日本電気硝子:日本電気の子会社としての設立とブラウン管ガラスへの展開
1944年〜空襲を避けて大津に移った真空管工場と、資本金300万円で興したガラス会社
日本電気硝子は1944年10月31日、日本電気と岩城硝子が共同で出資し、資本金300万円で発足した。日本電気は当時住友通信工業と称し、同年2月に旭ベンベルグ絹糸が大津市に持っていた工場を取得し、製造所に充てていた。米軍の空襲による被害を避けるため、生産拠点を分散させる措置である。大津製造所は軍需用の通信機器と真空管を生産し、真空管のガラスを岩城硝子からの納入に依存していた。岩城硝子は岩城倉之助氏が経営する特殊ガラスの製造会社で、戦時中は航空機用の防弾ガラスの軍需省への納入元。新会社は所内でガラスを自給するために置かれ、経営を日本電気が、製造を岩城硝子が分担した。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [1]1944年10月31日、日本電気と岩城硝子が真空管用ガラスの供給安定のため大津製造所内に資本金300万円で日本電気硝子を設立。経営は日本電気、製造は岩城硝子
- [2]日本電気(当時住友通信工業)は1944年2月、空襲被害を避ける生産分散のため旭ベンベルグ絹糸の大津工場跡を買収し大津製造所を開設
- [3]日本電気(当時住友通信工業)は1944年2月、空襲被害を避ける生産分散のため旭ベンベルグ絹糸の大津工場跡を買収し大津製造所を開設
- [4]1944年10月31日、日本電気と岩城硝子が真空管用ガラスの供給安定のため大津製造所内に資本金300万円で日本電気硝子を設立。経営は日本電気、製造は岩城硝子
- [6]1944年10月31日、日本電気と岩城硝子が真空管用ガラスの供給安定のため大津製造所内に資本金300万円で日本電気硝子を設立。経営は日本電気、製造は岩城硝子
- 会社銀行八十年史 1955年「ガラス」
- [5]岩城硝子は岩城倉之助氏が経営し、戦時中は航空機用防弾ガラスなどの特殊ガラスが軍需省に採用された
日本電気硝子の生産期間は、1945年5月の開始から終戦までの3カ月にとどまる。岩城硝子は終戦とともに、日本電気硝子を日本電気へ譲渡し、製造から退いた。日本電気は1945年12月に大津製造所でラジオ用真空管の生産再開の許可を得て、ガラスは所内に新設した硝子課で自家生産した。製造を担っていた岩城硝子の撤退後、硝子課には熟練した職人がおらず、各地で職人を募って真空管の生産に辛うじて間に合わせた。会社としての日本電気硝子は1947年1月15日に解散を決議し、清算事務に入った。日本電気にとって初めて自前で手がけたガラス事業は、会社ではなく製造所の一課として再出発したことになる。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [7]1945年5月に生産開始、操業3カ月で終戦を迎え生産活動を休止
- [9]日本電気は民需転換でラジオ用真空管の生産を決め、1945年12月に大津製造所の生産再開が許可され、真空管用ガラスは日本電気硝子の設備を借り受けて所内の硝子課で自家生産
- [10]岩城硝子が手を引いた後の硝子課は熟練職人が乏しく、職人を集めて真空管の生産に間に合わせるのがやっとだった
- [11]1947年1月15日に日本電気硝子の解散を決議し清算事務を開始
- 会社銀行八十年史 1955年「ガラス」
- [8]岩城硝子の関係会社のうち日本電気硝子は終戦とともに日本電気へ譲渡された
日本電気硝子は1949年12月1日に業務を再開し、同日を実質上の創立日と定めた。同年11月末に清算中の会社の継続を決議し、日本電気が全額を出資する子会社としての再建。日本電気では工場の統廃合と品種の整理が進まず、1947年9月の45日間のストライキでは硝子課の職人の一部も離職した。ガラス製造と真空管組立の生産条件の差は大きく、硝子課と製造所の幹部はガラス部門の分離を求めた。日本電気で資材部長を務めた伊藤修氏が社長に就任し、硝子課課長の粂川長次郎氏と竹内武氏が常勤役員に加わった。長崎準一氏は後年、独立時の従業員を90人、設備を坩堝10本の窯1基と振り返った。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [12]1949年11月に会社の継続を決議し日本電気の全額出資子会社として12月1日から業務を再開、同日を実質上の創立日とする
- [13]1949年11月に会社の継続を決議し日本電気の全額出資子会社として12月1日から業務を再開、同日を実質上の創立日とする
- [14]日本電気は工場の統廃合・品種整理が進まず、1947年9月に45日間のストライキが発生し硝子課の職人の一部が離職。ガラス部門の分離論が強まり、日本電気の経営再建の意向と一致
- [15]日本電気は工場の統廃合・品種整理が進まず、1947年9月に45日間のストライキが発生し硝子課の職人の一部が離職。ガラス部門の分離論が強まり、日本電気の経営再建の意向と一致
- [16]社長に日本電気資材部長の伊藤修、常勤役員に硝子課課長の粂川長次郎と竹内武が就任
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [17]独立時は従業員90人、生産設備は坩堝10本入りの窯1基だった(長崎準一会長の1985年の講演)
参考文献[1]-[17]
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [1]1944年10月31日、日本電気と岩城硝子が真空管用ガラスの供給安定のため大津製造所内に資本金300万円で日本電気硝子を設立。経営は日本電気、製造は岩城硝子
- [2]日本電気(当時住友通信工業)は1944年2月、空襲被害を避ける生産分散のため旭ベンベルグ絹糸の大津工場跡を買収し大津製造所を開設
- [3]日本電気(当時住友通信工業)は1944年2月、空襲被害を避ける生産分散のため旭ベンベルグ絹糸の大津工場跡を買収し大津製造所を開設
- [4]1944年10月31日、日本電気と岩城硝子が真空管用ガラスの供給安定のため大津製造所内に資本金300万円で日本電気硝子を設立。経営は日本電気、製造は岩城硝子
- [6]1944年10月31日、日本電気と岩城硝子が真空管用ガラスの供給安定のため大津製造所内に資本金300万円で日本電気硝子を設立。経営は日本電気、製造は岩城硝子
- [7]1945年5月に生産開始、操業3カ月で終戦を迎え生産活動を休止
- [9]日本電気は民需転換でラジオ用真空管の生産を決め、1945年12月に大津製造所の生産再開が許可され、真空管用ガラスは日本電気硝子の設備を借り受けて所内の硝子課で自家生産
- [10]岩城硝子が手を引いた後の硝子課は熟練職人が乏しく、職人を集めて真空管の生産に間に合わせるのがやっとだった
- [11]1947年1月15日に日本電気硝子の解散を決議し清算事務を開始
- [12]1949年11月に会社の継続を決議し日本電気の全額出資子会社として12月1日から業務を再開、同日を実質上の創立日とする
- [13]1949年11月に会社の継続を決議し日本電気の全額出資子会社として12月1日から業務を再開、同日を実質上の創立日とする
- [14]日本電気は工場の統廃合・品種整理が進まず、1947年9月に45日間のストライキが発生し硝子課の職人の一部が離職。ガラス部門の分離論が強まり、日本電気の経営再建の意向と一致
- [15]日本電気は工場の統廃合・品種整理が進まず、1947年9月に45日間のストライキが発生し硝子課の職人の一部が離職。ガラス部門の分離論が強まり、日本電気の経営再建の意向と一致
- [16]社長に日本電気資材部長の伊藤修、常勤役員に硝子課課長の粂川長次郎と竹内武が就任
- 会社銀行八十年史 1955年「ガラス」
- [5]岩城硝子は岩城倉之助氏が経営し、戦時中は航空機用防弾ガラスなどの特殊ガラスが軍需省に採用された
- [8]岩城硝子の関係会社のうち日本電気硝子は終戦とともに日本電気へ譲渡された
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [17]独立時は従業員90人、生産設備は坩堝10本入りの窯1基だった(長崎準一会長の1985年の講演)
1950年〜ダンナーマシンで成功した自動管引と、オーエンズ・イリノイから入れたアンプル管の技術
日本電気硝子は1950年夏、遊休化していたダンナーマシン(自動管引き機)の稼働を決めた。独立直後は真空管のバルブとステム管を人の手で吹いて作り、唯一の得意先の日本電気への売上は月200万円である。長崎準一氏は後年、事業化には機械生産が欠かせず、板ガラスやびんと比べて管ガラスは自動化しやすかったと説明した。機械は1947年に購入後も動かせずにいたため、東芝の退職者を招き、田辺硬質硝子社長の田辺史朗氏から50万円を借り入れた。1951年1月4日に連続した管引きに成功し、同年秋には蛍光灯用バルブを量産し始めた。同年上期に77,800円の黒字を初めて計上し、下期の売上高は4,100万余円に達した。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [18]1947年に購入し遊休化していたダンナーマシンを1950年夏に稼働させると決定。東芝の退職者を招き、田辺硬質硝子社長田辺史朗氏から50万円を借入
- [19]独立時は手吹きで真空管バルブとステム用ガラス管を生産し、唯一の得意先日本電気への売上は月200万円
- [21]1947年に購入し遊休化していたダンナーマシンを1950年夏に稼働させると決定。東芝の退職者を招き、田辺硬質硝子社長田辺史朗氏から50万円を借入
- [22]1951年1月4日に連続管引きに成功し、同年秋から蛍光灯用バルブの大量生産を開始。1951年上期に初の利益77,800円、下期売上高4,100万余円
- [23]1951年1月4日に連続管引きに成功し、同年秋から蛍光灯用バルブの大量生産を開始。1951年上期に初の利益77,800円、下期売上高4,100万余円
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [20]長崎準一は、手作業では事業にならず、管ガラスは板ガラス・びん等に比べ生産自動化が比較的容易だったので管ガラスを選んだと講演
日本電気硝子は1958年4月、米オーエンズ・イリノイ社とアンプル管の技術援助契約を結んだ。アンプル管に使うホウケイ酸ガラスは溶解が不安定で、寸法精度でも欧米の技術を入れた他社に及ばなかった。提携は常務の長崎準一氏の渡米時の要請に始まり、ガラス管の提携は1960年2月に政府の認可を得た。提携に伴うオーエンズ・イリノイ社の取得分は、日本電気硝子株の4.2%にあたる。長崎準一氏は、蛍光灯で得た管引きの技術を管ガラス全般へ広げ、アンプル管に進出したと説明した。並行して1959年3月には関東の需要と輸送費の不利に対応するため藤沢工場を稼働させ、アンプル管の出荷を始めた。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [24]アンプル管用ホウケイ酸ガラスの溶解と寸法精度が不十分で、欧米技術を導入した他社と競うには海外技術が必要だった。1958年4月にOI社と技術援助契約
- [25]アンプル管用ホウケイ酸ガラスの溶解と寸法精度が不十分で、欧米技術を導入した他社と競うには海外技術が必要だった。1958年4月にOI社と技術援助契約
- [26]常務長崎の渡米時にOI社へ提携を要請。ガラス管の提携は1960年2月に認可され、OI社が株式の4.2%を保有
- [27]常務長崎の渡米時にOI社へ提携を要請。ガラス管の提携は1960年2月に認可され、OI社が株式の4.2%を保有
- [29]大津工場の能力不足と関東市場への輸送の不利から、藤沢市の工場誘致に応じ1959年3月に藤沢工場が稼働、アンプル管を出荷
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [28]蛍光灯で得た管ガラスの機械生産技術を管ガラス全分野に応用し、アンプル管に進出(1985年講演)
日本電気硝子は1962年、結晶化ガラスの〈ネオセラム〉を量産に移し、鳴海製陶と提携して食器の販売を始めた。管ガラスは量産に見合う品目をほぼ網羅して高いシェアを得ており、その先の成長を見込めなくなっていた。研究は京都大学教授の田代仁氏の指導を受けて進め、米コーニング社の同種製品に対抗できる品質へ達したのは1964年である。溶解と金型に苦しむ中で、高温での溶解とプレス成形の技術が社内に残った。1966年4月、結晶化ガラスを製造する技術を確立した功績で、常務の長崎準一氏は日本窯業協会の技術賞を受賞した。長崎準一氏は1985年の講演で、結晶化ガラスの特性を建材の〈ネオパリエ〉にも展開したと語った。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [30]1962年に超耐熱結晶化ガラス〈ネオセラム〉の生産を開始し鳴海製陶との業務提携で食器を発売。京都大学教授田代仁の指導で研究、1964年にコーニングのパイロセラムに対抗できる品質に到達し、高温溶解・プレス成形技術を蓄積
- [31]管ガラスは量産に見合う製品をほぼ網羅し高シェアを得ていたため、管ガラス主業では大きな成長が望めず新製品開発が急務だった
- [32]1962年に超耐熱結晶化ガラス〈ネオセラム〉の生産を開始し鳴海製陶との業務提携で食器を発売。京都大学教授田代仁の指導で研究、1964年にコーニングのパイロセラムに対抗できる品質に到達し、高温溶解・プレス成形技術を蓄積
- [33]1962年に超耐熱結晶化ガラス〈ネオセラム〉の生産を開始し鳴海製陶との業務提携で食器を発売。京都大学教授田代仁の指導で研究、1964年にコーニングのパイロセラムに対抗できる品質に到達し、高温溶解・プレス成形技術を蓄積
- [34]1966年4月、結晶化ガラスの製造技術確立などで長崎準一常務が日本窯業協会技術賞を受賞
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [35]結晶化ガラスの特性を活かし人造建材〈ネオパリエ〉を開発(1985年講演)
参考文献[18]-[35]
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [18]1947年に購入し遊休化していたダンナーマシンを1950年夏に稼働させると決定。東芝の退職者を招き、田辺硬質硝子社長田辺史朗氏から50万円を借入
- [19]独立時は手吹きで真空管バルブとステム用ガラス管を生産し、唯一の得意先日本電気への売上は月200万円
- [21]1947年に購入し遊休化していたダンナーマシンを1950年夏に稼働させると決定。東芝の退職者を招き、田辺硬質硝子社長田辺史朗氏から50万円を借入
- [22]1951年1月4日に連続管引きに成功し、同年秋から蛍光灯用バルブの大量生産を開始。1951年上期に初の利益77,800円、下期売上高4,100万余円
- [23]1951年1月4日に連続管引きに成功し、同年秋から蛍光灯用バルブの大量生産を開始。1951年上期に初の利益77,800円、下期売上高4,100万余円
- [24]アンプル管用ホウケイ酸ガラスの溶解と寸法精度が不十分で、欧米技術を導入した他社と競うには海外技術が必要だった。1958年4月にOI社と技術援助契約
- [25]アンプル管用ホウケイ酸ガラスの溶解と寸法精度が不十分で、欧米技術を導入した他社と競うには海外技術が必要だった。1958年4月にOI社と技術援助契約
- [26]常務長崎の渡米時にOI社へ提携を要請。ガラス管の提携は1960年2月に認可され、OI社が株式の4.2%を保有
- [27]常務長崎の渡米時にOI社へ提携を要請。ガラス管の提携は1960年2月に認可され、OI社が株式の4.2%を保有
- [29]大津工場の能力不足と関東市場への輸送の不利から、藤沢市の工場誘致に応じ1959年3月に藤沢工場が稼働、アンプル管を出荷
- [30]1962年に超耐熱結晶化ガラス〈ネオセラム〉の生産を開始し鳴海製陶との業務提携で食器を発売。京都大学教授田代仁の指導で研究、1964年にコーニングのパイロセラムに対抗できる品質に到達し、高温溶解・プレス成形技術を蓄積
- [31]管ガラスは量産に見合う製品をほぼ網羅し高シェアを得ていたため、管ガラス主業では大きな成長が望めず新製品開発が急務だった
- [32]1962年に超耐熱結晶化ガラス〈ネオセラム〉の生産を開始し鳴海製陶との業務提携で食器を発売。京都大学教授田代仁の指導で研究、1964年にコーニングのパイロセラムに対抗できる品質に到達し、高温溶解・プレス成形技術を蓄積
- [33]1962年に超耐熱結晶化ガラス〈ネオセラム〉の生産を開始し鳴海製陶との業務提携で食器を発売。京都大学教授田代仁の指導で研究、1964年にコーニングのパイロセラムに対抗できる品質に到達し、高温溶解・プレス成形技術を蓄積
- [34]1966年4月、結晶化ガラスの製造技術確立などで長崎準一常務が日本窯業協会技術賞を受賞
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [20]長崎準一は、手作業では事業にならず、管ガラスは板ガラス・びん等に比べ生産自動化が比較的容易だったので管ガラスを選んだと講演
- [28]蛍光灯で得た管ガラスの機械生産技術を管ガラス全分野に応用し、アンプル管に進出(1985年講演)
- [35]結晶化ガラスの特性を活かし人造建材〈ネオパリエ〉を開発(1985年講演)
1963年〜資本金3億円の会社が約20億円を投じた滋賀高月工場と、カラーテレビ用のCRTバルブ
日本電気硝子は1963年1月、オーエンズ・イリノイ社とのブラウン管用ガラス(CRTバルブ)の技術提携について政府の認可を得た。1958年にも申請したものの、旭特殊硝子が米コーニング社の技術で生産を始めていたため取り下げていた。長崎準一氏はテレビを永く続く映像伝達の装置とみて、CRTバルブをガラス事業に残る唯一の巨大な分野と位置づけた。待つ間はプレス成形を学ぶため、1960年2月に建築用ガラスブロックの発売。認可の背景は、テレビ需要の拡大で1社の供給では賄えなくなった事情である。同年11月、伊藤修氏が会長に就任し、日本電気常務で新日本電気社長の小森茂氏が社長に就任した。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [36]OI社との提携時にCRTバルブも認可申請したが、旭特殊硝子がコーニング社の技術で生産していたため取り下げ。1963年1月にCRTバルブの提携が認可された
- [37]OI社との提携時にCRTバルブも認可申請したが、旭特殊硝子がコーニング社の技術で生産していたため取り下げ。1963年1月にCRTバルブの提携が認可された
- [39]CRTバルブ進出の足がかりとしてプレス技術を修得するため建築用ガラスブロックに着手し、1960年2月に販売開始
- [41]1963年11月、伊藤修が取締役会長に、日本電気常務・新日本電気社長の小森茂が社長に就任
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [38]長崎準一はテレビを永遠の映像伝達装置とみてブラウン管ガラスをガラス事業に残された唯一の巨大分野と考えた。認可は6年後の1963年、需要拡大で1社では供給できなくなったため
- [40]長崎準一はテレビを永遠の映像伝達装置とみてブラウン管ガラスをガラス事業に残された唯一の巨大分野と考えた。認可は6年後の1963年、需要拡大で1社では供給できなくなったため
日本電気硝子は1964年12月1日、滋賀県伊香郡高月町に建てた滋賀高月工場で第1号炉の火入れ式を催した。CRTバルブは研磨や溶着の工程を伴って生産ラインが大きく、大津と藤沢の両工場には拡張の余地がなかった。そこで大津に近く、輸送と工業用水の条件を満たす北陸本線沿いの約13万平方メートルを選んだ。資本金が1963年の増資で3億円になったばかりの時期で、長崎準一氏は後年、当時の経営状態に見合わない投資だったと振り返った。第1号炉では事故で事業が頓挫するのを避けるため、CRTバルブより先に生産したのは、ガラスブロックとガラス繊維素材である。白黒CRTバルブは1965年11月に最初の見本品を日本電気へ納めたものの、同年4〜9月期は3000余万円の赤字となった。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [42]CRTバルブは加工工程を含み生産ラインが巨大で大津・藤沢に拡張余地がなく、大津に近く輸送・工業用水の条件を満たす高月町の約13万平方メートルを選定。1964年12月1日に第1号炉の火入れ、事故回避のため最初はガラスブロックとガラス繊維素材を生産
- [43]CRTバルブは加工工程を含み生産ラインが巨大で大津・藤沢に拡張余地がなく、大津に近く輸送・工業用水の条件を満たす高月町の約13万平方メートルを選定。1964年12月1日に第1号炉の火入れ、事故回避のため最初はガラスブロックとガラス繊維素材を生産
- [44]CRTバルブは加工工程を含み生産ラインが巨大で大津・藤沢に拡張余地がなく、大津に近く輸送・工業用水の条件を満たす高月町の約13万平方メートルを選定。1964年12月1日に第1号炉の火入れ、事故回避のため最初はガラスブロックとガラス繊維素材を生産
- [46]CRTバルブは加工工程を含み生産ラインが巨大で大津・藤沢に拡張余地がなく、大津に近く輸送・工業用水の条件を満たす高月町の約13万平方メートルを選定。1964年12月1日に第1号炉の火入れ、事故回避のため最初はガラスブロックとガラス繊維素材を生産
- [47]1965年11月に初の白黒CRTバルブ見本品を日本電気へ出荷。不況とテレビ業界の在庫過剰で採用が進まず、1965年4〜9月期は3000余万円の赤字
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [45]将来を見据え広大な敷地を購入しブラウン管ガラス専用工場を建設、当時の経営状態からはかなり無茶な投資だったと長崎準一が講演。社史年表では1963年に資本金3億円
米国のテレビがカラーへ移って白黒テレビの供給が日本に求められ、日本電気硝子は1966年11月にCRTバルブで初めて黒字を計上した。長崎準一氏は、テレビのブームでガラスは造るほど売れる時代になったと振り返った。1967年6月、カラー用のCRTバルブについてもオーエンズ・イリノイ社から技術援助を受ける契約を締結し、滋賀高月工場を拡張した。1968年4月にカラーの生産ラインが稼働し、後部のファンネルの成形は他社の遠心鋳造と異なり、当初からプレスである。同年7月には月間の売上高が10億円を超えた。CRTバルブの急拡大は管ガラスと合わせて既存工場の能力を圧迫し、次の工場の新設を迫ったと思われる。
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [48]1966年に米国のカラー化で白黒テレビの供給が日本に依存し国内在庫が減少、同年11月にCRTバルブが初めて黒字化
- [50]1967年6月にカラーCRTバルブでOI社と技術援助契約を結び滋賀高月工場の第2期工事に着手、OI社の持株比率は20%に
- [51]1968年4月にカラーCRTバルブの生産ラインが稼働、ファンネルに当初からプレス法を採用。7月に月間売上高10億円を超えた
- [52]1968年4月にカラーCRTバルブの生産ラインが稼働、ファンネルに当初からプレス法を採用。7月に月間売上高10億円を超えた
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [49]テレビが大ブームになりガラスは造れば造っただけ売れる時代が来て、次いでカラー用ガラスを始めた(1985年講演)
参考文献[36]-[52]
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- [36]OI社との提携時にCRTバルブも認可申請したが、旭特殊硝子がコーニング社の技術で生産していたため取り下げ。1963年1月にCRTバルブの提携が認可された
- [37]OI社との提携時にCRTバルブも認可申請したが、旭特殊硝子がコーニング社の技術で生産していたため取り下げ。1963年1月にCRTバルブの提携が認可された
- [39]CRTバルブ進出の足がかりとしてプレス技術を修得するため建築用ガラスブロックに着手し、1960年2月に販売開始
- [41]1963年11月、伊藤修が取締役会長に、日本電気常務・新日本電気社長の小森茂が社長に就任
- [42]CRTバルブは加工工程を含み生産ラインが巨大で大津・藤沢に拡張余地がなく、大津に近く輸送・工業用水の条件を満たす高月町の約13万平方メートルを選定。1964年12月1日に第1号炉の火入れ、事故回避のため最初はガラスブロックとガラス繊維素材を生産
- [43]CRTバルブは加工工程を含み生産ラインが巨大で大津・藤沢に拡張余地がなく、大津に近く輸送・工業用水の条件を満たす高月町の約13万平方メートルを選定。1964年12月1日に第1号炉の火入れ、事故回避のため最初はガラスブロックとガラス繊維素材を生産
- [44]CRTバルブは加工工程を含み生産ラインが巨大で大津・藤沢に拡張余地がなく、大津に近く輸送・工業用水の条件を満たす高月町の約13万平方メートルを選定。1964年12月1日に第1号炉の火入れ、事故回避のため最初はガラスブロックとガラス繊維素材を生産
- [46]CRTバルブは加工工程を含み生産ラインが巨大で大津・藤沢に拡張余地がなく、大津に近く輸送・工業用水の条件を満たす高月町の約13万平方メートルを選定。1964年12月1日に第1号炉の火入れ、事故回避のため最初はガラスブロックとガラス繊維素材を生産
- [47]1965年11月に初の白黒CRTバルブ見本品を日本電気へ出荷。不況とテレビ業界の在庫過剰で採用が進まず、1965年4〜9月期は3000余万円の赤字
- [48]1966年に米国のカラー化で白黒テレビの供給が日本に依存し国内在庫が減少、同年11月にCRTバルブが初めて黒字化
- [50]1967年6月にカラーCRTバルブでOI社と技術援助契約を結び滋賀高月工場の第2期工事に着手、OI社の持株比率は20%に
- [51]1968年4月にカラーCRTバルブの生産ラインが稼働、ファンネルに当初からプレス法を採用。7月に月間売上高10億円を超えた
- [52]1968年4月にカラーCRTバルブの生産ラインが稼働、ファンネルに当初からプレス法を採用。7月に月間売上高10億円を超えた
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一
- [38]長崎準一はテレビを永遠の映像伝達装置とみてブラウン管ガラスをガラス事業に残された唯一の巨大分野と考えた。認可は6年後の1963年、需要拡大で1社では供給できなくなったため
- [40]長崎準一はテレビを永遠の映像伝達装置とみてブラウン管ガラスをガラス事業に残された唯一の巨大分野と考えた。認可は6年後の1963年、需要拡大で1社では供給できなくなったため
- [45]将来を見据え広大な敷地を購入しブラウン管ガラス専用工場を建設、当時の経営状態からはかなり無茶な投資だったと長崎準一が講演。社史年表では1963年に資本金3億円
- [49]テレビが大ブームになりガラスは造れば造っただけ売れる時代が来て、次いでカラー用ガラスを始めた(1985年講演)
1944年〜1970年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 38 | n/a | 0 | 1.1% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 35 | ▲7.9% | ▲1 | ▲5.1% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 57 | +62.9% | ▲1 | ▲2.5% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 77 | +35.1% | 3 | 4.2% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 132 | +71.4% | 1 | 0.9% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 195 | +47.7% | 3 | 1.9% | n/a |
出所:会社総鑑
出典・参考
3件
- 刊行社史『Process & products 日本電気硝子の40年』1989年
- 会社銀行八十年史 1955年「ガラス」
- 証券アナリストジャーナル 23(10) 1985年 長崎準一