茂木重次郎
経歴1878〜1932年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1878年主要役職の状況(推定含む目安)1932年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 大和屋(晩香堂・個人商店) | 1878 | 設立 | ||
| 1879 | 亜鉛華で内務省の製薬免許を取得 | ||||
| 日本ペイント(旧・日本ペイント製造) | 1898 | 設立 | |||
| 1906 | 取締役技師長 | ||||
| 1932 | 死去 | ||||
| 他 | 光明社(共同組合光明社・合資会社光明社・光明合資会社) | 1881 | 設立 | ||
| 1893 | 合資会社光明社 業務担当社員 | ||||
| 1896 | 光明合資会社 技師長 |
社長就任までの出自
出自
大和郡山藩で禄高150石の藩士の家に生まれ、藩が旧藩士の子弟に出した育英資金を受けて東京に留学した。慶応義塾を経て1876年に東京開成学校の製作学教場へ入り、算術・物理学・無機化学を学んだ。兄の茂木春太氏とともに亜鉛華とペンキの国産化に取り組み、1881年に共同組合光明社を興した。法人化した後の社長は出資者の田坂初太郎氏が務め、茂木重次郎氏は技師長・取締役として製造を受け持った。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
茂木重次郎氏は1873年、藩の特待生として兄の茂木春太氏を追って上京し、翌1874年に慶応義塾へ入った。1876年4月に東京開成学校の製作学教場へ入学したが、同教場は1877年2月に廃止され、助手だった兄とほぼ同じ時期に学校を去った。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(1) 茂木兄弟の生いたちと塗料研究のきっかけ
- [5]弟重次郎は明治6年(1873年)、14歳のとき藩の特待生として上京した。満15歳の明治7年2月22日、兄春太の保証で慶応義塾に入塾した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(1) 春太・重次郎、共に開成学校を去る
- [6]重次郎は明治9年4月に製作学教場の生徒となった。明治10年2月に東京開成学校は製作学教場を廃止し、同年2月24日に春太(身分は助手)は依願退職、重次郎もほぼ同時期に退校した
1878年、兄は宮川保全氏・山崎塊一氏と白粉用亜鉛華製造組合を設け、製法の開発を茂木重次郎氏に任せた。設備の少ない沈殿法では不純物が残り、高熱で亜鉛を蒸発させる乾留法には窯の資金が要ったため、組合は立ち消えになった。兄弟は自力で事業を続けると決め、神田猿楽町の元醤油工場を買収して裏の納屋に窯を築いた。耐火土の配合がわからず窯を数十回も造り直した末に、木炭を燃料とする乾留法の試作に成功した。資金は国元の父に家屋と財産を換金してもらってまかない、1879年3月に内務省の製薬免許を得た。大蔵省印刷局が大口の買い手になると経営は安定した。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(2) 白粉用亜鉛華製造組合創設
- [7]茂木春太・宮川保全・山崎塊一の3名が開発資金を出し合って白粉用亜鉛華製造組合を創設し、春太は亜鉛華製造法の開発を弟重次郎にやらせた(明治11年春ごろ)。重次郎は設備を要しない沈殿法で着手したが不純物が多く使用できず、乾留法には窯その他の設備に多額の資金を要するため組合は自然消滅した
- [8]茂木春太・宮川保全・山崎塊一の3名が開発資金を出し合って白粉用亜鉛華製造組合を創設し、春太は亜鉛華製造法の開発を弟重次郎にやらせた(明治11年春ごろ)。重次郎は設備を要しない沈殿法で着手したが不純物が多く使用できず、乾留法には窯その他の設備に多額の資金を要するため組合は自然消滅した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(2) 大和屋重次郎商店開業
- [9]春太・重次郎の兄弟は独立で亜鉛華を生産する決意をし、神田猿楽町2丁目3番地の元醤油製造工場を買収して移転、店の裏の納屋を作業場として亜鉛華製造用の窯を構築した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(2) 亜鉛華製造に苦心
- [10]各種の耐火土の配合が判らず、窯だけでも数十回やり直しをして、ようやく木炭を燃料とする亜鉛華の試作に成功した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(2) 資金調達に苦労・製薬免許証の下付
- [11]資金調達に苦労し、国元の父に頼んで家屋や財産のすべてを換金し送金してもらった。明治12年3月、藤田重次郎(茂木重次郎)の亜鉛華に内務省から製薬免許が与えられた
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(2) 印刷局へ大量納入
- [12]印刷局は自製を断念して大和屋から亜鉛華を購入するようになり、初めての大口需要家ができたため経営も安定した
亜鉛華の販売が安定すると、1879年から1880年にかけて洋式塗料のペンキの研究に移った。輸入塗料の詰め替えで利益を上げる薬種商が多いなか、製造の難しい堅練りのペンキを選び、1880年春までに国産の原料だけで製品化した。1881年の第2回内国勧業博覧会ではペンキと亜鉛華を出品し、ペンキで褒状を受けた。その会期中の5月、技術面の指導役だった兄が33歳で急死した。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(3) 重次郎、ペンキの国産に成功
- [13]大和屋の経営が安定するとともに、重次郎は明治12年から13年にかけて洋式塗料ペンキの研究を開始した。当時の薬種商は輸入塗料の詰め替えや水増しで巨利を得ていたが、重次郎は最も困難なペンキの製造に取り組んだ。国産に成功した時期は明治13年5月27日付の広告から明治13年春以前と推定され、国産原料のみによった
- [14]大和屋の経営が安定するとともに、重次郎は明治12年から13年にかけて洋式塗料ペンキの研究を開始した。当時の薬種商は輸入塗料の詰め替えや水増しで巨利を得ていたが、重次郎は最も困難なペンキの製造に取り組んだ。国産に成功した時期は明治13年5月27日付の広告から明治13年春以前と推定され、国産原料のみによった
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節(3) 内国勧業博覧会で褒状を受ける
- [15]第2回内国勧業博覧会(明治14年3月1日〜6月30日)に重次郎はペンキと亜鉛華を展示し、ペンキ出品について褒状を受けた
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 第1節(1) 茂木春太死去
- [16]明治14年5月、兄春太が33歳の若さで急死した。技術上の指導者を失ったことは重次郎にとって大きな打撃であった
同じ会期中、海軍に塗料油を納めていた田川謙三氏から共同経営の申し入れがあった。海軍塗工長の中川平吉氏が海軍卿に塗料工業の共同事業化を建議し、島田組の菊地永氏が出資して、田川謙三氏・茂木重次郎氏・橘清太郎氏の3人が技術を分担する体制が決まった。1881年10月、東京・芝区三田四国町に共同組合光明社が発足し、製品は全量を海軍に納めた。1884年6月に工場を火災で失ったが、菊地永氏から約1万円の出資を受けて再建した。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 第1節(1) 塗料工業の共同事業化進む
- [17]博覧会開催中、海軍に塗料油を納入していた田川謙三から共同経営の話が持ち込まれた。海軍塗工長中川平吉が海軍卿に共同事業化を建議し、設立資金は島田組社員の菊地永が出資、中川が技術顧問、田川謙三・茂木重次郎・橘清太郎の3名がそれぞれの技術部門を担当することになった
- [18]博覧会開催中、海軍に塗料油を納入していた田川謙三から共同経営の話が持ち込まれた。海軍塗工長中川平吉が海軍卿に共同事業化を建議し、設立資金は島田組社員の菊地永が出資、中川が技術顧問、田川謙三・茂木重次郎・橘清太郎の3名がそれぞれの技術部門を担当することになった
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 第1節(1) 共同組合光明社の創設
- [19]明治14年10月、東京市芝区三田四国町1番地に共同組合光明社が創立された。製品のすべてを海軍に納入していた
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 第1節(2) 創立当時の経営状況
- [20]明治17年6月5日、失火により三田四国町の工場を焼失したが、再び菊地永より約1万円の投資を受け工場を再建した
1893年8月、商法の施行を機に組合を資本金1万円の合資会社光明社に改め、茂木重次郎氏は田川謙三氏と並んで業務を担う社員になった。成長の遅さを問う同窓の田村典瑞氏には、隘路は資本の不足だと答え、工場を移して年10万円の製品を出す拡張予算を示した。田村典瑞氏の呼びかけで出資者が集まり、海運業の田坂初太郎氏の資本参加を得て光明合資会社に改組し、田坂初太郎氏が社長、茂木重次郎氏が技師長に就任した。1897年2月には亜鉛華を純白に仕上げる亜鉛華精製法の特許を取得した。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 第2節(1) 合資会社光明社を創設
- [21]商法が明治26年6月1日に施行されたので、共同組合光明社を解散し、明治26年8月12日に合資会社光明社を創設した。資本総額1万円、業務担当社員は田川謙三・茂木重次郎
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 第2節(1) 第1期発展の端緒・茂木重次郎の新計画
- [22]田村典瑞が光明社は発展が遅いと提案したのに対し、重次郎は光明社のあい路は資本の不足にあると答え、工場を移し1年10万円の製造品を出す拡張予算を示した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 第2節(1)(2) 経営陣の強化・光明合資会社と改称
- [23]田村の誠意が親戚の山田毅を動かして2万円が投資され、他にも出資者が現われた。その後田坂初太郎の資本参加を得て光明合資会社に改称した。組織は社長田坂初太郎、技師長茂木重次郎。田坂は海運業(田坂回漕店)を営んでいた
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 第2節 亜鉛華精製法
- [24]茂木重次郎は明治29年9月に亜鉛華を純白にする技術を「亜鉛華精製法」として出願し、明治30年2月に特許第2842号を得た
1898年3月14日、田坂初太郎氏・茂木重次郎氏らを発起人として日本ペイント製造株式会社が設立された。社長は田坂初太郎氏が務め、茂木重次郎氏は技師長として製造を率い、1906年11月に取締役に加わった。1911年1月、亜鉛華精製法の開発と輸入防止の功で緑綬褒章を受けた。社長には就任しないまま、1932年3月3日に南品川の自宅で死去した。
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第2章 第1節 日本ペイント製造株式会社創立
- [25]田坂初太郎、茂木重次郎らを中心とする発起人により発起趣意書が作成され、明治31年3月14日に日本ペイント製造株式会社が創立された
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第2章 第1節
- [26]新会社の専務取締役社長は田坂初太郎。重次郎はこの後も新会社の技師長としての要職にとどまった。明治39年11月の取締役改選で長谷川直蔵・茂木重次郎の両名が新たに取締役に就任した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第2章 (5) 茂木重次郎の緑綬褒章受章
- [27]創業者・茂木重次郎は亜鉛華精製法、塗料用鉛丹の開発、調合ペイント炉過器の研究と、輸入品防止および輸出振興の功により、明治44年1月に緑綬褒章を受章した
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第4章 (4) 創業者・茂木重次郎逝去
- [28]当社創業者茂木重次郎翁は昭和7年3月3日、東京南品川の自宅で逝去した。享年74歳
参考文献3件
参考文献
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)前史 第2節 創業者・茂木重次郎とその周辺
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第1章 光明社時代
- 日本ペイント百年史(日本ペイント, 1982)第2章 第1節 日本ペイント製造株式会社創立
事実根拠:出所(日本ペイント)