第1章 年〜年

日立建機:日立製作所からの建機部門独立と製販統合

1948年〜建設省の2台から始まった日立U05と、販売・サービスを集約した(旧)日立建機

日立製作所の建設機械は、1948年に建設省からパワーショベル2台を受注したことに始まった。同じ年の7月に発足した建設省は、戦災で荒れた国土を早く直すため、工事の機械化と機械の国産化を急いでいた。日立製作所は、1942年に撫順炭鉱へ石炭露天掘り用の電気ショベルを納めた実績を持っていた。遊休設備を抱えた亀有工場も、起重機や戦車の製作経験を生かせる新製品としてショベルに目を付けていた。設計陣は占領軍のモータプールを回って実車を調べ、1949年5月に純国産の機械式ショベルU05を完成させて建設省木曽川工事事務所へ納めた。U05は17台を造ったのちU06へ切り替わり、ショベルの本格的な量産が始まった。

  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [1]1948年(昭和23年)、建設省からパワーショベル2台を受注し、純国産技術で日立U05機械式ショベルを製作した
    • [2]1948年7月新設の建設省は国土復興のため建設事業の機械化を急務とし、前身の建設院は建設機械の国産化を望んでいた
    • [4]遊休施設を抱えた亀有工場は起重機・巻上機・戦車の製作経験を活用できる新製品としてパワーショベルを調査していた
    • [5]モータプールで実車を見学して基本設計を固め、U05は1949年5月に完成し建設省木曽川工事事務所に納入された
    • [6]U05はショベル16台・クラムシェル1台の計17台を生産した後、U06へモデルチェンジして本格生産に入った
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [3]日立製作所は1942年(昭和17年)南満州鉄道撫順炭鉱に石炭露天掘り用電気ショベルを納入していた

1955年12月、日立製作所は修理と部品の供給を専門に担う日立建設機械サービスを設立した。納めた日立建設機械の稼働台数が1950年代半ばから増え、サービスの需要が急に膨らんだことが設立の理由だった。社長は荒井勉氏で、資本金500万円・従業員27名、本社は東京都足立区に置いた。新会社は1960年2月に東京サービス工場内へオペレーターの教習所を開設し、1965年3月までに1,805名を教えた。日立建設機械の稼働台数は、1955年の発足時の324台から1965年3月には約4,000台まで増えた。同じ期間にサービス会社は資本金6億円・従業員約1,000名となり、拠点は31カ所に広がった。

  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1955年12月、日立製作所の子会社として日立建設機械サービスを設立
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [8]昭和30年代に入り稼動台数が増えサービス需要が急速に高まったため、1955年12月1日にサービスの専門会社を設立した
    • [9]設立時は社長荒井勉、資本金500万円、従業員27名、本社は東京都足立区大谷田町
    • [10]1960年2月に東京サービス工場内に教習所を開設し、1965年3月までに1,805名のオペレーター教習を行った
    • [11]稼動台数は1955年の発足時324台から1965年3月には約4,000台に増えた
    • [12]1965年までに資本金6億円・従業員約1,000名、サービス拠点計31カ所となった

1965年4月、日立製作所は各地の建設機械販売会社と日立建設機械サービスを合併し、(旧)日立建機を発足させた。販売会社は1962年から1964年にかけ、日立製作所の営業所にあった建設機械課を独立させて設けた6社だった。割賦販売で売上が伸びるほど売掛金がかさみ、資金力の強化と販売条件の改善が課題になっていた。さらに販売を伸ばすには営業とサービスの緊密な連携が欠かせず、両者を一社に統合する案が固まった。合併は、各地の販売会社をまとめ、販売とサービスを一体で動かすことを狙った。新会社は社長を清成迪氏とし、資本金7億円・従業員1,395名、営業所8カ所とサービス工場10カ所で出発した。

  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1965年4月、日立製作所の建設機械販売部門各社と日立建設機械サービスが合併し(旧)日立建機を設立
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [14]各地の日立建設機械販売6社は1962年5月から1964年6月にかけ、日立製作所営業所の建設機械課を独立させて設立された
    • [15]売上高の伸長が割賦販売の増加となり資金力の強化が必要となり、競争で低下する販売条件の改善も課題だった
    • [16]一層の拡販には営業とサービスの緊密な連携が不可欠となり、販売・サービスを一元化した会社の発足が計画された
    • [18](旧)日立建機は社長清成迪、資本金7億円、従業員1,395名、営業所8カ所・サービス工場10カ所で発足した
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [17]各地販売会社の統合と販売とサービスの一体化の必要から、1965年4月に合併して(旧)日立建機が設立された
参考文献[1]-[18]
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [1]1948年(昭和23年)、建設省からパワーショベル2台を受注し、純国産技術で日立U05機械式ショベルを製作した
    • [2]1948年7月新設の建設省は国土復興のため建設事業の機械化を急務とし、前身の建設院は建設機械の国産化を望んでいた
    • [4]遊休施設を抱えた亀有工場は起重機・巻上機・戦車の製作経験を活用できる新製品としてパワーショベルを調査していた
    • [5]モータプールで実車を見学して基本設計を固め、U05は1949年5月に完成し建設省木曽川工事事務所に納入された
    • [6]U05はショベル16台・クラムシェル1台の計17台を生産した後、U06へモデルチェンジして本格生産に入った
    • [8]昭和30年代に入り稼動台数が増えサービス需要が急速に高まったため、1955年12月1日にサービスの専門会社を設立した
    • [9]設立時は社長荒井勉、資本金500万円、従業員27名、本社は東京都足立区大谷田町
    • [10]1960年2月に東京サービス工場内に教習所を開設し、1965年3月までに1,805名のオペレーター教習を行った
    • [11]稼動台数は1955年の発足時324台から1965年3月には約4,000台に増えた
    • [12]1965年までに資本金6億円・従業員約1,000名、サービス拠点計31カ所となった
    • [14]各地の日立建設機械販売6社は1962年5月から1964年6月にかけ、日立製作所営業所の建設機械課を独立させて設立された
    • [15]売上高の伸長が割賦販売の増加となり資金力の強化が必要となり、競争で低下する販売条件の改善も課題だった
    • [16]一層の拡販には営業とサービスの緊密な連携が不可欠となり、販売・サービスを一元化した会社の発足が計画された
    • [18](旧)日立建機は社長清成迪、資本金7億円、従業員1,395名、営業所8カ所・サービス工場10カ所で発足した
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [3]日立製作所は1942年(昭和17年)南満州鉄道撫順炭鉱に石炭露天掘り用電気ショベルを納入していた
    • [17]各地販売会社の統合と販売とサービスの一体化の必要から、1965年4月に合併して(旧)日立建機が設立された
  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1955年12月、日立製作所の子会社として日立建設機械サービスを設立
    • [13]1965年4月、日立製作所の建設機械販売部門各社と日立建設機械サービスが合併し(旧)日立建機を設立

1966年〜土浦工場の新設と、製販を合併して発足した資本金38億円の日立建機

日立製作所は1966年8月、茨城県土浦市に建てた新工場でトラクタの生産を始めた。土浦の用地は、トラクタ市場へ参入するための専用工場の敷地として1960年9月に購入を決めたものだった。1963年の不況で着工は延びたが、地元の要請とトラクタ需要の回復の見込みから、1964年5月に起工した。1967年7月には部品工場も完成し、部品加工から組立までを土浦で一貫して行えるようになった。一方で足立工場は油圧ショベルの伸びで手狭になり、1969年2月に大型のUH06の生産を土浦へ移した。足立と土浦の2工場は、1969年11月に日立製作所から切り出される製造会社の母体となった。

  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [19]1966年7月にトラクタ組立工場が完成し、足立工場から300名が移って8月1日に操業を開始した
    • [20]土浦工場用地は、トラクタ市場への進出を期した専門工場の建設用として1960年9月に購入を決定した
    • [21]1963年の不況で建設を延期したが、地元の要請とトラクタ需要の増加を予見し1964年5月に起工式を行った
    • [22]1967年7月に部品工場・事務所が完成し、部品加工から組立までの一貫生産体制が整った
    • [23]足立工場は油圧ショベルの伸長で生産スペースが狭くなり、1969年2月にUH06を土浦分工場へ移管した
  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1969年11月、日立製作所の建設機械製造部門が分離独立し、足立工場・土浦工場をもって日立建設機械製造を設立

1969年11月、日立製作所は建設機械の製造部門を分離し、足立・土浦工場を母体に日立建設機械製造を設立した。総合電機の一部門として造り売るより、専業メーカーとして独立させるほうが経営を機動的に動かせると判断した。製品の多様化や新工法向けの開発が急速に進み、外部の変化に追いつくには専業化が要るとみていた。建設機械は日立製作所の他の事業との関連が薄く、別会社のほうが経営効率や資金調達の面で有利とも考えた。本来は販売会社も含めて一度に一体化する構想だったが、承継資産を低い簿価で譲るには法的な制約があり、製造部門だけを先に切り出した。新会社は資本金35億円・従業員2,240名で、社長には橋本真吉氏が就任した。

  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [25]1969年11月、足立工場・土浦工場をもって日立建設機械製造を設立
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [26]総合電機・機械産業の日立製作所で生産・販売を続けるより、専業メーカーとして分離独立させ独立単能組織で経営を機動化するのが最良と判断した
    • [27]製品の多様化・高性能化・新工法に伴う新製品開発が急速に進み、専業メーカーとしての分離独立が必要と検討された
    • [29]承継資産の低廉な簿価譲渡が必須条件だったが法的制約で(旧)建機と当初から一体で発足できず、次善の策として工場だけで新会社を設けた
    • [30]日立建設機械製造は資本金35億円、社長橋本真吉、従業員2,240名
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [28]関連の薄い建設機械事業を別会社で運営することが経営効率面・資金調達面で有効とされた

1970年10月、日立建設機械製造は(旧)日立建機を吸収合併し、資本金38億円の日立建機として発足した。同時に日立製作所から建設機械の輸出部門も移され、製造・販売・サービスが一社にそろった。製造会社の側では機械式ショベルの需要が細り、土浦のトラクタも販売目標に遠く届いていなかった。製造会社が1969年度下期の決算を終えたことで、販売会社との合併に法的な支障がなくなり、設立から11カ月で合併に踏み切った。新会社は、新製品の開発、生産性の向上、販売・サービスの増強、海外市場の開拓を一体で進めることを設立の趣旨に掲げた。社長は橋本真吉氏が続け、従業員は5,395名、サービス工場は21カ所を数えた。

  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [31]1970年10月、日立建設機械製造と(旧)日立建機が合併し日立建機を設立、資本金38億円
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [32]1970年10月に(旧)日立建機を吸収合併し、日立製作所から建設機械輸出部門の移管を受け製造・販売・サービスの一貫体制を確立した
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [33]機械式ショベルは需要構造の変化で衰退傾向にあり、土浦工場の主力のトラクタは販売実績が目標にほど遠かった
    • [34]建製が1969年度下期決算を終えて(旧)建機との合併が法的に問題ないと分かり、設立11カ月で合併した
    • [35]新会社の趣旨は各部門の一体化による新製品開発・生産性向上・販売サービス増強・海外市場開拓への機動的対応
    • [36]発足時の社長は橋本真吉、従業員5,395名、サービス工場21カ所
参考文献[19]-[36]
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [19]1966年7月にトラクタ組立工場が完成し、足立工場から300名が移って8月1日に操業を開始した
    • [20]土浦工場用地は、トラクタ市場への進出を期した専門工場の建設用として1960年9月に購入を決定した
    • [21]1963年の不況で建設を延期したが、地元の要請とトラクタ需要の増加を予見し1964年5月に起工式を行った
    • [22]1967年7月に部品工場・事務所が完成し、部品加工から組立までの一貫生産体制が整った
    • [23]足立工場は油圧ショベルの伸長で生産スペースが狭くなり、1969年2月にUH06を土浦分工場へ移管した
    • [26]総合電機・機械産業の日立製作所で生産・販売を続けるより、専業メーカーとして分離独立させ独立単能組織で経営を機動化するのが最良と判断した
    • [27]製品の多様化・高性能化・新工法に伴う新製品開発が急速に進み、専業メーカーとしての分離独立が必要と検討された
    • [29]承継資産の低廉な簿価譲渡が必須条件だったが法的制約で(旧)建機と当初から一体で発足できず、次善の策として工場だけで新会社を設けた
    • [30]日立建設機械製造は資本金35億円、社長橋本真吉、従業員2,240名
    • [33]機械式ショベルは需要構造の変化で衰退傾向にあり、土浦工場の主力のトラクタは販売実績が目標にほど遠かった
    • [34]建製が1969年度下期決算を終えて(旧)建機との合併が法的に問題ないと分かり、設立11カ月で合併した
    • [35]新会社の趣旨は各部門の一体化による新製品開発・生産性向上・販売サービス増強・海外市場開拓への機動的対応
    • [36]発足時の社長は橋本真吉、従業員5,395名、サービス工場21カ所
  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1969年11月、日立製作所の建設機械製造部門が分離独立し、足立工場・土浦工場をもって日立建設機械製造を設立
    • [25]1969年11月、足立工場・土浦工場をもって日立建設機械製造を設立
    • [31]1970年10月、日立建設機械製造と(旧)日立建機が合併し日立建機を設立、資本金38億円
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [28]関連の薄い建設機械事業を別会社で運営することが経営効率面・資金調達面で有効とされた
    • [32]1970年10月に(旧)日立建機を吸収合併し、日立製作所から建設機械輸出部門の移管を受け製造・販売・サービスの一貫体制を確立した

1971年〜足立工場を閉じた土浦の一貫生産と、久保田鉄工との相互OEMで臨んだ東証2部上場

日立建機は発足直後の1971年9月期と1972年3月期に続けて経常損失を計上した。ニクソン・ショックで建設投資が減り、後発分野だったブルドーザーも売れ行きが振るわなかった。1971年10月、日立建機は限界利益の低いトラクタの生産中止を決め、油圧ショベルなどの重点機種に力を集めた。足立工場は首都圏の工業等制限法により、増改築も増産のための投資も難しくなっていた。1972年8月、日立建機は足立工場と部品センタを土浦へ全面的に移すと決めて発表した。移転を含む投資は総額135億円に達し、原資の多くは足立工場の跡地の売却代金で賄った。1974年3月に統合を終え、生産は土浦工場の一か所にまとまった。

  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [37]1971年9月期・1972年3月期に経常損失を計上した
    • [38]ニクソン・ショックによる建設投資の大幅減と販売競争の激化に、後発分野のブルドーザーの不振が加わった
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [39]826プロジェクトの計画で限界利益の低いトラクタ・エンジンの生産中止を掲げ、1971年10月にトラクタの生産中止を決め重点機種へ全力を投入した
    • [40]首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律等で足立工場は増改築も増産合理化投資も困難になった
    • [41]1972年8月、首都圏工場の地方移転を決めて新聞発表し、足立工場と部品センタを土浦工場へ全面集約すると決断した
    • [42]投資額は部品センタを含め総額135億円、移転投資の原資は主に足立工場跡地売却代金
  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [43]1974年3月、工業再配置政策及び生産体制整備強化のため足立工場を土浦工場へ統合

1974年5月、日立建機は取締役の大内田正氏を社長に据え、石油危機後の需要減に立ち向かった。1974年9月期の売上高は22,003百万円で、1974年3月期の23,889百万円を下回った。大内田正社長は1974年8月に本部制を敷き、営業・海外・管理の3本部と土浦工場に責任を分けた。1975年1月には社長直属の不況対策本部を置き、営業拠点への人員の重点配置と固定費の縮減を進めた。1976年1月には土地委員会を設け、使っていない土地を売却して固定費を減らした。それでも1975年度は売上高487億円に対し1億6,000万円の損失を計上し、黒字に転じたのは売上高566億円の1976年度だった。

  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [44]1974年5月27日、取締役大内田正が社長に就任した
    • [46]1974年8月に本部制を採用し、営業本部・海外本部・管理本部と土浦工場の4本柱とした
    • [47]1975年1月9日、社長直属の不況対策本部を設置し、主要営業拠点への人員重点配置・固定費縮減などを打ち出した
    • [48]1976年1月、土地委員会を設置し不要な土地を売却して固定費を縮減した
    • [49]1975年度は売上高487億円で1億6,000万円の損失、1976年度は売上高566億円でわずかに黒字転換した
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [45]売上高は1974年3月期23,889百万円、1974年9月期22,003百万円

1976年5月、日立建機は久保田鉄工と、互いの油圧ショベルを相手のブランドで売る相互OEMを結んだ。0.2m3以下の小型機は久保田鉄工が造って日立ブランドで売り、1.0m3未満の中型機は日立建機が造ってクボタブランドで売った。日立建機はミニバックホウの開発を計画していたが、小型機では量とコストの見通しが立たず、生産開始直前で計画を取りやめた。久保田鉄工は西独の技術で造った油圧ショベルが振るわず、大型機種を整理したかった。1980年9月末までに日立建機は小型油圧ショベル1,275台、久保田鉄工は油圧ショベル1,604台を売った。1981年12月、日立建機は東京証券取引所第2部に上場し、公募後の資本金は47億円となった。大型機を土浦に集めた日立建機にとって、小型機を外に任せる提携は集約の方針と両立したとみられる。

  • マネジメント 41(2)(1982年)
    • [50]1976年5月、日立建機は久保田鉄工製ミニバックホウを自社ブランドで、久保田鉄工は日立建機製油圧ショベルを自社ブランドで売る相互OEM提携を結んだ
    • [52]日立建機はミニバックホウ開発を計画していたが大型機が得意で小型機は量・コスト・販売網に不安があり、生産開始寸前の進出計画を取りやめた
    • [53]久保田鉄工は西独社からの技術導入で生産した油圧ショベルが必ずしもうまくいかず、大型機種を整理できた
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [51]0.2m3以下は日立建機が久保田鉄工へ生産委託し日立ブランドで販売、0.2m3超1.0m3未満は久保田鉄工が日立建機へ生産委託しクボタブランドで販売
    • [54]1980年上期末までに日立建機は小型油圧ショベル1,275台、久保田鉄工は油圧ショベル1,604台を販売した
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [55]1981年12月17日に東証市場第二部へ上場、公募1,700万株で増資後資本金4,700,000千円
参考文献[37]-[55]
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
    • [37]1971年9月期・1972年3月期に経常損失を計上した
    • [38]ニクソン・ショックによる建設投資の大幅減と販売競争の激化に、後発分野のブルドーザーの不振が加わった
    • [45]売上高は1974年3月期23,889百万円、1974年9月期22,003百万円
    • [55]1981年12月17日に東証市場第二部へ上場、公募1,700万株で増資後資本金4,700,000千円
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
    • [39]826プロジェクトの計画で限界利益の低いトラクタ・エンジンの生産中止を掲げ、1971年10月にトラクタの生産中止を決め重点機種へ全力を投入した
    • [40]首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律等で足立工場は増改築も増産合理化投資も困難になった
    • [41]1972年8月、首都圏工場の地方移転を決めて新聞発表し、足立工場と部品センタを土浦工場へ全面集約すると決断した
    • [42]投資額は部品センタを含め総額135億円、移転投資の原資は主に足立工場跡地売却代金
    • [44]1974年5月27日、取締役大内田正が社長に就任した
    • [46]1974年8月に本部制を採用し、営業本部・海外本部・管理本部と土浦工場の4本柱とした
    • [47]1975年1月9日、社長直属の不況対策本部を設置し、主要営業拠点への人員重点配置・固定費縮減などを打ち出した
    • [48]1976年1月、土地委員会を設置し不要な土地を売却して固定費を縮減した
    • [49]1975年度は売上高487億円で1億6,000万円の損失、1976年度は売上高566億円でわずかに黒字転換した
    • [51]0.2m3以下は日立建機が久保田鉄工へ生産委託し日立ブランドで販売、0.2m3超1.0m3未満は久保田鉄工が日立建機へ生産委託しクボタブランドで販売
    • [54]1980年上期末までに日立建機は小型油圧ショベル1,275台、久保田鉄工は油圧ショベル1,604台を販売した
  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
    • [43]1974年3月、工業再配置政策及び生産体制整備強化のため足立工場を土浦工場へ統合
  • マネジメント 41(2)(1982年)
    • [50]1976年5月、日立建機は久保田鉄工製ミニバックホウを自社ブランドで、久保田鉄工は日立建機製油圧ショベルを自社ブランドで売る相互OEM提携を結んだ
    • [52]日立建機はミニバックホウ開発を計画していたが大型機が得意で小型機は量・コスト・販売網に不安があり、生産開始寸前の進出計画を取りやめた
    • [53]久保田鉄工は西独社からの技術導入で生産した油圧ショベルが必ずしもうまくいかず、大型機種を整理できた

1948年〜1982年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 184 n/a n/a ▲8 ▲4.3% n/a
1972年03月期 単体 354 +92.4% n/a ▲18 ▲5.1% n/a
1973年03月期 単体 420 +18.6% n/a 19 4.5% n/a
1974年03月期 単体 486 +15.7% n/a 14 2.9% n/a
1975年03月期 単体 444 ▲8.6% n/a 8 1.8% n/a
1976年03月期 単体 487 +9.7% n/a ▲1 ▲0.2% n/a
1977年03月期 単体 565 +16.0% n/a 4 0.7% n/a
1978年03月期 単体 724 +28.1% 28 7 1.0% n/a
1979年03月期 単体 962 +32.9% 87 40 4.2% n/a
1980年03月期 単体 1,146 +19.1% 99 52 4.5% n/a
1981年03月期 単体 1,219 +6.4% 83 41 3.4% n/a
1982年03月期 単体 1,228 +0.7% 77 34 2.8% n/a

出所:日立建機10年史、会社年鑑

出典・参考

4件
出典・参考
  • 日立建機 有価証券報告書 第61期(2025年3月期)【沿革】
  • 『日立建機10年史』(日立建機, 1981年)
  • 証券 34(1)(394)(1982年)
  • マネジメント 41(2)(1982年)

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