ジャパンエナジー:久原房之助の赤沢銅山買収と鮎川義介の日本産業
1905年〜久原房之助氏が日立村で開いた日立鉱山と、他山の鉱石も調達して吹く製錬所
赤沢銅山の売買契約を大橋真六氏と交わしたのは1905年12月11日で、久原房之助氏は同月26日に日立鉱山の名で開業した。代金は鉱区権の引き継ぎ時の20万円を含め、3回に分けて計30万円を払う条件である。それ以前の久原房之助氏は、叔父・藤田伝三郎氏の藤田組に属し、小坂鉱山を銀山から銅山へ転じて立て直していた。その15年の経験を経て、久原房之助氏は独立して鉱山業を営む機会を待った。赤沢銅山の売山話は、小坂時代の部下の溝口為之進氏が持ち込んだ。買収の決め手は鉱山の将来性で、久原房之助氏はこの山を足場に久原鉱業所を起こした。開業後は1906年1月に事務所規則と給与規程を定め、翌2月には第1竪坑の掘削に着手。小坂で得た再建の手腕を、自分の鉱山で試す場を求めた選択だったとみられる。
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第1章 創業時代」
- [1]1905年12月11日に大橋真六と売買契約(代金20万・3万・7万円の3回払い)、12月26日に赤沢銅山を日立鉱山と改称して開業、1906年1月に規則制定・2月に第1竪坑掘削着手
- [2]1905年12月11日に大橋真六と売買契約(代金20万・3万・7万円の3回払い)、12月26日に赤沢銅山を日立鉱山と改称して開業、1906年1月に規則制定・2月に第1竪坑掘削着手
- [3]久原房之助は叔父藤田伝三郎の藤田組で小坂鉱山を銀山から銅山へ再建、15年の経験を経て独立の機を待つ。売山の話は小坂時代の部下溝口為之進が報告
- [4]久原房之助は叔父藤田伝三郎の藤田組で小坂鉱山を銀山から銅山へ再建、15年の経験を経て独立の機を待つ。売山の話は小坂時代の部下溝口為之進が報告
- [5]久原房之助は叔父藤田伝三郎の藤田組で小坂鉱山を銀山から銅山へ再建、15年の経験を経て独立の機を待つ。売山の話は小坂時代の部下溝口為之進が報告
- [7]1905年12月11日に大橋真六と売買契約(代金20万・3万・7万円の3回払い)、12月26日に赤沢銅山を日立鉱山と改称して開業、1906年1月に規則制定・2月に第1竪坑掘削着手
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [6]1905年12月、久原房之助が赤沢鉱山の将来性に着目し大橋真六から買収、久原鉱業所を起こし日立鉱山と改名
久原房之助氏は1908年3月、日立鉱山の本山と助川の中間にある大雄院跡で製錬所の建設に着手し、同年11月に1号炉の吹き入れを始めた。この製錬所の構想は、自山の鉱石に他山から購入した鉱石を加えて処理する買鉱政策を前提とした中央製錬所である。製法には竹内維彦氏が小坂鉱山で完成させた生鉱吹を採用し、焼鉱に10日余りを要した旧法の燃料費を抑えた。銅の熔錬鉱量は1906年の10,276tから1912年に233,314tとなり、創業時の22倍。買鉱を通じて各地の鉱山を調べた知見は、優良鉱山の選別と買収にも役立った。明治末年には電気鉄道・電錬工場・発電所がそろい、国内有数の産銅会社の態勢が整った。自山の鉱量という上限を製錬の規模で外したことが、大規模経営への転機になったと推察される。
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第2章 大規模経営への躍進」
- [8]1908年3月に大雄院製錬所を起工し同年11月に1号炉吹入れ。久原の買鉱政策に基づく中央製錬所の構想。竹内維彦の生鉱吹を採用し燃料を節約
- [9]1908年3月に大雄院製錬所を起工し同年11月に1号炉吹入れ。久原の買鉱政策に基づく中央製錬所の構想。竹内維彦の生鉱吹を採用し燃料を節約
- [10]1908年3月に大雄院製錬所を起工し同年11月に1号炉吹入れ。久原の買鉱政策に基づく中央製錬所の構想。竹内維彦の生鉱吹を採用し燃料を節約
- [11]銅熔錬鉱量は1906年10,276tから1908年51,299t、1912年233,314tへ(創業時の22倍)。買鉱を通じた調査で優良鉱山を選び育成・買収
- [12]銅熔錬鉱量は1906年10,276tから1908年51,299t、1912年233,314tへ(創業時の22倍)。買鉱を通じた調査で優良鉱山を選び育成・買収
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [13]明治末年までに電気鉄道・電錬工場・発電所が完成し、国有数の産銅会社としての基本態勢が整備
参考文献[1]-[13]
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第1章 創業時代」
- [1]1905年12月11日に大橋真六と売買契約(代金20万・3万・7万円の3回払い)、12月26日に赤沢銅山を日立鉱山と改称して開業、1906年1月に規則制定・2月に第1竪坑掘削着手
- [2]1905年12月11日に大橋真六と売買契約(代金20万・3万・7万円の3回払い)、12月26日に赤沢銅山を日立鉱山と改称して開業、1906年1月に規則制定・2月に第1竪坑掘削着手
- [3]久原房之助は叔父藤田伝三郎の藤田組で小坂鉱山を銀山から銅山へ再建、15年の経験を経て独立の機を待つ。売山の話は小坂時代の部下溝口為之進が報告
- [4]久原房之助は叔父藤田伝三郎の藤田組で小坂鉱山を銀山から銅山へ再建、15年の経験を経て独立の機を待つ。売山の話は小坂時代の部下溝口為之進が報告
- [5]久原房之助は叔父藤田伝三郎の藤田組で小坂鉱山を銀山から銅山へ再建、15年の経験を経て独立の機を待つ。売山の話は小坂時代の部下溝口為之進が報告
- [7]1905年12月11日に大橋真六と売買契約(代金20万・3万・7万円の3回払い)、12月26日に赤沢銅山を日立鉱山と改称して開業、1906年1月に規則制定・2月に第1竪坑掘削着手
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [6]1905年12月、久原房之助が赤沢鉱山の将来性に着目し大橋真六から買収、久原鉱業所を起こし日立鉱山と改名
- [13]明治末年までに電気鉄道・電錬工場・発電所が完成し、国有数の産銅会社としての基本態勢が整備
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第2章 大規模経営への躍進」
- [8]1908年3月に大雄院製錬所を起工し同年11月に1号炉吹入れ。久原の買鉱政策に基づく中央製錬所の構想。竹内維彦の生鉱吹を採用し燃料を節約
- [9]1908年3月に大雄院製錬所を起工し同年11月に1号炉吹入れ。久原の買鉱政策に基づく中央製錬所の構想。竹内維彦の生鉱吹を採用し燃料を節約
- [10]1908年3月に大雄院製錬所を起工し同年11月に1号炉吹入れ。久原の買鉱政策に基づく中央製錬所の構想。竹内維彦の生鉱吹を採用し燃料を節約
- [11]銅熔錬鉱量は1906年10,276tから1908年51,299t、1912年233,314tへ(創業時の22倍)。買鉱を通じた調査で優良鉱山を選び育成・買収
- [12]銅熔錬鉱量は1906年10,276tから1908年51,299t、1912年233,314tへ(創業時の22倍)。買鉱を通じた調査で優良鉱山を選び育成・買収
1912年〜資本金1000万円の久原鉱業と、大煙突と佐賀関製錬所で拡大した買鉱製錬
1912年9月、久原房之助氏は個人の事業だった久原鉱業所を株式会社に改め、資本金1,000万円の久原鉱業として本社を大阪中之島に置いた。事業が急に膨らみ、個人の経営のままでは組織を整えることも資金を調達することも難しく、先の拡大にも限りがあった。日立鉱山は出鉱量の増加と全国の鉱山からの買鉱によって、1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量となった。全国の産銅に占める比率は1911年の8.79%から1913年に15.08%へ上がり、量では4,774tが10,234tへ増えた。定款の目的は、鉱業に加えて化学工業、機械製作、電気事業にわたる。改組後の久原鉱業は、豊羽・河津・峰之沢・竹野などの鉱山を相次いで買収して操業を始めた。株式会社への移行は、個人の信用に依存した資金調達を広げる狙いを持ったものと思われる。
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第3章 久原鉱業株式会社の設立」
- [14]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [15]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [16]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [17]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [18]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [19]1912年9月に資本金1,000万円で久原鉱業(株)を設立、以後豊羽・河津・峰之沢・竹野・東山・高浦・大瀬・吉野などの鉱山を買収して操業開始
久原鉱業は1914年12月、日立製錬所に高さ511フィート(約155m)の大煙突を完成させた。買鉱で熔錬鉱量は1912年の233,000tから1914年に394,000tへ増え、排煙の量も増えた。被害地は1912年時点で4町24カ村を数え、名産の水府煙草を作る地域もほぼ全域が含まれた。1913年6月には政府の命令に従って高さ120尺(36m)の煙突を設けたが、被害は収まらなかった。1914年の補償金は20万円超。対策として久原房之助氏が打ち出したのは、煙突を思い切り高くして煙を上空で薄める案で、建設に投じたのは37,000人と152,000円である。1912年の改組から1915年までの間に、久原鉱業の経営基盤は大きく固まった。亜硫酸を回収する策の採算が立たないなかで、製錬の拡大を止めずに済む手段として高さを選んだのだろう。
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第3章 久原鉱業株式会社の設立」
- [20]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [21]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [22]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [23]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [24]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [25]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [26]1912年9月の改組後、1915年までは社礎が大いに強化された
大分県佐賀関の製錬所は1916年9月、建設工事の途中で電錬と真吹炉を動かし始めた。用地探しの始まりは1913年の瀬戸内海の沿岸で、条件は九州、四国、中国地方西部で採れる鉱石をまとめて処理できる場所である。原鉱や燃料を集めて運ぶ便、港の条件、電力に加え、煙害を避けられるかどうかも比べて、佐賀関に決まった。計画の取扱鉱量は月18,500tで、煙突は高さ550フィート(約167m)とし、産出が3倍になっても排煙をさばける能力を見込んだ。全設備がそろって正常に動いたのは1917年1月である。資本金は大戦景気のなかで増資を重ね、1916年5月の3,000万円から1917年には7,500万円となった。産銅量は1917年に全国1位となり、1918年には全国の銅の30%を占めた。完成を待たずに操業を始めた判断には、大戦中の銅需要を逃さない意図があったと考えられる。
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展」
- [27]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [28]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [29]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [30]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [31]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [33]1917年の産銅量は全国第1位、1918年の生産量対全国比は金40%・銀50%・銅30%
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [32]欧州大戦の好況で1916年5月に資本金3,000万円、1917年に7,500万円へ増資
参考文献[14]-[33]
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第3章 久原鉱業株式会社の設立」
- [14]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [15]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [16]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [17]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [18]1912年9月、個人経営では組織・資金面の不便と将来の制約があったため資本金1,000万円で久原鉱業株式会社を設立、本社大阪中之島。1913年に足尾に次ぐ全国第2位の産銅量、産銅量4,774t→10,234t、全国比8.79%→15.08%。事業目的に鉱業・化学工業・機械製作・電気事業
- [20]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [21]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [22]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [23]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [24]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- [25]熔錬鉱量1912年233,000t→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村、水府種煙草産地の大部分に及ぶ。政府命令の120尺煙突(1913年6月)でも被害は減らず補償金は1914年に20万円超。久原の提唱で37,000の人員と152,000円により1914年12月に511フィート(約155m)の大煙突完成。亜硫酸・硫黄の活用は経済的に成り立たず
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [19]1912年9月に資本金1,000万円で久原鉱業(株)を設立、以後豊羽・河津・峰之沢・竹野・東山・高浦・大瀬・吉野などの鉱山を買収して操業開始
- [26]1912年9月の改組後、1915年までは社礎が大いに強化された
- [32]欧州大戦の好況で1916年5月に資本金3,000万円、1917年に7,500万円へ増資
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展」
- [27]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [28]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [29]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [30]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [31]九州・四国・中国西部の鉱石処理のため1913年から瀬戸内海方面で候補地調査、原鉱・燃料の収集輸送・煙害回避・港湾・電力から佐賀関を選定。計画は取扱鉱量月18,500t・煙突550フィート・3倍増産に耐える排煙。1916年9月に電錬・真吹炉の操業開始、1917年1月から全設備正常操業
- [33]1917年の産銅量は全国第1位、1918年の生産量対全国比は金40%・銀50%・銅30%
1919年〜戦後恐慌で傷んだ久原商事などの関係会社と、鮎川義介氏が持株会社に改めた日本産業
久原鉱業は1920年の戦後恐慌で生産を縮め、大戦中の投資の多くが利益を生まない資産に変わった。資産は1916年下期からの4年間で7,400万円増え、うち1,700万円は他会社への出資である。久原房之助氏は1918年に久原商事を設立し、貿易業に参入していた。東洋製鉄・合同肥料・久原商事などへの投資は、日立製作所を除いて所期の効果をあげなかった。恐慌による久原商事の損失は1億円余に上り、その債務は久原房之助氏が個人で背負った。鉱業財産100万円当たりの産銅量は、1920年下期に1918年上期の43%の水準へ低下した。1920年以後の不況で銅の在庫は積み上がり、資金繰りの苦しさが続いた。
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第5章 戦後恐慌と久原鉱業」
- [34]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- [35]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- [37]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- [38]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- [39]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展」
- [36]久原は大戦中の貿易拡大に着目し1918年に久原商事株式会社を創立して貿易業に進出
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [40]1920年以後の不況で銅の滞貨激増と資金難が続いた
鮎川義介氏は1928年3月31日、久原房之助氏と交代して久原鉱業の社長に就任した。1926年末に政友会の総裁から求められた配当資金150万円も、鮎川義介氏が藤田家の担保で調達したものである。続いて調べた会社の欠損は2,500万円で、払込資本の6割に当たる。監査役の貝島太市氏の一族は、簿価1,400万円の資産を条件を付けずに差し出し、債務整理を支えた。久原房之助氏は1927年6月、整理が一段落したのを機に鮎川義介氏を取締役に迎え、自らは政治に専念した。同年10月には経済特使としてモスクワへ向かった。鮎川義介氏は、久原房之助氏を政界に移すので後を頼むという政友会総裁の求めに同意した。整理を担った当人に経営の全権を渡すことが、債権者と株主の信用をつなぐ近道だったとみることができる。
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第6章 久原鉱業から日本産業へ」
- [41]1927年6月に整理終了を機に久原が鮎川を取締役に就け政治に専念、同年10月経済特使としてモスクワへ。1928年3月31日に鮎川義介が久原と交代し社長就任。債務整理で監査役貝島太市が一族会の決議で簿価1,400万円の物件を無条件で提供
- [44]1927年6月に整理終了を機に久原が鮎川を取締役に就け政治に専念、同年10月経済特使としてモスクワへ。1928年3月31日に鮎川義介が久原と交代し社長就任。債務整理で監査役貝島太市が一族会の決議で簿価1,400万円の物件を無条件で提供
- [45]1927年6月に整理終了を機に久原が鮎川を取締役に就け政治に専念、同年10月経済特使としてモスクワへ。1928年3月31日に鮎川義介が久原と交代し社長就任。債務整理で監査役貝島太市が一族会の決議で簿価1,400万円の物件を無条件で提供
- [46]1927年6月に整理終了を機に久原が鮎川を取締役に就け政治に専念、同年10月経済特使としてモスクワへ。1928年3月31日に鮎川義介が久原と交代し社長就任。債務整理で監査役貝島太市が一族会の決議で簿価1,400万円の物件を無条件で提供
- 私の履歴書 経済人9「鮎川義介」
- [42]政友会総裁の依頼で鮎川が久原鉱業の配当資金150万円を藤田家の担保で共保生命から調達(1926年暮れの総会前日)。会社の穴は2,500万円(払込資本の6割)。総裁から久原を政界へ移すので後を頼むと求められ同意
- [43]政友会総裁の依頼で鮎川が久原鉱業の配当資金150万円を藤田家の担保で共保生命から調達(1926年暮れの総会前日)。会社の穴は2,500万円(払込資本の6割)。総裁から久原を政界へ移すので後を頼むと求められ同意
- [47]政友会総裁の依頼で鮎川が久原鉱業の配当資金150万円を藤田家の担保で共保生命から調達(1926年暮れの総会前日)。会社の穴は2,500万円(払込資本の6割)。総裁から久原を政界へ移すので後を頼むと求められ同意
1928年12月29日に開いた株主総会で、鮎川義介氏は久原鉱業の持株会社への転換と、日本産業株式会社への商号変更の考えを述べた。事業が鉱業にとどまらず、個人の姓を冠した商号では世間の誤解を招くおそれがあるという理由である。久原房之助氏自身も1916年の増資のころから、社名に個人の名を冠することを避けたい意向を持っていた。株主は1927年下期に15,200人を数え、株式の分散は他社を上回った。総会では鉱業・ゴム栽培業・林業・土地の各事業を順次分離し、日本産業を子会社の頂点に置く構想も示した。鮎川義介氏は1922年に持株会社の共立企業を設立しており、組織替えはその試行を生かしたものである。鉱業部門とその付帯事業は、1929年4月に設けられた日本鉱業へ移された。
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第6章 久原鉱業から日本産業へ」
- [48]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- [49]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- [50]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- [51]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- [52]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- 私の履歴書 経済人9「鮎川義介」
- [53]鮎川は1922年に持株会社共立企業(500万円)を設立、その試練をもとに久原鉱業を公開コンツェルン日本産業に組織替え
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [54]1928年12月に大衆持株会社として日本産業と改称、鉱業部門と付帯事業を引き継ぐ会社として1929年4月に日本鉱業を設立
参考文献[34]-[54]
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第5章 戦後恐慌と久原鉱業」
- [34]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- [35]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- [37]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- [38]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- [39]恐慌による生産縮小で新規投資の大半が眠れる資産に。1916年下期〜1920年上期の資産増加7,400万円(鉱業財産2,700万・流動資産3,000万・他会社出資1,700万)。東洋製鉄・合同肥料・日立製作所・久原商事への投資は日立製作所以外不振。久原商事は1億円余の損失、債務を久原が個人で引受け。鉱業財産100万円当り産銅量は1918年上期を100として1920年下期43
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展」
- [36]久原は大戦中の貿易拡大に着目し1918年に久原商事株式会社を創立して貿易業に進出
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- [40]1920年以後の不況で銅の滞貨激増と資金難が続いた
- [54]1928年12月に大衆持株会社として日本産業と改称、鉱業部門と付帯事業を引き継ぐ会社として1929年4月に日本鉱業を設立
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第6章 久原鉱業から日本産業へ」
- [41]1927年6月に整理終了を機に久原が鮎川を取締役に就け政治に専念、同年10月経済特使としてモスクワへ。1928年3月31日に鮎川義介が久原と交代し社長就任。債務整理で監査役貝島太市が一族会の決議で簿価1,400万円の物件を無条件で提供
- [44]1927年6月に整理終了を機に久原が鮎川を取締役に就け政治に専念、同年10月経済特使としてモスクワへ。1928年3月31日に鮎川義介が久原と交代し社長就任。債務整理で監査役貝島太市が一族会の決議で簿価1,400万円の物件を無条件で提供
- [45]1927年6月に整理終了を機に久原が鮎川を取締役に就け政治に専念、同年10月経済特使としてモスクワへ。1928年3月31日に鮎川義介が久原と交代し社長就任。債務整理で監査役貝島太市が一族会の決議で簿価1,400万円の物件を無条件で提供
- [46]1927年6月に整理終了を機に久原が鮎川を取締役に就け政治に専念、同年10月経済特使としてモスクワへ。1928年3月31日に鮎川義介が久原と交代し社長就任。債務整理で監査役貝島太市が一族会の決議で簿価1,400万円の物件を無条件で提供
- [48]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- [49]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- [50]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- [51]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- [52]1928年12月29日の株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称の趣旨を発表。理由は事業が鉱業に限らず名実が伴わないこと、久原の姓を冠すると誤解を招くおそれ、久原自身も1916年の増資時から個人名を避けたい意見。鉱業・護謨栽培業・林業・土地等を逐次分離独立させピラミッド型の親会社とする。1927年下期の株主15,200人
- 私の履歴書 経済人9「鮎川義介」
- [42]政友会総裁の依頼で鮎川が久原鉱業の配当資金150万円を藤田家の担保で共保生命から調達(1926年暮れの総会前日)。会社の穴は2,500万円(払込資本の6割)。総裁から久原を政界へ移すので後を頼むと求められ同意
- [43]政友会総裁の依頼で鮎川が久原鉱業の配当資金150万円を藤田家の担保で共保生命から調達(1926年暮れの総会前日)。会社の穴は2,500万円(払込資本の6割)。総裁から久原を政界へ移すので後を頼むと求められ同意
- [47]政友会総裁の依頼で鮎川が久原鉱業の配当資金150万円を藤田家の担保で共保生命から調達(1926年暮れの総会前日)。会社の穴は2,500万円(払込資本の6割)。総裁から久原を政界へ移すので後を頼むと求められ同意
- [53]鮎川は1922年に持株会社共立企業(500万円)を設立、その試練をもとに久原鉱業を公開コンツェルン日本産業に組織替え
出典・参考
8件
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第1章 創業時代」
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第2章 大規模経営への躍進」
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第3章 久原鉱業株式会社の設立」
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展」
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第5章 戦後恐慌と久原鉱業」
- 日本鉱業 五十年史(1957年)「第6章 久原鉱業から日本産業へ」
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
- 私の履歴書 経済人9「鮎川義介」