日本ペイント:光明社の創業と小畑源三郎の体制刷新による国内基盤の確立
光明社の海軍受注から合成樹脂塗料への転換
1881年〜海軍塗工長の出資で定まった光明社の販路
茂木重次郎は、開成学校で化学を学び、ドイツ人化学者ワグネルから塗料製造の技術を習得した技術者である。実兄の春太とともに明治の初年から顔料とペイントの製造を研究し、春太が研究の途上で没した後も一人で続けた。1879年に亜鉛華の国産化に成功し、これを顔料に使う塗料の研究を経て、1881年10月、同志とともに共同組合"光明社"を東京芝三田四国町に興して顔料と堅練ペイントの製造を始めた。出資したのは海軍塗工長の中川氏と協力者の菊地氏で、わが国塗料工業の草分けとなったが、創業時の販路は海軍にほぼ集中した。塗料を大量に使う産業が軍のほかにまだ育っておらず、国産化の志は最初から一つの買い手に縛られていた。
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]開成学校で化学を学んだ茂木重次郎が塗料製造技術を習得して光明社を創業した
- [3]茂木重次郎が1879年に亜鉛華の国産化に成功した
- [6]光明社の創業時の出資者は海軍塗工長の中川氏と協力者の菊地氏だった
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [2]茂木重次郎は実兄の春太とともに明治初年から顔料およびペイント製造の研究に当たり、春太は研究途上で逝去した
- [5]光明社は東京芝三田四国町に工場を設けて顔料および堅練ペイントの製造を開始した
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [4]1881年10月に「光明社」を東京三田で創業した
光明社は1895年に光明合資会社へ改組して資本金を6万円とし、翌1896年には10万円へ増やしたうえで品川に新工場を設けて移った。この品川工場が東京工場の前身である。1898年には株主150名を集めて資本金40万円の株式会社に改め、商号を日本ペイント製造とした。1904年に日露戦争が始まると軍需用塗料の需要が急増し、東京の設備だけでは応じきれなくなったため、資本金を50万円へ増額して大阪府西成郡鷺洲町浦江に大阪分工場を起こし、翌1905年8月に完成させた。需要はその後も急速に伸びて供給が追いつかず、1906年にはさらに資本金を150万円へ積み増している。
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [7]1895年に光明合資へ改組して資本金6万円とし、翌1896年に10万円へ増資して品川工場を新設し移転した
- [8]品川工場は現在の東京工場の前身である
- [11]1904年の日露戦争による軍需塗料の需要増大に対応して資本金を50万円へ増額し、大阪府西成郡鷺洲町浦江に大阪分工場を着工して1905年8月に完成した
- [12]塗料の需要が急速かつ飛躍的に増大して供給不足となったため1906年に資本金を150万円へ増額して生産規模を拡大した
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [9]1898年に資本金40万円で日本ペイント製造株式会社を設立した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [10]日本ペイント製造は株主150名を集めて資本金40万円で発足した
1914年に欧州大戦が起こると海外製品の輸入が途絶え、日本ペイント製造の塗料は国内はもとより海外市場へも出るようになった。輸入の止まった原料をどう確保するかが次の問題になり、1915年には工場を広げると同時に、福島県野沢町と埼玉県大宮町で亜鉛の精錬を始めて原料の自給に踏み込んだ。顔料から塗料まで自社で作る体制は、輸入が断たれた条件のもとでは供給の確実さを買う投資だった。1917年11月には株式会社改組20周年の祝典を東京・大阪の両工場で挙げ、5年以上勤めた社員には年功に応じて功労株を分け、約700名の職工にも祝金を出している。
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [13]欧州大戦の勃発により海外製品の輸入が杜絶したため、当社製品は国内はもとより海外にまで進出するに至った
- [14]1915年に工場の拡張を図るとともに福島県野沢町・埼玉県大宮町で亜鉛の精錬を開始し原料の自給を図った
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [15]1917年11月に日本ペイント製造株式会社改組20周年記念祝典を東京・大阪両工場で挙行し、社員中の幹部および5年以上の勤務者に年功に応じ功労株を分与、職工約700名にも年功に応じ祝金を支給した
参考文献[1]-[15]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]開成学校で化学を学んだ茂木重次郎が塗料製造技術を習得して光明社を創業した
- [3]茂木重次郎が1879年に亜鉛華の国産化に成功した
- [6]光明社の創業時の出資者は海軍塗工長の中川氏と協力者の菊地氏だった
- [10]日本ペイント製造は株主150名を集めて資本金40万円で発足した
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [2]茂木重次郎は実兄の春太とともに明治初年から顔料およびペイント製造の研究に当たり、春太は研究途上で逝去した
- [5]光明社は東京芝三田四国町に工場を設けて顔料および堅練ペイントの製造を開始した
- [7]1895年に光明合資へ改組して資本金6万円とし、翌1896年に10万円へ増資して品川工場を新設し移転した
- [8]品川工場は現在の東京工場の前身である
- [11]1904年の日露戦争による軍需塗料の需要増大に対応して資本金を50万円へ増額し、大阪府西成郡鷺洲町浦江に大阪分工場を着工して1905年8月に完成した
- [12]塗料の需要が急速かつ飛躍的に増大して供給不足となったため1906年に資本金を150万円へ増額して生産規模を拡大した
- [13]欧州大戦の勃発により海外製品の輸入が杜絶したため、当社製品は国内はもとより海外にまで進出するに至った
- [14]1915年に工場の拡張を図るとともに福島県野沢町・埼玉県大宮町で亜鉛の精錬を開始し原料の自給を図った
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [4]1881年10月に「光明社」を東京三田で創業した
- [9]1898年に資本金40万円で日本ペイント製造株式会社を設立した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [15]1917年11月に日本ペイント製造株式会社改組20周年記念祝典を東京・大阪両工場で挙行し、社員中の幹部および5年以上の勤務者に年功に応じ功労株を分与、職工約700名にも年功に応じ祝金を支給した
1920年〜小畑源之助の分工場全廃と外地網の喪失
1917年以来の拡張策が負担となって資金面で行き詰まり、日本ペイント製造は破産の寸前に追い込まれたが、引き金は1920年、大戦好況の反動で在庫が積み上がり、創業以来初の赤字決算を出したことだった。主要な役員は責任を取って退き、大阪支店長だった小畑源之助が後を任された。小畑は同年6月の専務取締役就任にあたって、各地の分工場をすべて閉鎖し塗装請負の塗工部を廃止して事業は東京と大阪の塗料工場のみで行うこと、経営の中心を大阪に移すこと、事業の整理と人員の淘汰を重役会に諮らず専務の権限で進めることを条件とした。職員は同年4月末の126名から10月末には71名に減り、俸給の月額も9,340円から5,462円に下がった。
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [16]1920年の恐慌の影響で破産の寸前に立ち至ったが、当時大阪支店長であった小畑源之助が専務に就任して経営機構の根本的改革を実施した
- [19]1920年の恐慌の影響で破産の寸前に立ち至ったが、当時大阪支店長であった小畑源之助が専務に就任して経営機構の根本的改革を実施した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [17]1920年に戦時下好況の反動で製品在庫が累積し、創業以来初めての業績不良・赤字決算となって主要役員が退任し後事を小畑取締役に託した
- [18]1920年に戦時下好況の反動で製品在庫が累積し、創業以来初めての業績不良・赤字決算となって主要役員が退任し後事を小畑取締役に託した
- [20]小畑源之助は1920年6月の専務取締役就任にあたり、全分工場の閉鎖と塗工部の廃止、経営の中心の大阪移転、制度の単純化と冗員の削減、整理を重役会にはからず専務権限で実行することを条件として示した
- [21]職員は1920年4月30日現在の126名・俸給月額9,340円から同年10月31日現在には71名・5,462円となった
小畑源之助の再建は1年余りで難局を越え、業界の注目を集めた。1926年には大阪支店に最新式のペイント工場を建て、翌1927年11月には商号を日本ペイントへ改め、1931年11月には本社そのものを大阪へ移している。国内では建築向けの需要が伸びて海軍以外の用途が広がり、会社は外地へも出た。1933年2月に奉天で資本金100万円の日満塗料を興し、これはのちに資本金400万円の満州日本ペイントとなる。1940年8月には資本金20万円の台湾日本ペイントを設立して台北に工場を置き、1942年6月には賓江省に日満林産化学を、天津には北支日本ペイントを設けた。政府の委託でマニラのエリザルデペイント工場の経営にも当たっており、販路は日本の勢力圏とともに広がった。
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [22]危機対応として経営の中心を東京から大阪へ移し全国に特約店組織を築いて1年余りで難局を越えた
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [23]1926年に大阪支店に最新式ペイント工場を建設し、1927年11月に社名を日本ペイントへ変更、1931年11月に本社を大阪へ移転した
- [25]1933年2月に奉天へ日満塗料(資本金100万円)を創立して傍系会社とし、これはのちに満州日本ペイント(資本金400万円)となった
- [26]1940年8月に台湾日本ペイント(資本金20万円)を設立して台北に工場を設置し、1942年6月に賓江省へ日満林産化学、天津に北支日本ペイントを設立、政府の委託によりマニラ市のエリザルデペイント工場の経営にも当たった
- [27]1940年8月に台湾日本ペイント(資本金20万円)を設立して台北に工場を設置し、1942年6月に賓江省へ日満林産化学、天津に北支日本ペイントを設立、政府の委託によりマニラ市のエリザルデペイント工場の経営にも当たった
- 日本ペイント有価証券報告書
- [24]1927年に商号を日本ペイントへ改めた
戦時の統制は塗料にも及んだ。1942年1月に東京で塗料商業報国会が結成され、商工省から塗料配給統制協議会の委員が発表されて配給の優先順位が決まり、民需の統制機関として設けられた塗料統制協議会は同年10月に油脂統制会の一部門へ吸収された。軍の指導では軍用ラッカー工業会と海軍塗料協力会が発足し、生産も配給も割当てのもとに置かれている。日本ペイントは1944年に軍需会社の指定を受け、1945年には東京と大阪に焼夷弾が落ち始め、大阪工場は二度の空襲で全焼した。敗戦によって満州・台湾・天津・マニラに築いた在外資産は一切を失い、残ったのは内地の施設だけだった。創業から64年かけて広げた版図は、軍需とともに膨らみ、軍とともに消えた。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [28]1942年1月に東京で塗料商業報国会が結成されて商工省から塗料配給統制協議会委員が発表され配給統制の優先順位が決定、塗料統制協議会は同年10月に油脂統制会の一部門へ吸収され、軍の指導により軍用ラッカー工業会と海軍塗料協力会が発足した
- [29]1942年1月に東京で塗料商業報国会が結成されて商工省から塗料配給統制協議会委員が発表され配給統制の優先順位が決定、塗料統制協議会は同年10月に油脂統制会の一部門へ吸収され、軍の指導により軍用ラッカー工業会と海軍塗料協力会が発足した
- [31]1945年には東京や大阪に焼夷弾が落下し始め、大阪工場は2回の空襲により全焼した
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [30]1944年に軍需会社の指定を受け、1945年6月に大阪工場が再度にわたり戦災を被って大半を焼失し、在外資産は一切喪失した
- [32]1944年に軍需会社の指定を受け、1945年6月に大阪工場が再度にわたり戦災を被って大半を焼失し、在外資産は一切喪失した
- [33]1944年に軍需会社の指定を受け、1945年6月に大阪工場が再度にわたり戦災を被って大半を焼失し、在外資産は一切喪失した
参考文献[16]-[33]
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [16]1920年の恐慌の影響で破産の寸前に立ち至ったが、当時大阪支店長であった小畑源之助が専務に就任して経営機構の根本的改革を実施した
- [19]1920年の恐慌の影響で破産の寸前に立ち至ったが、当時大阪支店長であった小畑源之助が専務に就任して経営機構の根本的改革を実施した
- [23]1926年に大阪支店に最新式ペイント工場を建設し、1927年11月に社名を日本ペイントへ変更、1931年11月に本社を大阪へ移転した
- [25]1933年2月に奉天へ日満塗料(資本金100万円)を創立して傍系会社とし、これはのちに満州日本ペイント(資本金400万円)となった
- [26]1940年8月に台湾日本ペイント(資本金20万円)を設立して台北に工場を設置し、1942年6月に賓江省へ日満林産化学、天津に北支日本ペイントを設立、政府の委託によりマニラ市のエリザルデペイント工場の経営にも当たった
- [27]1940年8月に台湾日本ペイント(資本金20万円)を設立して台北に工場を設置し、1942年6月に賓江省へ日満林産化学、天津に北支日本ペイントを設立、政府の委託によりマニラ市のエリザルデペイント工場の経営にも当たった
- [30]1944年に軍需会社の指定を受け、1945年6月に大阪工場が再度にわたり戦災を被って大半を焼失し、在外資産は一切喪失した
- [32]1944年に軍需会社の指定を受け、1945年6月に大阪工場が再度にわたり戦災を被って大半を焼失し、在外資産は一切喪失した
- [33]1944年に軍需会社の指定を受け、1945年6月に大阪工場が再度にわたり戦災を被って大半を焼失し、在外資産は一切喪失した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [17]1920年に戦時下好況の反動で製品在庫が累積し、創業以来初めての業績不良・赤字決算となって主要役員が退任し後事を小畑取締役に託した
- [18]1920年に戦時下好況の反動で製品在庫が累積し、創業以来初めての業績不良・赤字決算となって主要役員が退任し後事を小畑取締役に託した
- [20]小畑源之助は1920年6月の専務取締役就任にあたり、全分工場の閉鎖と塗工部の廃止、経営の中心の大阪移転、制度の単純化と冗員の削減、整理を重役会にはからず専務権限で実行することを条件として示した
- [21]職員は1920年4月30日現在の126名・俸給月額9,340円から同年10月31日現在には71名・5,462円となった
- [28]1942年1月に東京で塗料商業報国会が結成されて商工省から塗料配給統制協議会委員が発表され配給統制の優先順位が決定、塗料統制協議会は同年10月に油脂統制会の一部門へ吸収され、軍の指導により軍用ラッカー工業会と海軍塗料協力会が発足した
- [29]1942年1月に東京で塗料商業報国会が結成されて商工省から塗料配給統制協議会委員が発表され配給統制の優先順位が決定、塗料統制協議会は同年10月に油脂統制会の一部門へ吸収され、軍の指導により軍用ラッカー工業会と海軍塗料協力会が発足した
- [31]1945年には東京や大阪に焼夷弾が落下し始め、大阪工場は2回の空襲により全焼した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [22]危機対応として経営の中心を東京から大阪へ移し全国に特約店組織を築いて1年余りで難局を越えた
- 日本ペイント有価証券報告書
- [24]1927年に商号を日本ペイントへ改めた
1946年〜合成樹脂への転換と80年続いた顔料自給の終了
戦後の再建は内地に残った設備から始まった。1946年8月に大阪工場へ樹脂工場と水性塗料工場を建て、1949年9月には同工場の特殊ペイント油仕上工場を、1951年11月には東京樹脂工場を新設している。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場した。転機は1950年6月の朝鮮戦争で、日本駐屯の米軍が兵舎用の波形鉄板や兵器類の補修を大量に、しかも緊急を要するものとして発注した。この特需には「NIPPON PAINT」「HAMMER BRAND or Equal」と銘柄を指定した発注もあり、東京工場は再び多忙を極めている。会社は主要な塗装業者と協議したうえで進駐軍と直接交渉し、塗装工事の発注情報を先に掴んで見込み生産を有利に運ぶと同時に、業者のグループ化を助成した。
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [34]1946年8月に大阪工場へ樹脂工場および水性塗料工場を建設し、1949年9月に同工場の特殊ペイント油仕上工場、1951年11月に東京樹脂工場を新設した
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [35]1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [36]朝鮮戦争の塗料特需では「NIPPON PAINT」「HAMMER BRAND or Equal」と銘柄指定の発注もあって東京工場は多忙を極め、主要な塗装業者と協議のうえ進駐軍との直接交渉により発注情報を得て見込み生産を有利に展開し、塗装業者のグループ化を助成しつつ大量の特需に対応した
- [37]朝鮮戦争の塗料特需では「NIPPON PAINT」「HAMMER BRAND or Equal」と銘柄指定の発注もあって東京工場は多忙を極め、主要な塗装業者と協議のうえ進駐軍との直接交渉により発注情報を得て見込み生産を有利に展開し、塗装業者のグループ化を助成しつつ大量の特需に対応した
- [38]朝鮮戦争の塗料特需では「NIPPON PAINT」「HAMMER BRAND or Equal」と銘柄指定の発注もあって東京工場は多忙を極め、主要な塗装業者と協議のうえ進駐軍との直接交渉により発注情報を得て見込み生産を有利に展開し、塗装業者のグループ化を助成しつつ大量の特需に対応した
1952年6月、日本ペイントは米国のアメリカン・ケミカル・ペイント社と金属表面処理剤に関する技術提携を結び、国内および台湾における独占的な製造販売権を得た。同社は1912年に世界で初めて全鋼板製の自動車車体を試作した創業者が、塗膜のさびを止める鋼板用洗浄剤を開発して1914年に興した会社で、契約時には世界約60カ国107社と技術提携していた。日本塗料工業会が1952年に「合成樹脂塗料5カ年計画」を掲げると業界の商品構成は大きく変わり、日本ペイントもハイソリッド・ラッカー「パイラック」やメラミン焼付け塗料「オルガ100」を相次いで出して、創業以来の主力だった油性塗料に対し合成樹脂塗料の販売数量を全体の半分以上へ押し上げた。1953年には自己資金政策を捨てて長期借入金を導入し、自己資本の枠を超えた設備の増設に踏み切っている。
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [39]1952年6月にアメリカン・ケミカル・ペイント社と金属表面処理剤に関する技術提携を結び、国内および台湾における独占的製造販売権を獲得した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [40]ACP社は1912年に世界で初めて全鋼板製自動車車体を試作したJ.H.Gravellが鋼板用洗浄剤デオキシジンを開発して1914年にフィラデルフィアで創立し、契約時には世界約60カ国107社と技術提携していた
- [41]日本塗料工業会が1952年に合成樹脂塗料5カ年計画を発表し、当社はハイソリッド・ラッカー「パイラック」やメラミン焼付け塗料「オルガ100」を発売、合成樹脂塗料の販売数量比率は全体の半分以上となった
- [42]1953年に市場の成長を予測して自己資本の枠を超えた事業拡大を計画し、長期借入金を導入して塗料製造設備の増設と技術研究所の充実を図った
原料の自給は、この転換のなかで畳まれた。戦後は専門メーカーから高品質の顔料を自由に入手できるようになったため、1954年12月に東京工場の鉛丹生産部門を閉じ、1957年5月には同工場の亜鉛華の火を止め、1959年3月には大阪工場の亜鉛華炉も閉鎖して、創業者が亜鉛華の製造に成功して以来80年続いた顔料の自社生産を終えた。会社は代わりに生産と研究へ資本を向ける。1959年度を第1年度とする長期5カ年計画を決め、研究開発・生産設備投資、資金、人員の三つを骨子に据え、1961年からは千葉県東金市に約10万平方メートルの用地を取得して次の生産拠点の建設に着手した。売上高は1953年4月期の19億9,100万円から1961年4月期には70億5,500万円へ伸びている。輸入途絶に備えて始めた垂直統合は、原料が買える時代には抱える理由を失っていた。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [43]戦後は専門メーカーから高品質の顔料が自由に入手できるようになったため1954年12月に東京工場の鉛丹生産部門を閉鎖、1957年5月に東京工場の亜鉛華を火止め、1959年3月に大阪工場の亜鉛華炉を閉鎖して顔料の自社生産の幕を閉じた
- [44]1959年度を第1年度とする長期5カ年計画を決定し、研究開発・生産設備投資計画、資金計画、人員計画を骨子とした
- [45]千葉工場は第1次長期経営計画に基づき1961年から東金市に約10万平方メートルの土地を購入して建設に着手した
- 会社年鑑 1956年版・1963年版
- [46]売上高は1953年4月期19.91億円、1961年4月期70.55億円(いずれも単体・上下期合算)
参考文献[34]-[46]
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- [34]1946年8月に大阪工場へ樹脂工場および水性塗料工場を建設し、1949年9月に同工場の特殊ペイント油仕上工場、1951年11月に東京樹脂工場を新設した
- [39]1952年6月にアメリカン・ケミカル・ペイント社と金属表面処理剤に関する技術提携を結び、国内および台湾における独占的製造販売権を獲得した
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [35]1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- [36]朝鮮戦争の塗料特需では「NIPPON PAINT」「HAMMER BRAND or Equal」と銘柄指定の発注もあって東京工場は多忙を極め、主要な塗装業者と協議のうえ進駐軍との直接交渉により発注情報を得て見込み生産を有利に展開し、塗装業者のグループ化を助成しつつ大量の特需に対応した
- [37]朝鮮戦争の塗料特需では「NIPPON PAINT」「HAMMER BRAND or Equal」と銘柄指定の発注もあって東京工場は多忙を極め、主要な塗装業者と協議のうえ進駐軍との直接交渉により発注情報を得て見込み生産を有利に展開し、塗装業者のグループ化を助成しつつ大量の特需に対応した
- [38]朝鮮戦争の塗料特需では「NIPPON PAINT」「HAMMER BRAND or Equal」と銘柄指定の発注もあって東京工場は多忙を極め、主要な塗装業者と協議のうえ進駐軍との直接交渉により発注情報を得て見込み生産を有利に展開し、塗装業者のグループ化を助成しつつ大量の特需に対応した
- [40]ACP社は1912年に世界で初めて全鋼板製自動車車体を試作したJ.H.Gravellが鋼板用洗浄剤デオキシジンを開発して1914年にフィラデルフィアで創立し、契約時には世界約60カ国107社と技術提携していた
- [41]日本塗料工業会が1952年に合成樹脂塗料5カ年計画を発表し、当社はハイソリッド・ラッカー「パイラック」やメラミン焼付け塗料「オルガ100」を発売、合成樹脂塗料の販売数量比率は全体の半分以上となった
- [42]1953年に市場の成長を予測して自己資本の枠を超えた事業拡大を計画し、長期借入金を導入して塗料製造設備の増設と技術研究所の充実を図った
- [43]戦後は専門メーカーから高品質の顔料が自由に入手できるようになったため1954年12月に東京工場の鉛丹生産部門を閉鎖、1957年5月に東京工場の亜鉛華を火止め、1959年3月に大阪工場の亜鉛華炉を閉鎖して顔料の自社生産の幕を閉じた
- [44]1959年度を第1年度とする長期5カ年計画を決定し、研究開発・生産設備投資計画、資金計画、人員計画を骨子とした
- [45]千葉工場は第1次長期経営計画に基づき1961年から東金市に約10万平方メートルの土地を購入して建設に着手した
- 会社年鑑 1956年版・1963年版
- [46]売上高は1953年4月期19.91億円、1961年4月期70.55億円(いずれも単体・上下期合算)
筆者考察
日本ペイントの最初の80年は、買い手を一つしか持たない会社が、買い手を選べる会社へ変わるまでの時間だった。茂木重次郎が1881年に興した光明社は海軍塗工長の出資で始まり、販路も海軍にほぼ限られていた。塗料を大量に使う産業が軍のほかに育っていなかったからで、国産化という志と軍需という単一の需要は、創業の時点で分かちがたく結ばれている。日露戦争に合わせた増資も、満州と台湾へ会社を建てた1930年代の外地進出も、軍の版図が広がるのに沿って事業の版図が広がった動きだった。そして1945年、軍が消えると在外資産も一切が消えた。
原料の自給が畳まれていく過程は、この会社が何に縛られていたかを逆から示している。欧州大戦で輸入が途絶えた1915年、日本ペイント製造は福島県野沢町と埼玉県大宮町で亜鉛の精錬を始めた。買えないものは自分で作るほかなかったからである。それから40年余りを経て専門メーカーから高品質の顔料を自由に買えるようになると、1959年までに亜鉛華の炉はすべて閉じられた。自給は強さの証ではなく、調達の不確かな時代に払っていた代金だった。買えるものを買い、その資本を合成樹脂塗料と新しい工場へ回せるようになったとき、軍需に縛られていた会社はようやく民需の産業として立ち直った。
- 各期とも上下期の合算。出所は会社年鑑 1956年版・1959年版・1963年版。
1881年〜1961年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年04月期 | 単体 | 19 | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1954年04月期 | 単体 | 24 | +21.8% | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1955年04月期 | 単体 | 24 | +1.4% | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1956年04月期 | 単体 | 29 | +20.9% | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年04月期 | 単体 | 39 | +33.0% | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年04月期 | 単体 | 42 | +7.6% | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年04月期 | 単体 | 44 | +4.9% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年04月期 | 単体 | 56 | +27.0% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年04月期 | 単体 | 70 | +24.4% | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版、1959年版、上場会社総覧 1959年版、会社年鑑 1963年版
出典・参考
6件
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- 日本ペイント有価証券報告書
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982年)
- 会社銀行八十年史(1955年)22 塗料「日本ペイント」
- 会社年鑑 1956年版・1963年版
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)