決断
脱穀機の権利を他社から買えなかったとき、井関邦三郎氏は自社で一から設計すると決めた。1936年秋、九州の特約店に開発を求められていた井関邦三郎氏は、鴻巣の農事試験場で高千穂製作所の自動脱穀機を見た。権利の交渉では法外な条件を示されて話がまとまらず、1937年春に自力での開発へ切り替えた。技術陣3名が上下に動く挟扼桿を考え出し、1938年3月にヰセキ式自動送込脱穀機として公表した。1941年3月に公示された農林省の比較審査では、1号C型が出品23台のうち最高位の甲位に入った。それまでの製品はすべて他社の市販機を改良したもので、自動脱穀機を境に井関農機は開発から販売までを自ら担うメーカーへ移った。