日本ペイント:アジア合弁NIPSEAの開始と国内工場網の整備
シンガポール合弁30%出資からNIPSEA網の確立へ
1962年〜関税20%が断った輸出と、30%出資で始めた現地生産
日本ペイントは1959年4月に輸出課を設け、沖縄や東南アジアから地中海、アフリカに至るまで輸出の実績を積んだ。調査を重ねた会社が最も大きな市場として期待を寄せたのはシンガポール・マラヤ地区だったが、この地区ではイギリスやオランダの製品が先に市場を取っており、先発商品群と輸出で競うには限界があった。そこへ1962年、塗料に20%の関税が新しく設けられる。輸出によって市場を広げる道は根本から見直さざるを得ず、会社は現地生産を業界の他社に先がけて断行した。1962年8月、シンガポールに設立したのがパン・マレーシア・ペイント・インダストリー株式会社で、第1次払込資本金は30万マレーシアドル、邦貨にして約3,600万円である。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [1]海外事業は1959年4月に輸出課を設置して活発な輸出活動を続け、沖縄・東南アジアをはじめ地中海・アフリカに至るまで輸出実績を持つに至った
- [2]シンガポール・マラヤ地区はイギリス・オランダなどヨーロッパの製品が既に地歩を築いており輸出で競争するには限界があり、1962年に塗料関税20%が新設されたため現地生産を業界他社に先がけて断行した
- [3]シンガポール・マラヤ地区はイギリス・オランダなどヨーロッパの製品が既に地歩を築いており輸出で競争するには限界があり、1962年に塗料関税20%が新設されたため現地生産を業界他社に先がけて断行した
- [4]シンガポール・マラヤ地区はイギリス・オランダなどヨーロッパの製品が既に地歩を築いており輸出で競争するには限界があり、1962年に塗料関税20%が新設されたため現地生産を業界他社に先がけて断行した
- [5]1962年8月にシンガポールへパン・マレーシア・ペイント・インダストリー株式会社を設立し、第1次払込資本金は30万マレーシアドル(邦貨約3,600万円)だった
出資比率はシンガポール側60%、日本側40%で、日本ペイントの持ち分は30%、残る10%を泰星交易が持った。日本側が製造技術とマネジメントを、現地パートナーのチャロンポカパン・グループが販売を受け持つ分業で事業を始めている。当初は摩擦があった。先方がオーナー経営であるのに日本側は役員会重視の連帯責任体制だったため、軌道に乗るまでに時間がかかったと、取締役海外事業部長の内田康夫はのちに語っている。本工場が完成したのは1965年4月で、敷地8,000平方メートル、月産200トンの能力を備えた。同年8月にシンガポールがマレーシアから分離独立したことを受け、1967年5月には社名を日本ペイント(シンガポール)株式会社へ改めた。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [6]パン・マレーシア・ペイントの出資比率はシンガポール側60%・日本側40%で、うち日本ペイント30%、泰星交易株式会社10%だった
- [9]1965年4月15日に本工場が完成し、敷地8,000平方メートル・月産200トンの能力を有する近代的塗料工場であった
- [10]1965年8月9日にシンガポールがマレーシアから分離独立したため、1967年5月1日に日本ペイント(シンガポール)株式会社へ社名変更した
- 日経ビジネス 1974年3月18日号
- [7]日本側が製造技術とマネジメントを担当しチャロンポカパン側が販売を受け持つ分担で事業を開始したが、先方がオーナー経営者であるのに日本側は役員会重視の連帯責任体制であったため軌道に乗るのに時間がかかったと取締役海外事業部長の内田康夫が述べた
- [8]日本側が製造技術とマネジメントを担当しチャロンポカパン側が販売を受け持つ分担で事業を開始したが、先方がオーナー経営者であるのに日本側は役員会重視の連帯責任体制であったため軌道に乗るのに時間がかかったと取締役海外事業部長の内田康夫が述べた
シンガポールでの合弁が成功したことで、合弁事業の経営そのものを東南アジア各国へ広げる目途が立った。1967年にタイとマレーシア、1969年にインドネシア、1970年に台湾と香港へ会社を置き、8年間で合弁7社と技術提携2社を数えるに至る。関税障壁によって輸出増が望めなくなった国から順に現地生産へ切り替える形で、同じ構図が繰り返された。1971年8月には合弁・技術提携各社への原材料供給を担う日本ペイント・インターナショナルを国内に設け、1972年12月には香港へ100%出資の海外投資会社を置いている。そして1974年1月15日、各社の経営方針と手法を統一する持株会社として、資本金1,378万香港ドルのニプシー・ホールディング・インターナショナルを香港に設立した。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [11]シンガポールでの合弁事業成功により合弁事業経営のノウハウを東南アジア各国へ拡大できる目途がつき、8年間に合弁会社7社・技術提携会社2社を数え、1972年12月に香港へ100%出資の海外投資会社、1974年1月15日に資本金1,378万香港ドルの海外持株会社ニプシー・ホールディング・インターナショナル株式会社を設立した
- [12]シンガポールでの合弁事業成功により合弁事業経営のノウハウを東南アジア各国へ拡大できる目途がつき、8年間に合弁会社7社・技術提携会社2社を数え、1972年12月に香港へ100%出資の海外投資会社、1974年1月15日に資本金1,378万香港ドルの海外持株会社ニプシー・ホールディング・インターナショナル株式会社を設立した
- [13]日本ペイント(タイランド)は1967年8月、日本ペイント(マレーシア)は1967年12月、日本ペイント(インドネシア)は1969年9月、安金化工は1970年7月、日本ペイント・エンタープライズ(ホンコン)は1970年7月に設立され、関税障壁により輸出増が望めない状況が設立の経緯にあった
- [14]日本ペイント(タイランド)は1967年8月、日本ペイント(マレーシア)は1967年12月、日本ペイント(インドネシア)は1969年9月、安金化工は1970年7月、日本ペイント・エンタープライズ(ホンコン)は1970年7月に設立され、関税障壁により輸出増が望めない状況が設立の経緯にあった
- [15]1971年8月に合弁および技術提携会社で使用する原材料輸出を主な業務として日本ペイント・インターナショナル株式会社を設立した
- [16]シンガポールでの合弁事業成功により合弁事業経営のノウハウを東南アジア各国へ拡大できる目途がつき、8年間に合弁会社7社・技術提携会社2社を数え、1972年12月に香港へ100%出資の海外投資会社、1974年1月15日に資本金1,378万香港ドルの海外持株会社ニプシー・ホールディング・インターナショナル株式会社を設立した
- [17]シンガポールでの合弁事業成功により合弁事業経営のノウハウを東南アジア各国へ拡大できる目途がつき、8年間に合弁会社7社・技術提携会社2社を数え、1972年12月に香港へ100%出資の海外投資会社、1974年1月15日に資本金1,378万香港ドルの海外持株会社ニプシー・ホールディング・インターナショナル株式会社を設立した
参考文献[1]-[17]
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [1]海外事業は1959年4月に輸出課を設置して活発な輸出活動を続け、沖縄・東南アジアをはじめ地中海・アフリカに至るまで輸出実績を持つに至った
- [2]シンガポール・マラヤ地区はイギリス・オランダなどヨーロッパの製品が既に地歩を築いており輸出で競争するには限界があり、1962年に塗料関税20%が新設されたため現地生産を業界他社に先がけて断行した
- [3]シンガポール・マラヤ地区はイギリス・オランダなどヨーロッパの製品が既に地歩を築いており輸出で競争するには限界があり、1962年に塗料関税20%が新設されたため現地生産を業界他社に先がけて断行した
- [4]シンガポール・マラヤ地区はイギリス・オランダなどヨーロッパの製品が既に地歩を築いており輸出で競争するには限界があり、1962年に塗料関税20%が新設されたため現地生産を業界他社に先がけて断行した
- [5]1962年8月にシンガポールへパン・マレーシア・ペイント・インダストリー株式会社を設立し、第1次払込資本金は30万マレーシアドル(邦貨約3,600万円)だった
- [6]パン・マレーシア・ペイントの出資比率はシンガポール側60%・日本側40%で、うち日本ペイント30%、泰星交易株式会社10%だった
- [9]1965年4月15日に本工場が完成し、敷地8,000平方メートル・月産200トンの能力を有する近代的塗料工場であった
- [10]1965年8月9日にシンガポールがマレーシアから分離独立したため、1967年5月1日に日本ペイント(シンガポール)株式会社へ社名変更した
- [11]シンガポールでの合弁事業成功により合弁事業経営のノウハウを東南アジア各国へ拡大できる目途がつき、8年間に合弁会社7社・技術提携会社2社を数え、1972年12月に香港へ100%出資の海外投資会社、1974年1月15日に資本金1,378万香港ドルの海外持株会社ニプシー・ホールディング・インターナショナル株式会社を設立した
- [12]シンガポールでの合弁事業成功により合弁事業経営のノウハウを東南アジア各国へ拡大できる目途がつき、8年間に合弁会社7社・技術提携会社2社を数え、1972年12月に香港へ100%出資の海外投資会社、1974年1月15日に資本金1,378万香港ドルの海外持株会社ニプシー・ホールディング・インターナショナル株式会社を設立した
- [13]日本ペイント(タイランド)は1967年8月、日本ペイント(マレーシア)は1967年12月、日本ペイント(インドネシア)は1969年9月、安金化工は1970年7月、日本ペイント・エンタープライズ(ホンコン)は1970年7月に設立され、関税障壁により輸出増が望めない状況が設立の経緯にあった
- [14]日本ペイント(タイランド)は1967年8月、日本ペイント(マレーシア)は1967年12月、日本ペイント(インドネシア)は1969年9月、安金化工は1970年7月、日本ペイント・エンタープライズ(ホンコン)は1970年7月に設立され、関税障壁により輸出増が望めない状況が設立の経緯にあった
- [15]1971年8月に合弁および技術提携会社で使用する原材料輸出を主な業務として日本ペイント・インターナショナル株式会社を設立した
- [16]シンガポールでの合弁事業成功により合弁事業経営のノウハウを東南アジア各国へ拡大できる目途がつき、8年間に合弁会社7社・技術提携会社2社を数え、1972年12月に香港へ100%出資の海外投資会社、1974年1月15日に資本金1,378万香港ドルの海外持株会社ニプシー・ホールディング・インターナショナル株式会社を設立した
- [17]シンガポールでの合弁事業成功により合弁事業経営のノウハウを東南アジア各国へ拡大できる目途がつき、8年間に合弁会社7社・技術提携会社2社を数え、1972年12月に香港へ100%出資の海外投資会社、1974年1月15日に資本金1,378万香港ドルの海外持株会社ニプシー・ホールディング・インターナショナル株式会社を設立した
- 日経ビジネス 1974年3月18日号
- [7]日本側が製造技術とマネジメントを担当しチャロンポカパン側が販売を受け持つ分担で事業を開始したが、先方がオーナー経営者であるのに日本側は役員会重視の連帯責任体制であったため軌道に乗るのに時間がかかったと取締役海外事業部長の内田康夫が述べた
- [8]日本側が製造技術とマネジメントを担当しチャロンポカパン側が販売を受け持つ分担で事業を開始したが、先方がオーナー経営者であるのに日本側は役員会重視の連帯責任体制であったため軌道に乗るのに時間がかかったと取締役海外事業部長の内田康夫が述べた
1965年〜小畑千秋の国際化方針と自動車塗料の専用工場
1965年6月、社長の筑田勝二が会長へ移り、専務取締役の小畑千秋が社長に就いた。小畑千秋は1911年に前会長小畑源之助の次男として生まれ、1935年に神戸商業大学を出て1937年に入社し、総務畑を歩いて筑田社長の片腕を務めてきた人物である。就任にあたって掲げた経営方針は7項目で、信用倍増に続く二番目に「国際的企業への躍進」を置き、技術開発の強化と海外との技術交流、長期・短期計画の確立による経営を並べた。同時に副社長制を新設し、技術の最高首脳だった多田繁を副社長へ据えている。小畑らトップがたびたび現地を訪れて交流を重ねてから、シンガポールの事業は順調に回り始めた。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [18]1965年6月に社長筑田勝二が会長へ就任し専務取締役小畑千秋が社長に就任、同時に副社長制が敷かれ専務取締役多田繁が副社長に就任した
- [19]小畑千秋は1911年10月24日に前会長小畑源之助の次男として生まれ、1935年3月に神戸商業大学を卒業、1937年12月に入社して主として総務畑を担当し筑田社長の片腕として活躍した
- [20]小畑社長の経営方針は信用倍増、国際的企業への躍進、販売重点主義、技術開発の強化と海外との技術交流、長期・短期計画の確立による経営、科学的管理手法による企業体質の改善、労使の協調の7項目だった
- [21]1965年6月に社長筑田勝二が会長へ就任し専務取締役小畑千秋が社長に就任、同時に副社長制が敷かれ専務取締役多田繁が副社長に就任した
- 日経ビジネス 1974年3月18日号
- [22]小畑千秋社長ら同社のトップがたびたび現地を訪問し交流が頻繁になってからシンガポールの事業も順調となった
1967年5月に完成した広島工場は、東洋工業の宇品工場の隣に建ち、夜間は無人で動く分散方式、隅々まで整えたパイプライン、タンクでの貯蔵方式を採用し、自動車用塗料の研究開発に使うソルトスプレー室と実車塗装の設備も備えていた。この工場は、西日本の生産能力を増やすため日本ペイントが相次いで建てた自動車用塗料専用工場に含まれる。自動車が国内で塗料の最大の用途となるなか、生産台数は1951年の約4万台から1965年の188万台へ伸び、その増加が製造の自動化を促して、新設工場では静電塗装や電着塗装など近代的な塗装方式が採られ始めていた。1970年10月には愛知県高浜市に愛知工場の第1期が竣工し、自動車用の中塗り・上塗り塗料に加えて電着用塗料の生産を主要な課題に据えた。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [23]広島工場は東洋工業株式会社の理解のもと同社宇品工場の隣接地に1967年5月に完成し、夜間無人分散方式・徹底したパイプラインの整備・タンク貯蔵方式を採用、自動車用塗料研究開発のためソルトスプレー室と実車塗装設備を併設した
- [24]自動車業界の生産台数は1951年の約4万台から1965年には188万台へ増加し、生産台数の増加は製造方式の自動化をもたらし、新設工場では静電塗装・電着塗装などの近代化された塗装方式が採用され始めた
- [25]愛知工場は自動車用塗料の需要に応えるため愛知県高浜市に専門工場として建設され、第1期工事が1970年10月に竣工、自動車用中・上塗塗料のほか電着用塗料の生産を主要課題とした
1971年2月、日本ペイントは米国ビー・ケミカル社と半分ずつ出資して日本ビー・ケミカルを設け、プラスチック用塗料と真空蒸着用塗料の製造販売に乗り出した。それ以前から技術は外に求めており、電着塗装も自社で育てたものではなく、1965年9月に米国のピッツバーグ・プレート・グラス社と水溶性工業用塗料・電着用塗料の技術で、1969年7月には米国シャーウィン・ウィリアムズ社とコイルコーティング用塗料の技術で、それぞれ提携して導入していた。日本ビー・ケミカル設立の翌月にあたる3月には関西ペイントとも一部の業務で手を組み、生産性の向上と合理化を目指した。売上高は1965年4月期の116億2,400万円から1972年4月期には298億8,600万円へ伸びた。自動車向け塗料で国内の需要を分け合う二社が、生産の面では手を組む形になっていた。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [26]1971年2月に米国ビー・ケミカル社と折半出資で日本ビー・ケミカル株式会社を設立し、プラスチック用塗料および真空蒸着用塗料の製造販売を目的とした
- [27]1965年9月に米国ピッツバーグ・プレート・グラス社と水溶性工業用塗料および電着用塗料について、1969年7月に米国シャーウィン・ウィリアムズ社とコイルコーティング用塗料について技術提携した
- [28]1971年3月に関西ペイント株式会社と一部の業務提携をし、生産性の向上と合理化を図った
- 会社年鑑 1967年版・1976年版
- [29]売上高は1965年4月期116.24億円、1972年4月期298.86億円(いずれも単体・上下期合算)
参考文献[18]-[29]
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [18]1965年6月に社長筑田勝二が会長へ就任し専務取締役小畑千秋が社長に就任、同時に副社長制が敷かれ専務取締役多田繁が副社長に就任した
- [19]小畑千秋は1911年10月24日に前会長小畑源之助の次男として生まれ、1935年3月に神戸商業大学を卒業、1937年12月に入社して主として総務畑を担当し筑田社長の片腕として活躍した
- [20]小畑社長の経営方針は信用倍増、国際的企業への躍進、販売重点主義、技術開発の強化と海外との技術交流、長期・短期計画の確立による経営、科学的管理手法による企業体質の改善、労使の協調の7項目だった
- [21]1965年6月に社長筑田勝二が会長へ就任し専務取締役小畑千秋が社長に就任、同時に副社長制が敷かれ専務取締役多田繁が副社長に就任した
- [23]広島工場は東洋工業株式会社の理解のもと同社宇品工場の隣接地に1967年5月に完成し、夜間無人分散方式・徹底したパイプラインの整備・タンク貯蔵方式を採用、自動車用塗料研究開発のためソルトスプレー室と実車塗装設備を併設した
- [24]自動車業界の生産台数は1951年の約4万台から1965年には188万台へ増加し、生産台数の増加は製造方式の自動化をもたらし、新設工場では静電塗装・電着塗装などの近代化された塗装方式が採用され始めた
- [25]愛知工場は自動車用塗料の需要に応えるため愛知県高浜市に専門工場として建設され、第1期工事が1970年10月に竣工、自動車用中・上塗塗料のほか電着用塗料の生産を主要課題とした
- [26]1971年2月に米国ビー・ケミカル社と折半出資で日本ビー・ケミカル株式会社を設立し、プラスチック用塗料および真空蒸着用塗料の製造販売を目的とした
- [27]1965年9月に米国ピッツバーグ・プレート・グラス社と水溶性工業用塗料および電着用塗料について、1969年7月に米国シャーウィン・ウィリアムズ社とコイルコーティング用塗料について技術提携した
- [28]1971年3月に関西ペイント株式会社と一部の業務提携をし、生産性の向上と合理化を図った
- 日経ビジネス 1974年3月18日号
- [22]小畑千秋社長ら同社のトップがたびたび現地を訪問し交流が頻繁になってからシンガポールの事業も順調となった
- 会社年鑑 1967年版・1976年版
- [29]売上高は1965年4月期116.24億円、1972年4月期298.86億円(いずれも単体・上下期合算)
1973年〜オイルショック後のニッペ販売会社制と国内の成熟
1973年10月、石油輸出国機構が石油公示価格の70%引き上げを通告し、アラブ石油輸出国機構が減産を決めた。公示価格はショック前の1バーレル3ドルから12ドルへ4倍近く上がる。塗料は顔料、溶剤、合成樹脂、植物油の四大原料を混ぜ合わせる業種で、原料の大部分を石油化学と輸入に依存していた。先物の入手を懸念した仮需要で価格が高騰し、政府による価格指導が強化され、ショックが沈静化すると需要は急速に低下して経営状態が悪化した。塗料の生産量は1973年度の145万トンから1974年度には108万トンへ25%減っている。日本ペイントの経常利益も1974年4月期の21億1,100万円から1976年4月期には10億9,000万円へ半減した。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [30]1973年10月にOPECが石油公示価格の70%引き上げを通告しOAPECが石油減産を決め、石油公示価格はショック前の1バーレル3ドルから12ドルへ4倍近い値上がりとなった
- [31]1973年10月にOPECが石油公示価格の70%引き上げを通告しOAPECが石油減産を決め、石油公示価格はショック前の1バーレル3ドルから12ドルへ4倍近い値上がりとなった
- [33]石油ショックによる先物入手懸念から仮需要が発生して価格が高騰し政府による価格指導が強化されたが、沈静化とともに需要は急速に低下して経営状態が悪化し、塗料生産は1973年度の145万トンから1974年度108万トンへ25%減少した
- [34]石油ショックによる先物入手懸念から仮需要が発生して価格が高騰し政府による価格指導が強化されたが、沈静化とともに需要は急速に低下して経営状態が悪化し、塗料生産は1973年度の145万トンから1974年度108万トンへ25%減少した
- 日経ビジネス 1974年3月18日号
- [32]塗料工業は顔料・溶剤・合成樹脂・植物油の四大原料をまぜ合わせる業種で、原料の大部分を石油化学と輸入に依存している
- 会社年鑑 1976年版
- [35]経常利益は1974年4月期21.11億円、1976年4月期10.9億円(いずれも単体・上下期合算)
打ち手は販売網の作り替えだった。日本ペイントは1973年12月、有力な特約店を主体に関東・近畿・中部・九州の4地区へニッペ販売会社を設立し、翌年に四国、1975年に中国と北海道、1977年に東北を加えて、販売会社は八社になった。塗料業界で初めての販売会社制度で、汎用塗料の販売体質の強化、物流機構の改善・合理化、生産の効率化、地区責任制の確立を狙っている。従来の日の丸店会はニッペ店会へ改組され、1977年には390店を超えた。1975年7月には小畑千秋が会長へ移り、営業畑を歩いてきた中島隆太郎が社長に就く。中島は就任の挨拶で『過去20年も続いた高度成長期に終わりを告げ、低成長期への曲がり角にある。当社もまた、このかつて経験したことのない困難な不況の渦中にあり、川幅の広い水量の豊かな大河が急に曲がって狭い水量の少ない川に入っている。好むと好まざるとにかかわらず、流れをかえなくてはならない』と述べた。1977年には機能別本部制を廃して事業部制へ移り、経費の管理にはゼロベース予算制度を採り入れた。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [36]1973年12月に有力特約店を主体として関東・近畿・中部・九州の4地区にニッペ販売会社を設立し、翌年四国、1975年に中国および北海道、1977年に東北へ設立して8販売会社体制を確立、従来の日の丸店会を改組したニッペ店会は1977年に390店を超えた
- [37]1973年12月に汎用塗料の販売体質強化、物流機構の改善・合理化、生産の効率化、地区責任制の確立をねらいとして塗料業界で初めての販売会社制度を確立した
- [38]1973年12月に有力特約店を主体として関東・近畿・中部・九州の4地区にニッペ販売会社を設立し、翌年四国、1975年に中国および北海道、1977年に東北へ設立して8販売会社体制を確立、従来の日の丸店会を改組したニッペ店会は1977年に390店を超えた
- [39]1975年7月に社長小畑千秋が会長へ、副社長中島隆太郎が社長に就任し、中島は1932年3月に神戸高等商業学校を卒業して同年入社、主として営業畑を担当した
- [40]1975年7月に社長小畑千秋が会長へ、副社長中島隆太郎が社長に就任し、中島は1932年3月に神戸高等商業学校を卒業して同年入社、主として営業畑を担当した
- [41]1977年に従来の機能別本部制を廃止して汎用塗料事業部・工業用塗料事業部を中心とした事業部制に変更し、経費管理面でゼロベース予算制度を採用した
米国PPG社はカチオン型電着塗料の工業化に成功していた。その技術に自社の技術を重ね、自動車ボデーの下塗り向けに開発したのが「パワートップ」である。背景には1977年から進めた電着塗料のアニオン型からカチオン型への切り替えがあり、商品面での型の交代だった。自動車のボデーラインは錆に強い塗装を求めて短期間でカチオン型へ移り、そのシェアの大部分をパワトップが握った。同じ1977年の1月には、英国のインターナショナル・ペイント社と船舶用塗料で業務・技術提携を結んだ。そこから出したのが、自己研磨性コポリマーを使う省燃費型の船底塗料「ニッペSPC」である。東京工場は法規制と地震への備えから1979年7月に塗料をつくるのをやめ、東日本の汎用塗料の供給は1981年7月完成の栃木工場に移った。創業100周年にあたる1980年度、売上高は1,041億円に達し、利益は過去最高となった。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [42]電着塗料は1977年よりアニオン型からカチオン型へ転換し、カチオン型電着塗料の工業化に成功した米国PPG社の技術に自社技術を加えて自動車ボデー下塗り用「パワートップ」を開発、防錆力向上の必要からカチオン型への転換が急速に進み市場の大半を占めるに至った
- [43]電着塗料は1977年よりアニオン型からカチオン型へ転換し、カチオン型電着塗料の工業化に成功した米国PPG社の技術に自社技術を加えて自動車ボデー下塗り用「パワートップ」を開発、防錆力向上の必要からカチオン型への転換が急速に進み市場の大半を占めるに至った
- [44]1977年1月に英国インターナショナル・ペイント社と船舶用塗料に関して業務・技術提携し、自己研磨性コポリマーを利用した新型船底塗料「ニッペSPC」を省燃費型として発売した
- [45]東京工場は法的制約と地震対策のため1979年7月に塗料の生産を中止し、東日本地区の汎用塗料市場に対応する栃木工場が1981年7月に完成した
- [46]1980年度決算で売上高は1,000億円の大台に乗せ、利益は過去最高となった
- 会社年鑑
- [47]売上高は1981年4月期1,041億円(単体・上下期合算)
創業100周年の後も生産拠点は増え、1984年5月に岡山工場、1993年3月に福岡工場が加わった。海外では1989年12月にロンドンへNippon Paint(Europe)を、1992年12月には上海にNippon Paint(China)を設けている。だが国内市場は伸びを止めた。連結売上高は1992年3月期の2,278億円をひとつの山として1994年3月期2,065億円、1996年3月期2,046億円と後退し、経常利益は1992年3月期の115億円から1996年3月期には28億円へ落ちた。1991年に着手した半導体・液晶材料の開発も事業化には至らなかった。1999年3月期には連結売上高1,979億円、最終損益は28億円の赤字となる。海軍に縛られた創業期と同じように、会社はまた一つの市場の成熟に縛られていた。
- 日本ペイント有価証券報告書
- [48]1984年5月に岡山工場、1993年3月に福岡工場を新設し、1989年12月にロンドンへNippon Paint(Europe)Ltd.、1992年12月に上海へNippon Paint(China)を設立した
- [49]1984年5月に岡山工場、1993年3月に福岡工場を新設し、1989年12月にロンドンへNippon Paint(Europe)Ltd.、1992年12月に上海へNippon Paint(China)を設立した
- [51]1991年に半導体・液晶材料の開発に取り組んだが事業化には至らなかった
- 会社年鑑
- [50]連結売上高は1992年3月期2,278億円・1994年3月期2,065億円・1996年3月期2,046億円・1999年3月期1,979億円、連結経常利益は1992年3月期115億円・1996年3月期28億円、1999年3月期の連結当期純利益は28億円の赤字
- [52]連結売上高は1992年3月期2,278億円・1994年3月期2,065億円・1996年3月期2,046億円・1999年3月期1,979億円、連結経常利益は1992年3月期115億円・1996年3月期28億円、1999年3月期の連結当期純利益は28億円の赤字
参考文献[30]-[52]
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [30]1973年10月にOPECが石油公示価格の70%引き上げを通告しOAPECが石油減産を決め、石油公示価格はショック前の1バーレル3ドルから12ドルへ4倍近い値上がりとなった
- [31]1973年10月にOPECが石油公示価格の70%引き上げを通告しOAPECが石油減産を決め、石油公示価格はショック前の1バーレル3ドルから12ドルへ4倍近い値上がりとなった
- [33]石油ショックによる先物入手懸念から仮需要が発生して価格が高騰し政府による価格指導が強化されたが、沈静化とともに需要は急速に低下して経営状態が悪化し、塗料生産は1973年度の145万トンから1974年度108万トンへ25%減少した
- [34]石油ショックによる先物入手懸念から仮需要が発生して価格が高騰し政府による価格指導が強化されたが、沈静化とともに需要は急速に低下して経営状態が悪化し、塗料生産は1973年度の145万トンから1974年度108万トンへ25%減少した
- [36]1973年12月に有力特約店を主体として関東・近畿・中部・九州の4地区にニッペ販売会社を設立し、翌年四国、1975年に中国および北海道、1977年に東北へ設立して8販売会社体制を確立、従来の日の丸店会を改組したニッペ店会は1977年に390店を超えた
- [37]1973年12月に汎用塗料の販売体質強化、物流機構の改善・合理化、生産の効率化、地区責任制の確立をねらいとして塗料業界で初めての販売会社制度を確立した
- [38]1973年12月に有力特約店を主体として関東・近畿・中部・九州の4地区にニッペ販売会社を設立し、翌年四国、1975年に中国および北海道、1977年に東北へ設立して8販売会社体制を確立、従来の日の丸店会を改組したニッペ店会は1977年に390店を超えた
- [39]1975年7月に社長小畑千秋が会長へ、副社長中島隆太郎が社長に就任し、中島は1932年3月に神戸高等商業学校を卒業して同年入社、主として営業畑を担当した
- [40]1975年7月に社長小畑千秋が会長へ、副社長中島隆太郎が社長に就任し、中島は1932年3月に神戸高等商業学校を卒業して同年入社、主として営業畑を担当した
- [41]1977年に従来の機能別本部制を廃止して汎用塗料事業部・工業用塗料事業部を中心とした事業部制に変更し、経費管理面でゼロベース予算制度を採用した
- [42]電着塗料は1977年よりアニオン型からカチオン型へ転換し、カチオン型電着塗料の工業化に成功した米国PPG社の技術に自社技術を加えて自動車ボデー下塗り用「パワートップ」を開発、防錆力向上の必要からカチオン型への転換が急速に進み市場の大半を占めるに至った
- [43]電着塗料は1977年よりアニオン型からカチオン型へ転換し、カチオン型電着塗料の工業化に成功した米国PPG社の技術に自社技術を加えて自動車ボデー下塗り用「パワートップ」を開発、防錆力向上の必要からカチオン型への転換が急速に進み市場の大半を占めるに至った
- [44]1977年1月に英国インターナショナル・ペイント社と船舶用塗料に関して業務・技術提携し、自己研磨性コポリマーを利用した新型船底塗料「ニッペSPC」を省燃費型として発売した
- [45]東京工場は法的制約と地震対策のため1979年7月に塗料の生産を中止し、東日本地区の汎用塗料市場に対応する栃木工場が1981年7月に完成した
- [46]1980年度決算で売上高は1,000億円の大台に乗せ、利益は過去最高となった
- 日経ビジネス 1974年3月18日号
- [32]塗料工業は顔料・溶剤・合成樹脂・植物油の四大原料をまぜ合わせる業種で、原料の大部分を石油化学と輸入に依存している
- 会社年鑑 1976年版
- [35]経常利益は1974年4月期21.11億円、1976年4月期10.9億円(いずれも単体・上下期合算)
- 会社年鑑
- [47]売上高は1981年4月期1,041億円(単体・上下期合算)
- [50]連結売上高は1992年3月期2,278億円・1994年3月期2,065億円・1996年3月期2,046億円・1999年3月期1,979億円、連結経常利益は1992年3月期115億円・1996年3月期28億円、1999年3月期の連結当期純利益は28億円の赤字
- [52]連結売上高は1992年3月期2,278億円・1994年3月期2,065億円・1996年3月期2,046億円・1999年3月期1,979億円、連結経常利益は1992年3月期115億円・1996年3月期28億円、1999年3月期の連結当期純利益は28億円の赤字
- 日本ペイント有価証券報告書
- [48]1984年5月に岡山工場、1993年3月に福岡工場を新設し、1989年12月にロンドンへNippon Paint(Europe)Ltd.、1992年12月に上海へNippon Paint(China)を設立した
- [49]1984年5月に岡山工場、1993年3月に福岡工場を新設し、1989年12月にロンドンへNippon Paint(Europe)Ltd.、1992年12月に上海へNippon Paint(China)を設立した
- [51]1991年に半導体・液晶材料の開発に取り組んだが事業化には至らなかった
筆者考察
輸出が関税で止まったとき、日本ペイントは商品を送る先を変えるのではなく、工場ごと相手国へ移した。1962年のシンガポールで選んだのは出資30%という薄い持ち分で、経営の主導権は現地のチャロンポカパン・グループに渡っている。技術と生産管理だけを握り、販売と経営を相手に委ねるこの形は、後発として欧米勢に先んじるために払った代償だった。ところが、その薄い持ち分こそが他国で同じ型を繰り返すときの身軽さになる。8年で合弁7社。資本を薄く広く置いたからこそ、関税が上がった国から順に工場を建てることができた。
国内で同じ期間に起きたのは、逆に濃く重い投資である。広島と愛知に自動車塗料の専用工場を建て、電着塗料の技術を米国から買い、オイルショックの後には販売会社を八つ作って流通まで自社で担う形にした。1980年度に売上高1,041億円へ届いたのは、この重さが効いた結果だった。だが重い設備は、市場が伸びを止めた途端に負担へ変わる。1990年代に連結売上高が2,278億円から2,000億円割れへ後退し、経常利益が115億円から28億円へ落ちたとき、会社に残っていた成長の源は、かつて30%しか持たなかったアジアの合弁のほうだった。
- 各期とも上下期の合算。出所は会社年鑑 1967年版・1971年版・1976年版ほか。
1962年〜1998年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1962年04月期 | 単体 | 84 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年04月期 | 単体 | 88 | +4.5% | n/a | n/a | n/a | シンガポールに合弁会社「パン・マレーシャ・ペイント社」を設立(1962/08)千葉工場を建設(1962/09) |
| 1964年04月期 | 単体 | 101 | +15.1% | n/a | 4 | 4.7% | n/a |
| 1965年04月期 | 単体 | 116 | +14.0% | n/a | 5 | 4.3% | n/a |
| 1966年04月期 | 単体 | 120 | +3.5% | n/a | 4 | 3.7% | n/a |
| 1967年04月期 | 単体 | 158 | +32.0% | n/a | 5 | 3.7% | NIPPON PAINT (THAILAND)を設立(1967) |
| 1968年04月期 | 単体 | 196 | +23.8% | n/a | 6 | 3.3% | 広島工場を建設(1967/05) |
| 1969年04月期 | 単体 | 227 | +15.8% | n/a | 7 | 3.1% | n/a |
| 1970年04月期 | 単体 | 262 | +15.4% | n/a | 7 | 2.8% | n/a |
| 1971年04月期 | 単体 | 280 | +6.6% | 6 | 6 | 2.1% | 愛知工場を建設(1970/10) |
| 1972年04月期 | 単体 | 298 | +6.7% | 10 | 7 | 2.4% | n/a |
| 1973年04月期 | 単体 | 357 | +19.7% | 13 | 8 | 2.3% | n/a |
| 1974年04月期 | 単体 | 498 | +39.2% | 21 | 10 | 2.2% | n/a |
| 1975年04月期 | 単体 | 554 | +11.3% | 15 | 11 | 2.0% | n/a |
| 1976年04月期 | 単体 | 608 | +9.7% | 10 | 8 | 1.4% | n/a |
| 1977年04月期 | 単体 | 661 | +8.7% | 15 | 8 | 1.3% | n/a |
| 1978年04月期 | 単体 | 663 | +0.3% | 8 | 6 | 1.0% | n/a |
| 1979年04月期 | 単体 | 713 | +7.5% | 15 | 8 | 1.2% | n/a |
| 1980年04月期 | 単体 | 906 | +27.1% | 17 | 9 | 1.0% | n/a |
| 1981年04月期 | 単体 | 1,041 | +14.9% | 27 | 12 | 1.2% | n/a |
| 1982年04月期 | 単体 | 1,091 | +4.8% | 33 | 14 | 1.3% | n/a |
| 1983年04月期 | 単体 | 1,095 | +0.4% | 34 | 16 | 1.5% | n/a |
| 1984年04月期 | 単体 | 1,121 | +2.4% | 38 | 18 | 1.6% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 米国デラウェア州に「Nippon Paint (USA)」を設立(1990/03) |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 2,278 | n/a | 115 | 46 | 2.0% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 2,229 | ▲2.2% | 83 | 42 | 1.9% | n/a |
| 1994年03月期 | 連結 | 2,065 | ▲7.4% | 53 | 26 | 1.3% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 2,025 | ▲1.9% | 57 | 21 | 1.0% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 2,046 | +1.0% | 28 | 3 | 0.1% | 米国オハイオ州に「NPA Coatings」を設立(1995/04)英国スウィンドンに「NP Automotive Coatings (Europe)」を設立(1995/06) |
| 1997年03月期 | 連結 | 2,171 | +6.1% | 39 | 8 | 0.4% | n/a |
| 1998年03月期 | 連結 | 2,150 | ▲1.0% | 20 | 5 | 0.2% | n/a |
出所:会社年鑑 1963年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1971年版、会社年鑑 1976年版、1986年版、会社年鑑
出典・参考
6件
- 日本ペイント有価証券報告書
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- 会社年鑑 1967年版・1976年版
- 会社年鑑 1976年版
- 会社年鑑
- 日経ビジネス 1974年3月18日号