中外製薬:中外新薬商会の創業から株式会社中外製薬への改組
1923年〜ドイツ・ゲーへ社の日本総代理店として起きた中外新薬商会と、池袋工場のザルソブロカノン
中外製薬の起点は、1925年6月に創業者の上野十蔵氏が東京で起こした中外新薬商会である。商会はドイツの製薬会社ゲーへ社の薬剤を輸入し、国内で売る商いから始まった。上野十蔵氏はゲーへ社製品の日本総代理店の地位を得て、国内の販売を一手に担った。上野十蔵氏は創業から30年後の1955年時点でも社長を務め、個人商店以来の経営を率い続けた。1955年刊の会社録は、資本金1億5000万円となった時点でも設立の年月をこの商会の発足に置いている。1956年の上場時の紹介記事も、前身の仕事をゲーへ社製品の代理店業務として記した。工場を持たずに始められる輸入薬の販売から入り、上野十蔵氏は医家との取引の足場を先に築こうとしたのだろう。
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [1]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を設立し、ドイツ・ゲーへ社製薬剤の日本総代理店として発足。1955年時点の資本金1億5000万円、設立は大正14年6月と記載
- [3]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を設立し、ドイツ・ゲーへ社製薬剤の日本総代理店として発足。1955年時点の資本金1億5000万円、設立は大正14年6月と記載
- [4]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を設立し、ドイツ・ゲーへ社製薬剤の日本総代理店として発足。1955年時点の資本金1億5000万円、設立は大正14年6月と記載
- [5]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を設立し、ドイツ・ゲーへ社製薬剤の日本総代理店として発足。1955年時点の資本金1億5000万円、設立は大正14年6月と記載
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [2]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を起こし、ドイツ・ゲーへ社の薬剤の輸入販売を開始
- 証券 (4)(83) 1956年
- [6]前身の中外新薬商会(1925年6月創立)はゲーへ社製薬剤の代理店業務を行っていた
中外新薬商会は翌1926年5月に東京の池袋に工場を建て、医薬品の製造に参入した。1968年刊の企業史は、上野十蔵氏が国産の医薬品を自ら作ることを念願していたと記している。池袋工場はまずブロカノンとザルソブロカノンの製造を始めた。商会はその後も製造部門を段階的に強めた。ザルソブロカノンは略称ザルブロで知られ、1955年までの約30年にわたり商会以来の看板の品であり続けた。池袋工場の建設は、ザルソブロカノンを主力に据えた製造部門への参入にあたる。輸入品の代理店のままでは扱う品目も値付けも仕入れ先のゲーへ社次第となるので、上野十蔵氏は自社の品を持つことを急いだとみられる。
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [7]1926年5月、国産医薬品の生産を念願して池袋工場を建設し、ブロカノン・ザルソブロカノンの製造を開始
- [8]1926年5月、国産医薬品の生産を念願して池袋工場を建設し、ブロカノン・ザルソブロカノンの製造を開始
- [9]1926年5月、国産医薬品の生産を念願して池袋工場を建設し、ブロカノン・ザルソブロカノンの製造を開始
- 証券 (4)(83) 1956年
- [10]1926年5月の池袋工場建設で、ザルソブロカノンを主流とする医薬品製造部門に進出し、逐次これを強化
- [12]1926年5月の池袋工場建設で、ザルソブロカノンを主流とする医薬品製造部門に進出し、逐次これを強化
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [11]ザルソブロカノン(ザルブロ)は池袋工場建設以来約30年間、同社の主力製品(1955年時点)
参考文献[1]-[12]
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [1]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を設立し、ドイツ・ゲーへ社製薬剤の日本総代理店として発足。1955年時点の資本金1億5000万円、設立は大正14年6月と記載
- [3]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を設立し、ドイツ・ゲーへ社製薬剤の日本総代理店として発足。1955年時点の資本金1億5000万円、設立は大正14年6月と記載
- [4]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を設立し、ドイツ・ゲーへ社製薬剤の日本総代理店として発足。1955年時点の資本金1億5000万円、設立は大正14年6月と記載
- [5]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を設立し、ドイツ・ゲーへ社製薬剤の日本総代理店として発足。1955年時点の資本金1億5000万円、設立は大正14年6月と記載
- [11]ザルソブロカノン(ザルブロ)は池袋工場建設以来約30年間、同社の主力製品(1955年時点)
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [2]1925年6月、上野十蔵が中外新薬商会を起こし、ドイツ・ゲーへ社の薬剤の輸入販売を開始
- [7]1926年5月、国産医薬品の生産を念願して池袋工場を建設し、ブロカノン・ザルソブロカノンの製造を開始
- [8]1926年5月、国産医薬品の生産を念願して池袋工場を建設し、ブロカノン・ザルソブロカノンの製造を開始
- [9]1926年5月、国産医薬品の生産を念願して池袋工場を建設し、ブロカノン・ザルソブロカノンの製造を開始
- 証券 (4)(83) 1956年
- [6]前身の中外新薬商会(1925年6月創立)はゲーへ社製薬剤の代理店業務を行っていた
- [10]1926年5月の池袋工場建設で、ザルソブロカノンを主流とする医薬品製造部門に進出し、逐次これを強化
- [12]1926年5月の池袋工場建設で、ザルソブロカノンを主流とする医薬品製造部門に進出し、逐次これを強化
1938年〜葡萄糖とスルファミン剤の高田工場と、資本金200万円の株式会社への改組
中外新薬商会は1938年4月、東京の高田に2つ目の工場を新設した。高田工場は葡萄糖とスルファミン剤の製造を始め、池袋工場のザルソブロカノンに新たな品目を加えた。葡萄糖はザルソブロカノンと同じく、医家向けの滋養強壮剤の系統に属する品である。高田工場はのちに東京工場と改称され、1956年の上場時の紹介記事にもその名で載った。高田工場の新設で、商会は2つの工場を持つ医薬品の製造元となった。製薬会社としての立場が確かになったのも、この新設による。ザルソブロカノン1品に依存していた商会は、品目を増やして売れ行きの振れを抑えようとしたと推察される。
- 証券 (4)(83) 1956年
- [13]1938年4月に高田工場(現東京工場)を新設し、葡萄糖・スルファミン剤などの製品を加えた
- [14]1938年4月に高田工場(現東京工場)を新設し、葡萄糖・スルファミン剤などの製品を加えた
- [15]1938年4月に高田工場(現東京工場)を新設し、葡萄糖・スルファミン剤などの製品を加えた
- [16]1938年4月に高田工場(現東京工場)を新設し、葡萄糖・スルファミン剤などの製品を加えた
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [17]1938年の高田工場建設で葡萄糖・スルファミン剤を製造し、医薬品メーカーとしての地歩を築いた
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [18]1938年の高田工場建設により、医薬品メーカーとしての地位を固めた
上野十蔵氏は1943年3月、個人営業の商会を資本金200万円の中外製薬株式会社に改めた。中外製薬は同年6月、関西での販売を増やすため大阪支店を開設。1944年4月には松永製薬所と大正化学工業を吸収合併し、それぞれ松永工場と堺工場とした。合併の狙いは原料の自給にあり、原料と注射薬の増産を図るものである。生産を一元化する意味も併せ持っていた。合併で資本金は218万8000円となった。中外製薬は同年6月に京城へ支店を置き、朝鮮と満州での販売を始めた。戦時の統制で原料の入手が難しくなるなか、原料から製品までを社内でまかなう必要に迫られたことがうかがえる。
- 証券 (4)(83) 1956年
- [19]1943年3月に個人経営を資本金200万円の株式会社に改組。1944年、原料自給の一環として松永製薬所・大正化学工業を吸収合併し松永工場・堺工場とし、原料と注射薬の生産増大を図った
- [22]1943年3月に個人経営を資本金200万円の株式会社に改組。1944年、原料自給の一環として松永製薬所・大正化学工業を吸収合併し松永工場・堺工場とし、原料と注射薬の生産増大を図った
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [20]1943年6月、関西の販路拡張のため大阪支店を新設。1944年の松永製薬所・大正化学工業の合併は生産の一元化が目的
- [23]1943年6月、関西の販路拡張のため大阪支店を新設。1944年の松永製薬所・大正化学工業の合併は生産の一元化が目的
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [21]1944年4月に松永製薬所・大正化学工業を合併し資本金218万8000円。同年6月、京城支店を設置して販路を朝鮮・満州に拡大
- [24]1944年4月に松永製薬所・大正化学工業を合併し資本金218万8000円。同年6月、京城支店を設置して販路を朝鮮・満州に拡大
- [25]1944年4月に松永製薬所・大正化学工業を合併し資本金218万8000円。同年6月、京城支店を設置して販路を朝鮮・満州に拡大
1945年5月前後の空襲で、中外製薬は池袋・高田・堺の3工場の大半を焼かれた。上野十蔵氏は戦後の医薬品の需要に早く応えるため、まず高田工場の再建から手をつけた。立地に難のあった池袋と堺の2工場は再建せずに廃止した。1946年1月には不二化学工業を吸収し、その工場を北海道の倶知安工場に改めた。同年9月には福島県の鏡石に新工場を建てた。1948年には戦後の企業再建整備の計画に沿い、資本金を1500万円に変更。資本金はその後も1949年8月に3500万円、1951年4月に7000万円へと増やした。焼け残った高田に復旧の資金を集中し、失った生産を地方の拠点で補ったことが、再建を早めたと思われる。
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [26]1945年5月前後の空襲で池袋・高田・堺各工場の大半を焼失。1948年、企業再建整備計画に基づき資本金1500万円
- [31]1945年5月前後の空襲で池袋・高田・堺各工場の大半を焼失。1948年、企業再建整備計画に基づき資本金1500万円
- [32]1945年5月前後の空襲で池袋・高田・堺各工場の大半を焼失。1948年、企業再建整備計画に基づき資本金1500万円
- 証券 (4)(83) 1956年
- [27]戦後の医薬品需要に即応するため高田工場をいち早く復旧し、立地条件上、池袋・堺の両工場を廃止して福島県に鏡石工場を建設
- [28]戦後の医薬品需要に即応するため高田工場をいち早く復旧し、立地条件上、池袋・堺の両工場を廃止して福島県に鏡石工場を建設
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [29]1946年1月に不二化学工業を吸収合併して倶知安工場とし、同年9月に鏡石工場を建設
- [30]1946年1月に不二化学工業を吸収合併して倶知安工場とし、同年9月に鏡石工場を建設
参考文献[13]-[32]
- 証券 (4)(83) 1956年
- [13]1938年4月に高田工場(現東京工場)を新設し、葡萄糖・スルファミン剤などの製品を加えた
- [14]1938年4月に高田工場(現東京工場)を新設し、葡萄糖・スルファミン剤などの製品を加えた
- [15]1938年4月に高田工場(現東京工場)を新設し、葡萄糖・スルファミン剤などの製品を加えた
- [16]1938年4月に高田工場(現東京工場)を新設し、葡萄糖・スルファミン剤などの製品を加えた
- [19]1943年3月に個人経営を資本金200万円の株式会社に改組。1944年、原料自給の一環として松永製薬所・大正化学工業を吸収合併し松永工場・堺工場とし、原料と注射薬の生産増大を図った
- [22]1943年3月に個人経営を資本金200万円の株式会社に改組。1944年、原料自給の一環として松永製薬所・大正化学工業を吸収合併し松永工場・堺工場とし、原料と注射薬の生産増大を図った
- [27]戦後の医薬品需要に即応するため高田工場をいち早く復旧し、立地条件上、池袋・堺の両工場を廃止して福島県に鏡石工場を建設
- [28]戦後の医薬品需要に即応するため高田工場をいち早く復旧し、立地条件上、池袋・堺の両工場を廃止して福島県に鏡石工場を建設
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [17]1938年の高田工場建設で葡萄糖・スルファミン剤を製造し、医薬品メーカーとしての地歩を築いた
- [21]1944年4月に松永製薬所・大正化学工業を合併し資本金218万8000円。同年6月、京城支店を設置して販路を朝鮮・満州に拡大
- [24]1944年4月に松永製薬所・大正化学工業を合併し資本金218万8000円。同年6月、京城支店を設置して販路を朝鮮・満州に拡大
- [25]1944年4月に松永製薬所・大正化学工業を合併し資本金218万8000円。同年6月、京城支店を設置して販路を朝鮮・満州に拡大
- [26]1945年5月前後の空襲で池袋・高田・堺各工場の大半を焼失。1948年、企業再建整備計画に基づき資本金1500万円
- [31]1945年5月前後の空襲で池袋・高田・堺各工場の大半を焼失。1948年、企業再建整備計画に基づき資本金1500万円
- [32]1945年5月前後の空襲で池袋・高田・堺各工場の大半を焼失。1948年、企業再建整備計画に基づき資本金1500万円
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [18]1938年の高田工場建設により、医薬品メーカーとしての地位を固めた
- [20]1943年6月、関西の販路拡張のため大阪支店を新設。1944年の松永製薬所・大正化学工業の合併は生産の一元化が目的
- [23]1943年6月、関西の販路拡張のため大阪支店を新設。1944年の松永製薬所・大正化学工業の合併は生産の一元化が目的
- [29]1946年1月に不二化学工業を吸収合併して倶知安工場とし、同年9月に鏡石工場を建設
- [30]1946年1月に不二化学工業を吸収合併して倶知安工場とし、同年9月に鏡石工場を建設
1949年〜東大から譲り受けたグロンサンの特許と、販売会社を合わせて拡充した新薬の品目
戦前からの中外製薬は、ザルソブロカノンや葡萄糖といった滋養強壮剤を主軸に、医家向けの生産を重んじるメーカーである。戦後は抗生物質を先頭に新薬が次々と現れ、薬業界の勢力図が大きく動いた。中外製薬は、市場の需要が見込める新薬の分野へ参入する方針を立てた。1951年10月には、1948年から分離していた販売会社の中外薬品を吸収合併し、生産と販売を一本にまとめた。販売会社との合体は、グロンサンの企業化に歩調を合わせたものである。合併後の資本金は7500万円となった。1968年刊の企業史によれば、戦時中に遅れた製薬技術を取り戻すため、戦後すぐに研究者の確保と育成に力を入れた。
- 証券 (4)(83) 1956年
- [33]従来はザルソブロカ糖注・葡萄糖など滋養強壮剤を主軸とする医家向け生産中心。戦後、抗生物質など新薬の台頭と薬業界の変動を受け、市場性ある新薬部門への進出を企図し、1951年に販売会社を合体
- [34]従来はザルソブロカ糖注・葡萄糖など滋養強壮剤を主軸とする医家向け生産中心。戦後、抗生物質など新薬の台頭と薬業界の変動を受け、市場性ある新薬部門への進出を企図し、1951年に販売会社を合体
- [35]従来はザルソブロカ糖注・葡萄糖など滋養強壮剤を主軸とする医家向け生産中心。戦後、抗生物質など新薬の台頭と薬業界の変動を受け、市場性ある新薬部門への進出を企図し、1951年に販売会社を合体
- [37]従来はザルソブロカ糖注・葡萄糖など滋養強壮剤を主軸とする医家向け生産中心。戦後、抗生物質など新薬の台頭と薬業界の変動を受け、市場性ある新薬部門への進出を企図し、1951年に販売会社を合体
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [36]1951年10月、生産販売一元化のため1948年来分離していた販売会社中外薬品を吸収合併し資本金7500万円
- [38]1951年10月、生産販売一元化のため1948年来分離していた販売会社中外薬品を吸収合併し資本金7500万円
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [39]戦時中の製薬技術の立ち遅れを挽回するため、戦後直ちに研究者の充実育成に努めた
グロンサンの起点は、1937年に東京大学薬学科の教授が見つけた物質である。教授が1950年に精製葡萄糖からの合成法を完成して得た特許権を、中外製薬は1951年に譲り受けて量産に移した。1955年刊の会社録によれば、中外製薬は技術研究の部門を強化し、その成果としてグロンサンを製品に仕上げた。製品は肝臓の機能を高める抱合解毒剤として売り出され、薬効はメチオニン系の薬品と異なるとされ、1956年時点で他社に類似の薬は無かった。グロンサンを中心に販売高は増え、1955年3月期には5億8600万円。1968年刊の企業史は、1951年に発売したグロンサンが社名とともに全国に知られたと記した。
- 証券 (4)(83) 1956年
- [40]グロンサンは1937年に東大薬学科石館教授が発見、1950年に精製葡萄糖からの合成を完成して取得した特許権を1951年に同社が譲り受け量産企業化した肝臓機能増強剤。当面他社に類似薬がなく需要が増大
- [41]グロンサンは1937年に東大薬学科石館教授が発見、1950年に精製葡萄糖からの合成を完成して取得した特許権を1951年に同社が譲り受け量産企業化した肝臓機能増強剤。当面他社に類似薬がなく需要が増大
- [43]グロンサンは1937年に東大薬学科石館教授が発見、1950年に精製葡萄糖からの合成を完成して取得した特許権を1951年に同社が譲り受け量産企業化した肝臓機能増強剤。当面他社に類似薬がなく需要が増大
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [42]技術研究部門を強化して新製品研究に力を注ぎ、肝臓機能増強・抱合解毒剤グロンサンの製造に成功し、これを中心に販売高が上昇、1955年3月期に5億8600万円
- [44]技術研究部門を強化して新製品研究に力を注ぎ、肝臓機能増強・抱合解毒剤グロンサンの製造に成功し、これを中心に販売高が上昇、1955年3月期に5億8600万円
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [45]1951年発売のグロンサンは同社の名とともに全国的に知られた
中外製薬はグロンサンに続き、ロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルを相次いで発売した。1952年には殺虫剤のバルサンを出し、この分野で業界に先んじた。1968年刊の企業史によれば、制酸潰瘍治療剤のアルミゲルは自社の技術で開発した品である。新結核治療剤のヒドロンサンや持続性サルファ剤のスルキシンも、同じく自社の開発品として世に出た。新薬の分野へ急速に参入したことで、中外製薬はようやく中堅メーカーとしての体裁を整えた。1955年10月には、資本構成の是正と増産の運転資金を得るため倍額増資を実施し、資本金は1億5000万円となった。自社開発の新薬と増資で固めた財務が、次の株式上場へ進む土台になったと考えられる。
- 証券 (4)(83) 1956年
- [46]グロンサンのほかロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルの新製品を相次いで市販し、1952年に殺虫剤バルサンで業界の先鞭をつけ、中堅メーカーの形態を整えた。1955年10月、資本構成の是正と増産に伴う運転資金調達のため倍額増資し資本金1億5000万円
- [47]グロンサンのほかロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルの新製品を相次いで市販し、1952年に殺虫剤バルサンで業界の先鞭をつけ、中堅メーカーの形態を整えた。1955年10月、資本構成の是正と増産に伴う運転資金調達のため倍額増資し資本金1億5000万円
- [50]グロンサンのほかロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルの新製品を相次いで市販し、1952年に殺虫剤バルサンで業界の先鞭をつけ、中堅メーカーの形態を整えた。1955年10月、資本構成の是正と増産に伴う運転資金調達のため倍額増資し資本金1億5000万円
- [51]グロンサンのほかロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルの新製品を相次いで市販し、1952年に殺虫剤バルサンで業界の先鞭をつけ、中堅メーカーの形態を整えた。1955年10月、資本構成の是正と増産に伴う運転資金調達のため倍額増資し資本金1億5000万円
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [48]制酸潰瘍治療剤アルミゲル、新結核治療剤ヒドロンサン、持続性サルファ剤スルキシンは同社技術により開発
- [49]制酸潰瘍治療剤アルミゲル、新結核治療剤ヒドロンサン、持続性サルファ剤スルキシンは同社技術により開発
参考文献[33]-[51]
- 証券 (4)(83) 1956年
- [33]従来はザルソブロカ糖注・葡萄糖など滋養強壮剤を主軸とする医家向け生産中心。戦後、抗生物質など新薬の台頭と薬業界の変動を受け、市場性ある新薬部門への進出を企図し、1951年に販売会社を合体
- [34]従来はザルソブロカ糖注・葡萄糖など滋養強壮剤を主軸とする医家向け生産中心。戦後、抗生物質など新薬の台頭と薬業界の変動を受け、市場性ある新薬部門への進出を企図し、1951年に販売会社を合体
- [35]従来はザルソブロカ糖注・葡萄糖など滋養強壮剤を主軸とする医家向け生産中心。戦後、抗生物質など新薬の台頭と薬業界の変動を受け、市場性ある新薬部門への進出を企図し、1951年に販売会社を合体
- [37]従来はザルソブロカ糖注・葡萄糖など滋養強壮剤を主軸とする医家向け生産中心。戦後、抗生物質など新薬の台頭と薬業界の変動を受け、市場性ある新薬部門への進出を企図し、1951年に販売会社を合体
- [40]グロンサンは1937年に東大薬学科石館教授が発見、1950年に精製葡萄糖からの合成を完成して取得した特許権を1951年に同社が譲り受け量産企業化した肝臓機能増強剤。当面他社に類似薬がなく需要が増大
- [41]グロンサンは1937年に東大薬学科石館教授が発見、1950年に精製葡萄糖からの合成を完成して取得した特許権を1951年に同社が譲り受け量産企業化した肝臓機能増強剤。当面他社に類似薬がなく需要が増大
- [43]グロンサンは1937年に東大薬学科石館教授が発見、1950年に精製葡萄糖からの合成を完成して取得した特許権を1951年に同社が譲り受け量産企業化した肝臓機能増強剤。当面他社に類似薬がなく需要が増大
- [46]グロンサンのほかロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルの新製品を相次いで市販し、1952年に殺虫剤バルサンで業界の先鞭をつけ、中堅メーカーの形態を整えた。1955年10月、資本構成の是正と増産に伴う運転資金調達のため倍額増資し資本金1億5000万円
- [47]グロンサンのほかロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルの新製品を相次いで市販し、1952年に殺虫剤バルサンで業界の先鞭をつけ、中堅メーカーの形態を整えた。1955年10月、資本構成の是正と増産に伴う運転資金調達のため倍額増資し資本金1億5000万円
- [50]グロンサンのほかロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルの新製品を相次いで市販し、1952年に殺虫剤バルサンで業界の先鞭をつけ、中堅メーカーの形態を整えた。1955年10月、資本構成の是正と増産に伴う運転資金調達のため倍額増資し資本金1億5000万円
- [51]グロンサンのほかロバール・ヒカルチン・ダイアジン・サルチラミン・アルミゲルの新製品を相次いで市販し、1952年に殺虫剤バルサンで業界の先鞭をつけ、中堅メーカーの形態を整えた。1955年10月、資本構成の是正と増産に伴う運転資金調達のため倍額増資し資本金1億5000万円
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- [36]1951年10月、生産販売一元化のため1948年来分離していた販売会社中外薬品を吸収合併し資本金7500万円
- [38]1951年10月、生産販売一元化のため1948年来分離していた販売会社中外薬品を吸収合併し資本金7500万円
- [42]技術研究部門を強化して新製品研究に力を注ぎ、肝臓機能増強・抱合解毒剤グロンサンの製造に成功し、これを中心に販売高が上昇、1955年3月期に5億8600万円
- [44]技術研究部門を強化して新製品研究に力を注ぎ、肝臓機能増強・抱合解毒剤グロンサンの製造に成功し、これを中心に販売高が上昇、1955年3月期に5億8600万円
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- [39]戦時中の製薬技術の立ち遅れを挽回するため、戦後直ちに研究者の充実育成に努めた
- [45]1951年発売のグロンサンは同社の名とともに全国的に知られた
- [48]制酸潰瘍治療剤アルミゲル、新結核治療剤ヒドロンサン、持続性サルファ剤スルキシンは同社技術により開発
- [49]制酸潰瘍治療剤アルミゲル、新結核治療剤ヒドロンサン、持続性サルファ剤スルキシンは同社技術により開発
出典・参考
3件
- 会社銀行八十年史 1955年「中外製薬」
- 企業の歴史 : 明治百年 1968年「中外製薬」
- 証券 (4)(83) 1956年