以来毎年5割増産の目標、1940年に業界第2位、1940年5月農機具配給株式会社が設立され割当生産へ
- [46]1936年以来毎年5割増産の目標、1940年に業界第2位、1940年5月農機具配給株式会社が設立され割当生産へ
- 井関農機60年史(1989)「井関航空兵器製作所の設置」
- [47]1942年3月海軍第11空廠の指定工場、1943年7月10日井関航空兵器製作所を設置しシリンダを生産、全面軍需転換を辞退
- [48]1942年3月海軍第11空廠の指定工場、1943年7月10日井関航空兵器製作所を設置しシリンダを生産、全面軍需転換を辞退
- 井関農機60年史(1989)「工場疎開」
- [49]1944年から本土が空襲圏に、1945年4月潮見村への分散疎開を決定
参考文献[33]-[49]
- 井関農機60年史(1989)「新生「ヰセキ」の体制」
- [33]1936年3月20日井関農機株式会社設立(資本金50万円・4分の1払込み、代表取締役井関邦三郎、従業員約200名)、ヰセキ式の名称を採用
- [35]1936年3月20日井関農機株式会社設立(資本金50万円・4分の1払込み、代表取締役井関邦三郎、従業員約200名)、ヰセキ式の名称を採用
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)「井関農機」
- [34]1936年3月資本金50万円で設立し籾摺機・自動選別機の製造販売を開始
- 井関農機60年史(1989)「販売網の形成」
- [36]1936年4月杉山商店と東日本総代理店契約、年末に1000台突破、11年型籾摺機で特約店の大半を獲得
- [37]1936年4月杉山商店と東日本総代理店契約、年末に1000台突破、11年型籾摺機で特約店の大半を獲得
- [38]1936年4月杉山商店と東日本総代理店契約、年末に1000台突破、11年型籾摺機で特約店の大半を獲得
- 井関農機60年史(1989)「自動脱穀機の研究開発」
- [39]1936年秋に高千穂製の自動脱穀機を見て開発を決意、権利交渉は不調で1937年春に自社開発を決断
- [40]1936年秋に高千穂製の自動脱穀機を見て開発を決意、権利交渉は不調で1937年春に自社開発を決断
- 井関農機60年史(1989)「比較審査で甲位入選」
- [41]1938年3月ヰセキ式自動送込脱穀機を公表、1941年3月農林省比較審査で1号C型が甲位入選(23台中)、商から工への転機
- [42]1938年3月ヰセキ式自動送込脱穀機を公表、1941年3月農林省比較審査で1号C型が甲位入選(23台中)、商から工への転機
- [43]1938年3月ヰセキ式自動送込脱穀機を公表、1941年3月農林省比較審査で1号C型が甲位入選(23台中)、商から工への転機
- [44]1938年3月ヰセキ式自動送込脱穀機を公表、1941年3月農林省比較審査で1号C型が甲位入選(23台中)、商から工への転機
- 井関農機60年史(1989)「戦時統制経済の進展」
- [45]1936年以来毎年5割増産の目標、1940年に業界第2位、1940年5月農機具配給株式会社が設立され割当生産へ
- [46]1936年以来毎年5割増産の目標、1940年に業界第2位、1940年5月農機具配給株式会社が設立され割当生産へ
- 井関農機60年史(1989)「井関航空兵器製作所の設置」
- [47]1942年3月海軍第11空廠の指定工場、1943年7月10日井関航空兵器製作所を設置しシリンダを生産、全面軍需転換を辞退
- [48]1942年3月海軍第11空廠の指定工場、1943年7月10日井関航空兵器製作所を設置しシリンダを生産、全面軍需転換を辞退
- 井関農機60年史(1989)「工場疎開」
- [49]1944年から本土が空襲圏に、1945年4月潮見村への分散疎開を決定
出典・参考
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- 井関農機60年史(1989)「井関邦三郎の生い立ち」
- 井関農機60年史(1989)「大正期までの農機事情」
- 井関農機60年史(1989)「井関農具製作所の創業」
- 井関農機60年史(1989)「岩田式籾はぎ機の販売」
- 井関農機60年史(1989)「山本式自動選別機の権利取得」
- 井関農機60年史(1989)「創立,山本式自動選別機の生産」
- 井関農機60年史(1989)「創立当時の販売活動」
- 井関農機60年史(1989)「株式会社井関製作所に改組・改称」
- 井関農機60年史(1989)「岩田式からロール式へ」
- 井関農機60年史(1989)「吉田商工部との販売提携」
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機合名会社の設立」
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機株式会社の設立」
- 井関農機60年史(1989)「東洋農機の解散」
- 井関農機60年史(1989)「みどり丸遭難事件」
- 井関農機60年史(1989)「新生「ヰセキ」の体制」
- 井関農機60年史(1989)「販売網の形成」
- 井関農機60年史(1989)「自動脱穀機の研究開発」
- 井関農機60年史(1989)「比較審査で甲位入選」
- 井関農機60年史(1989)「戦時統制経済の進展」
- 井関農機60年史(1989)「井関航空兵器製作所の設置」
- 井関農機60年史(1989)「工場疎開」
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)「井関農機」