第1章 年〜年

リョービ:菱備製作所の設立とダイカスト製品の製造

1943年〜三菱電機福山工場の協力工場として府中に立てた菱備製作所と、航空兵器のダイカスト部品

浦上豊氏は1943年12月16日、株式会社菱備製作所を設立した。発端は、東京丸の内の三菱電機で旧友の片山功夫氏と交わした雑談にあった。片山功夫氏は、三菱電機が福山市の紡績会社を買収して前年から操業しており、協力工場を求めていると伝えた。浦上豊氏は、徴用で遠方へ出るのを嫌い田舎へ疎開していた女子なら、郷里の府中に軍需工場を置けば確保できると考えた。福山から20キロほど山奥の府中は、空襲を避ける立地としても福山市内より適すると見た。登記は浦上豊氏が東京にいたことと企業許可令の関係から本店を東京に置いて済ませ、すぐ府中へ移した。年表は創業時の本社を東京都王子区上十条町に置いたと記す。

  • リョービのあゆみ(1974年)コマ1-50
    • [1]菱備製作所の設立は昭和18年12月16日
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ51-100(浦上豊氏の回想)
    • [2]三菱電機にいた片山功夫氏との雑談で福山工場(紡績会社を買収)の協力工場の話が出て、浦上豊氏は疎開した女子を府中なら集められ、福山から約20km離れた山の中がよいと考えた
    • [3]三菱電機にいた片山功夫氏との雑談で福山工場(紡績会社を買収)の協力工場の話が出て、浦上豊氏は疎開した女子を府中なら集められ、福山から約20km離れた山の中がよいと考えた
    • [4]三菱電機にいた片山功夫氏との雑談で福山工場(紡績会社を買収)の協力工場の話が出て、浦上豊氏は疎開した女子を府中なら集められ、福山から約20km離れた山の中がよいと考えた
    • [5]三菱電機にいた片山功夫氏との雑談で福山工場(紡績会社を買収)の協力工場の話が出て、浦上豊氏は疎開した女子を府中なら集められ、福山から約20km離れた山の中がよいと考えた
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [6]東京にいたことと企業許可令の関係で本店を東京として設立登記し、直ぐに府中へ移した
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [7]株式会社菱備製作所を設立し、本社を東京都王子区上十条町に置いた

菱備製作所は1944年2月11日、手動式の鋳造機2台でダイカストの操業を開始。品目は、三菱電機福山工場の初代工場長の渡辺静三郎氏の依頼で決まった。渡辺静三郎氏は、福山にダイカストの引き受け手がなく東京の工場も手一杯だとして、浦上豊氏に製造を頼んだ。浦上豊氏はダイカストを知らず、専門の知識と経験を持つ技師を技師長として府中へ迎えた。鋳造機・金型・小道具の準備は、この技師長の協力に多くを負った。工場は航空兵器の部品を作り、三菱電機の要請で設備を大幅に増す計画も立てた。工場裏の農地を埋め立て、福山の船町で取得した疎開家屋の木材で建屋を建て、手動機も10台ほど社内で作った。親工場の需要と外部の技術者の両方を得たことが、素人の集団を短期間で立ち上げたと推察される。

  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [8]1944年2月に手動式鋳造機2台で火入れ式を行い、航空機部品の製造を始めた
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ51-100(浦上豊氏の回想)
    • [9]渡辺静三郎工場長がダイカストを福山で引き受ける者がなく東京の工場も手一杯と依頼。19年2月11日の操業開始まで鋳造機・金型等は水越技師長の協力による
    • [10]渡辺静三郎工場長がダイカストを福山で引き受ける者がなく東京の工場も手一杯と依頼。19年2月11日の操業開始まで鋳造機・金型等は水越技師長の協力による
    • [11]素人ばかりで発足した会社に専門の知識と経験を持つ水越技師長を迎え、21年春まで相談相手とした
    • [12]渡辺静三郎工場長がダイカストを福山で引き受ける者がなく東京の工場も手一杯と依頼。19年2月11日の操業開始まで鋳造機・金型等は水越技師長の協力による
    • [13]航空兵器の部品を製作し、三菱電機の要請で設備増強を計画。農地を埋め立て、福山船町の疎開家屋の材木で工場を建て、手動機を10台程社内で作った
    • [14]航空兵器の部品を製作し、三菱電機の要請で設備増強を計画。農地を埋め立て、福山船町の疎開家屋の材木で工場を建て、手動機を10台程社内で作った
参考文献[1]-[14]
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ1-50
    • [1]菱備製作所の設立は昭和18年12月16日
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ51-100(浦上豊氏の回想)
    • [2]三菱電機にいた片山功夫氏との雑談で福山工場(紡績会社を買収)の協力工場の話が出て、浦上豊氏は疎開した女子を府中なら集められ、福山から約20km離れた山の中がよいと考えた
    • [3]三菱電機にいた片山功夫氏との雑談で福山工場(紡績会社を買収)の協力工場の話が出て、浦上豊氏は疎開した女子を府中なら集められ、福山から約20km離れた山の中がよいと考えた
    • [4]三菱電機にいた片山功夫氏との雑談で福山工場(紡績会社を買収)の協力工場の話が出て、浦上豊氏は疎開した女子を府中なら集められ、福山から約20km離れた山の中がよいと考えた
    • [5]三菱電機にいた片山功夫氏との雑談で福山工場(紡績会社を買収)の協力工場の話が出て、浦上豊氏は疎開した女子を府中なら集められ、福山から約20km離れた山の中がよいと考えた
    • [9]渡辺静三郎工場長がダイカストを福山で引き受ける者がなく東京の工場も手一杯と依頼。19年2月11日の操業開始まで鋳造機・金型等は水越技師長の協力による
    • [10]渡辺静三郎工場長がダイカストを福山で引き受ける者がなく東京の工場も手一杯と依頼。19年2月11日の操業開始まで鋳造機・金型等は水越技師長の協力による
    • [11]素人ばかりで発足した会社に専門の知識と経験を持つ水越技師長を迎え、21年春まで相談相手とした
    • [12]渡辺静三郎工場長がダイカストを福山で引き受ける者がなく東京の工場も手一杯と依頼。19年2月11日の操業開始まで鋳造機・金型等は水越技師長の協力による
    • [13]航空兵器の部品を製作し、三菱電機の要請で設備増強を計画。農地を埋め立て、福山船町の疎開家屋の材木で工場を建て、手動機を10台程社内で作った
    • [14]航空兵器の部品を製作し、三菱電機の要請で設備増強を計画。農地を埋め立て、福山船町の疎開家屋の材木で工場を建て、手動機を10台程社内で作った
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [6]東京にいたことと企業許可令の関係で本店を東京として設立登記し、直ぐに府中へ移した
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [7]株式会社菱備製作所を設立し、本社を東京都王子区上十条町に置いた
    • [8]1944年2月に手動式鋳造機2台で火入れ式を行い、航空機部品の製造を始めた

1945年〜オタマ杓子から家具の引手・戸車へ移った戦後と、関西へ売り込んだ電機・自動車部品

終戦後の1945年8月、菱備製作所は臨時緊急役員会で、平和産業に転じて業務を続けると決議した。戦時中に軍が各地に分散して格納していた物資は、終戦と同時に民間へ分配された。三菱電機福山工場も子工場との関係を終戦で切ると告げつつ、余った材料や機械の相談には応じると申し出た。菱備製作所はオタマ杓子・調味匙・電熱器台といった厨房の品を作り始めた。物価統制令の下で政府の許可を受けて販売し、オタマ杓子は1個1円50銭程度で売った。闇値は8〜9円だったとされ、許可価格を守った販売は利益を薄くした。その生産も1946年2月末までの5ヵ月で地域の需要を満たし、販路が狭まって中止に至った。手元の材料と設備で作れる日用品に移ることが、工場と働き手を残す最短の手段だったと思われる。

  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [15]1945年8月に臨時緊急役員会で平和産業に転じて業務続行を決議し、厨房関係の製品の製造・販売を開始
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [16]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [17]三菱電機福山工場長が親工場・子工場の関係を終戦で切るとし、余った材料や機械は相談に乗ると申し出た
    • [18]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [19]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [20]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [21]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止

菱備製作所は厨房の品の後、安全カミソリのホルダーを作った。預貯金の封鎖で消費が冷え、生活必需品でない品は売れず、物品税の問題も重なって1946年5月中旬に断念した。次に選んだのが、タンスや鏡台の引手と戸車といった家具・建具用の部品である。年表も1946年5月に家具・建築用部品として引手と戸車の製造販売を始めたと記す。アルミは国外から求めねばならず、資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から調達した。1946年6月ごろからは建築用金物に加え、電機・車輛・紡績機械の部品も作り始めた。年表はこの電機・車両・紡績機械の部品を本格的なダイカスト部品の製造販売と位置づける。家具部品の数量で鋳造の稼働を保ち、その間に工業用部品の受注へ移ったのだろう。

  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [22]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [23]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [24]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [26]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [27]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [25]1946年5月に家具・建築用部品としてタンスの引手・戸車の製造販売、同年6月に電機・車両・紡績機械の本格的ダイカスト部品の製造販売
    • [28]1946年5月に家具・建築用部品としてタンスの引手・戸車の製造販売、同年6月に電機・車両・紡績機械の本格的ダイカスト部品の製造販売

菱備製作所は朝鮮動乱中の1951年から1952年ごろ、休戦後の不況を予測して新規分野の開拓に力を入れた。従来品の電機・自動車・光学機械の部品と積算計器用の文字車は好調で、1954年の中ごろまで好成績を上げた。動乱の需要を見込んで設備投資を進め、1953年6月には鋳造工場1棟を増設。しかし休戦を境に生産は過剰気味となり、政府のデフレ政策も重なって不況は約2年続いた。社員は初めて関西方面へ営業に出たものの、訪問先では菱備の名もダイカストも知られていなかった。そこで府中の町と会社を紹介し、サンプルを並べてダイカストを説明して回った。府中では交通も通信も不便だろうと訝る会社もあった。1955年7月には大阪営業所を大阪市北区曽根崎上に開設した。

  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [29]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [30]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [32]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [33]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [34]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [35]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [31]1953年6月に鋳造工場1棟(通称三十三間堂)を増設、1955年7月に大阪営業所を開設
    • [36]1953年6月に鋳造工場1棟(通称三十三間堂)を増設、1955年7月に大阪営業所を開設
参考文献[15]-[36]
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [15]1945年8月に臨時緊急役員会で平和産業に転じて業務続行を決議し、厨房関係の製品の製造・販売を開始
    • [25]1946年5月に家具・建築用部品としてタンスの引手・戸車の製造販売、同年6月に電機・車両・紡績機械の本格的ダイカスト部品の製造販売
    • [28]1946年5月に家具・建築用部品としてタンスの引手・戸車の製造販売、同年6月に電機・車両・紡績機械の本格的ダイカスト部品の製造販売
    • [31]1953年6月に鋳造工場1棟(通称三十三間堂)を増設、1955年7月に大阪営業所を開設
    • [36]1953年6月に鋳造工場1棟(通称三十三間堂)を増設、1955年7月に大阪営業所を開設
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [16]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [17]三菱電機福山工場長が親工場・子工場の関係を終戦で切るとし、余った材料や機械は相談に乗ると申し出た
    • [18]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [19]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [20]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [21]軍需物資の民間分配の中で、オタマ杓子・調味匙・電熱器台等を製造。統制価格の表示で1品1円50銭位、ヤミは8〜9円。2月末までの5ヵ月で地域需要を満たし製造中止
    • [22]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [23]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [24]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [26]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [27]安全カミソリのホルダーは預金封鎖や物品税で売れず21年5月中旬断念。タンス・鏡台の引手や戸車を製作。アルミは外国から求めねばならず資材は三菱電機福山工場や広島・山口・九州方面から入手。21年6月頃から電機・車輛・紡績機械部品
    • [29]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [30]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [32]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [33]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [34]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明
    • [35]動乱中の26、27年ごろから休戦後を予測し新規分野を開拓。電機・自動車・光学機械部品、積算計器用文字車が好調で29年中頃まで好成績。休戦後は生産過剰とデフレで不況約2年。関西へ初の営業で菱備・ダイカストとも知られずサンプルで説明

1954年〜プラスチック工場とビューラー鋳造機で広げた府中と、資本金2億円での広島証券取引所上場

菱備製作所は1954年3月、プラスチック部門を併設した。きっかけは1953年ごろから、積算計器用の文字車を化学製品で作れないかと検討を始めたことにある。化学製品なら重量が軽くなり、成型もしやすい。文字車に限らず、ダイカストの分野でも樹脂に置き換わる部品が今後出てくると予想し、研究に着手した。設備は名機製作所製の3オンス射出成型機1台で、最初の試作品はウイスキー瓶のキャップとおしぼり入れである。金型と機械の運転はダイカストとほぼ同じだったものの、当初は品質の面で良品がなかなかできなかった。ダイカストの顧客が樹脂へ移る前に、自ら置き換えの担い手になろうとした判断とみられる。

  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [37]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [38]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [39]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [40]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [42]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [41]1954年3月に3オンス射出成型機(名機製作所製)1台を設置しプラスチック製品の製造を開始

菱備製作所は1957年7月に鋳造第3工場を完成させ、スイスのビューラー社へ鋳造機を発注した。受注は旺盛だったものの、材料のアルミが不足し、鋳造の余力を残したままフル稼働に至っていなかった。第27期(1956年12月〜1957年5月)に入ると得意先が相次いで増産に動き、生産体制を合わせる必要が生じた。鋳造第3工場は建坪726平方メートル・延1,452平方メートルの鉄筋コンクリート造で、この地方では初めての構造だった。ビューラー社への発注はV100トン2台、H200トン1台、H400トン1台、800トン1台。購入にあたり、取締役工場長の浦上憲治氏らが技術の修得と海外のダイカスト工業の視察に赴いた。年表もビューラー製のV100t油圧式鋳造機の設置を記す。

  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [43]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [44]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [45]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [46]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [47]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [48]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [49]ビューラー製のV100t油圧式鋳造機を設置

菱備製作所は第3次の設備増強と合理化の資金として、1960年9月1日払込みで1億円の第7回増資を実施し、資本金は2億円となった。この増資の発表を機に、広島証券市場で店頭取引されていた株式は正式に上場した。ただし年表は、上場日を増資の払込みより前の1960年6月1日と記す。資金を要した背景には自動車業界の需要の増加があり、特に浜松地区の鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業の注文が増えた。設備には東芝機械の800トン機1台やビューラー社の600トン機1台が加わった。ダイカストの量産と市場からの資金調達の手段が、印刷機や電動工具へ広がる次の段の足場になったのだろう。

  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [50]第3次設備増強合理化の資金として35年9月1日払込で第7回増資1億円、資本金2億円。増資発表を機に広島証券市場で店頭取引の株式を正式上場。浜松地区(鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業)の需要増。東芝機械800t・ビューラー600t等
    • [51]第3次設備増強合理化の資金として35年9月1日払込で第7回増資1億円、資本金2億円。増資発表を機に広島証券市場で店頭取引の株式を正式上場。浜松地区(鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業)の需要増。東芝機械800t・ビューラー600t等
    • [53]第3次設備増強合理化の資金として35年9月1日払込で第7回増資1億円、資本金2億円。増資発表を機に広島証券市場で店頭取引の株式を正式上場。浜松地区(鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業)の需要増。東芝機械800t・ビューラー600t等
    • [54]第3次設備増強合理化の資金として35年9月1日払込で第7回増資1億円、資本金2億円。増資発表を機に広島証券市場で店頭取引の株式を正式上場。浜松地区(鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業)の需要増。東芝機械800t・ビューラー600t等
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [52]1960年6月1日に広島証券市場へ上場
参考文献[37]-[54]
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
    • [37]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [38]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [39]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [40]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [42]29年3月にプラスチック部門を併設。28年頃から文字車を化学製品で製作することを考え、軽量・成型容易でダイカスト分野にも置き換わるものが出ると予想。金型・運転はダイカストと同じでも当初は品質に苦労
    • [43]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [44]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [45]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [46]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [47]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [48]アルミ不足で余力を残しフル稼働に至らず。第27期に得意先の増産機運。鋳造第3工場(建坪726㎡延1,452㎡、32年7月竣工、鉄筋コンクリート)を建設し、ビューラー社にV100t2台・H200t1台・H400t1台・800t1台を発注。浦上(憲)取締役工場長らが技術修得と海外視察
    • [50]第3次設備増強合理化の資金として35年9月1日払込で第7回増資1億円、資本金2億円。増資発表を機に広島証券市場で店頭取引の株式を正式上場。浜松地区(鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業)の需要増。東芝機械800t・ビューラー600t等
    • [51]第3次設備増強合理化の資金として35年9月1日払込で第7回増資1億円、資本金2億円。増資発表を機に広島証券市場で店頭取引の株式を正式上場。浜松地区(鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業)の需要増。東芝機械800t・ビューラー600t等
    • [53]第3次設備増強合理化の資金として35年9月1日払込で第7回増資1億円、資本金2億円。増資発表を機に広島証券市場で店頭取引の株式を正式上場。浜松地区(鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業)の需要増。東芝機械800t・ビューラー600t等
    • [54]第3次設備増強合理化の資金として35年9月1日払込で第7回増資1億円、資本金2億円。増資発表を機に広島証券市場で店頭取引の株式を正式上場。浜松地区(鈴木自動車工業・ヤマハ発動機・本田技研工業)の需要増。東芝機械800t・ビューラー600t等
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表
    • [41]1954年3月に3オンス射出成型機(名機製作所製)1台を設置しプラスチック製品の製造を開始
    • [49]ビューラー製のV100t油圧式鋳造機を設置
    • [52]1960年6月1日に広島証券市場へ上場

出典・参考

4件
出典・参考
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ1-50
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ51-100(浦上豊氏の回想)
  • リョービのあゆみ(1974年)コマ101-150
  • リョービ50年史(1994年)コマ51-91 年表

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