京都フィナンシャルグループ:両丹銀行など4行合併の丹和銀行と京都銀行への改称
1941年〜府北部4行の合同で福知山に立った丹和銀行と、預金吸収・国債消化の戦時業務
1941年10月1日、両丹銀行・宮津銀行・丹後商工銀行・丹後産業銀行の4行が合同し、資本金319万円の丹和銀行が発足した。本店は京都府の北部にある福知山市。背景には、政府が1937年の日華事変のあと一県一行主義を掲げ、地方銀行の統合を国策として強制した事情があった。京都市内には中核となる有力行が無く、市内の弱小行の多くは都市銀行に吸収されて支店に変わっていた。当時の六大都市で、地元に本店銀行を持たない都市は京都市だけである。戦局が切迫して市内に本店銀行を新設する余裕は無く、府北部の4行を合わせた統合で京都府の整理は終わった。府庁所在地に本店を持たない出発点が、その後12年間の経営課題を決めたとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [1]1941年10月、両丹・宮津・丹後産業・丹後商工の4行合同により資本金319万円の丹和銀行を設立し、本店を福知山市に置いた
- [2]1941年10月、両丹・宮津・丹後産業・丹後商工の4行合同により資本金319万円の丹和銀行を設立し、本店を福知山市に置いた
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [3]1937年以降の一県一行主義で地方銀行の統合が国策として強制された。京都市内に中核行が無く、市内行は都市銀行の支店となり、六大都市で本店銀行が無いのは京都市のみ。戦局の切迫で市内本店銀行の設立を図る余裕がなく、福知山本店の丹和銀行設立で統合を終えた
- [4]1937年以降の一県一行主義で地方銀行の統合が国策として強制された。京都市内に中核行が無く、市内行は都市銀行の支店となり、六大都市で本店銀行が無いのは京都市のみ。戦局の切迫で市内本店銀行の設立を図る余裕がなく、福知山本店の丹和銀行設立で統合を終えた
- [5]1937年以降の一県一行主義で地方銀行の統合が国策として強制された。京都市内に中核行が無く、市内行は都市銀行の支店となり、六大都市で本店銀行が無いのは京都市のみ。戦局の切迫で市内本店銀行の設立を図る余裕がなく、福知山本店の丹和銀行設立で統合を終えた
- [6]1937年以降の一県一行主義で地方銀行の統合が国策として強制された。京都市内に中核行が無く、市内行は都市銀行の支店となり、六大都市で本店銀行が無いのは京都市のみ。戦局の切迫で市内本店銀行の設立を図る余裕がなく、福知山本店の丹和銀行設立で統合を終えた
丹和銀行は4行の店舗を引き継ぎ、資本金319万円で福知山市の本店から出発した。発足直後から、預金の吸収と国債の消化を業務の中心に据えた。合併自体が国の命令によるもので、全行員が貯蓄増強に取り組む体制を短期間で整えた。1942年には中丹銀行と百三十七銀行を神戸銀行と分割合併し、京都府側の店舗を引き継いだ。同年12月には京都大内銀行を安田銀行と分割合併し、七条大宮に初めて京都市内の支店を置いた。この時点で京都府に本店を置く銀行は丹和銀行1行のみである。1943年以降は特殊預金・国債貯金・納税準備預金という新種の貯金制度を設け、戦時下で業容を拡大した。業務が国策に沿う単純なものだったことが、寄せ集めの4行の一体化を早めたと推察される。
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [7]丹和銀行は資本金319万円、本店福知山市で発足した
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [8]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [9]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [10]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [11]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [12]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [13]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
参考文献[1]-[13]
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [1]1941年10月、両丹・宮津・丹後産業・丹後商工の4行合同により資本金319万円の丹和銀行を設立し、本店を福知山市に置いた
- [2]1941年10月、両丹・宮津・丹後産業・丹後商工の4行合同により資本金319万円の丹和銀行を設立し、本店を福知山市に置いた
- [7]丹和銀行は資本金319万円、本店福知山市で発足した
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [3]1937年以降の一県一行主義で地方銀行の統合が国策として強制された。京都市内に中核行が無く、市内行は都市銀行の支店となり、六大都市で本店銀行が無いのは京都市のみ。戦局の切迫で市内本店銀行の設立を図る余裕がなく、福知山本店の丹和銀行設立で統合を終えた
- [4]1937年以降の一県一行主義で地方銀行の統合が国策として強制された。京都市内に中核行が無く、市内行は都市銀行の支店となり、六大都市で本店銀行が無いのは京都市のみ。戦局の切迫で市内本店銀行の設立を図る余裕がなく、福知山本店の丹和銀行設立で統合を終えた
- [5]1937年以降の一県一行主義で地方銀行の統合が国策として強制された。京都市内に中核行が無く、市内行は都市銀行の支店となり、六大都市で本店銀行が無いのは京都市のみ。戦局の切迫で市内本店銀行の設立を図る余裕がなく、福知山本店の丹和銀行設立で統合を終えた
- [6]1937年以降の一県一行主義で地方銀行の統合が国策として強制された。京都市内に中核行が無く、市内行は都市銀行の支店となり、六大都市で本店銀行が無いのは京都市のみ。戦局の切迫で市内本店銀行の設立を図る余裕がなく、福知山本店の丹和銀行設立で統合を終えた
- [8]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [9]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [10]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [11]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [12]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
- [13]発足時の業務は預金吸収と国債消化が中心で全行あげて貯蓄増強。1942年に中丹・百三十七の2行を神戸銀行と分割合併、同年12月に京都大内銀行を安田銀行と分割合併し七条大宮に初の京都市内支店。府本店銀行は丹和銀行のみに。1943年以降に特殊預金・国債貯金・納税準備預金を創設
1947年〜64店を34店に縮小した店舗整理と、福知山から京都市へ移転した本店
1946年4月、創立以来の頭取だった高木半兵衞氏が退任し、片岡久兵衞氏が頭取に就任した。1948年には金融機関再建整備法に基づいて資本金を9割減資し、同年9月に2,800万円へ増資。店舗は合併の重なりで効率の低い店が郡部に散っており、1947年以降に整理統合を進めた。1950年末には、1947年当時の64店を34店まで減らした。整理の狙いは縮小ではなく、郡部の店を閉じて生じた余力を京都市への進出に集中することにあった。1949年10月には中京区三条烏丸東入に京都支店を新設し、1950年3月に本部の一部をそこへ移した。郡部の店を半減させる判断は、京都市で取引先を得られなければ行の基盤を失う危うさを伴っていたと思われる。
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [14]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [16]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [17]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [18]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [19]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [15]1948年に金融機関再建整備法に基づき9割減資のうえ、同年9月に2,800万円へ増資した
1950年10月、丹和銀行は日本勧業銀行に代わって京都府の本金庫事務を京都支店で始めた。中小企業の育成を掲げる京都府にも地元本店銀行を育てる意向があり、財界の支援も得て委譲の交渉は順調に進んだ。本金庫を受託すると、丹波・丹後の地域名を冠した行名は業務の実態に合わなくなった。府民全体に通じる名で京都市内の取引を広げるため、1951年1月に京都銀行へ改称した。同年4月には島津製作所・郡是製糸・日本レースの各社長を取締役に迎え、地元財界との関係を強めた。10月には創立10周年を機に資本金を3.5倍の1億円へ増資した。改称は法的には商号の変更にとどまり、実質は府を代表する地方銀行としての再出発だったのだろう。
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [20]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [21]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [22]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [24]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [25]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [23]1951年1月に京都銀行と改称した
1953年8月、京都銀行は本店を福知山市から京都市へ移した。1953年の時点で、総預金の43.3%と貸出の66.7%を京都市内の店が扱い、従業員の43.7%も市内に配していた。頭取・常務取締役と本部組織の大半はすでに三条支店に移り、同支店が実質的な本店にあたる。残る不整合は、本店の所在地が福知山にあることだけである。1953年4月に下京区烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得し、6月に本店準備委員を任命した。百貨店の建物を銀行用に改める工事を8月10日に終え、すぐに移転して福知山の旧本店を福知山支店に改めた。1951年から1953年にかけては、日本銀行代理店や京都市公金収納取扱店、住宅金融公庫代理店の業務を相次いで受託した。
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [26]1953年8月に本店を京都市に移転した(本店所在地は下京区烏丸通松原上ル)
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [27]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [28]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [29]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [30]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [31]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [32]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
参考文献[14]-[32]
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [14]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [16]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [17]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [18]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [19]1946年4月に高木半兵衞が頭取を退任し片岡久兵衞が就任。合併で非効率店が散在し、1947年以降の整理統合で1950年末に64店を34店へ。余力を京都市進出に集中する狙い。1949年10月に三条烏丸東入に京都支店新設、1950年3月に本部の一部を移転
- [20]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [21]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [22]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [24]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [25]1950年10月に京都支店で府本金庫の受託事務を開始(それまで日本勧業銀行)。中小企業育成を掲げる府の意向と財界の支援で交渉は順調。丹和の名は丹波・丹後のみを代表し本金庫受託行にふさわしくない。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納・住宅金融公庫代理店等を受託。1951年4月に島津製作所・郡是製糸・日本レースの社長を取締役に、10月に資本金を3.5倍の1億円に増資
- [27]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [28]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [29]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [30]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [31]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- [32]1953年当時、総預金の43.3%・貸出の66.7%・従業員の43.7%が京都市内。頭取・常務と本部の大部分は三条支店に移駐。1953年4月に烏丸通松原上ルの旧高島屋店舗を取得、6月に本店準備委員、8月10日に改装完了し移転。旧本店は福知山支店。1951〜53年に日銀代理店・京都市公金収納取扱店・住宅金融公庫代理店等の受託
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [15]1948年に金融機関再建整備法に基づき9割減資のうえ、同年9月に2,800万円へ増資した
- [23]1951年1月に京都銀行と改称した
- [26]1953年8月に本店を京都市に移転した(本店所在地は下京区烏丸通松原上ル)
1953年〜大阪支店と外国為替で拡大した地元企業の取引と、地銀61行中14位への躍進
京都銀行は京都市に地縁の無い銀行として、資金繰りに苦しむ零細な下請企業に営業の重点を置いた。1949年頃の京都市には、人口約100万人に対して100近い普通銀行の支店があり、都市銀行と同じ営業では取引先を得られなかった。担保力の低い機械金属・電器の下請企業に対し、安定性より将来性を基準に融資した。1952年から1953年頃には電器メーカーごとの下請組合の主力銀行となり、組合を通じて個々の企業との取引を広げた。1950年4月に京都府知事に就任した蜷川虎三氏の中小企業育成策にも、信用保証協会を後ろ盾に金融面で協力した。1952年10月には大阪での営業の足がかりとして大阪市に大阪事務所を設置。1953年には府外進出の先がけとして大阪支店を開設した。
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [33]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [34]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [35]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [36]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [37]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [38]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [39]1953年に府外進出の先がけとして大阪支店を開設した
京都銀行は1954年5月に外国為替業務を始めた。同月に乙種外国為替銀行の認可を受け、取り扱いの開始は大阪支店で5月20日、本店営業部で8月2日である。京都府は観光都市で特色ある貿易産業を抱え、府の本店銀行には外国為替の取り扱いが求められていた。1953年の大阪支店開設後は、取引先に占める貿易関係業者の比重も高まった。本店営業部では、外国為替専門銀行に移る東京銀行の京都支店から営業権を譲り受け、同支店の行員28名を受け入れた。1955年以降は海外へ出る地元の中堅企業が増え、外国為替がその融資と情報提供の前提となる。外国為替の開始で、京都府の貿易業界に地元銀行として貿易金融を提供できるようになった。
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [40]1954年5月に外国為替業務を開始した
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [41]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [42]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [43]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [44]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [45]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [46]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
京都銀行の預金量は1971年3月末に328,786百万円となり、地方銀行61行中14位に達した。改称直後の1951年3月期は約33億円で、56行中44位だった。1955年3月末の預金残高は112億円、貸出総額は91億円である。1959年には東京に事務所を開設し、地元企業に要る情報の収集と中央官公庁との折衝を担わせた。1960年代に自動車などで東京・名古屋と京都の取引が膨らみ、1963年5月に東京支店、1966年12月に名古屋支店を開設した。1964年12月に着工した新本店が地上8階・地下2階で完成したのは1966年8月である。直近10年の預金の増加は7.6倍で、地方銀行平均の5倍を上回った。預金3,000億円を超えた規模と三大都市の店舗網が、次の10年の株式上場と事務の機械化を促したと考えられる。
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [47]預金量は1951年3月期約33億円で地銀56行中44位、1971年3月末328,786百万円で61行中14位。10年間の預金成長率は京銀7.6倍、地銀平均5倍
- [48]預金量は1951年3月期約33億円で地銀56行中44位、1971年3月末328,786百万円で61行中14位。10年間の預金成長率は京銀7.6倍、地銀平均5倍
- [50]1959年に東京事務所を開設(地元企業向け情報収集と中央官公庁折衝)。東京・名古屋との取引拡大を背景に1963年5月東京支店、1966年12月名古屋支店。新本店は1964年12月着工、1966年8月に地上8階・地下2階で完成
- [51]1959年に東京事務所を開設(地元企業向け情報収集と中央官公庁折衝)。東京・名古屋との取引拡大を背景に1963年5月東京支店、1966年12月名古屋支店。新本店は1964年12月着工、1966年8月に地上8階・地下2階で完成
- [52]1959年に東京事務所を開設(地元企業向け情報収集と中央官公庁折衝)。東京・名古屋との取引拡大を背景に1963年5月東京支店、1966年12月名古屋支店。新本店は1964年12月着工、1966年8月に地上8階・地下2階で完成
- [53]預金量は1951年3月期約33億円で地銀56行中44位、1971年3月末328,786百万円で61行中14位。10年間の預金成長率は京銀7.6倍、地銀平均5倍
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [49]1955年3月末の預金残高112億円、貸出総額91億円
参考文献[33]-[53]
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)
- [33]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [34]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [35]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [36]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [37]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [38]1949年頃の京都市は人口約100万人に普通銀行支店が100近く飽和。都市銀行的な営業では入れず、資金調達に苦しむ機械金属・電器の零細下請企業に重点を置き、将来性を基準に融資。1952〜53年頃に電器メーカー系下請組合の主力銀行に。1950年4月就任の蜷川虎三知事の中小企業育成策に信用保証協会を後楯に協力。1952年10月に大阪事務所を開設
- [41]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [42]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [43]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [44]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [45]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [46]1954年5月に乙種外国為替銀行の認可、大阪支店は5月20日・本店営業部は8月2日に取扱開始。観光都市・貿易産業を抱える府の本店銀行として要請され、大阪支店開設後は貿易関係の取引先が増加。東京銀行京都支店の営業権を譲受し行員28名を受入れ。昭和30年代以降、海外進出する地元中堅企業が増加。府貿易界への貿易金融の道が開けた
- [47]預金量は1951年3月期約33億円で地銀56行中44位、1971年3月末328,786百万円で61行中14位。10年間の預金成長率は京銀7.6倍、地銀平均5倍
- [48]預金量は1951年3月期約33億円で地銀56行中44位、1971年3月末328,786百万円で61行中14位。10年間の預金成長率は京銀7.6倍、地銀平均5倍
- [50]1959年に東京事務所を開設(地元企業向け情報収集と中央官公庁折衝)。東京・名古屋との取引拡大を背景に1963年5月東京支店、1966年12月名古屋支店。新本店は1964年12月着工、1966年8月に地上8階・地下2階で完成
- [51]1959年に東京事務所を開設(地元企業向け情報収集と中央官公庁折衝)。東京・名古屋との取引拡大を背景に1963年5月東京支店、1966年12月名古屋支店。新本店は1964年12月着工、1966年8月に地上8階・地下2階で完成
- [52]1959年に東京事務所を開設(地元企業向け情報収集と中央官公庁折衝)。東京・名古屋との取引拡大を背景に1963年5月東京支店、1966年12月名古屋支店。新本店は1964年12月着工、1966年8月に地上8階・地下2階で完成
- [53]預金量は1951年3月期約33億円で地銀56行中44位、1971年3月末328,786百万円で61行中14位。10年間の預金成長率は京銀7.6倍、地銀平均5倍
- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- [39]1953年に府外進出の先がけとして大阪支店を開設した
- [40]1954年5月に外国為替業務を開始した
- [49]1955年3月末の預金残高112億円、貸出総額91億円
出典・参考
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- 会社銀行八十年史(1955年)「京都銀行」
- ポケット社史『地域社会の繁栄とともに』(京都銀行、1971年)