三井金属:イタイイタイ病補償による無配と再建計画の人員削減
1972年〜賠償の受諾が経営へ組み入れた費用
上告はせず、判決を受け入れる道を会社は選んだ。その判決とは、1972年8月に名古屋高裁金沢支部が控訴審で下したもので、原告側の主張を再び認め、総額1億4,820万円を三井金属鉱業が支払うよう命じていた。翌日には賠償の誓約書のほか、汚染田の土壌を入れ替えて元に戻す旨の誓約書と、被害者が毎年立ち入って調べることを認めた公害防止協定が交わされた。第二次訴訟から後に訴えた原告とも、会社は和解にこぎつけている。賠償額の合計は1973年3月期の売上高1,293億円に比べて大きくはなく、むしろ重かったのは、発生源の神岡鉱業所の操業を被害者の点検にさらし続ける枠組みを、期限なしで引き受けたことだった。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [1]会社側は控訴審判決を受諾し、上告しなかった
- [2]1972年 名古屋高裁は原告の主張を認め、総額1億4,820万円の支払いを三井金属に命じた
- [4]引き続き提訴した第二次訴訟以降の原告とは和解が成立した
- 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)
- [3]1972年8月の判決翌日、賠償の誓約書・毎年の立入調査を認める公害防止協定・汚染田の土壌復元の誓約書を締結した
- 三井金属鉱業 会社年鑑(1976年版・単体)
- [5]1973年3月期の売上高は1,293億円(単体)
1973年3月期の三井金属鉱業は、売上高1,293億円に対し経常利益9億円、当期は5億円の純損失であった。前期は5億円の純利益を計上していたから、賠償と公害対策の費用が円高と重なって損益を反転させたことになる。同期は無配に転落した。汚染田を客土で入れ替える復元は着手から約33年を要し、完了したのは2012年3月であった。神通川流域のカドミウム被害問題が全面解決の文書を交わしたのは、控訴審判決から41年後の2013年12月である。公害の責任は一度の賠償として処理できるものではなく、神岡鉱業所に払い続ける操業費として経営へ組み込まれていった。
- 三井金属鉱業 会社年鑑(1976年版・単体)
- [6]1973年3月期は売上高1,293億円・経常利益9億円・当期純損失5億円(単体・JGAAP)
- [7]前期(1972年3月期)は当期純利益5億円で、賠償負担と円高が重なり純損失に転じた
- [8]1973年3月期は無配となった
- 三井金属鉱業「神通川流域におけるイタイイタイ病・カドミウム被害問題の全面解決について」(2013年12月17日)
- [9]汚染田の客土復元は着手から約33年を要し、2012年3月に完了した
- [10]2013年12月 神通川流域のカドミウム被害問題が全面解決した
1969年12月の講演で三井金属鉱業の副社長は、神岡には4,000万トンの埋蔵鉱量があり、なお盛んに掘り進められる働き盛りの山だと述べていた『活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である』。農用地土壌汚染防止法が1970年に成立し、カドミウムなどに汚染された農地を改良する事業費の一定の割合を関係事業者が負う仕組みができると、その負担は三井金属鉱業だけでなく東邦亜鉛、日本鉱業、三菱金属、同和鉱業など非鉄金属の多くの会社にかかった。講演から3年後、その神岡は流域の農地を33年がかりで入れ替える原因となり、毎年の立入調査を受ける鉱山に変わっていた。国内で鉱山と製錬所を営む経営には公害対策の費用が制度上組み込まれ、資源を国内に持つ価値は、掘り出せる量よりも後始末の負担の重さで測られるようになった。
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [11]1969年12月5日の企業分析第1部会における講演で、三井金属鉱業副社長の尾本信平氏は神岡鉱山の埋蔵鉱量を4,000万トンとし「活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である」と述べた
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [12]1970年 農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウム等で汚染された農地の改良事業費の一定割合を関連事業者が負担することになった
- [13]費用負担の対象は三井金属に限らず、東邦亜鉛・日本鉱業・三菱金属・同和鉱業など多くの非鉄金属会社に及んだ
- 三井金属鉱業「神通川流域におけるイタイイタイ病・カドミウム被害問題の全面解決について」(2013年12月17日)
- [14]判決翌日に結んだ公害防止協定は被害者による毎年の立入調査を認め、汚染田の客土復元は約33年を要した
参考文献[1]-[14]
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [1]会社側は控訴審判決を受諾し、上告しなかった
- [2]1972年 名古屋高裁は原告の主張を認め、総額1億4,820万円の支払いを三井金属に命じた
- [4]引き続き提訴した第二次訴訟以降の原告とは和解が成立した
- [12]1970年 農用地土壌汚染防止法が成立し、カドミウム等で汚染された農地の改良事業費の一定割合を関連事業者が負担することになった
- [13]費用負担の対象は三井金属に限らず、東邦亜鉛・日本鉱業・三菱金属・同和鉱業など多くの非鉄金属会社に及んだ
- 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)
- [3]1972年8月の判決翌日、賠償の誓約書・毎年の立入調査を認める公害防止協定・汚染田の土壌復元の誓約書を締結した
- 三井金属鉱業 会社年鑑(1976年版・単体)
- [5]1973年3月期の売上高は1,293億円(単体)
- [6]1973年3月期は売上高1,293億円・経常利益9億円・当期純損失5億円(単体・JGAAP)
- [7]前期(1972年3月期)は当期純利益5億円で、賠償負担と円高が重なり純損失に転じた
- [8]1973年3月期は無配となった
- 三井金属鉱業「神通川流域におけるイタイイタイ病・カドミウム被害問題の全面解決について」(2013年12月17日)
- [9]汚染田の客土復元は着手から約33年を要し、2012年3月に完了した
- [10]2013年12月 神通川流域のカドミウム被害問題が全面解決した
- [14]判決翌日に結んだ公害防止協定は被害者による毎年の立入調査を認め、汚染田の客土復元は約33年を要した
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [11]1969年12月5日の企業分析第1部会における講演で、三井金属鉱業副社長の尾本信平氏は神岡鉱山の埋蔵鉱量を4,000万トンとし「活動力は大きくいまだに壮年期の鉱山である」と述べた
1973年〜石油ショックが露わにした市況依存
銅、鉛、亜鉛はロンドン金属取引所の外貨建て相場で値が決まり、国内価格はそれを円に換算して決められる。円高になればその分だけ国内の地金価格が下がり、製錬所は鉱石の仕入れ値も下がる代わりに、収入となる製錬費も同じ比率で減少する。1971年のニクソンショックによる円高と、1973年の石油ショックが続けて到来したとき、この構造がそのまま損益に出た。非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は、1950年代前半まで毎年およそ30万メートルに達していたが、1971年から急減し、1975年には10万4,000メートルまで減少した。海外の大型開発も、ザイールが1972年、マムートが1975年と、もっとも悪い時期に生産を始めていた。1969年に運転を始めたばかりの八戸製錬も、能力を引き上げる計画を抱えたまま市況の底に入った。
- 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
- [15]銅・鉛・亜鉛などはロンドン金属取引所(LME)で外貨建てで相場が決まり、国内価格はLME価格を円換算して決められる
- [16]円高になると国内の地金価格が下がり、製錬所は鉱石価格も下がるが収入となる製錬費もスライドして減る
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [17]1973年の石油ショックで非鉄金属産業は絶頂から反転し、以後長いリストラクチャリングへ向かった
- [18]非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1950年代前半まで毎年約30万メートルだったが1971年から急減し、1975年には10万4,000メートルまで落ち込んだ
- [19]ザイールの銅鉱山は1972年、マムート鉱山は1975年に生産を開始し、ニクソンショック・石油ショックとぶつかった
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [20]八戸製錬は1969年2月に運転を開始し、月産を亜鉛6,000トン・鉛3,000トンへ引き上げる計画を持っていた
1978年3月期の売上高は1,882億3,946万円で、前年度より161億8,387万円、7.9%の減収であった。金・銀地金と電子金属製品の拡販、自動車向けダイカスト製品と建材品の増販、前年度に続く第2回の備蓄買付けがあってなお、銅と亜鉛の地金価格の大幅な下落がそれらを打ち消した。営業利益は前年度の123億円から14億円へ落ち、経常損益は82億1,770万円の損失、当期損失は45億9,307万円となり、無配であった。営業段階でわずかに黒字を残しながら経常段階で82億円の損失へ転じたのは、増設のために積み上げた借入の利息が重かったためである。同期の従業員は男6,649名、女592名の計7,241名、平均年齢40.1歳、平均勤続18.1年であった。
- 日本企業要覧 1978年版「三井金属」
- [21]1978年3月期の売上高は1,882億3,946万円、前年度比161億8,387万円(7.9%)の減収
- [22]金・銀地金と電子金属製品の拡販、自動車向けダイカスト製品・建材品の増販、第2回備蓄買付けがあったが、銅・亜鉛地金の価格の大幅な下落で減収となった
- [23]営業利益は前年度の123億円から14億円へ減少した
- [24]1978年3月期は経常損益で82億1,770万円の損失、当期損失45億9,307万円、無配
- [25]1978年時点の在籍人員は男6,649名・女592名の計7,241名、平均年齢40.1歳、平均勤続18.1年
1973年、三井金属鉱業の資金課長がアイルランドへ渡った。英国では公定歩合が13%台と高く、金利の高い資金を持ち込むことには抵抗があった。それでも、電解二酸化マンガンを作る三井デンマンの設立プロジェクトチームに加わったときには、資本金を除く資金は現地で調達すると決まっていた。検討を重ねた末に見つけたのが、英国輸出信用保証局の年利6〜8%台の長期銀行融資制度と、アイルランドの優先株を組み合わせた融資制度である。前者から360万ポンド、後者から400万ポンドを借りる見通しが立った。為替差損は本来200万ドルに上るはずだったが、設備投資資金を現地通貨で賄う原則を守ったことで避けられ、年間50万ポンド近い利払いも抑えられた。このアイルランド工場は、1978年の会社案内でペルーのワンサラ鉱山、カタンガ鉱山と並べて紹介されている。市況と為替に晒される事業では、調達の通貨を選ぶこと自体が損益の一部であった。
- 日経ビジネス 1977年11月21日号
- [26]1973年 三井金属鉱業の小松忠三郎資金課長がアイルランドへ渡った
- [27]当時の英国公定歩合は13%台と高く、高利の資金導入には抵抗感があった
- [28]電解二酸化マンガンの製造会社・三井デンマン設立のプロジェクトチームの一員で、資本金以外の資金は現地調達との前提が決められていた
- [29]英国輸出信用保証局(ECGD)の年利6〜8%台の長期銀行融資制度から360万ポンド、アイルランドの優先株抱き合わせ融資制度から400万ポンドの借り入れの道が開いた
- [30]海外での設備投資資金は現地通貨で調達するという原則を守り、200万ドルにのぼる為替損失を未然に防ぎ年間50万ポンド近い支払利息を節約した
- 日本企業要覧 1978年版「三井金属」
- [31]1978年時点の会社概況はペルーのワンサラ鉱山・カタンガ鉱山・アイルランドの電解二酸化マンガン工場を挙げ、海外進出に意欲的と紹介している
参考文献[15]-[31]
- 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
- [15]銅・鉛・亜鉛などはロンドン金属取引所(LME)で外貨建てで相場が決まり、国内価格はLME価格を円換算して決められる
- [16]円高になると国内の地金価格が下がり、製錬所は鉱石価格も下がるが収入となる製錬費もスライドして減る
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [17]1973年の石油ショックで非鉄金属産業は絶頂から反転し、以後長いリストラクチャリングへ向かった
- [18]非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1950年代前半まで毎年約30万メートルだったが1971年から急減し、1975年には10万4,000メートルまで落ち込んだ
- [19]ザイールの銅鉱山は1972年、マムート鉱山は1975年に生産を開始し、ニクソンショック・石油ショックとぶつかった
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- [20]八戸製錬は1969年2月に運転を開始し、月産を亜鉛6,000トン・鉛3,000トンへ引き上げる計画を持っていた
- 日本企業要覧 1978年版「三井金属」
- [21]1978年3月期の売上高は1,882億3,946万円、前年度比161億8,387万円(7.9%)の減収
- [22]金・銀地金と電子金属製品の拡販、自動車向けダイカスト製品・建材品の増販、第2回備蓄買付けがあったが、銅・亜鉛地金の価格の大幅な下落で減収となった
- [23]営業利益は前年度の123億円から14億円へ減少した
- [24]1978年3月期は経常損益で82億1,770万円の損失、当期損失45億9,307万円、無配
- [25]1978年時点の在籍人員は男6,649名・女592名の計7,241名、平均年齢40.1歳、平均勤続18.1年
- [31]1978年時点の会社概況はペルーのワンサラ鉱山・カタンガ鉱山・アイルランドの電解二酸化マンガン工場を挙げ、海外進出に意欲的と紹介している
- 日経ビジネス 1977年11月21日号
- [26]1973年 三井金属鉱業の小松忠三郎資金課長がアイルランドへ渡った
- [27]当時の英国公定歩合は13%台と高く、高利の資金導入には抵抗感があった
- [28]電解二酸化マンガンの製造会社・三井デンマン設立のプロジェクトチームの一員で、資本金以外の資金は現地調達との前提が決められていた
- [29]英国輸出信用保証局(ECGD)の年利6〜8%台の長期銀行融資制度から360万ポンド、アイルランドの優先株抱き合わせ融資制度から400万ポンドの借り入れの道が開いた
- [30]海外での設備投資資金は現地通貨で調達するという原則を守り、200万ドルにのぼる為替損失を未然に防ぎ年間50万ポンド近い支払利息を節約した
1980年〜鉱山を切り離し電子材料を主力にする
1980年12月23日、三井金属鉱業は三井金属箔製造と三金レア・アースの2社を吸収合併した。銅箔はプリント基板に張り合わせる素材で、コンピューター産業に欠かせない。1988年には日本鉱業が世界シェア約4割を握る米国の銅箔メーカー、グールドを10億5,000万ドルで買収しており、市況で値の決まる商品とは違う電子材料の分野で業績の安定を図ろうとする動きが非鉄各社にあった。1981年3月期の三井金属鉱業の売上高は2,738億1,157万円で、前年度比108億円、3.8%の減収、経常損益は43億9,801万円の損失であった。地金部門の販売不振に加え、円高の持続による収入の減少、エネルギーコストの上昇、亜鉛鉱石の世界的な不足から生じた買鉱条件の悪化が重なった。
- 日本企業要覧 1981年版「三井金属」
- [32]1980年12月23日 三井金属箔製造・三金レア・アースの2社を吸収合併した
- [35]1981年3月期の売上高は2,738億1,157万円、前年度比108億円(3.8%)の減収、経常損益は43億9,801万円の損失
- [36]地金部門の販売不振、円高の持続に伴う収入の減少、エネルギーコストの上昇、亜鉛鉱石の世界的不足による買鉱条件の悪化が重なった
- 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
- [33]銅箔はプリント基板に張り付ける素材で、コンピューター産業には欠かせない
- [34]1988年 日本鉱業が世界シェア約40%の米国の銅箔メーカー・グールドを10億5,000万ドルで買収し、市況商品と違う電子材料分野で業績の安定を図ろうとした
会社の名にある鉱業は、1981年3月期には既に売上高の一部を占めるだけだった。銅加工品10%、亜鉛加工品5%、化成品9%、建材品4%、その他34%に対し、亜鉛地金12%、鉛3%、銅23%の地金は3部門を足しても3分の1を少し超える程度にとどまる。1985年9月のプラザ合意をきっかけに進んだ円高は、この構造をさらに追い込み、国内16鉱山の閉山と約4,000人の従業員の合理化を伴う整理が、日本鉱業協会の選ぶ1986年の十大ニュースの首位となった。1985年4月に59あった稼働中の金属鉱山は、1988年4月には29へ減っている。三井金属鉱業は1986年に岡山県の日比製錬所を閉め、銅の製錬を日本鉱業の佐賀関製錬所へ委託した。
- 日本企業要覧 1981年版「三井金属」
- [37]1981年3月期の事業構成は亜鉛地金12%・鉛3%・銅23%・銅加工品10%・亜鉛加工品5%・化成品9%・建材品4%・その他34%
- 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
- [38]1985年9月のプラザ合意を引き金とする円高が非鉄金属鉱業の本格的な国際化の時代を開いた
- [39]日本鉱業協会が選んだ1986年の十大ニュースの第一位は国内16鉱山の閉山で、約4,000人の従業員の合理化を伴った
- [40]1985年4月に59あった稼働中の金属鉱山は1988年4月には29まで減少した
- [41]三井金属は1986年に岡山県の日比製錬所を閉鎖し、日本鉱業の佐賀関製錬所へ銅の製錬を委託した
三井金属鉱業も日本鉱業を中心とする産銅六社の一社としてザイールのムソシ銅鉱山に加わっていたが、周辺国の政情が不安定で鉱石を運び出す経路の確保に難渋し、1983年に参加各社は現地鉱山会社をザイール政府に引き渡して全面的に撤退し、損失は総額約530億円に達した。国内でも1986年、三井金属鉱業は東洋一と称された神岡の亜鉛鉱山を本体から切り離し、別の会社とした。小坂と花岡を分離した同和鉱業の例もあり、国内鉱山の整理は業界全体に共通していた。三菱金属を幹事とする七社の一社として加わったマレーシアのマムート鉱山も、円高のなかで1987年に経営権を現地側へ委ねた。海外での探鉱費と開発費は、1971年から1975年の1,317億円をピークに、1981年から1985年には約3割の416億円まで縮小した。資源を自ら持つことを競争力の源としてきた会社にとって、これは前提そのものの喪失であった。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [42]ザイールのムソシ銅鉱山は輸送ルート確保に苦労し、1983年にザイール政府へ現地鉱山会社を譲渡、総額約530億円の損失を出して全面撤退した
- [45]マムート鉱山は円高に苦しむなか1987年に経営権を現地側へ委ねた
- [46]海外での探鉱費・開発費は1971〜1975年の1,317億円をピークに、1981〜1985年にはピーク時の約3割の416億円へ落ち込んだ
- 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
- [43]1986年 三井金属は東洋一といわれた亜鉛鉱山の神岡を別会社化した
- [44]同和鉱業も小坂・花岡を分離し、1986年から1987年にかけて国内鉱山の閉山・分離が集中した
参考文献[32]-[46]
- 日本企業要覧 1981年版「三井金属」
- [32]1980年12月23日 三井金属箔製造・三金レア・アースの2社を吸収合併した
- [35]1981年3月期の売上高は2,738億1,157万円、前年度比108億円(3.8%)の減収、経常損益は43億9,801万円の損失
- [36]地金部門の販売不振、円高の持続に伴う収入の減少、エネルギーコストの上昇、亜鉛鉱石の世界的不足による買鉱条件の悪化が重なった
- [37]1981年3月期の事業構成は亜鉛地金12%・鉛3%・銅23%・銅加工品10%・亜鉛加工品5%・化成品9%・建材品4%・その他34%
- 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
- [33]銅箔はプリント基板に張り付ける素材で、コンピューター産業には欠かせない
- [34]1988年 日本鉱業が世界シェア約40%の米国の銅箔メーカー・グールドを10億5,000万ドルで買収し、市況商品と違う電子材料分野で業績の安定を図ろうとした
- [38]1985年9月のプラザ合意を引き金とする円高が非鉄金属鉱業の本格的な国際化の時代を開いた
- [39]日本鉱業協会が選んだ1986年の十大ニュースの第一位は国内16鉱山の閉山で、約4,000人の従業員の合理化を伴った
- [40]1985年4月に59あった稼働中の金属鉱山は1988年4月には29まで減少した
- [41]三井金属は1986年に岡山県の日比製錬所を閉鎖し、日本鉱業の佐賀関製錬所へ銅の製錬を委託した
- [43]1986年 三井金属は東洋一といわれた亜鉛鉱山の神岡を別会社化した
- [44]同和鉱業も小坂・花岡を分離し、1986年から1987年にかけて国内鉱山の閉山・分離が集中した
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [42]ザイールのムソシ銅鉱山は輸送ルート確保に苦労し、1983年にザイール政府へ現地鉱山会社を譲渡、総額約530億円の損失を出して全面撤退した
- [45]マムート鉱山は円高に苦しむなか1987年に経営権を現地側へ委ねた
- [46]海外での探鉱費・開発費は1971〜1975年の1,317億円をピークに、1981〜1985年にはピーク時の約3割の416億円へ落ち込んだ
1972年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1972年03月期 | 単体 | 1,145 | n/a | 5 | 5 | 0.4% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,293 | +12.9% | 9 | ▲5 | ▲0.4% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 2,027 | +56.8% | 81 | 19 | 0.9% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 2,044 | +0.8% | 66 | 23 | 1.1% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 1,664 | ▲18.6% | n/a | 26 | 1.6% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 2,044 | +22.8% | n/a | 17 | 0.8% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 1,882 | ▲7.9% | n/a | ▲45 | ▲2.4% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 1,782 | ▲5.3% | n/a | ▲31 | ▲1.7% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 2,846 | +59.7% | n/a | 31 | 1.1% | 台湾銅箔股份有限公司を設立(1980) |
| 1981年03月期 | 単体 | 2,738 | ▲3.8% | n/a | ▲13 | ▲0.5% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 2,570 | ▲6.1% | n/a | ▲54 | ▲2.1% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 2,562 | ▲0.3% | n/a | 1 | 0.0% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 2,781 | +8.5% | n/a | ▲19 | ▲0.7% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 2,774 | ▲0.3% | n/a | 25 | 0.9% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | Mitsui Copper Foil (Malaysia)を設立(1989) |
出所:会社年鑑
出典・参考
9件
- 三井金属鉱業 会社年鑑(1976年版・単体)
- 日本産業史(日経文庫)第3巻「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- 日本産業史(日経文庫)第4巻「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
- 証券アナリストジャーナル 1970年 尾本信平(三井金属鉱業副社長)講演
- 日経ビジネス 1977年11月21日号
- 日本企業要覧 1978年版「三井金属」
- 日本企業要覧 1981年版「三井金属」
- 三井金属鉱業「神通川流域におけるイタイイタイ病・カドミウム被害問題の全面解決について」(2013年12月17日)
- 鏡森定信「イタイイタイ病 被害発生から今日まで」(環境社会学研究)