三井金属:神岡鉱山の経営開始と財閥解体による三井金属鉱業の発足
1874年〜神岡払い下げから一貫製錬へ至る構造化
神岡鉱山は西暦708年の和銅年間に開坑して銅を産出し、奈良・平安から戦国・江戸の各時代を通じて金・銀・銅・鉛が掘り継がれてきた古い鉱山で、三井金属鉱業はみずからの源流をこの長い採掘の歴史にさかのぼって位置づけてきた。1874年に三井組は神岡鉱山の蛇腹平坑を明治政府から払い下げを受け、非鉄金属の鉱山経営に参入した。神岡鉱山は国内最大の亜鉛産出量を誇り、カナダのサリバン、オーストラリアのブロークンヒルと並ぶ世界的な鉛・亜鉛鉱山として三井財閥の鉱業部門を支える収益源となった。1892年6月には三井鉱山合資会社を設立して鉱山と炭鉱を一体で運営し、1913年8月には大牟田に亜鉛製錬工場を設けて、神岡で採掘した亜鉛精鉱を自社の製錬所で電気亜鉛地金まで仕上げた。鉱石を掘る工程と地金にする工程を一社で抱えるこの形が、後年まで引き継がれる事業の原型となった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
- [1]神岡鉱山は西暦708年和銅年間に開坑・銅を産出したと伝えられ、三井金属鉱業はその源流をここにさかのぼると位置づけている
- 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
- [2]1874年(明治7年)三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を明治政府から払い下げ・鉱山経営に参入
- [4]1892年6月 三井鉱山合資会社を設立(鉱山・炭鉱の一体運営)
- [5]1913年8月 大牟田に亜鉛製錬工場を新設・製錬に参入
- 新日本経済(1956年6月)
- [3]神岡鉱山は国内最大級の亜鉛産出鉱山で、カナダのサリバン・オーストラリアのブロークンヒルと並ぶ世界的な鉛・亜鉛鉱山とされた
三井鉱山が1913年8月に大牟田へ開いた三池製錬所は、レトルト工場と亜鉛蒸溜工場の操業から始まった日本でもっとも古い亜鉛製錬設備であった。それまで日本産の亜鉛鉱石はすべて鉱石のままドイツとベルギーへ送られ、国内には地金まで仕上げる工程が存在しなかった。第一次世界大戦が始まると、欧州へ向かっていたオーストラリア産鉱石の航路が絶たれ、日本国内で製錬能力を増やすよう求められた。三池製錬所は能力を二倍に引き上げてこれに応じ、鉱石を輸出する国から鉱石を輸入して製錬する国へと日本の立場が入れ替わった。三井鉱山はその後も製錬設備を買い集め、1935年5月に三成鉱業から彦島製錬所を取得して亜鉛蒸溜設備を加え、1943年2月には昭和鉱業から日比製錬所と竹原製錬所を買収して銅の製錬にも参入した。原料を握る会社が工程の下流を買い足していく順序は、この時期に定まった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
- [6]1913年8月 三井鉱山が大牟田に三池製錬所を開設し、レトルト工場・亜鉛蒸溜工場の操業を開始した
- [11]1935年5月 三成鉱業から彦島製錬所を買収し、亜鉛蒸溜設備を加えた
- [12]1943年2月 昭和鉱業から日比製錬所・竹原製錬所を買収し、銅の製錬を開始した
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [7]三池製錬所の操業開始前、日本の亜鉛鉱石はすべて鉱石のままドイツ・ベルギーへ輸出されていた
- [8]第一次世界大戦で欧州へ向かっていたオーストラリア産鉱石の輸送が不可能になり、日本の製錬能力の増強が要請された
- [9]三池製錬所は製錬能力を二倍に増強して需要に応えた
- [10]三池製錬所の操業開始後、日本は鉱石を輸出する側から鉱石を輸入して製錬する側へ転じた
戦後の財閥解体の過程を経て、三井鉱山の金属部門は1950年5月1日に企業再建整備法によって神岡鉱業として独立し、戦後再編史の節目を迎えた。独立に際して新会社が受け継いだのは、神岡鉱業所・串木野鉱業所・三池製錬所・彦島製錬所・日比製錬所・竹原製錬所・目黒研削砥石工場の各事業所である。財閥の商号は当初名乗れず、社名を神岡鉱業、資本金を6億円として発足した。東京証券取引所への上場は同じ年のうちに果たし、独立した一企業として動き出している。翌1951年には10月に12億円への増資、12月に東京研究所の開設と陣容の強化が続き、三井金属鉱業へ社名を改めたのは1952年12月のことである。鉱山を経営し金属を製錬するという三井財閥時代に培った技術と経験は、手を加えられることなく独立後の拡大の土台になった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
- [13]1950年5月1日 企業再建整備法により三井鉱山の金属部門が神岡鉱業として独立発足(資本金6億円)
- [15]発足当初は財閥商号が使えず「神岡鉱業」の商号を用い、資本金6億円で出発
- [17]1951年10月 資本金を12億円に増資、同年12月 東京研究所を設置
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
- [14]分離時に引き継いだ事業所は神岡鉱業所・串木野鉱業所・三池製錬所・彦島製錬所・日比製錬所・竹原製錬所・目黒研削砥石工場であった
- 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
- [16]1950年10月 東京証券取引所に株式上場(発足と同年)
- [18]1952年12月 商号を三井金属鉱業株式会社に変更
参考文献[1]-[18]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
- [1]神岡鉱山は西暦708年和銅年間に開坑・銅を産出したと伝えられ、三井金属鉱業はその源流をここにさかのぼると位置づけている
- [13]1950年5月1日 企業再建整備法により三井鉱山の金属部門が神岡鉱業として独立発足(資本金6億円)
- [15]発足当初は財閥商号が使えず「神岡鉱業」の商号を用い、資本金6億円で出発
- [17]1951年10月 資本金を12億円に増資、同年12月 東京研究所を設置
- 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
- [2]1874年(明治7年)三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を明治政府から払い下げ・鉱山経営に参入
- [4]1892年6月 三井鉱山合資会社を設立(鉱山・炭鉱の一体運営)
- [5]1913年8月 大牟田に亜鉛製錬工場を新設・製錬に参入
- [16]1950年10月 東京証券取引所に株式上場(発足と同年)
- [18]1952年12月 商号を三井金属鉱業株式会社に変更
- 新日本経済(1956年6月)
- [3]神岡鉱山は国内最大級の亜鉛産出鉱山で、カナダのサリバン・オーストラリアのブロークンヒルと並ぶ世界的な鉛・亜鉛鉱山とされた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
- [6]1913年8月 三井鉱山が大牟田に三池製錬所を開設し、レトルト工場・亜鉛蒸溜工場の操業を開始した
- [11]1935年5月 三成鉱業から彦島製錬所を買収し、亜鉛蒸溜設備を加えた
- [12]1943年2月 昭和鉱業から日比製錬所・竹原製錬所を買収し、銅の製錬を開始した
- [14]分離時に引き継いだ事業所は神岡鉱業所・串木野鉱業所・三池製錬所・彦島製錬所・日比製錬所・竹原製錬所・目黒研削砥石工場であった
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [7]三池製錬所の操業開始前、日本の亜鉛鉱石はすべて鉱石のままドイツ・ベルギーへ輸出されていた
- [8]第一次世界大戦で欧州へ向かっていたオーストラリア産鉱石の輸送が不可能になり、日本の製錬能力の増強が要請された
- [9]三池製錬所は製錬能力を二倍に増強して需要に応えた
- [10]三池製錬所の操業開始後、日本は鉱石を輸出する側から鉱石を輸入して製錬する側へ転じた
1953年〜海外資源と需要開発が支えた独立後の拡張
独立後の三井金属鉱業はまず直轄事業所の拡充に注力し、1953年6月の神岡鉱業所金木戸発電所完成を皮切りに、1954年1月の三池製錬所竪型蒸溜亜鉛工場第一期工事、1956年6月の日比製錬所転炉廃瓦斯回収工事、1957年6月の神岡工業所フローソリッド炉と、製錬設備を相次いで近代化した。1962年4月には伸銅事業部とダイカスト事業部を新設して川下の加工へ踏み出し、同月に子会社の王子金属工業と昭和ダイカストを吸収合併した。1965年6月には三鷹工場を新設した。資本金は1954年11月の24億円から1958年6月に48億円、1962年5月に72億円、1965年2月には108億円へと増えた。掘って地金にするだけの会社から、地金を加工して売る会社へ事業の中心を移す動きが、この十年で形になった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
- [19]1953年6月 金木戸発電所完成、1954年1月 三池製錬所竪型蒸溜亜鉛工場第一期、1956年6月 日比製錬所転炉廃瓦斯回収、1957年6月 神岡工業所フローソリッド炉と製錬設備を近代化
- [21]1962年4月 子会社の王子金属工業・昭和ダイカストの両社を吸収合併
- [22]1965年6月 三鷹工場を新設
- [23]資本金は1954年11月24億円→1958年6月48億円→1962年5月72億円→1965年2月108億円と増加
- 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
- [20]1962年4月 伸銅事業部・ダイカスト事業部を新設
亜鉛の生産を増やしても、用途が育たなければ地金は在庫になる。三井金属鉱業は1951年12月に目黒へ東京研究所を設け、神岡鉱業所とともに亜鉛の新しい需要を目指して亜鉛ダイカスト合金の生産を始めた。ついで米国からダイカスト機械を輸入し、大崎に昭和ダイカストを子会社として設立した。当時の国内のダイカスト各社は数こそ多いが方式が原始的であったため、昭和ダイカストの設備を公開して各社へ技術を指導し、機械の貸与と購入資金の貸付まで行った。ダイカスト向けの亜鉛消費量は1969年の時点で月1万トン近くに達した。乾電池に使う電解二酸化マンガンも、終戦直後に長期貯蔵に耐える電池を求めた進駐軍の命令で生産を始めたもので、1969年には月産1,500トンとなり、鉄興社との二社で世界市場をほぼ占め、40数カ国へ輸出していた。地金を売るだけなら値決めは市況に委ねるほかないが、用途を自ら開けば需要の側に立てる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
- [24]1951年12月 目黒に東京研究所を設立し、神岡鉱業所とともに亜鉛の新需要を目指して亜鉛ダイカスト合金の生産を開始
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [25]米国から亜鉛ダイカスト機械を輸入し、大崎に子会社・昭和ダイカストを設立して操業を開始した
- [26]当時の国内ダイカストメーカーは方式が原始的だったため、昭和ダイカストの設備を公開して各社へ技術指導を行い、機械の貸与・購入資金の貸付も行った
- [27]ダイカスト向けの亜鉛消費量は1969年時点で月1万トン近くに達した
- [28]電解二酸化マンガンは終戦直後に進駐軍の命令で生産を開始し、1969年に月産1,500トン、鉄興社との2社で世界市場をほぼ独占して40数カ国へ輸出していた
製錬能力の増強は、原料をどこから取るかという問題を先鋭にした。1950年代前半までは銅でも製錬所が使う鉱石の半分は国内産で足り、鉛は6割から7割、亜鉛にいたってはほとんどが国内鉱石であった。ところが銅は1964年に海外鉱石の比率が6割を超え、1967年には75%へ達し、同年には鉛も55%、亜鉛も51%が海外鉱石になった。三井金属鉱業は1964年8月にペルーのワンサラ鉱山の権益を取得して海外資源開発に加わり、日本鉱業を中心とする産銅六社の一社としてザイールのムソシ銅鉱山の探査権獲得に参加し、三菱金属を幹事とする七社の一社としてマレーシアのマムート銅鉱山の開発にも加わった。鉱山業から出発した各社には、単純な輸入や融資買鉱よりも自ら鉱山の開発に携わりたいという体質的な傾向が強かった。買う相手を探すのではなく掘る場所を持つという発想が、そのまま海を越えて延びた。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [29]1950年代前半までは銅で製錬所の使う鉱石の約半分、鉛で6〜7割、亜鉛はほとんどが国内鉱石で賄えていた
- [30]銅は1964年に海外鉱石比率が6割を超え1967年に75%、同年に鉛55%・亜鉛51%が海外鉱石となった
- [32]ザイールのムソシ銅鉱山は1966年に探査権を獲得し、日本鉱業を中心に住友金属鉱山・三菱金属・三井金属・同和鉱業・古河鉱業の産銅6社が参加した
- [33]マレーシアのマムート銅鉱山は1967年に探査権を得て、三菱金属を幹事社に日鉱・住友・三井・同和・古河・日鉄鉱業の7社が参加した
- [34]鉱山業育ちのため、単純な輸入や融資買鉱よりも直接鉱山開発に携わりたいという意識が体質的に強かった
- 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
- [31]1964年8月 ペルー・ワンサラ鉱山の権益を取得
参考文献[19]-[34]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
- [19]1953年6月 金木戸発電所完成、1954年1月 三池製錬所竪型蒸溜亜鉛工場第一期、1956年6月 日比製錬所転炉廃瓦斯回収、1957年6月 神岡工業所フローソリッド炉と製錬設備を近代化
- [21]1962年4月 子会社の王子金属工業・昭和ダイカストの両社を吸収合併
- [22]1965年6月 三鷹工場を新設
- [23]資本金は1954年11月24億円→1958年6月48億円→1962年5月72億円→1965年2月108億円と増加
- 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
- [20]1962年4月 伸銅事業部・ダイカスト事業部を新設
- [31]1964年8月 ペルー・ワンサラ鉱山の権益を取得
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
- [24]1951年12月 目黒に東京研究所を設立し、神岡鉱業所とともに亜鉛の新需要を目指して亜鉛ダイカスト合金の生産を開始
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [25]米国から亜鉛ダイカスト機械を輸入し、大崎に子会社・昭和ダイカストを設立して操業を開始した
- [26]当時の国内ダイカストメーカーは方式が原始的だったため、昭和ダイカストの設備を公開して各社へ技術指導を行い、機械の貸与・購入資金の貸付も行った
- [27]ダイカスト向けの亜鉛消費量は1969年時点で月1万トン近くに達した
- [28]電解二酸化マンガンは終戦直後に進駐軍の命令で生産を開始し、1969年に月産1,500トン、鉄興社との2社で世界市場をほぼ独占して40数カ国へ輸出していた
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [29]1950年代前半までは銅で製錬所の使う鉱石の約半分、鉛で6〜7割、亜鉛はほとんどが国内鉱石で賄えていた
- [30]銅は1964年に海外鉱石比率が6割を超え1967年に75%、同年に鉛55%・亜鉛51%が海外鉱石となった
- [32]ザイールのムソシ銅鉱山は1966年に探査権を獲得し、日本鉱業を中心に住友金属鉱山・三菱金属・三井金属・同和鉱業・古河鉱業の産銅6社が参加した
- [33]マレーシアのマムート銅鉱山は1967年に探査権を得て、三菱金属を幹事社に日鉱・住友・三井・同和・古河・日鉄鉱業の7社が参加した
- [34]鉱山業育ちのため、単純な輸入や融資買鉱よりも直接鉱山開発に携わりたいという意識が体質的に強かった
1967年〜製錬能力の積み上げと公害責任の顕在化
1960年代後半の増設は、一社単独ではなく同業との共同出資で進んだ。三井金属鉱業は1967年2月に亜鉛製錬6社の共同出資で八戸製錬を設立し、自らは50%を出資した。英国が特許を持つISP法を導入して鉛と亜鉛を同時に製錬する方式で、1969年2月に運転を開始し、月産は亜鉛4,500トン、鉛2,500トンに達した。導入したのは炉の技術だけで、前処理と後処理は国内の機器メーカーとの共同研究によっていた。銅では日鉄鉱業と組み、三井金属鉱業が70%、日鉄鉱業が30%を出資して日比共同製錬を設立し、フィンランドのオートクンプ方式による月産7,000トン規模の新鋭工場を建設した。臨海の大型設備が競争の条件になるにつれ、一社で抱えきれる投資額を超えはじめていた。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [35]1960年代の非鉄各社は小名浜製錬所・八戸製錬所など共同出資による大型製錬所の建設を相次いで進めた
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [36]1967年2月 亜鉛製錬6社(三菱・同和・日鉱・東邦亜鉛・日曹金属・三井金属)の共同出資で八戸製錬を設立し、三井金属は50%を出資した
- [37]八戸製錬は英国が特許を持つISP法で鉛・亜鉛を同時製錬し、1969年2月に運転開始、月産は亜鉛4,500トン・鉛2,500トン
- [38]八戸製錬が導入したのは炉の技術だけで、前処理・後処理は国内の機器メーカーと三井金属の共同研究によった
- [39]日比共同製錬を三井金属70%・日鉄鉱業30%の共同出資で設立し、オートクンプ方式による月産7,000トン規模の新鋭工場を建設した
神岡鉱山の埋蔵鉱量は1969年時点で4,000万トンとされ、年に120万から130万トンを採掘してなお、新しく見つかる鉱量が採掘量を上回っていた。国内にこれに匹敵する大鉱床はほかになかった。規模が大きいために採れる方法もあり、山中の鉱石を発破で崩して底から自然に取り出すブロックケイビング法は、日本では神岡だけが採用していた。坑道を大きく取れるため軌道を敷かず運搬車で鉱石を運ぶトラックレスマイニングも併用し、坑内で働く一人あたりの一日の採鉱量は10トンに届こうとしていた。選鉱では、鉱石の変化に応じて薬品を変えなければならないのに分析が追いつかないという共通の制約を、自社開発のX線分析法で分析と薬品投入を連動させることで解いた。国内鉱山の出鉱量が最後の頂点を記録したのもこの時期であった。
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [40]神岡鉱山の埋蔵鉱量は1969年時点で4,000万トン、年産120〜130万トンを採掘してなお新規発見鉱量が採掘量を上回っていた
- [41]神岡の4,000万トンに匹敵する大鉱床は国内に存在しなかった
- [42]鉱石を発破で崩し底から自然に取り出すブロックケイビング法を、日本では神岡だけが採用していた
- [43]軌道を使わず運搬車で鉱石を搬出するトラックレスマイニングを採用し、坑内夫1人1日あたりの採鉱量は10トンに近づいていた
- [44]自社開発のX線分析法で鉱石分析と薬品投入装置を連動させるオンラインシステムを選鉱場で稼働させていた
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [45]国内鉱山は比重を下げながらも出鉱量を伸ばし、国内鉱石からの銅生産は1969年に12万1,000トンでピークを記録した
富山県の神通川流域では、高齢の女性の骨が軟化し腎臓に障害が出る症状が長く見られていた。神岡鉱山の排水に含まれるカドミウムが病の原因だとする説を、調査にあたった学者らが公表したのは1967年である。カドミウムに原因を求める見方自体は、1961年に萩野昇氏と吉岡金市氏が既に示していた。三井金属鉱業を相手取って被害者と遺族28名が訴えを起こしたのは1968年3月で、同じ年の5月には厚生省がイタイイタイ病を公害病に認定している。農用地土壌汚染防止法が1970年に成立し、カドミウム等による汚染を受けた農地を改良する事業について、費用のうち一定の割合は関連する事業者の負担とされた。被害者側は1971年6月の富山地裁の一審で全面的に勝ち、三井金属鉱業は控訴に踏み切った。鉛・亜鉛で世界有数の鉱山を持つことは強みだったが、それがこの時点で最大の負債へと変わりつつあった。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [46]神通川流域で高齢の女性の骨が軟化し腎臓障害を起こすイタイイタイ病が見られていた
- [47]1967年 調査に当たった学者らが、原因を三井金属の神岡鉱山排水に含まれるカドミウムに求める説を発表した
- [51]1970年 農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウム等で汚染された農地の改良事業費の一定割合を関連事業者が負担することになった
- 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)
- [48]1961年 萩野昇氏・吉岡金市氏がイタイイタイ病のカドミウム説を発表
- [49]1968年3月 被害者・遺族28名が三井金属鉱業を提訴(一次訴訟)
- [50]1968年5月 厚生省がイタイイタイ病を公害病と認定(主因はカドミウム)
- [52]1971年6月 富山地裁の一審で被害者が全面勝訴、三井金属鉱業は控訴した
参考文献[35]-[52]
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [35]1960年代の非鉄各社は小名浜製錬所・八戸製錬所など共同出資による大型製錬所の建設を相次いで進めた
- [45]国内鉱山は比重を下げながらも出鉱量を伸ばし、国内鉱石からの銅生産は1969年に12万1,000トンでピークを記録した
- [46]神通川流域で高齢の女性の骨が軟化し腎臓障害を起こすイタイイタイ病が見られていた
- [47]1967年 調査に当たった学者らが、原因を三井金属の神岡鉱山排水に含まれるカドミウムに求める説を発表した
- [51]1970年 農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウム等で汚染された農地の改良事業費の一定割合を関連事業者が負担することになった
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [36]1967年2月 亜鉛製錬6社(三菱・同和・日鉱・東邦亜鉛・日曹金属・三井金属)の共同出資で八戸製錬を設立し、三井金属は50%を出資した
- [37]八戸製錬は英国が特許を持つISP法で鉛・亜鉛を同時製錬し、1969年2月に運転開始、月産は亜鉛4,500トン・鉛2,500トン
- [38]八戸製錬が導入したのは炉の技術だけで、前処理・後処理は国内の機器メーカーと三井金属の共同研究によった
- [39]日比共同製錬を三井金属70%・日鉄鉱業30%の共同出資で設立し、オートクンプ方式による月産7,000トン規模の新鋭工場を建設した
- [40]神岡鉱山の埋蔵鉱量は1969年時点で4,000万トン、年産120〜130万トンを採掘してなお新規発見鉱量が採掘量を上回っていた
- [41]神岡の4,000万トンに匹敵する大鉱床は国内に存在しなかった
- [42]鉱石を発破で崩し底から自然に取り出すブロックケイビング法を、日本では神岡だけが採用していた
- [43]軌道を使わず運搬車で鉱石を搬出するトラックレスマイニングを採用し、坑内夫1人1日あたりの採鉱量は10トンに近づいていた
- [44]自社開発のX線分析法で鉱石分析と薬品投入装置を連動させるオンラインシステムを選鉱場で稼働させていた
- 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)
- [48]1961年 萩野昇氏・吉岡金市氏がイタイイタイ病のカドミウム説を発表
- [49]1968年3月 被害者・遺族28名が三井金属鉱業を提訴(一次訴訟)
- [50]1968年5月 厚生省がイタイイタイ病を公害病と認定(主因はカドミウム)
- [52]1971年6月 富山地裁の一審で被害者が全面勝訴、三井金属鉱業は控訴した
1874年〜1971年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 目黒に東京研究所を設立(1951/12) |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 223 | n/a | n/a | 16 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 207 | ▲7.3% | n/a | 14 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 214 | +3.5% | n/a | 12 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 259 | +21.0% | n/a | 14 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 295 | +13.9% | n/a | 14 | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 330 | +11.7% | 23 | 16 | 9 | 2.8% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 334 | +1.5% | 17 | 11 | 8 | 2.4% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 三鷹工場を新設(1965/06) |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,169 | n/a | n/a | 11 | 18 | 1.5% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑
出典・参考
7件
- 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編、1955年)「三井金属鉱業」の項
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社 編、1968年)「三井金属鉱業」の項
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- 新日本経済(1956年6月)
- 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)